かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

きっと今ごろお月さんは、満月の準備で大忙し

2015年09月25日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

明後日の中秋の名月を前に、雨空の日がつづいています。

月夜野の「指月会」をはじめ観月イベントを予定している人たちは、みなやきもきしていることと思います。

今日も夜空を見上げても雨が降り続く真っ暗な空。

でも、その厚い雲の向こうでは、お月様が1年で最も注目される日にそなえて、

大忙しで身支度などの準備におわれています。

 

まず、十五夜の日にぴったりと「まん丸」なカタチになるように、

お月さんは、ウエスト周りや体重を計りながら、好物の目玉焼きを食べて

一生懸命、太る努力をしなければなりません。

 

その日は、ウエストが太すぎてもだめ、

細すぎてもダメ。

 

日本中(世界中?)から一斉に見られるので、

お肌がざらついたりクスんでいてもダメ。

ピカピカに磨きあげておかなければなりません。

 

 

 

さらに大変なのは、この満月の日がすぎたら、

また一日も休むことなく

今度はダイエットの日々が待ってます。

 

 

家内が教えてくれた絵本、とりごえ まり『月のみはりばん』(偕成社)という絵本は、

こんなようなことが描かれています。

おすすめですよ。

月のみはりばん
とりごえ まり
偕成社
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そこはカミの依代。来る人、住む人、みなカミの里

2015年09月08日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 先日、東京から来た皆さんに月夜野の月見スポットや矢瀬遺跡、神社などを案内しました。

 その際立ち寄った月夜野神社で本殿の見事な彫刻をみたある人から、ご神体はどこにあるのですかと聞かれました。

 月夜野神社は、21社19祭神もが合祀されている神社です。

 全国どこの神社でも、その時々で人気のある神を合祀したり、江戸時代の一国一城令のように一村一社令がだされて近隣の神社がまとめられたり(南方熊楠が批判しましたが)、神社も長い歴史を生き延びるにはいろいろなことがあったわけですが、どうであれその歴史はきちんと伝えられるべきです。

 月夜野神社の場合、それがどのようなかたちで祀られているのでしょうか。

 「本殿のあの中にまとめられているんでしょうか」などと話していましたが、そもそも神社のほとんどは神様への拝殿場所です。

 実態がどのようになっているのか、私は案内する側でありながら残念ながらきちんと説明することは出来ませんでした。

 ご神体として鏡や神像が祀られていることは確かにありますが、本来、神様は目には見えないもののはずです。

 実際、神社の多くは、その神社の背後にある山や岩などをご神体として崇めるための場所で、建物に対して拝むわけではありません。

 鏡を御神体として祀られている神社も確かに多いようですが、鏡を御神体に祀るようになったのは明治維新以降の場合がほとんどです。

 もちろん、全国にあまた存在する神社の実態はさまざまなので、神社の中にご神体が祀られているところもたくさんあります。

 でも、そもそも目には見えない神様が降り立ったり、とりつく依代(よりしろ)こそが神社のうまれた場所です。

 

 神々の依代(よりしろ)=屋代(やしろ)=社(やしろ)というわけです。

 本来の神社、神道の御神体は、突き詰めれば

   神奈備(かむなび)=山、

   神籬(ひもろぎ)=森、

   磐座(いわくら)=岩、

   靈(ひ)=光

 の4種です。

 

 私たちは、日本の長い信仰の歴史のなかでも、あまりにも明治維新以降の特殊な姿にとらわれているように見えてなりません。

 

 その後、村主神社にある見事なケヤキの木が御神木でること、欅(ケヤキ)=槻(ツキ)=月のことや、埼玉から群馬につながる渡来人文化のことで話しが大いに盛り上がりましたが、拝殿から感じるカミではなく、木々や岩や山によりつく「依り代」こそがカミのいるところであるイメージが大きく膨らんできました。

 かねてからあたためている村主神社の神楽の写真を使った、みなカミの里を表現したポスターイメージがありますが、カミの依代という視点で思いついたイメージをなんとか磨いてみたいと思います。

 

 

 

 

 

広大な平野をうるおす水源地、

みなかみ。

そこはカミの依代(よりしろ)となるところです。

列島を分かち隔てる谷川連峰の頂き

そこはカミの依り代

小鳥や生き物たちを呼び寄せる木々

そこはカミの依り代

蝶や虫たちを呼び寄せる草花

そこはカミの依り代

大地の恵みで人びとが暮らす山里

そこもカミの依り代

それら豊かな自然を求めて人びとが集まる里

そこはカミの依り代

 

だからそこは

ここに来るひと、住むひと

「みなカミの里」

 

 

今では、この「来る人」というと観光客ばかりがイメージされ、観光協会のためのキャッチコピーのように思われがちですが、 かつての時代の「来る人」とは、必ずしも現代の観光客のイメージではありませんでした。

まずそれは「マレびと」であり、
「ほかいびと」「うかれびと」など神事芸人や勧進僧といった神仏の代理人たちでした。

そのほかに訪れる瞽女などの旅芸人や商人たち(薬売り、道具売り・・・)
渡り歩く職人たち(木地師、マタギ・・・)や出稼ぎ労働者など
それら誰もが、貴重な情報の伝達者でもありました。

そうした「来る人」の拠りどころとしての「里」「宿」「村」として大切な場所でもあったわけです。

 

 

神様がどうのこうのということより、カミの依代という視点からみると、

大自然の気の集まるところ、

人の意識の集まるところ

人間の集まるところこそが、

神様にとっても、人間にとっても大事な場所であり、

そうした気の流れを取り戻したり、つくったりすることこそがすべての基本なんだということなのでしょうね。

 

 

カタチはなく目には見えないけれども、あきらかになんらかの「力」のあるもの、それは「風」、あるいは風とともにやってくる匂いや香り、または「ことば」や人の「こころ」あるいは、それらの間をゆきかう「情報」と言えるかもしれません。

それらは必ず「熱」とともに動くものです。

 

カタチのあるものばかりつくる活動ではなく、目には見えないものの流れを大切にする活動。

カミのあるところにそれが集まるのか、それらの流れのあるところにカミが依りつくのか、どちらが先かはわかりませんが、まさに「月夜野百景」http://www.tsukiyono100.comは、そのようなことを目指した活動です。

2017年3月に月夜野神社の紹介を通じて「神さまってどこにいるの?」と題した三つ折りリーフを作成しました。

 

これからどのようにしたらそれが伝えられるのか、取り戻していけるのか、あるいは、つくっていけるのか、じっくりと考えていきたいと思います。

 

 

 

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手作り箱膳のある暮らし

2015年09月06日 | 暮らしのしつらえ

仕事でホテルの部屋の内装や料理メニューなどにかかわっている都合で、手頃な箱膳をいろいろ探していました。

ところが、市販のものだとサイズが小さめであったり、高価であったりして、なかなか納得のいくものがみつかりませんでした。

ならば・・・

自分で作るに限る!

 

 

最近の本棚やブロック棚などのパターンでの制作ですが、

高さ 30cm   幅 45cm   奥行  A:38cm   B:33cm    C:28cm

の3種類 4つを作成しました。

 

毎度のことながら図面も引かず、材料の現物合わせの制作ですが、ほぼ納得のものが出来上がりました。

 

テーブルのように足を隙間に出せない難点はありますが、ひとりの食事を演出するには、この方がずっと楽しく感じられます。質素な食事でも充実した「食」の時間を味わうことができるだけでなく、豪華な食事の演出としてもとても効果があるように思えます。 

 

 

これは、箱膳の配置、レイアウトが自由に変えられることで、人数に応じて、会話の距離感なども自由に調節できることも大きな利点です。

夫婦で隣りあわせて食べる配置、お客さんと向き合って食べる配置、もてなす側ともてなされる側にわかれる配置など、こんな実用的なものはないと思います。

 

 

さらに箱膳の中は収納として十分なスペースがあります。

ホテルでは、お客さんの滞在中のすべての食器がこのなかに収納できます。夕食を出すときに、このなかには明日の朝食で使う食器もすべて入っているんですよ、と説明する。もちろん、それなりの食器であればですが・・・

 

加えて、並べた箱膳の上に写真のような天板をのせれば、通常のテーブルの台としても使えます。

この写真の天板テーブルは、二枚の板を蝶番でつないだもの。使わないときは、二枚を折りたたんでしまっておけます。 

 

 

 

また、箱膳の幅 45cmをタテに使用すれば、正座仕様のテーブルが、低い椅子で使えるテーブルにすることもできます。実際には、低いテーブルであっても、膝の高さ50cmくらいはテーブル下の寸法は必要で、それは次のアイデアで解決します。

 

その後、天板のデザインを替えたものも作りました。

 

 シチュエーションに応じて、違った雰囲気にして使うこともできます。

 

上の写真左上の衝立は、箱膳の上にあった天板を立てて屏風にして飾ったもの。

 

 

 

仕事の提案のための試作品でもありますが、これでわが家の毎日の暮らしが一段と楽しくなったことは間違いありません。

 

 

 

といっても、これが活きるのは、相方のこの料理の腕あっての世界ですが・・・

 

 

箱膳のフタ部分は、お盆としても使用できます。

 

 

 

 

 

たまには、家庭料理でもお品書きをつくってみる。

 

と、ここまでは、箱膳のある新しい暮らしが楽しくて、ハレの日の食卓のみを掲載しましたが、日常は、こんなにキレイに整理されているわけではありません。

しかしこうした箱膳の暮らしを、本来の姿にさらに強く後押ししてくれたのが、土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』です。

 

一汁一菜を日常食スタイルにすることが、どれだけ豊な暮らしを実現することになるか、土井さんが軽い語り口でありながら極めて深い洞察をしてくれています。

 

「忙しいからコンビニ」ではなく、「忙しいからこそ、一汁一菜」なのです。

 

 

季節の食材でつくる具だくさんの味噌汁だけで、どれだけ、健康的で豊な暮らしが実現できるか、実に多面的角度から解き明かしてくれていいます。

お陰さまで、そうした一汁一菜の食生活こそ、箱膳の暮らしが最もふさわしスタイルになることを気づかせてくれました。

 

 

 

現在、部屋には3つの箱膳を置いていますが、そのうちの一つは、まさに一汁一菜の食事用として使い、その箱膳の中には調味料などが収納されています。

 

 

またある時は、晩酌用として。

 

またある時は、コーヒーのスペースとして。

コーヒーミルなども一式、箱膳のなかに入れたかったのですが、残念ながらミルの取手が箱膳の深さに収まらず、断念しなければなりませんでした。

 

 

二つ目の箱膳は、ノートパソコンをおいて、仕事などの作業用として使用し、箱膳のなかに利用頻度の多い資料や文房具類が収容されています。

そして3つ目の箱膳は、ひとつの箱膳でスペースが足りない場合や、来客があったときの予備として使用しています。

 

 

 

基本は、食事や仕事など日常のあらゆる活動を箱膳ひとつに収めるということです。

このおかげで、絶えず本や書類で散乱する日常空間を、ガムシャラに頑張って片付け作業をすることなく、一箱分に収めて片付ける習慣がつきそう・・・

と言いかけたら、たちまち遠くから冷たく嘲る視線が飛んできた(汗)

 


高価なものを買わずとも、自分の暮らしにあったものを手軽につくることでこそ、日常が豊になる幸せを実感することが出来るものです。


ぜひ皆さんも、意外と簡単ですから手づくり箱膳をひとつ作ってみてください。

 

 

 

#箱膳 #手作り箱膳 #一汁一菜 #箱膳のある暮らし

関連ページ

毎週一度の食事のため「お品書き」をつくる

http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/08503092fe1bd1902b92ba4cab46280a

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あれは幻の珈琲だったのか?ケニアの風味

2015年09月04日 | 暮らしのしつらえ

 数年前に出会った私にとって最高のコーヒー、ケニア。

苦味系でありながら、とてもすっきりした味。

これに近いようなタイプのコーヒーはないといってよいほど、私にとっては最高のコーヒーでした。

ところが、数か月前からいつものお店で買っても、これまでのすっきりとした風味がどうもでません。

煎り方を変えてもらったり、一杯の豆の量を変えたりして、いろいろ試してみたのですが、
どうにもこれまでの味が再現できません。

もともと私にテクニックがあるわけではないので、毎度入れるたびに味わいは一度として同じといえることはないのですが、
それでも「ケニア」ならではの味には、いつも決定的な差を感じていました。

なにがどう違うのか、まだ完全に解明できたわけではないのですが、
最近の味では、キリマンジャロの類とあまり差がありません。

 

 

考えてみると、このケニアというコーヒーは、これまで渋川の馴染みのお店で買ったもの以外は、

どれも私の期待に添う味ではありませんでした。

紹介の仕方によっては、「トロピカルな味わい」といったような表現もされていますが、

私の出会った感動のケニアは、決して「トロピカル」などというような感じの味わいではなく、

これが苦味系といえるのかというほどの「すっきりした味」で、

それでいながら仄かな香りがとても心地よくただようものです。

日頃、コーヒーはあまり飲みなれていない叔母が、

「これはおいしいい」

と言うほど年寄りでも安心して飲めるような味わいのものです。

 

ヨーロッパでは、第一級の豆としてかなりスタンダードらしいのですが、日本ではあまり馴染みがありません。

当初、その理由は、マイルド系が主流の日本のには受け入れられにくいためかと思っていましたが、

どうも原因はそれではなさそうです。

 

とても残念なことですが、私の出会った感動的な味のケニアのほうが、市場では一般的なものではなく、

他所で買った、これではとても毎日飲もうとは思わないケニアの方が、日本市場では普通のものであったらしいのです。

どうもそうらしいということが、いろいろ試した結果間違いないのだろうとわかりだしたところなのですが、

それにしても、私としては納得しがたい思いが残ります。

 

 あの苦味系でありながらすっきりとした香りたかい味わいこそ、まさに理想のコーヒーであるといえるはずなのに、ちょっと酸化したような苦味だけが強調された味わいが正常な味として認めるなどということ、どう考えてもおかしい。

私の感覚にしたがえば、かつての幻のケニアこそ、鮮度が保たれたからだにも良い豆で、

最近の苦味ばかりが残るケニアは、酸化が進んで鮮度の落ちたからだに悪い豆ということに違いない。

 

お店の人に豆の仕入れのロットが前とは違うのではないか、などと聞いてもみましたが、

生豆の仕入れをそこまで分けて管理できているわけではないようです。

 

これまでずいぶん多くの人に、あるときはコーヒーには自信を持っていそうなお店にまで、

ケニアという豆の魅力とすばらしさうったえてきたのに、このままでは、どうも真に立証することができないまま、私たち一部の人間だけの「幻」で終わってしまいそうなところに追い込まれてしまいました。

 

所詮、素人知識の浅い体験にしかすぎないのですが、

ほんとうに鮮度のある生豆の力が、大半の市場には出回っていないのかもしれないという仮説、

コーヒーの本物のプロの力を借りて、なんとか立証してみたいものです。

 

 ともあれ、

これまでコーヒー豆の日本市場の現実を理解しないまま、私の勝手な知識でケニアという豆の幻をおしつけられた皆さん、

大変、申しわけございませんでした。

理想のケニアの最低限のレベルの味が再現できるように、なんとか生豆流通の真の実情をつかみ、自分の入れ方の腕を磨き努力したいと思います。

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