わたしが、一本の木だとしたらどのように、
根っこをはやし、えだを伸ばしてきたのだろうか。
早川ユミが『種まきノート』アノニマ ・スタジオ(2008年)の中で、こんな問いかけをしていました。
このところ、わたしの親の世代が相次いでなくなり、人の一生というものをこれまでになく、真剣に考えるようになりました。
そもそも人は何のために生きるのか。
容易ならざる問いですが、早川ユミさんのこの問い方は、とても共感できるものでした。
もしもわたしが一本の木だとしたら・・・・
考えてみました。
もしもわたしが一本の木だとしたら、
どれだけ深く根を張ることができただろうか。
どうやら、深く掘ることばかりに気がいって、広く根を張ることは疎かになっていたようだ。
もしもわたしが一本の木だとしたら、
どれだけ年輪を重ねて太い幹になれただろうか。
年輪は、年数とともに自動的に増えるものですが、夏と冬の寒暖の差を受けて、
密度の濃い丈夫な幹に育ったとはとてもいえない。
もしもわたしが一本の木だとしたら、
枝を広げることだけは随分やってきたといえるかもしれない。
でもそれにふさわしい幹や広くはった根を育てていないので、
強い風に煽られたら、いつ倒れてもおかしくない育ち方をしている。
もしもわたしが一本の木だとしたら、
どんな花を咲かせていただろうか。
枝いっぱいに花を咲かせることなど、
未だ一度もできていないような気がする。
美しく咲かせることができるのなら、老木になって一度だけでも良い。
もしもわたしが一本の木だとしたら、
どんな実を生らすことができただろうか。
子どものいない私にとっては、自身の種から芽が育つことはないかもしれないけど、
周りの木々のために、日陰を作ったり、風よけになったり、
やがて苔むして、朽ちて、
せめて他の生命の肥しになることができれば幸せなことだろう。
仕事で何かをなした達成感も大事ですが、
もしもわたしが一本の木だとしたら、という問いかけは、
より自然なかたちで自分を振り返ることができる、とても良い言葉です。
沼田市白沢の石割り桜
人間や動物は、足を持ち移動できるのだから、木とは前提条件が違うのではないかと言われそうですが、とんでもありません。
昭和・平成・令和という時代に生まれた私たちは、決して自ら選んでこの世に生まれてきたわけではありません。両親の遺伝子を受け継ぎ、この日本、この地球という現代の条件の中に、気がついたときには産み落とされていたのです。
この国に根を下ろして生きなさいと。
この時代で芽を出し枝を伸ばしなさいと。
この世界で花を咲かせ、実を実らせなさいと。
一本の木と全く同じように、自分の意志では動かしようのない決定的な自然条件、歴史条件のなかに生まれ育っていることを忘れてはなりません。
もしも私が一本の木だとしたら・・・
さらには、一代のみ、一本のみとして考えないことも大事でしょう。
お花がちって 実がうれて、
その実が落ちて 葉が落ちて、
それから芽が出て 花が咲く。
そうして何べんまわったら、
この木はご用が すむかしら。
『木』 金子みすゞ
ぜひ皆さんも考えて見てください。
「もしも、わたしが一本の木だとしたら」