かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「百人一首」 風景と心をつなぐ「月八景」

2015年07月25日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

先日、渋川市で地域の古典文学の学習会を指導されている狩野さんとお話をしていた際、次の学習課題が百人一首であると聞きました。

「百人一首」といえば、私にとってはもう30年以上昔に出会った、林直道『百人一首の秘密』(青木書店)の衝撃が忘れられません。その感動の思い出を狩野さんに話したら、この本のことご存知ではありませんでした。経済学者が書いた本ということもあり、未だに古典文学研究の世界では、この衝撃的な発見のことは認知されていないようです。

 

本書の概要は、検索したら下記のサイトに完結にまとめられていたので、以下に転載させていただきます。
http://angohon.web.fc2.com/rekisi/hi-haysai-hyakuninisyunohimitu.html 

 

1 百人一首は、タテ10首、ヨコ10首の方形の枠の中に、百種を特殊な順序で配列することにより、上下左右に隣り合うすべての歌同士が何らかの共有語=合せ言葉によって結び合う。

2 この歌織物は、右から第7列目をタテに走る月八景によって左右に二分され、右側6列部には、合せ言葉を絵の具代わりに、花咲き、雪舞い、紅葉映え、滝落ち、川流れ、芦しげり、浜辺に波が打ち寄せる、山紫水明、美しい日本の四季の景観が豪華な絵となって浮かびだし、左側3列分には、人を恋い忍び、恨み、なげき、悲しむ、情念が織り込まれている。

3 たんなる観念的な日本的桃源郷の図ではなくて、ある特定の具体的な地域、すなわち新古今花壇のふるさと、水無瀬の里の地形・風物・史実と合致する、極めてリアルな描写となっている。

4 四隅には四人の主要人物の歌が配置され、島流しとなった二人の帝王・後鳥羽院と順徳院、薄幸の佳人・式子内親王の3にんの帰ってこぬ人に対して、定家が「来ぬ人を待って身もこがれつつ」と呼びかけている。

5 右半分には、後鳥羽院の「見渡せば山もと霞む皆瀬川」の歌、左半分には、式子内親王の歌が合せ言葉文字鎖の技法で封じ込まれている。

6 政治的な部分をカットし、別の歌と差し替え、組み替えたのが「百人秀歌」



この2、の説明中で「月八景」なる言葉が出てきます。

この10×10列の歌織物の第7列の10枚の歌が「月八景」ということです。
どういうことなのか、林直道の説明順に歌を並べてみます。 



79 秋にたなびくの絶え間より もれいづる月の影のさやけき     左京大夫顕輔

        いづる  月
        いでし  月

7 天のふりさければ春日なる 三笠のいでしかも        安倍仲麿

         月 ・ 見
           月 ・ 見

59  やすらはでなましものを小ふけて かたぶくまでのしかな   赤染衛門

        かた ・ 月 
        かた ・ 月 

81 ほととぎす鳴きつるかたをながむれば ただ有明のぞ残れる      後徳大寺左大臣

          
           

57 めぐりひてしやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半のかげ   紫 式部

         月 ・ 見
           月 ・ 見

31 朝ぼらるまでに 吉野の里にふれる白雪         坂上是則

        明け ・ 月 
        明け ・ 月

36 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを のいづこにやどるらむ      清原深養父

         月 ・ 明
           月 ・ 明

21 今こむといひしばかり月の 有をまちいでつるかな      素性法師

         長 ・ 月
         長 ・ 月

68 心にもあらでうきらへば ひしかるべき夜半のかな      三条院

        あらで ・ 月
        あらぬ ・ 月

23 みればちぢに物こそかなしけれ わがひとつの秋にはあらねど    大江千里


十首の間をとりもつ表現が、9ではなく8になるのは、あまり深く詮索しても意味はなさそうですね。

ただ、「月夜野百景」をうたう側からするとこの十首は、「百人一首」の歌織物の左右を分かつ歌として、右側6列部に、合せ言葉を絵の具代わりに、花咲き、雪舞い、紅葉映え、滝落ち、川流れ、芦しげり、浜辺に波が打ち寄せる、山紫水明、美しい日本の四季の景観の絵となって浮かびだします。6列部の上から5首だけ以下に抜き出してみると、


12 風雲の通ひ路ふきとぢよ 乙女の姿しばしとどめむ        僧正遍昭

   7列との関係   風 ・     下行との関係    
              ・ 雲              

60 大江いく野の道の遠ければ まだふみも見ず立        小式部内侍

           天の ・ 山             橋
             天の ・ 山             橋

6     かささぎの渡せる橋におく霜の 白きをればふけにける     中納言家持

           夜更け ・ 見            おく
             夜更け ・ 見            おく

83 世の中よ道こそなけれひいる 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる      皇太后宮大夫俊成

           鳴く                 思
           鳴く                 思 

77 をはやみ岩にせかるる滝の われても末に逢わむとぞう     崇徳院

           逢                 瀬 ・ 川
             逢                 瀬 ・ 川

              ・
              ・
              ・


左側3列分は、人を恋い忍び、恨み、なげき、悲しむ、情念が織り込まれている。

これもまた上から5首だけをあげてみると


58 有馬山なのささ原風吹けば いでそよを忘れやはすも       大弐三位

   7列との関係 風 ・ いづ    下行との関係  原 ・ 人
           風 ・ いで            原 ・ 人 

39 浅茅生の小野のしのしのぶれど あまりてなどかの恋しき     参議 等

           原                小野
           原                尾の

3 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながしひとりかも寝む    柿本人麿

          寝 ・夜             ひとり寝
          寝 ・夜             ひとり寝              

91 きりぎりすなくや霜のさむしろに 衣かたしきひとりかもむ   後京極摂政前太政大臣 

          鳴 ・ かた           鳴く
            鳴 ・ かた           鳴く
    

44 ふことの絶えてしなくばなかなかに 人をも身をもみざらまし   中納言朝忠

           逢                恨
           逢                恨 

              ・
              ・
              ・


この構図が「月」のもつ日本的役割を際立たせる
最高のお手本であることを強調しておきたいのです。

「月夜野百八燈」のなかに、百人一首の月の歌11首を入れてつくりました。

http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/de7ef57c3367d4e9f351aea639ac1c36



この歌織物の配置についての参照おすすめ


林直道公式ページ「林直道の百人一首の秘密」

http://www8.plala.or.jp/naomichi/

小倉百人一首は歌織物 《秘められた水無瀬絵図》  

http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/hyakunin02.html


このことは、この月八景の十首の歌の左右の歌列が、それぞれまたこの青字のような言葉の相関で織り込まれていることでさらに驚きが増すことと思われますが、その実態は是非、本書を読むことで味わってみてください。



余談ながら、四隅に配置された定家と後鳥羽院、順徳院、式子内親王の位置づけのなかでも

対角線状に配置された定家と式子内親王の関係  http://www.nippon.com/ja/views/b02802/


年齢差から実話ではないとかの説もあるらしいけど、歌の位置づけから、ただならぬ想いであることは間違いない。         

 

         

 

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地域をささえる様々な労働スタイル

2015年07月23日 | 無償の労働、贈与とお金
極端に「賃労働」か「ボランティア」に二分される現代の労働。

行政と話しをしていると、それは民間の営利企業だからダメ、非営利ならOKという話しによくぶつかります。

公的労働も、「公務員」の労働か「ボランティア」に二分されてしまう傾向がとても強いものです。

その思考パターンがNPOに対する考えにもうつり、お金を動かしてこそ事業という活動範囲をとても狭めてしまっています。

この思考の枠組みをなんとか取り外せないと、補助金頼みの地域活性化から抜け出すことはとても難しいのではないかと思います。

 

 

「昔の人は、なぜ不便な山村に暮らしていたのか?」

http://www.nhk.or.jp/ecochan-blog/400/215852.html

ちょうどこんな記事があったので、昔の働き方いろいろの抜き書きメモ(何かの民俗学の本だと思いますが出典わかりません)から以下に転記します。



1、個人では対応できない大規模労働 =「結い(エー)」

  労働力不足を補う賃金の介在しない労働の交換=貸し借り 田植え、稲刈り、屋根ふき替え、
 脱穀、
除草、桑摘みなど借りただけの仕事は返さなければならない
 「エーゲーシ」「エーガワリ」「結い(エー)」の関係を結ぶのは、実利ばかりではなく
 「ハリエー(張り合い)が悪いから」といった、一人で作業するのは寂しく、

  猛獣や毒蛇に会う危険を避ける 性格もあった。 

2、共同作業 =「モヤイ」

  数軒の家が共同で出資して、山持ちから薪炭材を立木のまま購入して、共同作業によって
 伐採し、マキとボヤに束ねて、それを自家用にし、また売却するような作業。
 総じて、利益は各人に帰ってくる。 

3、金を払うべきものを手間で返す =「テマガエ」

4、援助労働 =「スケゴー」

  労働に対する手当は出る 恒常的な雇用関係はない

5、半強制的な労働 = 「テンマ、オテンマサマ」

  江戸時代の無料人足のお伝馬からきている。
  上からの強制である場合が追い 多くは無償労働、義務人足 神仏祠堂の修理や屋根替え、
 道普譜、堰普請など公共の作業にあてられる傾向がある 

6、自主的な「出稼ぎ」労働 
  現金収入を目的に他所へ出る 
7、頼まれていない勝手な労働「オッカケ」

8、義務や責任観念の伴わないもの=「手伝い」「助けっこ」
 
9、家事・育児などの生活していくために欠かせない日常労働 

 

多様な働き方=派遣労働が増える実態を支持するものではありません。
 ここで求められているのは、必ずしも「雇用形態」の多様化ではありません。

 会社も、ふたつの方向で進化、脱皮していく。 
(1)、利益や市場をささえている幅広い環境にさらに積極的にアクセスしていく
(2)、個別労働の対価としての「賃金」ではなく、
(右肩上がり時代の思考)
    一元的な会社や特定の組織とだけの「雇用」支配・従属の関係でもなく、
  また、「仕事」で稼いだお金のみで成り立つ、「買う」ことで成り立つ「くらし」ではなく、
  地域の柔軟なつながりを軸にした多元的な関係=「くらし」の体系のなかに「労働」や
 「仕事」が包まれていく時代へ、再び組み直す。
 
先の9項目の働き方を、
営利⇆非営利、
公的労働⇆私的労働、
強制的⇆自主的
などの対比で図式化してみました。
 
 
 
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この本のすばらしさを伝えたい 飯塚祥則『えがおの花』 

2015年07月12日 | 渋川の本屋「正林堂」

 先日お店に行くと、本を出したので店においてほしいとの問い合わせがあったとのメモが机にありました。

 地元の自費出版物は、できるだけ店におかせていただきたいといつも思うのですが、編集者の手を経ていない出版物は、多くの場合、本の制作方法が伝わる表現、売れる仕様になっていないものです。

 そうしたことから、お店に置くにもただ置いておくわけにはいかないので、売るための準備として、著者に本の内容や魅力の再確認をして、必要な帯をつけたりPOPなどのキャッチコピーを考えたりするさまざまな段取りのあることを、ひとつひとつ説明しなければならない場合が多いものです。

 今回もそのようなことになることを覚悟して、メモにあった連絡先に電話をしてみると、電話に出たのはなんと前に『田中の家に犬が来る』の本を売らせてもらった飯塚先生でした。

 今回の本は、『えがおの花』。子どものありのままの姿が伝わる文集第2弾です。
 電話をすると早速、飯塚先生が店に届けてくれました。

 届けていただた本をめくると、なんと全部の文章がすばらしい!

 普通は、これだけ多くの作文が掲載されると、作品の出来の善し悪しだけではなく、読む側の器の問題などもあり、すべてが読者のこころにフィットするなどということは、滅多にあるものではありません。

 ところが、この子どもたちの文章は、ひとつひとつすべてがとても素晴らしいのです。

 ちょっと想像のつかないこのことを、いったいどのようにしたら伝えられるでしょうか。

 通常は、印象強い作品を抜粋するところですが、すべてがすばらしいので、冒頭の2作品をここに紹介させていただきます。


本当はね                  2年 ◯◯さく来

おとうさんが、会しゃから
「今日の夕ごはんなあに。」
と、でんわをかけてきた。わたしは、
「ステーキ。」
と、こたえた。おとうさんはよろこんで、早く帰るねっていっていた。
だけどね、本当はね、しゃけなのよ。 

(飯塚先生のコメント)
おかしい!「ステーキ。」と聞いて、早く帰るお父さんの顔がうかんでくるよ。そして、しゃけを見たときの顔も・・・
 やったね、さく来ちゃん! 



 

学校で遊べるところ             4年 ◯◯周平

 今日は、階段。
 東階段は、足ですべれる。中央階段は、こしですべれる。西階段は、中央階段と同じ。
 会議室では、机にローラーがついたので走って、すーとのっかりながら遊ぶ。家庭教室は、しょうがいぶつがいっぱいあるから、かくれるところがいっぱいある。四年二組には、ホワイトボードがあるから、らくがきができる。トイレそうじでは、水をまいて、水ホッケーをしていた。
 ちなみに、スティックの代わりは、フリードライヤーと、デッキブラシだ。
 このように、どこのそうじでも遊ぶ物があるのだ。

(飯塚先生のコメント)
「おもしろい!遊びの天才だな。足ですべり、こしですべり、ローラーで遊び、家庭科室でかくれんぼをし、らくがきもでき、トイレで水ホッケーをし、どこのそうじでも遊べるなんて・・・。5年生になってもいっぱいやって、いっぱいおこられな。楽しみ!!

 

 この2作品と先生のコメントの返し方を見ただけでも、これまでの作文の世界とは何かが違うとみなさん感じられるのではないでしょうか。

 前回の本『田中の家に犬がくる』のとき、店で勝手につけさせていただいた本の帯には、

子どもの言葉を「受け止める」
  新しい作文の発見! 

と書きました。

「子どもの言葉を受け止める作文」というスタイルが前作以上に、今回の本では見事に表現されているように思えたのですが、振り返ると、前作の本の「あとがき」に飯塚先生は次のように書かれています。


「私が作文の指導法を大きく変えたことによって、現在の子どもたちは、以前の私には想像もできないほどの表現意欲に支えられ、教師が手を加えない「自然でありのままの表現」が可能となりました。
その中で子どもたちは、受け止めてもらえる安心感と分かってもらえる満足感が膨らんでいき、作文を書くための豊かな土壌となっていくのだと私は考えています。」

なんだ、すべてここにポイントは書かれているではないですか。

でも、先生のこの意図しているところが、今回の本では、より完璧に伝わってくる内容になっているのです。

そのためには、飯塚先生の「受け止める作文」の「受け止める」ということの意味を、もう少し掘り下げてみたいと思います。

 

 親や教師が子どもの言葉を真剣に受け止めてやることが、とても大事であることは誰もがわかると思います。ところが、多くの親や教師は、「受け止め」てやりたい気持ちは持っていながらも、得てして目の前の子どもに対しては、受け止める前に「ジャッジ」や「指導」をしてしまうものです。

「聞いてあげるよ」といって呼び寄せていながら、その先の行為が「聞く」ではなく「ジャッジ」や「指導」になってしまうのです。

 子どもの側からすると、「聞いてもらう」ために話すのではなく「ジャッジ」されるために「話す」「書く」ということになってしまっているのです。

 この違いが、熱心な教師や親ほど、なかなかわからない傾向があります。

 その理由のひとつは、子どもが投げかける言葉、表現が、親や教師の側にとっては、はじめから明らかに「受け入れがたい」ものであったり「間違った」ものに見えることが多いからです。

 
 普通の教師や親は、「間違った」ものや「受け入れがたい」ものを「ただす」ことこそが教育であると考えがちです。

 でも、飯塚先生のスタンスは違います。

 

 子ども達が一生懸命なげたボールは、たとえどんなに「間違った」ものであっても、「受け入れがたい」ものであっても、まず無条件に受け止めることが何よりも大事であると飯塚先生は考えているのです。

 子どもが親や教師にボールを投げると、大抵の場合は子どもの未熟さゆえに、ストライクゾーンからは大きく外れたり、指示したところとは違う場所に投げたり、サインとは違った球種を投げたり、どこで拾ったのか臭くて受け取るのも嫌な球を投げてきたりするものです。

 多くの教師や親は、その都度、
 そっちに投げてはいけない、
 今のはサインとは違う球だ、
 そんな方になげたら受け取れるわけがないではないか、
 などと子どもに諭してしまいます。

 投げる子どもに対しては、キャッチャーとして座ってミットを構えていることで「受け止める」仕事をしていると思ってしまっているのです。

 ところが飯塚先生の場合は、どんなに外れたボールでも、ルールにない投げ方をしても、受けるのは嫌なとんでもなく臭い球でも、まず必死になってキャッチしてあげるのです。

 投げ方がどうの、サインと違う、ルールと違うなどとは一切言わずに、まずどんなボールでもしっかりと受け止めることができるのです。

 ここでまた多くの教師や親は、そんなこと言っても、あんなところに投げた球、誰だってとれるわけないではないか、と言います。

 それでも飯塚先生は、そんな球でも必死になって飛びついていって受け止めます。

 なぜそれが出来るのかと考えると、飯塚先生は、子どもが一生懸命になげたボールがどんなものであっても、それが面白くてしょうがないものに見えるからです。

「そんな投げ方があったのか、面白いねえ。」

「そんな球があったのか、驚きだねえ。」

 

 残念ながら、はじめから正しいかどうかをジャッジする立場で構えている人には、飯塚先生のように子どもの投げたその「ボールの面白さ」は見えません。

 

 また、子どもの側からすると、どんな球を投げてもしっかりと受け止めてもらえる信頼があるからこそ、腕を思い切りふってワンバンドになるようなフォークボールでも投げることが出来るのです(フォークボールを投げられる子どもはなかなかいないと思いますが、要はそういうことです)。キャッチャーが後ろにそらしてしまう不安があったら、絶対に三振をとれるようなフォークは投げられません。

 こうしてどんな球でも受け止めてもらえる信頼が生まれると、投げる側はどんどん思い切り力を出し切った球を投げられるようになるのです。

 親や教師の立場で子どもをみる前に、
まず6歳の子どもはその時点で完璧な6歳の人格をもった存在であり、
10歳の子どもは10歳として完璧な人間であることを忘れてはなりません。

これは教育では何よりも大事なことであり、教育だけではなく世の中のコミュニケーションでも、とても大事なことであることに変わりがないと思います。

「受け止める」こと「聞いてあげる」ことが大事であると多くの人が言っていながら、なかなか相手との距離が縮まらない一番の理由はこの辺にあるのではないでしょうか。

 

 多くの場合、世の中では「答え」を出すことこそが大事なのだと思ってしまいます。

 でも、ものごとがうまくいくかどうかの現実をみると、世の中が「正しい」答えによってまわっているとは限らないこと、むしろ「正しい」答えがどうのこうのよりも大事なさまざまなことによって支えられている場合が多いことに気づきます。

 日本でも遅ればせながら、暗記詰め込み型の大学受験のための特殊技能教育の弊害が反省されて、センター試験のシステムも変わろうとしています。

 しかしながら、多くの教育現場で教師や親の考え方は、そう簡単には変えられない現実があります。

 それだけにこの飯塚先生のような教育スタイルが、飯塚先生の特別な資質によるものではなく、多くの教育現場で本来必要とされている基本的なものとして受け入れられることが何よりも望まれます。

 そして2人目、3人目の飯塚先生が教育現場であらわれてくれることを願わずにはいられません。またいずれ遠くはない時期に、こうした考え方があたりまえの社会になることを願ってます。

 

 飯塚先生の『えがおの花』という本は、こうした「正しい」「間違っている」の判断以前に、ひとりひとりの、ひとつひとつの固有の姿、固有のエネルギーに驚き、共感し、感動することが、コミュニケーションの出発点として何よりも大事であることを気づかせてくれる、とてもすばらしい本であると思います。 

 

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戦争を止めること、語ることの難しさ

2015年07月12日 | 歴史、過去の語り方

 今、戦後70年の節目に戦争を考える複数の企画にかかわらせていただいています。

 どの企画をとっても「戦争」という大きなテーマに戦後70年を経てどう切り込むのか、切り込み口が豊富なだけに、的を絞ることは容易ではありません。加えて世の中の右傾化が進んでいる現在、憲法を語るにも、沖縄や基地問題を語るにも、それぞれの議論の立ち位置をきめることもなかなか簡単にはいきません。

 そんな折り、戦時中に暗号将校であったある戦争体験者の講演会を開くことになり、企画の持ちかたをどのように提案したらよいのか、とても苦慮してます。

 そのかたは、暗号通信兵という立場から、それほど激戦地での戦いを経験してきているわけではありません。
 おもに中国、満州、朝鮮半島を渡り歩いて終戦をむかえた体験談になります。
 ひとつひとつの移動日時から出来事の記憶がとても鮮明で、話しもとても上手な方なので、その話を聞けるだけでも十分と言えるかもしれませんが、この戦後70年という節目を、その方の体験を聞くだけで、ひとつの講演会を終わらせてしまうことにはとても抵抗を感じます。その方の体験から教訓として、シビリアンコントロールがとても大事であるとも強調されていましたが、話しがそれまでになってしまって良いのでしょうか。
 もしそれだけで企画を終わらせてしまったら、今、いったい何を問いかける講演会になるといえるのだろうかと思わずにはいられません。
 いかなる立場であれ、当時のリアルな体験というのは今やひとりひとりがかけがえのない貴重な証言者となっています。 それらを今こそもらさず発掘して後世に伝えていかなければならないのですが、私たちがそこから何をつかみ取るのかを抜きに、いまそれを語ることはできません。
 地元ではとても知名度はある方なので、企画を準備しているその周辺の皆さんにどう提案するべきか、あれこれ考えているのですが、いまだに考えがうまくまとまりません。

 

 戦後70年を考えるとき、まず第一に大きな壁となることは、圧倒的多数の人びとがいまや「戦争」の現実そのものを知らない、直接的に体験していないということです。

 戦争の現実そのものも、個々の戦地の様子、闘い方の問題、一兵士の重い体験、国際情勢のもとでの政治家や指導者たちの判断の問題、時代毎の特徴、銃後の暮らしの様子、国家総動員態勢の下での様々な変化・・・等など、きりなく課題があります。 

 それらのどこを切り込み口にしてもよいと思うのですが、どうも傾向として、なんであんなバカな戦争をしてしまったのか、こうすれば戦争は避けられた、あるいは今こそ平和をといった論調が、戦争や平和を語る人たちの間で、あまりにも噛み合ない現実に私たちはどう対峙したら良いのでしょうか。

 あの時代に比べたら、民主主義のレベルも進歩したかに見えますが、あのだれも止められなかった戦争をおこしてしまった環境、とても勝てそうにない状況に追い込まれていたにもかかわらず、それを早く止めることができずに多くの犠牲を膨らませてしまった現実、それらの構造は未だになにも変わっていません。

 

 

 その時代のまっただ中にいるときには気づいていなかったことを、後世の人びとはたくさん見て反省しているはずですが、まだ戦争の記憶も生々しいときに起きた朝鮮戦争のとき、私たち日本人はどう行動したでしょうか。

 ベトナム戦争のとき、反戦運動は今に比べたらはるかに大きなうねりとなっていました。
 でも、沖縄の問題、米軍基地の問題をその時どう解決してきたでしょうか。

 遠いアフガンやイラクへの侵攻がはじまるとき、日本はいったいどういう行動をとったでしょうか。

 戦後のどの時期をとってみても、あの大戦の経験があるから日本が再び戦争をおこす心配は無いなどといえる姿ではありません。そこが未だに浮き彫りにならないまま、もはや時代が変わり国際社会の一員としての責任を果たすには、血を流す覚悟なしには国を語ることはできないといった論調が加速的に増えてきてしまいました。

 

 戦争。

 それは、何を語ってもあまりにもインパクトの強い話題になるので、どの部分をついてもそれぞれが本質的論議の性格をもってしまうのも事実だと思います。

 でも今こそ、それで終わってはいけないと思うのです。 

 ではどうしたら良いのか、まだ結論を出せるわけではありませんが、
 まず以下のようなことが思い浮かびます。

 

1、様々な紛争を目前にして憲法九条の平和精神が大切であることに私は異論はありませんが、
 「九条」があれば平和が無条件に保証されるというほど現実は簡単なものではありません。

2、平和や独立を守るために一定度の「軍備」というものが必要であることも間違いないかも
  しれません。しかし歴史をみると、十分な軍備があれば、あるいは敵より強い装備さえあれば、
  必ず平和が守れるというわけでもありません。

3、軍の暴走を避けるためにも、「シビリアンコントロール」は不欠ですが、歴史をみると
  「制服組」ばかりが戦争に走るとも限りません。文民・官僚や国民、あるいはマスコミが
  まっ先に戦争をあおることもとても多いものです。

4、過去を振り返って反省される戦争であっても、その多くは「多数決」で国民の支持をえて
  始まりました。

5、自分の信条や考えにかかわらず「組織」の一員として「戦争」の現実に立たされたとき、
  暴走する上官の命令に直面した場合に自分がどう対応できるか。

6、政治的、あるいは組織的「権限」さえあれば戦争も止められるとも限りません。
  天皇ほどの立場であっても、終戦の決断と玉音放送の録音に至るまでは命がけのことでした。

7、国を守る強い精神と肉体をもった若い兵士であっても、「戦場という過酷な現実」のなかに
  入ると、普通の精神状態を保つことが難しくなるだけでなく、運良く生還した場合でも極めて
  厳しい精神状態におかれることになります。
      (戦場での戦死者の数よりも、生還した兵士の自殺率の方が多い時代)  

8、 戦争か平和か以上に世の中が、「不安定」であることによってこそ利益を得る人たち
  そして現代では、彼らこそが大きな影響力を持っているということを忘れてはなりません。                 (じっくり考えていくとまだまだ他にもありそうです)

 

これらのどれを取り上げても、とてもやっかいな問題ばかりです。

まさにとても「やっかい」な問題だからこそ、「戦争は政治の延長」なのであり、
対話や交渉で解決できないとき、「戦争」という力のの解決策にゆだねてしまうわけです。 

だとすれば、対話や交渉能力の欠如と諦めこそが「戦争=暴力(ゲバルト)」の最大原因ともいえます。

話しがここにくるとまたそれは、国の指導者や外交官、あるいは軍の指揮官の能力の問題としてとらえられがちですが、そうした要因もあることは事実でしょうが、その枠にとどめた話しになってしまうところが、まさに「戦争」問題の解決から遠ざけてしまっている大きな原因があるように思えます。

ちょうどそんなことを考えていたときに、エリック・C というフランス人の以下のような言葉を目にしました。

「日本の民主主義は未熟だと日本人に話すと、優秀な政治家がいないからだと言う人がいるから愕然とする。
民主主義が未熟だということの意味は優秀な人物がいるとかいないとか全然関係ない。政治に関心がない無関心層が多いか多くないかというだけのことだ。」 

 

  現代の政治の問題であっても、過去の戦争の問題であっても、それは無謀な戦争を推し進めた「彼ら」の問題として語るのではなく、「彼ら」を説得することも、止めることもできなかったそのまわりの人間=「私たち」の問題なのです。

 それを実行することが確かに容易ではないことは、誰もがわかると思います。

 しかし、それぞれの現場で、それが戦場であっても、指揮官の作戦本部であっても、議会であっても、マスコミであっても、知識人・研究者の立場であっても、会社などの組織内であっても、住民の隣近所のつきあいであっても、まさにそこに居合わせた自分(あなた)こそが歴史をつくっているまぎれもない当事者なのです。

 目の前の人間の無謀な判断や言いにくい雰囲気、あるいは言うことで自分の身の危険が増す恐れがある場合でも、自分が為せたこと、為せなかったことの積み重ねで、間違いなく歴史はつくられてきたのです。

 

 このことは、戦争にしても平和にしても、それはどこかの指導者に要求することとしてではなくて、自分がその現場で為せることの責任において、それはまさに首をかける、あるいは命をかける覚悟をともなってこそ、一歩前に進みうる問題であると思います。

 現実には、そんなことを言っていたら首(命)はいくつあっても足りないだろう、ともよく言われます。

 でも、それは戦争とまではいかなくても、私たちの職場においてもまったく同じ構図で、日々至るところでいいわけとして使われています。

 まえにも書いたことがありますが、ある教育関係者の会合に私が参加させていただいたときに、教師の責任を問うといった話しになり、それはなによりも自分の教え子たちがおかれている立場を守るためには、教師が職員室で首をかけて闘う覚悟をみせることなのではないかと初対面の先生達に恥も外聞もなく詰め寄ったことがありました。

 そのとき、会合の進行役をしていた先生が、首をかけてやめてしまっては元も子もなくなってしまうので、辞めないように努力し続けているのだといったようなことを言って、その場の空気をすこし和らげようとしてくれたのですが、私はそこでどうしても妥協することができませんでした。

 まず、首をかける覚悟のできていない腹では、いかにテクニックを駆使したところで、子どもには道理が通じないからです。
 逆にその腹=覚悟が決まった先生の行いであれば、仮に首になったとしても、それを見ていた子ども達には、それがたとえ小学生であったとしても、自分の先生のとった行動として深く心に刻まれることと思います。さらには、その先生自身もそのことによってこそ必ず次の活躍の場に出会える可能性が高くなるはずだからです。(公務員の枠内では、確かにこの次の道を求めるのは険しいかもしれませんが)

 そもそも普通の生活や仕事においては、首をかけるようなことなどということは、そう頻繁に起きることではありません。多くの場合は、10年に一度もあればよいくらいなのではないでしょうか。

 それが頻繁に起きるように見えるのは、その首をかけるような出来事にチャレンジせずにずっと持ち越し続けているから絶えずふりかかるように見えるのであるのだと思われます。

 さらに、その首をかけるようなことに出会えるときこそ、自らの真の力を試し成長できる素敵なチャンスであるわけですから、それを逃す手はないでしょう。 

 

 いかに平和のためといえども、決して命であっても首であっても阻末にしてよいものではありません。

 そもそも人の命の重さを比較などできるものではありませんが、その場において指揮官の責任と現場兵士たちの命の重さは、まず等価であるわけです。

 教師の責任と自殺に追い込まれる子どもの命の重さは、少なくとも等価であることで実態が見えるわけです。

 

 

 そもそも、戦争や平和は、あらゆる現場において首(命)をかける覚悟を伴わずに、責任を全うすることは難しいものであるはずです。
 それが難しい覚悟であるのは、まさに自分の首(命)をかけるからであり、他人の(首)命の問題になった瞬間から重い責任と覚悟は多くの人の場合、見えなくなってしまいます。 

 これを理屈で説明しつくすことはとても難しいのですが、世の母親だけは、自分の子どもを守るためには無意識に自分の身を投げ出して守ろうとする覚悟のようなものを、無条件に持っています。

 それが単純に本能といってよいものかわかりませんが、元をただせば、生命を守るということこそ、あらゆる人間や自然界の生物の基本原理であるはずです。

 この意味で、首(命)をかける覚悟のない責任は、もともと何より大切な原理=生命に基づかない反生命的行動とでも言えるような価値と実態を喪失したものと言い切ってもよいのではないでしょうか。

 

 

 私たちが歴史を語るとき、それはあまりにも政治経済史としての部分のみに目がいってしまっています。

 これまで述べたように、それは戦争に限らず、歴史とはまず何よりも

「命を受け継ぐこと」

「自然と人間社会の数多の命の再生産の歴史であること」

 が実態の圧倒的部分を占めているはずです。

 

 この命を受け継ぐこととは、そもそも

個体レベルで常に命がけの行いで成り立つものなのです。

その命を自分自身が担っている主体として背負い考えること抜きに

他人のこと、あるいは社会一般のこと、国家レベルのことに安直に置き換えてしまうことが、

わたしには民主主義の形骸化の最大原因に思えます。

 

こうしたことは当然、誰にとっても容易いことではありません。

私自身、こんなことを書いていながら、無責任ながらほとんどが敗北の歴史そのものです。

でも、だからといって「覚悟」を放棄することはできません。

首をかける覚悟に挑み続けるしかありません。

とっさに身を挺してわが子を守る母親の姿には、とても及ばないのが現実かもしれませんが、
だからこそ、その時こそ「命」の実態を知る大事な「今」に直面しているといえるわけです。

 

個人では太刀打ちできない困難に直面したとき

「だからどうすることもできない」

「仕方がない・・・」

の繰り返しでずっとやり過ごし続けるのではなく、

その個人では太刀打ちし難い現実に

3回に1回でも、

10回に1回でも、

年に一度でも、

いや100回に一度でもいいから

流れに身をまかせ続けるのではなく、立ち止まって

他人に要求することではなく自分がなすべきことで、

その困難な現実にチャレンジする勇気が欲しい。

 

答えは出せなくてもいい。

真剣にチャレンジすれば、少なくとも今までにはふれることのできなかった

沢山のものが見えてくるはずです。

 

「止められない戦争」といいのは、

それは正しいか間違っているかの問題ではなく、

こうした私たちの日々の覚悟や判断の積み重ねのうえに成り立っているものだと思います。

 

 

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