このところ家のマンションの南側から、昼夜を問わずホトトギスの鳴き声が聞こえます。
ホ・ト・ト・ギッ・ス
特許許可局
キョ、キョ、キョ
夜も鳴き、昼も鳴き
いつ寝ているんだろうか。
もっとも鳥だから寝るといってもそう姿勢が変わるわけでもなく、
木の上で少し身をすくめる程度だから、そう差はないのだろうけれど、
いくら景気が悪くても、鳥までそんなに働くこともなかろうに。
その生態がわからない。
少しぐらいゆっくり休んだって、隣りのウグイスから文句言われる心配もないのに。
昼間はマンションの北側でそのウグイスが鳴いています。
どういうわけだか、いつも棲み分けていて、この二人が交わることはありません。
4階の建物を隔てて、とても近い距離なのですが、不思議。
そして昼間は、しばらく耳を澄ましてみると、実にたくさんの鳥こ声が聞こえてきます。
名前も知らないいろいろな鳥たちが、実に楽しそうにうたっています。
スズメやツバメの数が激減したりしていることが心配されますが、
それでもこんなにもたくさんの鳥たちがいることに驚きです。
3月、4月と春の花々がいっせいに咲きだたときは、桜に急き立てられるように、じつに慌しい季節を過ごしましたが、桜が終わって、新緑のシーズンに入ったら、渡り鳥たちが次第に増えてきて、今のような賑わいを見せるようになりました。
渡り鳥というと、今までは冬の白鳥や雁などのイメージばかり持っていましたが、南からやってくるツバメ以外の小型の渡り鳥もずいぶんたくさんいることを知りました。
ツバメが減ったのは温暖化であまり北上する必要がなくなってきたからなのか?
定住しているスズメの激減した原因とともに、まだ明確な理由はわかっていないようです。
それでもマンションのまわりのちょっとした郊外に、これだけの生命がひしめき合って生きています。
彼らが食べる虫や我などから、地下にうごめくたくさんの虫たち
それらの棲家を提供するたくさんの草木。
ものすごい密度で多種多様な生命がひしめき合っています。
また、見れば見るほど、
鳥たちの声を聞けば聞くほど、
これこそ十分な地上の楽園だと感じてしまう。
そりゃ縄張り争いや、雌を求めた求愛行動もあることでしょうが、
ほとんど休むことなく、楽しそうな声で鳴き続けています。
みんなこの世に生きていることが嬉しくてたまらんのでしょうね。
ちょっと日が経ってしまいましたが、上毛新聞のコラム「視点 オピニオン21」の5月21日(月)の記事で、NPO法人こころの応援団代表、千代田すみ子さんの「病気前と違った自分に ―『寛解』という考え方―」と題した記事が出ていました。
「(略)けがや他の病気は治療すれば元に戻りますが、心の病気は病気になる前に戻ったとすると、再び病気になります。」
この一文を見たときにわたしはすぐに「べてるの家」を思い出しました。
「かみつけの国 本のテーマ館」のなかの、もう何年もほったらかしにしてしまっているページですが、かみつけの国 本のテーマ館
病気は勝手に治るとよくない、といった視点で上手な病気との付き合い方について、精神疾患であっても明るく元気に生きていける実践例を紹介しています。
このことを千代田さんは、さらにわかりやすく次のように説明してくれています。
「なぜなら、この病気になる方の多くが一生懸命で、きちょうめんであり、こだわりが強く、すぐ実行したがるタイプだったはずだからです。
ですから病気が治るということは『病気になる前と違った自分になる』ということです。
このような状態を『完治』ではなく、『寛解』といいます。
この考え方を、家族や友人、仕事場、そしてなによりご本人が理解していかなければ『寛解』にはつながりません。
しかし、この考え方を受け入れるにはとても長い時間を要するようです。」
簡潔な文のなかに実によくまとめられています。
このNPO代表の千代田さんは、沼田の「ごったく広場」にもかかわられているようなので、どこかでお会いしているのかもしれません。
この「寛解」という考え方、必ずしもこころの病の場合に限った問題としてではなく、ひろくわたしたちの日常で経験することで大切なものの考え方としてとらえたいと感じました。
医者に頼るような疾患でなくても、事故や災害、身内の不幸やちょっとした他人の言葉で深く傷ついてしまった場合など、こうした「寛解」をようする事例は、わたしたちの身の回りに事欠きません。
ところが、医学的にはこの「寛解」という言葉、千代田さんのような解釈ではなく、症状が一時的に軽くなったり、消えたりする状態のことを指し、そのまま治る可能性もあるが、再発する可能性も残した状態のことを言っているらしいので、気をつけてつかわなければなりません。
職業医師の立場からは、完治したのかどうか、再発するかどうかの解釈がわかれるようなことは当然、容認することは出来ないと思います。
しかし、私個人としては、なんとなく千代田さんの解釈で「寛大」に、この言葉が但し書き付きで広がることを願います。
このひとりひとり異なる長い「寛解」の時間は、わたしの日常の仕事上でかかわる問題でもあります。そんなこと言ってる余裕はないなどと言う日々の自分との闘いでもある。
どちらが大事か、どちらが価値ある時間か、考えればわかることなのだけれども。
「(略)けがや他の病気は治療すれば元に戻りますが、心の病気は病気になる前に戻ったとすると、再び病気になります。」
この一文を見たときにわたしはすぐに「べてるの家」を思い出しました。
「かみつけの国 本のテーマ館」のなかの、もう何年もほったらかしにしてしまっているページですが、かみつけの国 本のテーマ館
病気は勝手に治るとよくない、といった視点で上手な病気との付き合い方について、精神疾患であっても明るく元気に生きていける実践例を紹介しています。
このことを千代田さんは、さらにわかりやすく次のように説明してくれています。
「なぜなら、この病気になる方の多くが一生懸命で、きちょうめんであり、こだわりが強く、すぐ実行したがるタイプだったはずだからです。
ですから病気が治るということは『病気になる前と違った自分になる』ということです。
このような状態を『完治』ではなく、『寛解』といいます。
この考え方を、家族や友人、仕事場、そしてなによりご本人が理解していかなければ『寛解』にはつながりません。
しかし、この考え方を受け入れるにはとても長い時間を要するようです。」
簡潔な文のなかに実によくまとめられています。
このNPO代表の千代田さんは、沼田の「ごったく広場」にもかかわられているようなので、どこかでお会いしているのかもしれません。
この「寛解」という考え方、必ずしもこころの病の場合に限った問題としてではなく、ひろくわたしたちの日常で経験することで大切なものの考え方としてとらえたいと感じました。
医者に頼るような疾患でなくても、事故や災害、身内の不幸やちょっとした他人の言葉で深く傷ついてしまった場合など、こうした「寛解」をようする事例は、わたしたちの身の回りに事欠きません。
ところが、医学的にはこの「寛解」という言葉、千代田さんのような解釈ではなく、症状が一時的に軽くなったり、消えたりする状態のことを指し、そのまま治る可能性もあるが、再発する可能性も残した状態のことを言っているらしいので、気をつけてつかわなければなりません。
職業医師の立場からは、完治したのかどうか、再発するかどうかの解釈がわかれるようなことは当然、容認することは出来ないと思います。
しかし、私個人としては、なんとなく千代田さんの解釈で「寛大」に、この言葉が但し書き付きで広がることを願います。
このひとりひとり異なる長い「寛解」の時間は、わたしの日常の仕事上でかかわる問題でもあります。そんなこと言ってる余裕はないなどと言う日々の自分との闘いでもある。
どちらが大事か、どちらが価値ある時間か、考えればわかることなのだけれども。