そこは、ちょっと畑のような、ただの野原のような、規則性と不規則性が入り混じった広大な野原。
そこに電子ピアノが一台置かれている。
そこに誘ってくれた何か図書の仕事をしている若い女の子と、音楽の話をしてくれる女性と私の3人で、何やら音の表現についてやり取りをしていた。
最近、長いことピアノにはさわっていないけど、二人について行けるか不安をかかえたまま、まぁなんとかなるだろうと対話に加わる。
最初に簡単なコード進行に合わせて、ベースラインだけあわせる。
これだけやってれば、こんなに自由に歌えるのよ、と彼女。
え?そんなに簡単?
といっても、彼女は初見で楽譜を自由に読めてるじゃないか。それは俺にはついていけないよ。
そうじゃないのよ。
この音とか、この音。
それに乗せていけばいいの。
この感じがわからないなら、
そっちのピアノのフタを外してみて。
(あれ?電子ピアノじゃなかったのか)
そこで言われるがままに、畑の一番端っこにある方の蓋からひとつずつ外し始める。
そんな遠いところから外さなくてもいいのよ。
あ、そうか。
そっちの近くだけでよかったのか。
これで音がわかるでしょ。
コードはここがAm
といって彼女は畑の一角にぴょんとはねる。
そして、こっちがDmと、次の畝にぴょんと跳ねる。
こうして、どこにでも跳べばいいのよ。
と、飛んだ先のコードに合わせながら、現代風の歌を歌ってピアノ伴奏も続けている。
え?
音楽って、そういうこと?
そういう間にも、彼女は広い野原をどんどん遠くまで自由に飛んでいってしまう。
人参の音。
キャベツの音。
ドングリのメロディー。
こっちはススキのメロディー。
(わっ、そんなにどこでも行っていいんだ)
すると突然、ここに案内してくれた図書の女の子がその場に泣き崩れてしまった。
あたしの今までの活字の世界は、一体なんだったの?と。
するとピアノの彼女、
何言ってるの。
音も言葉も同じでしょ。
ほら。
と、また自由に歌い出すと、
さらに彼女は泣き崩れてしまった。
そこまで泣き崩れる彼女をみて、
俺はどうしたらいいんだ。
そうだ、あの曲なら俺も自由に飛んでいけるかもしれない。
そう思い、自分の宴会芸、ラベルのボレロ山下洋輔風をこれまでのアクションよりもっと派手に指や肘、足を使って弾き始めた。
そうか俺はこの感じでいいんだ。
これで行けば出来るかもしれない。
ざっと今みた夢を文字起こしすると
こんな感じでしたw
自由に出来るはずなのに、
自由に出来る自由と
自由にできない自分たち。
なんか突破口が見えたような。
生まれてこのかた好景気を知らず、
たとえ投票率が劇的に上がったとしても、
自分たちが多数派になることはあり得ない今の若い世代。
そうした時代に生きる彼ら彼女らの思考に、私はここ数年、どれたけ大切なことを教えられたことでしょう。
今日の小選挙区制に代表される、51人の考えを49人に押し付ける多数決の考え方が、どれだけ民主主義そのものを劣化どころか破壊をしているか。
われわれ世代の、多数派を目指せばまるで「正義」が実現されるかの安直な思考が、いかに間違っていたか。
そもそもものごとというものは、多いか少ないかではなく、個々の存在価値を認め、それぞれのクオリティを高めることこそが大事なのだと彼らはいつも教えてくれる。
「正しい」を実現することよりも、まわりに良い影響を与えられる「個」になれと。
そしてそこには、理念や方針の正しさ以上に、プロセスの「丁寧さ」が不可欠なのだと。
われわれの同世代(一部の真面目なみなさんには申し訳ないけど)には、この「丁寧さ」というのが決定的に欠落しています。あまりにも、継ぎはぎだらけの足し算思考ばかりです。
この「丁寧さ」があれば、結果的に答えは見えていなくても、より着実に大きなものにたどり着ける。
「丁寧さ」の欠落したところに、「信頼」は生まれない。(ここが私には一番難しい😅)
それでも彼らのおかげで、わたしの働き方、暮らし方も随分変わってきたのを感じます。
世の中の軸足が、なにを「する」かの時代から確実に、どう「ある」かの時代に変わりだしているのを感じます。
心から若い彼ら彼女たちに感謝しています。