かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

もっともっと本について語ろう

2008年06月29日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
このところ、お店のほうのブログに1日1冊ずつ、本の紹介をしています。
正林堂店長の雑記帖

といっても、毎日書くようになってからまだ、たった5日のこと。

でも、本を売ることを職業にしているのならば、毎日入荷してくる膨大な書籍のなかから、一日一冊くらいは「おすすめ」なり「本に関する情報」なりを書くくらいのことは当然あってしかるべきかと思います。

ところが、その「書く」ということとなると、そう簡単にはいかないものです。
もちろん、本屋の店長が書くのだから、その内容は、書評というよりは、
本の紹介やお客さんとの本にかかわるやり取りから生まれた情報などが中心になります。

昔、ブログを開設する前に、ホームページのなかで「お客さんとの対話」というページを設けて、そうした話題になった本の情報を書いていました。
その内容が、決して一般的なものではなかったにもかかわらず、一部の本好きの人からは、本屋らしいコミュニケーションが出来ているようでとてもいい、と褒めていただいたことがありました。

本というのが10人10色どころか、千人千色の世界があるので、ベストセラー以外の情報を取り上げても、それに興味を持ってもらえるのは、それぞれの分野ごとの限られた人たちが相手にならざるをえません。

だから、書いてもしょうがない、ではなくて、
だからこそ、
ひとつひとつの個別の世界を、
それぞれに取り上げて形にすることが大事なのだと思います。

本屋の棚には、日々こうした情報が溢れています。
ところが、それを十分棚が表現できているかというと、とてもそうは言えません。

それぞれの本は、表紙と背だけで読者に精一杯アピールしているのだけれども、その中身のほとんどは、読んでみなければわからない。
実際に読んだとしても、おそらく10人10様の読み方があるだろう。

そこに、だから断定することは難しいという判断ではなく、
ほう、そんな視点があるのか、と気づかせてくれるような情報を本屋は提供しなければならないのだと思います。

毎日入荷してくる本の多くは、せっかくすばらしい本であっても、その多くはひとりのお客さんの手に取られることもなく、出版社に送り返されていくものばかりです。
もちろん、それでもまず店頭で多くのお客さんの目に触れることが第一の条件なので、低い打率でも置かざるをえないのですが、その先に私たちの本来の大事な仕事があるのです。

今日、そのブログのトップに、自己紹介文として、
自ら湯水のごとく本を浴び、読む本屋でありながら「読書の自己目的化はよくない」「議論、分析ばかりしてないで攻めてみよ」という私の一文のリンクを貼りましたが、自己目的化した読書をしている人より、自分の目標に必要な手段としての読書をしている人のほうが、より多く本を買い、読み、また多くのものを吸収しているものです。

このふたつの文章は、今回リンクを貼るにあたって読み直してみましたが、毎度きたない文だと思いながらも、言いたいことはなんとかほぼ表現できているかと思いました。

そんな思いのコミュニケーション手段となるようにするには、
まず、日々の膨大な情報のなかから一つでもブログにアップし続けることをしなければならないだろうと思うのです。

面倒くさいけど、継続して蓄積し続けられたら面白いだろうなぁ。

これは、決意文でも、約束文でもありません。
そうできたらいいだろうなぁ、
という世間話程度に受け止めておいてください。
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戦争遺跡の発掘 陸軍前橋飛行場

2008年06月28日 | 気になる本
菊池 実 著 『戦争遺跡の発掘 陸軍前橋飛行場』
  新泉社 定価 本体1,500円+税

アジア太平洋戦争の末期、群馬県高崎市の郊外に陸軍の飛行場が急造された。
農地をつぶしての造成と住民・児童の勤労奉仕、
特攻隊の突撃訓練、米軍の空襲など、戦争の実相を考古学的発掘調査と地元資料、
米軍資料などから明らかにし、戦争遺跡発掘の意義を訴える。
                  (以上、表紙の解説文より)

 著者である菊池実氏は、(財)群馬県埋蔵文化財調査事業団主席専門員をされており、『しらべる戦争遺跡の事典(正・続)』柏書房などで中心となって活躍されてる方です。

 最近、これまでの古代の遺跡調査や地理学的研究を中心とした考古学から、歴史考古学ともいわれる、中世、近世、近代、さらに現代まで含めた考古学調査と歴史学との融合が盛んになってきています。
 これまでの文献中心の歴史研究に、こうした考古学的調査が加わると、その実証性が格段に進歩します。
史実のなかには、こうした調査が遅れているばかりに誤った歴史理解に陥ってしまっている例も少なくありません。

 安土城や大阪城の発掘調査をはじめとする城郭、寺院の研究に、こうした戦争遺跡の調査が最近では加わってきました。
「かみつけの国 本のテーマ館」のなかにも
「戦争遺跡と廃墟の美学」というページがあります。
私の場合は、足尾銅山跡をきっかけにのめりこんだのですが、遠い過去の遺物やカケラなどの断片を見てその時代を想像してみることは、とても面白いものです。

ましてやこうした身近な戦争の遺跡ともなると、その姿を通して様々な物語も目に浮かんできます。

群馬県は、遺跡の多さでは全国屈指のものがありますが、そうしたものの多くは、大規模な道路の拡幅工事や巨大ショッピングセンターの造成などによって発見されたものです。
この陸軍前橋飛行場も、こうした大規模な道路工事が計画されてはじめて発見され注目たものです。

このような現場から、当時の新聞や地元の人の聞き取り調査などを経て、広大な土地が接収されていく過程や、その工事に徴用された青年団や児童の勤労奉仕、あるいは朝鮮人労働者などの雇用の実態にまで調査が及んでいく。
残念ながら、朝鮮人労働者の雇用実体の解明までは本書ではできませんでした。

ちょうど今、私は月夜野町から少年飛行兵として戦争に関わった方の体験を冊子にまとめるお手伝いをしているところなので、前橋飛行場から浜松、加古川を経て、九州の特攻前線基地大刀洗などへ向かうルートの図など、とても興味深く見ました。

県内を普段、車で何気なく運転しているその場所が、こうした戦争の歴史の現場であったことを生々しく伝えてくれる本です。


この新泉社の「遺跡を学ぶ」というシリーズは、他にも三ツ寺遺跡や赤城山麓の3万年前のムラ・下触牛伏遺跡などの群馬にかかわる本があります。
是非、店頭で手に取ってみてください。

     お店のブログ「正林堂店長の雑記帖」より転載
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信じてもらえない「冷たい味噌汁」

2008年06月25日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里
『ぐんまの伝統食』
  上毛新聞社 定価 本体1,800円+税

かつて上毛新聞のくらし面とCOM面に連載したものをまとめた本です。

この本のことを先にお店のブログとmixiに書いて
そのなかで私にとっては最も思い出深いのが、月夜野の「冷や汁」(142ページ)であることを書いたら、
冷たい味噌汁なんて考えられない、
ちゃぶ台引っくり返したいなどの書き込みが相次いだ。

それはキュウリを薄く切ってシソなどを加えた冷たい味噌汁。
ときにはナスを小さく角切りにしたものを入れることもある。
それらを器に水といっしょに入れ味噌を溶かして氷を入れて冷やすだけ。

冷たい味噌汁なんて聞いただけで驚く人もいますが、
私たちは、小さいときからこれを当たり前のものとしてすすっていた。
簡単に作れるので、キャンプなどの時に作ってあげると、みんなにとても喜ばれました。

前橋在住の知人はまったく知らなかった。
旧月夜野町周辺だけの食文化なのだろうか。

つくり方が簡単でありながら、意外性を兼ね備えて、
誰もが感激してくれる美味しさなので、
もっともっと宣伝することにしよう。



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普及しない大事な本

2008年06月22日 | 気になる本
こういう本こそ、発売時にさっとブログに書くべきと思うのですが、
毎度、気づくのが遅いんですよねー。

『現代語訳 吾妻鏡』  全16巻
 五味文彦・本郷和人〔編〕
  吉川弘文館 各巻定価 本体2,200円+税

上州や関東の歴史を調べていると、しばしばこの『吾妻鏡』の引用に出くわすことがあり、
何度となく、原典を読んでみようと思いはするものの、
実際に岩波文庫版などを開いてみると、
あ、これは私には読めない、とあきらめることばかり繰り返していました。

それが、昨年、現代語訳でようやくわかりやすいのもが吉川弘文館から発売されることを知り、
待ってましたとばかりに、高校の先生や図書館などに薦めてはいたのですが、
各巻2,200円ほどの予定で全16巻という量は、なかなか専門家でもない個人でほいと買えるものではない。

ついつい店頭でアピールするようなこともなく、月日が過ぎてしまっていました。

ところが、最近になって、よく古本の取り寄せを依頼してくれるお客さんが、『吾妻鏡』を取り寄せて欲しいと私に言ってきました。
え?『吾妻鏡』?
私は、読もうと思って何度も挫折してるんですよ。
ちょっと高い買い物になるかもしれませんが、最近、現代語訳のいいのが刊行されてますよ。

とそのお客さんに紹介したら、すぐに買ってくれました。

数日すると、そのお客さんがまた来て、
この間の本、すごく良かったわよ。私、ああいうのが欲しかったのよ。
と言ってくれました。

今、古典を学びたいと思っているひとはとても多い。
それが、まだ古事記や万葉集、源氏物語あたりであれば、様々な解説書や現代訳の本が出ている。

ところが、そうした人気の作品から一歩はずれると、一般の人が読みやすいものというのがなかなかない。
それでも「すらすら読める」なんとか、といったたぐいの本は随分刊行されるようになっているが、
地元がらみで多くの人が関心をもつ、この『吾妻鏡』や、
もうひとつ大事な『神道集』などは、残念ながら一般普及向けのものはずっとないままでした。

完全読み下しだけでなく、ある程度は原典の学習がきちんとできるもの、
それでいて解説が学術におちいることなく適切な表現であるもの、
そういったものがなかなかない。
普段は、岩波文庫、角川文庫、講談社学術文庫、それと角川文庫のビギナーズクラシックスシリーズなどがよく売れていますが、そこでも吾妻鏡は刊行されていないか、あっても難しいものでした。

そうした読者の不満にこの吉川弘文館のシリーズは、見事に応えてくれた企画であるといえます。
源氏の関東での活躍の様子などは、まずこの本でおさえておかなければ、他の話しに進まないといってもいいくらい大事な本です。

そのことに、今回のお客さんは気づかせてくれました。
売りたい本、良い本だと思いながらも、店頭から消えたままになってしまっている本はたくさんありますが、このお客さんのおかげで、ちょっとだけ、いい仕事をすることができました。

今度は、平凡社の東洋文庫(現在品切れ)でしか手に入らない『神道集』だ。


             「正林堂店長の雑記帖」より加筆転載
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蔵書の増殖スピード

2008年06月18日 | ・・・ったくアホな生活
2,3日前のニュースの記事
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080616-00000914-san-soci
を見る数日前のこと、
楽しみに購入した本を2冊ばかりかかえて、浮かれた気分で家に入ったとたん、
思わず口から出た言葉、
「しまった!」

たった2冊の本だけど、家に本を積み上げるスペースが無く、
早く本棚を買わなければいけないと思っていた矢先のことで、
机の上であろうが、本棚の隙間であろうが、限界を超えていたときでした。

考えてみると、年に1から2本のペースで本棚が増えているような気がするが、
ほんとにそんなに増えているのだろうか?

あらためて考えてみた。
数件のブックオフをまわって一度に買ってくる本が少ない時で5冊程度、多い時で30冊くらいだろうか。
その他にネットで調べて取り寄せている古書類が月に数冊から多くて10冊くらいか。
あと稀にどうしても買わなくてはいけない新刊書。

ばらつきがあって一概には言えないけど、
普通の本棚一段がだいたい30~40冊くらい収まるが、
なべて毎月一段分くらいのペースで蔵書が増えていることに間違いはなさそうだ。

とするとやはり1年で約12段。
ファイル類も増えているから、間違いなく1年で2本は増えていることになる。

本棚が一部屋に8本くらいになると、普通の木造家屋では
柱や床が歪んだり、戸が開かなくなったり障害がでてきてしまうので、
4年ほど前に鉄筋のマンションに引っ越した。

実家や会社へ持ち込んでいた蔵書から、
出来るだけ手元においておきたい本だけ持ち込んだ。
はじめは6本だっただろうか。

現在の部屋へ本棚数は、12本。
今の住まいであと6本は増やせるはず。
ということは、あと3年したら、
またお引越しということ?

そんな先のことは考えまい。


先日の雑誌、本に潰されて事故死された方は、その重量、衝撃からすると
おそらく通常の文芸書やコミックなどではなく、
重量のある雑誌などを高く積み上げていたものが、一度に倒れたのではないかと思う。

私は、本棚の上に棚を増設して天井にぴったりつくまで積み上げるので、
多少、固定度は高いのではないかと思うけど。
震度7以上ともなれば、どんな倒れかたをするかわからない。


ともあれ、
ニュースを見てから、とりあえずベッドの枕の向きを
本棚のないほうへ移し変えた。

それ以上は、考えても仕方がない。
どこで転んで死ぬことになるかもしれないのだから。
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笑い → 微笑み

2008年06月14日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
笑いが止まらない。

何がそんなにおかしいのかって?

なんでおかしいのかわからない。

悲しいかな、ひとりでいると時々、
なんで自分はこうも運がいいのだろうと
こんなふうにわけもなく笑わずにはいられなくなる。

よーく考えると、前に書いた人生の5つの難題、
金、仕事、女、健康、生きがい
考え方次第かもしれないけど、
今の自分には十分とはいえないかもしれないけど、
必要な分だけは、この5つすべて揃っている。

それであんた足りてるの?
欲がないね~

なんて言わないでください。

どれも、最低限はあるのに
使いこなすだけの自分の力が無い!

パソコンと同じ。
持ってはいるけど、その機能の数パーセントも使っていない。


ところがっ!
それだけ幸せ一杯のつもりの自分でも、
一歩外へ出て、現実に直面すると、
実は、まわり中、やっぱり自分の思うようにならないことばかり。

さっきの自慢話はどこへ行った?


最近、お店のお客さんが増えて、売り上げもさらに伸びてからは悲しいかな、
仕事に余裕がなくなったのか、従業員の笑いが少なくなってしまった気がする。

お店の入り口に掲げているパネル
「笑っているほうが楽しいよ
 今日もこころに栄養、1冊の本」
という自慢のコピーが白々しくみえてきた。


それで、幸せの最大のバロメーター
「笑い」について最近いろいろ考える。

いつも笑って元気で明るいように見えていた人が、
相手の顔を見てその場を合わせるだけで、
その実、ほんとうの誠意のないことの現われであることもある。
そうした笑いからは、次第にまわりの人が離れていく。

お店の営業だけのつくり笑いもそうだ。

それでも、
笑いには力がある。

無理して笑うだけでも、心は軽くなる。
難問をいとも簡単に解決する力がある。

では、理想の笑いってどんなんだろう。
笑い方のきれいな人ってどんな人だろう。


笑いの治癒力というか
笑いが体の免疫バランスを整える機能があるということが
次第に多くのひとの間で認められつつある。

これだけではなく、笑いについての科学的な検証もずいぶんされている。

ほんとうは、このノーマン・カインスの『笑いと治癒力』のことを中心に書こうと思っていたのですが、別の機会にします。

人の幸福は笑いの前提であるかもしれないが、
幸せと笑いは同じではない。

そんなふうにいろいろな角度から問い返してみると、
理想の笑いって、やっぱり「微笑み」であるような気がしてくる。

微笑みは、私の苦手な集団であっても暴走しない。
苦しいとき、つらいときの笑いは虚しいが、
そんなときの微笑みは、とても力になる。



これらは、なにも流行の健康法の問題だけでなく、
ものの考え方すべてに共通している。



また横道にそれますが、最近読んでいる本で知ったこと。

十一面観音の十一という数、
なんか不自然な数だと思ったら、これは
3+3+3+1+1=11という組み合わせでした。


十一面とは前の三面は慈相にして、善の衆生を見て而も慈心を生ず、大慈興楽なり。

左の三面は〓面にして、悪の衆生を見て而も慈心を生ず、大悲救苦まり。

右の三面は白牙上出の面にして、浄業の者を見て希有の讃を発して仏道を勧進す。

最後の一面は暴大笑面にして、善悪雑穢の衆生を見て而も怪咲を生じ、悪を改めて道に向かわしむ。

頂上の仏面は、或は大乗を習行する機の者に対して而も諸法を説き、仏道を究境せしむるが故に仏面を現ず。

各爾の三方の三面は三有を化せんが為の故に三面を現ず。若し本面を合せば応に十二面なるべし。而して十一面は是れ方便の面、本体の常面は是れ真実の面なり。

                   『十一面神呪心経義疎』より

まあ、方便にしかすぎないということだけれども、仏面の次に位置する状態に笑面があることがわかる。


われわれ凡人は、座禅などで沈思黙考、瞑想などで無我の境地に至ろうとするものの、
誰もがそう簡単にできるものではない。

ところが、何かに没頭する、夢中になると、
同じ無我の境地にわりと簡単にたどりつくことが出来る。

それと同じ境地に最も容易にたどりつくことが出来る方法が
「笑い」だ。

それだけ大事なことなのだけど、
テレビに溢れる笑いにはついていけないことが多い。

ここでも、私のゆがんだ性格が出ているのかもしれないけど、
大勢の笑いは、つい一歩引いてしまう自分がある。
笑いも一対一の関係が最高の笑いに思えてならない。

一対一の笑いのないところに、今の世の中
大勢の笑いや他人の笑いにのるだけのことが多すぎるような気がする。

笑いについて、
もっともっと科学することも、自分に問い返すことも
繰り返さなければいけない時代じゃないだろうか。

面白いお笑い番組をさがすだけでなくて、
自分にとっての理想の笑いを見つけるために。

微笑み → スケベったらしい顔、下心の見える顔
じゃなくて、
理想の笑顔を目指して。

まわりくどいことつらつら書いたけど
結局、まだよくわからん。

ええーーーい
笑ってしまえー!
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かみつけの儀

2008年06月11日 | ・・・ったくアホな生活

ちょっと書いておきたいことのひとつです。

私のネット上の本名である「かみつけ岩坊」には、群馬の地名である「上毛野(上野)」や、「咬みつけ」など、他にもたくさんの意味が込められているのですが、
そのなかのひとつに「神付け」「神憑け」というニュアンスがあります。

いつか自分の身に神様が降りて、とりつく日がくるのではないか、
・・・・いや、もうついてるかもしれない(笑)
そんな願望の意味です。

特別なんの信仰も持っていないのに身勝手なことかもしれませんが、
けっこう真面目にそんな気持ちは持っています。

そのことに関連して、以下のふたつの話が思い出されます。


津軽三味線の高橋竹山の奥さんはイタコだったそうです。
その奥さんのことについて書いたなにかの文のなかで知ったのですが、
イタコが修行をして一人前になるときに「かみつけ」という儀式があるそうです。

詳しい手順は覚えていませんが、先輩たちが取り囲むなか、ミソギをしてから念仏だかを一心に唱え続けて、最後の限界に達したとき、その修行の身に神がのりうつる。
ほとんど失神してしまうそうですが、そこでなんていう名の(あれ?霊、神?)霊だったかと問い詰められ、その時に口にした名前が、そのイタコの生涯の守護霊(神?)のような存在になるというものでした。

向こう側の世界と一体になるなんらかの儀式を経て、自分がはじめてこの世で特別の存在になるというのは、世界中で見られるものです。


こうした儀式は、天皇の場合でも重要な部分をなしています。

折口信夫は、天皇の即位儀礼の最も神秘的な部分にふれた最初のひとらしい。

「すなわち、古代には水の女神の資格で宮廷に入る「水の女」があって、天皇としての資格を完成する神秘なミソギに奉仕し、天皇よのあいだに聖婚が行われたとしたのである。
これが他氏から宮廷に入る「きさき」の聖職で、後に「なかつすめらみこと」や「女帝」の問題、さらには大嘗祭における真床襲衾(まどこおぶすま)の問題へと接続する。」
             
 これは、最近読んで興奮しまくっている本、前田速夫『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』河出書房新社という本に出てきた文です。
 (この本のことについては、近いうちに改めて書く場があると思います。)

   



 それぞれ、なるほどと納得させられるのですが、こんなことを考えていると
いつも「上野国・上毛野国・かみつけのくに」という言葉から、
神付け、神憑けまでどうしても連想してしまうのです。
上州、群馬の語源からそんな意味付けはありえないのですが、
勝手に、この地が特別の場所であるかのような手前勝手な理由が頭から離れない。

まあ、極めて大雑把な言葉のイメージとして、
わたしは、「かみつけ岩坊」に含まれるたくさんの意味のひとつとして、愛用させていただいているに過ぎないのですが、なにか同時に言葉に導かれながら考え続けているような気もしています。

私の作っているホームページ「かみつけの国 本のテーマ館」も、
実はそんな背景もあって、「かみつけ」をひらがなにしています。


こんなことを書くと、なにかあやしい事をたくらんでいる人間に見えるかもしれませんが、
そう言われても、それほど違うとも言い切れない。
たかが平民の身ですが。

(大丈夫?ヤバイ!引いちゃったかな?)

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元気があればなんでも出来る(その3)

2008年06月10日 | ・・・ったくアホな生活
元気ですか~~!

元気ですか~?
ハハハハ、
元気があればなんでも出来る。

元気があれば、手を使わずに卵を割ることも出来た。
ハハハ、
頭をつかうんだよ。

ハハハハ、
おかげで、人生の難題
5つのうちのひとつ半くらいが一気に解決しそうだ。

ま、世の中、そんな甘いわけないが、
ハハハハ、
元気があればなんでもできる。

決して今そんなに調子がいいわけではないけど、
6月というのは、世の中のエネルギーがどうも落ちる時期らしいですね。

それだけに、最近はまっている音楽、
メトロポリタン劇場の「アイーダ」も感動的だったけど、
マイミクのたつやさんが教えてくれたこの音楽をずっと聴いている。

ロドリゴ・イ・ガブリエラ

早速、DVD付CDを買ったが、
YOUTUBE画像も検索するとかなりある。

http://jp.youtube.com/watch?v=-lvMQCmUVv8&feature=related

http://jp.youtube.com/watch?v=-lvMQCmUVv8&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=V5VFWA2YKdo&feature=related

http://jp.youtube.com/watch?v=-lvMQCmUVv8&feature=related

http://jp.youtube.com/watch?v=tUYQMslOobw


先週だか長野へ行ってきたときも、ずっとこの音楽かけっぱなしで調子が良かった。

スパニッシュ、フラメンコ系の音楽は、ほとんどがわずか3つのコードだけのパターンだけど、そこにリズムが加わると、もうたまらない興奮に包まれる。
これはメキシカンだけどね。

どの曲も、いたって単純なアレンジばかりだけど、
ギターだけで刻むリズムのキレがたまらない。

このフラメンコ調のブロロロってかき鳴らすギターの弾き方がどうしても出来ない。

親指と人差し指(または中指)の二本だけで、
人差し指と親指でダウンストロークして、親指だけでかき上げる
この繰り返しの三連符だっていうけど、どうしてもきれいにできない。

運転しながら、時々指を自分の腿やハンドルに引っ掛けて練習してみるけど
どうしても出来ない。
このストロークだけ、誰かに教わりに行こうかしら。

いやいや、元気があれば、
なんでも出来る・・・・だ。

この演奏を見ていると、多重録音なんて考えず、
自分でサイドギターの演奏を録画撮りして、それといっしょに演奏すれば
ものすごくライブ感のある演奏がひとりで出来そうな気がする。

といって最近ギターにさわる時間はめっきり少ないのだけど
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「出版不況」という見方はおかしい

2008年06月06日 | 出版業界とデジタル社会
「クローズアップ現代」についての記事
http://d.hatena.ne.jp/beniya/20080604

あたりまえのように誰もが「出版不況」と見ているが、今の業界の低迷は、「不況」といった表現の性質のものではない。
今ある現実は、「好況」「不況」といった景気循環のようなものではなく、
出版業界に限らず1995年頃をピークにして、明らかに市場縮小化の構造に転換した結果だ。

まだ業界で改善しなければならないことや、打つべき手だてはたくさんあるが、構造そのものは、「不況」といった性質のものではない。

POSデータによるランク依存の問題も、実態はPOSが悪いのではなく、
データのベスト10にばかり偏重していることが問題なので、
2、300坪以上の大型店でも、POSデータ100位から500位レベルの良書をきちんとマークして仕入れが出来ていない店があまりに多い。

鈴木敏文が昔から強調しているようにPOSデータをきちんと読めば、店は個性化する。

市場縮小の時代に入って、みかけの売り上げ維持のために、売り場面積の拡大と新刊刊行点数の増で、経営数字をごまかしているだけのこと。

業種を問わず、今の現実を「不況」といった表現で見ている人たちは、いったい何を待っているのだろうかと思ってしまう。
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お金の取れない時代へ

2008年06月04日 | 無償の労働、贈与とお金
前回の「お金のかからない時代へ」は少し欲張りすぎて、もう少し内容を絞るべきでした。

「お金のかからない時代」へ行く前に、今、私たちが直面しているのは、
「お金の取れない時代」という厳しい現実です。
このことをもう少し補足しておきます。

前回紹介したダニエル・ピンク著『ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代』から、もう少し事例を引用します。

本書のなかの
〇第二の危機 -次から次へと湧き出す「競争相手」、という章の冒頭に、四人の姿の映った写真があります。
その四人はインドのムバイで働く人たちで、彼らこそ「ナレッジ・ワーカー」の典型であるという。

(以下引用)

多くの聡明な中流階級の子どもたちがそうであったように、彼らも両親の忠告にしたがった。
高校で良い成績を修め、有名大学でエンジニアリングかコンピュータ・サイエンスの学位を取得し、現在は大きなソフトウエア企業で働き、北アメリカの銀行や航空会社向けのコンピュータ・プログラムを開発している。
 ハイテクな仕事をこなす彼らだが、誰一人として1万4000ドル(約160万円)を超える年収を得ている人はいない。
 ナレッジ・ワーカー諸君!彼らが新たな競争相手だ。

(彼らと同等の仕事をこれまでのアメリカのホワイトカラーたちは、年収6、7万ドル(約700~800万円)程度の人たちで請負っていた。)

 西欧の水準からすれば少ない給料ではあるが、標準的なインド人の給料のおよそ25倍にあたる。それで彼らはバカンスを楽しみ、マンションを所有するといった、「中の上(アッパーミドル)」クラスの生活を手に入れることができるのだ。


 また、オランダ企業フィリップスは、中国で700人のエンジニアを雇っている。現在、中国では毎年、アメリカとほぼ同数のエンジニアを世に送り出しているのだ。
 最大の理由は賃金である。
 一般的なアメリカ人の半導体技術設計者は、月収7000ドル(約82万円)を稼ぐが、インド人デザイナーなら約1000ドル(約12万円)である。

 アメリカの一般的な航空エンジニアの月収は約6000ドル(約70万円)だが、ロシアでは月給650ドル程度(約7万5千円程度)だ。

 また、アメリカの会計士は月に5000ドル(約60万円)稼ぐが、フィリピンなら300ドル(約3万5千円)。だが、一人当たりの年収が500ドル程度という同国の水準に照らせば、これでも決して少ない額ではない。

 (以上引用終わり)


かつてブルーカラーの人びとが、海外の安い労働力や工場の機械化によってどんどん追いやられてきたように、今、ホワイトカラーの人たちが、同じ道をたどろうとしている。

本書は、このことはあくまでも、次に、では我われはどうしたらよいのか、ということを話す前提の記述なのですが、ここでは、この現実をしっかりと確認しておきたい。

そんなことをいっても日本はアメリカほどはひどくはならない、とか、うちの業種は関係ない、とか思うひともあるかもしれない。

ところが、自分のところがどんなに関係ないと思っても、まわり中の製品やサービスが、このような構造のもとで安く作られ、提供されるようになってきているのです。そのなかで、いくらうちは関係ないと思っても、それは、競争からとり残され市場からいづれは退場していくこと以外のなにものでもないことを肝に銘じなければなりません。

このことを想像すればするほど、管理部門の肥大したままの古い体質の企業や、雇用削減や賃下げの断行できない公務員が社会からとり残され、あるいは社会のお荷物として残るばかりになると思います。

私は、賃下げやリストラが絶対的解決策だとは決して思いませんが、生産性において桁違いの差が出る環境下に私たちが投げ込まれているということだけは、誰もがもっと理解しなければならないのではないでしょうか。

であるからこそ、ものの値段が、デフレだけでなく、技術革新とグローバル市場のもたらすものとして安くなる時代には、国や地方自治体の公共部門のコストが、まず抜本的に下げられなければならない実情が根底にあると考えねばならないと思います。

財政破綻と社会福祉コストの増大から、増税已む無しではなく、まず第一に全体のコストの大幅ダウン(無駄を省くだけでない)こそが考え方の根底になければならない。
お役所や議員の論議は、まだ世界全体が「お金の取れない社会」に入っていることを前提にしていない。
 財源(=税収)をなんとかすれば、問題が解決するかの議論しかしていない。
役人の無駄遣いを正すことは、もちろんですが、それよりも抜本的にお金をかけない方法へ向っていかなければならない。


今の世の中の議論からは、浮いた話に見えるでしょうが、そんな風に私は思います。



 

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