私にとって「近代化」の弊害について考えることは、ここ10年くらいの間、一貫したテーマになっています。
それは「昭和ラヂオ」に時々出させていただくようになって、さらに加速しました。
でも、それはテーマがあまりに大きく深いので、様々な角度から折にふれて書き続けていくことになるものです。どこかで概念的な整理もしたいところですが、そうした思考自体も「近代的思考」の弊害の側面でもあるので、結論は急がずにコツコツと追求し続けたいものです。
ところが、ちょっとしたきっかけで年表を追っていたら面白いことに気づきました。
「近代化」という世相の流れが、ほぼ30年というサイクルで変節していることです。
まず、現在の仕事をしている上では、1995年、1996年あたりの年は、右肩上がりの時代が終わり、右肩下がりへ移り変わった節目として重要な年にあたります。
この大前提の変化をしっかり見据えないと、目先の景気対策やちょっとした経営革新では太刀打ちできない大きな現実があります。
今の仕事では、当面はここが最大ポイントになっているのですが、日本の文化や自然、風土などの面から広くとらえると、1965年ごろがもうひとつの節目として浮き上がってきます。
この年に注目するようになったきっかけは、哲学者、内山節さんの『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)あたりであったかと思います。
それは、1964年の東京オリンピックなどを契機に、日本が高度経済成長、バブルへと突き進んで行った出発点のころです。
それまで農業や自営の商工業者が世の中の普通の働く姿であったのが、この頃から急速に、農村から都市への人口移動とともに、農業や自営業よりも賃労働という雇用形態が世の中の圧倒的多数の働き方に変わってきました。
人間の働くという営みが「賃労働」を通じて、より売買しやすい労働に変化していくとともに、日常生活のあらゆるものが、「商品」として購入されるものに移り変わってきました。
この流れが同時に、「商品化」に対応できない伝統的な文化や自然の基盤が崩壊していくプロセスになりました。
それを内山さんは、日本人がキツネにだまされなくなった頃の節目として注目していました。
この1995年と1965年の間が30年。
1965年からさらに30年さかのぼると、1935年、昭和10年です。
二・二六事件は1936(昭和11)年ですが、日本が避けられない戦争に突き進みはじめた時期です。
世界恐慌からはじまり、単なる軍部の暴走というだけではなく、背に腹は変えられないといわれる現実を打開するすべを見出せないまま、敗戦にまで突き進んでしまいました。
そのまた30年前は、1905年明治38年。
日露戦争の年であり、ロシア革命が始まる年でもあります。
明治維新以来、西欧列強に追いつけと必死に頑張ってきた日本が、辛くも日露戦争できわどい勝利をおさめたばかりに、また大きく道を踏み外して行く出発点ともいえる年です。
さらにその30年前が、明治8年、西暦1875年。
世界遺産登録でわく富岡製糸場の創業が明治5年。
このときは、まだ明治という国のかたちは出来上がっているとはいえない時代です。
明治維新だから明治元年が節目と考えたいところですが、強引な近代国家建設をすすめるために維新政府は欧米から様々なものを一気に学び取り入れます。長い江戸幕府のすべてを否定して、この国のかたちをつくるのは大変な作業であり、しばしばそれはとても強引なかたちで押し進められました。
大日本帝国憲法の制定は、ずっと後の1989(明治22)年です。
欧米の思想や技術を取り入れれば間違いないと思っていたのでしょうが、それを徳川まで長い歴史をもつ日本の風土に当てはめるには、強引な施策を次々と断行しなければなりませんでした。
国のかたちを考えるときは、わたしはいつも明治という国家が、長い日本の歴史のなかでもいかに特殊なかたちの国家であったかということを思わずにはいられません。
その強引さが、まさに「近代化」の原初形態になるのですが。
こうさかのぼって書くと、「近代化」の否定的な面ばかり見ているようにも感じられますが、それよりもまず先に「近代化」の何がいったい悪い?とばかりの「近代化」そのものは「進歩」そのもので、そこに異論を挟む余地などまったくないかの論調に、「待った」をかけること事態がとても至難の提起でもあるのです。
この主張は、片足以上のかなりの部分を現実にはアナーキズムにおくことにもつながるので、説明はまたかなりやっかいなことで、容易に私の手に負えるようなことではありません。
にもかかわらず、21世紀の基調テーマでもあるはずだと確信もしているので、今回は30年サイクルのことにとどめますが、またチビチビと書き続けて行きたいと思ってます。