後白河法皇による『梁塵秘抄』で知られる今様の有名な一節
「遊びをせんとや生まれけむ」
無邪気な子どもの遊びに触発された気分を素朴にあらわした歌かもしれませんが、最近私はこの言葉には、とても深い大切な意味があると感じるようになりました。
それは、このところ仕事やボランティアなどの活動で、東へ行っても、南へ行っても、北へ行っても、いい仕事を追求しようと思えば思うほど、それを「仕事」や「作業」としてやっているようではダメだと感じることが多いからです。
「仕事」なのだから、スピードや効率、生産性や採算などをしっかりとふまえなければならない。
「ボランティア」「非営利」なのだから、お金はかけられない、技術が低いのはやむをえない。
などといったもっともらしい理由に、どうも納得できないことが多いのです。
相手が「世間」ではなく、自分の時間を使う自分の活動であれば、それが仕事であろうが、ボランティアであろうが、自分が目的を達成するためには必要なだけ、時間やお金などの労力をつぎ込めることこそが幸せの最大条件だと思うからです。
このことにあらためて確信をもつきっかけとなったのが、「遊び」という言葉です。
「遊び」には、そもそも「サボる」だとか、「手を抜く」という発想の入り込む余地は、ほとんどありません。
ただ、今やっていることに無心に集中している自分や仲間の時間の充足度がすべてです。
やりたいことであれば、お金がないなどという言い訳は考えません。
技術や能力がないなどとは考えず、必要なことは身に着ける努力を惜しまずします。
こうした発想に、
「仕事なんだから」とか
「ボランティア(非営利)なんだから」
といった発言はことごとく反します。
もちろん、妻子や従業員を養ったり、親の代から背負った借金を返すため一生懸命に働いている人たちや、思うような仕事にありつけず日々最低限の暮らしを維持するためだけに必死で働いている数多の人びとには、何をバカなことを言ってるのかといわれることもわかります。
先の「遊びをせんとや生まれけむ」の言葉も、しょせん天皇や貴族の余裕のある人たちのことだから呑気に言ってられるのだろうというのもわかります。
それでも、最終的にこの世に人として生まれてきた限りは、どのような幸せを目指しているのかと考えたとき、まじめに仕事や必要な作業をこなすことではなく、「遊び」こそを真剣に追及するべきではないかと思うのです。
私のホームページ「Hoshino Parsons Project」https://www.hosinopro.com/のなかでも、上の写真の本などは、かなり私のテーマの核心をなしています。
・デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店
・アニー・J・ゼリンスキー『働かないってワクワクしない?』ヴォイス
・泉谷閑示『仕事なんか生きがいにするな』幻冬舎新書
ただ仕事の能力のない者の言い訳にすぎないのではないかと言われても、否定はできません。
それでも、真剣にに「よい仕事」をしようとするならば、職務や予算の範囲内でとか、納期を守ってこそとかいった当然の責任の範囲内でしかものを考えられない限りは、「よい仕事」でも、自分の人生の満足できる仕事にはなかなか至りえないのではないかと思ってしまいます。
相手を非難する表現として「遊びじゃないんだから」と言われることもありますが、この場合は、責任を果たす真剣さに欠けていることを指すような場合が多いかと思いますが、私は、真剣な遊びの方がレベルは上だと思っています。
「真面目な仕事」や「真面目なボランティア」よりも、熱中する「真剣な遊び」の方が上です。
「遊び」の域に到達しないと、無条件に熱中するものにはなりえていないのではないかと。
もちろん、すべてで「遊び」に徹することなどできることではないかもしれませんが、少なくとも「遊び」の領域を目指すことを、安易に不真面目であるとか、仕事に真剣さが足りないからだなどとは思わず、大真面目に目標として考えていきたいと思います。
ましてや、遊びが一番の仕事であるはずの子どもたちが、塾やスポーツクラブなどでスケジュールびっしりの生活をするなんて、もっての他だと思います。
人としてただ一度の人生を、この世に生まれたかぎりは、
遊びをせんとや生まれけむ