かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

必ずしも本が主人公ではない読書会

2023年02月02日 | 気になる本

最近参加させていただいてる複数の読書会には、共通した特徴があります。

その第一は、30代半ば以降の若い世代が中心であること。
第二は、共通の課題図書を決めて、その本について語り合ったり、ビブリオバトル型とかではなく、参加者それぞれが持ち寄った本について自由に語り合うスタイルであること。
第三は、比較的少人数であることです。

といっても、いずれの読書もこれに強固にこだわっているわけではなく、結果的にそうした傾向を持っているだけです。

 

ただこのことが、従来多かった共通のテキスト講読型の読書会に比べると、参加者それぞれの本との個人的な関係、家族や恋愛、仕事や地域の関わり、育児や教育問題など、たっぷりと聞くことができるようになっています。
それは、ただ実用性においてばかりでなく、たとえSFや詩的空想世界に飛んで行ってしまう場合でも言えます。

そもそも読書は、極めて個人的な営みです。そのパーソナルなものを他人と共有するというのは、本来なら対極の関係にあります。
それが面白くてたまらないのは、面白い本の情報交換というだけでなく、異なる考えや生き方の人との出会いに醍醐味があるからです。
それをたっぷり味わうには、どうしても少人数であることが不可欠です。
また、無味乾燥な会議室などは使わずに、出来るだけユニークな空間であったり、屋外の自然空間で、さまざまなその土地固有のノイズを抱えて行うことも大事です。

本をより詳しく深く読むこと以上に、参加者それぞれのその本との関わりのノイズの部分の方が、意外と核心であったりするからです。

ここ数年で、従来型の書店ではなく副業型のブックカフェが急速に増えているのも、何か同じ背景があるような気がします。

私は読書というのは、知識や教養をためること以上に、その人が自分自身の直面している課題に立ち向かうエネルギーのあらわれであると思っていますが、最近は自然にそのような流れが広がってきているように見えて、とても嬉しく感じます。

もちろん、世の中にはいろいろなスタイルのものが幅広くある方が豊かな社会になっていけるものですが、右肩上がりの横並び社会が終わったおかげで、経済的には悲惨でも、何かとても良い流れが生まれているように思えてなりません。

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大人こそが問題

2020年05月08日 | 気になる本

絵本作家、五味太郎の本で、書肆データ上のタイトルは『大人問題』

表紙のデザインは、

おとなもんだい
おとなもんだい
おとなもんだい

を兼ねています。

しばらく品切れになっていた本なので、古本を入手しては、子どものいるパートさんにあげたりしていたおすすめの本です。

子どもに対して、学校でも家庭でも、大人は常に教える側として対峙するものですが、子どもの世界で起こる問題の大半は、大人社会でも解決出来ていない「大人の」問題であり、現実には解決のためにも「大人が」問題であることを五味太郎が説いています。

少し前に教師の間での信じがたい「いじめ事件」が報道されたことがありましたが、たとえ教師であっても人間社会である限り、「いじめ」や「差別」が皆無であるとは言えません。

現実には、職員室で問題のある教師の存在が指摘されても、ほとんどは研修にいってもらうとか、人事異動をするとかの対応がほとんどで、その職員室内部で解決するということはなかなかできてはいないものです。

それが、対子どもの関係となると、それはやめなさい、いけませんとの支持、命令だけで済ませてしまうものです。でも、それで本当にその問題は解決しているのでしょうか?

ではどうしたら良いのかということですが、忘れてならないのは、現実に大人社会であろうが、子ども社会であろうが、どんな問題でも、それを解決することはそもそも容易ではないということです。

そこを大人社会は、つい隠したり、誤魔化したりしてしまうから、命令や指示で済ませてしまうのです。
命令や指示に従うことだけで済んだのは、軍隊式教育や機械制大工業が中心であった時代のことです。すでに時代は違います。

なぜそうしなければならないのか、ということから、きちんと理解できなければなりません。

これは、とても厄介なことです。

でも、ここでも大事なのは、答えを教えることではありません。
大人でも難しい問題であるわけですから。

ずっとこうしたことを気づかせる本として、この五味太郎の本をおすすめしていたのですが、昨年、ここをもっとうまく気づかせる本が出てロングセラーとなっています。

 

フレイディみかこ『ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー』新潮社

そもそも大人であろうが子どもであろうが、人間関係のことは難しいのが当たり前なわけですから、答えを教えることではなく、

それは、

「一緒に考えよう」

が何より大切なはずです。

確かに大人は問題ですが、

今から一緒に考えよう。

こそが大事なのです。

答えを教えること以上に大切な、子供との関係を築く鍵がここにあるようです。

 

 

この7回の組み立ての頭と最終回だけは、明確に決めていましたが、途中は話の流れでだいぶ変わっていきそうで、これまでのなあgれからすると、学びー教育ー独学ー自立ー自由ーパーソナルー責任といったような本が中心になりそうです。

 

 

ブックカバーチャレンジのfacebook投稿を転載しました。

 

 

 

 

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ベルトコンベア教育から子どもの絶対的「自由」を守ろう

2020年05月04日 | 気になる本

「競争やめたら学力世界一」の国、フィンランドでは、宿題はありません。自宅に帰って勉強する時間は、多くても30分くらいだといいます。

このこと、皆さんは想像できますか?

私たち「地球上から宿題を絶滅させる友の会」は、必ずしも宿題が嫌いだから絶滅させたいのではありません。(私個人は嫌いだったから大きな理由でしたが)

世の中をたくましく生きていける大人になるために、また、こころ豊な人間として育つために、宿題は子どもにとって貴重な自由な時間を奪う最大阻害要因だと確信しているから無くしたいのです。

教科書中心の勉強だけに、これ以上多くの時間を割くことは、百害あって一理もありません。

本来、人間だれにとっても「自由な時間」こそ、最高の贈り物のはずです。
ましてや生産労働からは開放されている子どものことです。
コロナの行動規制はあるものの、3密さえ気をつければ何をやってもいいはずです。

ところが、悲しいかな今の子どもたちは、遊びの時間でさえ、登下校の時間から始まって、スポーツなどで楽しむ時間も含めて、ほとんどの時間が大人の監視下でしか過ごせていないのが実情です。

いきなり放り出されても、自由に遊ぶこと自体、誰かに教えて貰わなければ何もできなくなっているのかもしれません。

いま学校の休業期間が長引いて、オンライン学習なども始まっていますが、勉強の遅れが心配なので、もっと宿題を出して欲しいと子どもたち自身が言っているという話には、ホント驚かされましたが、子どもの育つ環境自体が、すでにそこまで深刻な状況になっているようです。

確かに今の教育システムをすぐに変えることは難しいかもしれません。

だとすると、この教育システムに順応できない子どもたちにとっては、今こそが絶好のチャンスです。

現行の教育システムの枠内にいられる子どもたちは、この休み期間に教科書の予習、復習をしっかりしているかどうかで大きな差が出るかもしれません。
でも、現状の教育システムに馴染めなかった子どもたちには、一気にフィンランド式教育に近づき、自分の興味のあること(学校の勉強に限らない)ことを思う存分学び、経験し、社会に出たときのたくましさや、真の学力を身につけ、学校内に止まる子どもたちに大きな差をつけられるチャンスであるはずです。

テストも宿題も偏差値も受験もない環境が、学力世界一になることがすでに立証されているからです。

すべての子どもが同じ教科書を使って、同じスピードで学んでいくという、本来の教育としては拷問に近い不条理な環境から開放されるわけです。そこでは、子どもの興味を持ったことこそを教師や周りの大人が支援することが第一の教育活動になります。

フィンランドからアメリカに一時留学した子どもたちは、選択問題があることがとても苦痛だったと言います。選択問題は、それまで馴染んでいた教育、つまり自分で考えて答えを出すことではなく。結果を知っているかどうかばかりが問われるからです。

日本では記述式問題が増えたら、公平な評価が難しくなると言って、見送るということがありました。

そもそも点数をつけて順番を決めることが第一の目標としていない教育では、仮に試験があったらその場で、問題を考える時間、自分で出した答えを検証する時間こそが大事な時間であって、どの問題が間違っていたか、どうするべきだったかを検証する時間も持たずに、結果の点数順位だけが告げられる教育環境などは、子どもに対するいじめレベルの教育であるとさえ言えます。

それでもまだそんな一部の子どもしかできないような環境の話をして、どうするんだというような反論も返ってきそうですが、一人ひとりの子どもが違うのだという前提を認めない古いベルトコンベア式教育にしがみつくメリットは、もう何もありません。

はみ出しっ子こそが、間違いなく明日の日本をつくってくれるのですから。

 

以上の記事は、【7日間ブックカバーチャレンジ】のルール破りで、本に関わる内容を書いたものを転載させていただきました。

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傑作!「絶望図書館」

2019年03月10日 | 気になる本

頭木弘樹編『絶望図書館』ちくま文庫(2017)


この図書館は、「絶望的な物語」を集めてあるわけではありません。
「絶望から立ち直るための物語」を集めてあるわけでもありません。
絶望して、まだ当分、立ち直れそうもないとき、その長い「絶望の期間」をいかにして過ごすか?
そういうときに、ぜひ館内に入ってきてみていただきたいのです。
必ず何か、心にふれる物語に出会えるはずです。

                本書まえがきの「絶望図書館 ご利用案内」より

 

冒頭の短編、三田村信行作 佐々木マキ画「おとうさんがいっぱい」があまりにも傑作だったので、すぐに妻にあらすじを話したら、妻は予想外にこの奇想天外な話をとてもリアルな感覚で受け止めていました。

その感覚、わかる

と。

 

妻の食いつきがあまりに良かったので、次の筒井康隆のこれまた支離滅裂な傑作のなかの一文を紹介した。

「酒は飲むがまだアル中ではない。

怠け者だが自閉症ではない。

喧嘩はするものの殺人鬼ではない。

非常識ではあるが完全な馬鹿ではない」
 

これを私は格好の救いの言葉として天使の言葉のように読んだのだけれども、

妻は、そうはとらなかった。

こういう人間の隣で、どれだけ他の人が苦労させられているか、

その現実を思うと、笑い事では済まされないという。

 

 

この立ち位置の違いは、永遠にまじわらないかもしれない。

 

 

 

図書館にまつわる本を集めたコーナーを作っているときに出会った本で、

2冊だけ仕入れた本ですが、

とりあえず今日、読む本が見つからない人にオススメの1冊として、

少し積んでみようか。

 

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あらためて谷川岳は「魔の山」

2015年10月17日 | 気になる本

いま準備中のホームページ「みなかみ まちライブラリー」のために、谷川岳関連の本をリストアップしていたら、40点あまりの本の内、半分あまりが遭難事故に関連したものでした。


 

http://hosinoue.wix.com/minakami-lib#!---------/t2tuk

 

 


昭和6年から統計が開始された谷川岳遭難事故記録による死者の数は、平成24年までで805名。

ちなみに8000メートル峰14座の死者を合計しても637名。

この飛び抜けた数は日本のみならず世界の山のワースト記録。


 

地元では日ごろ親しまれた二つ耳の美しい山容ですが、その姿のすぐ隣りで、

エベレストよりも、デナリ(マッキンリー)よりも、たくさんの悲劇がうまれているわけです。

とても多いということは認識してましたが、あらためて驚きの山です。


 

http://hosinoue.wix.com/minakami-lib

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『21世紀の資本』再三の重版待ちのため『資本論』をおさらい

2015年01月14日 | 気になる本

ピケティの『21世紀の資本』再三の重版待ちで、なかなか入荷しません。

21世紀の資本
クリエーター情報なし
みすず書房

その間にマルクス『資本論』のおさらい。

1巻部分を通読しました。

 

「実際には、労働者の個人的消費は彼自身にとって不生産的である。というのは、それはただ貧困な個人を再生産するだけだからである。それは資本家や国家にとっては生産的である。というのは、それは他人の富を生産する力の生産だからである。」     

             マルクス『資本論』第7篇 資本の蓄積過程 より

現代にとてもいきる言葉です。

会社の枠内の労働にとどまっていると、いくら真面目に働いてもこの枠から出ることはできません。

でも、働くものが、その収入如何にかかわらず、自らの資産形成(お金にとどまらないもの)を目標にしてきちんと学び、働くことを考えれば、消費にとどまることのない生産的な労働に至ることは可能です。

もちろんそれが簡単ではないけれども、今はそれが可能な時代です。


ついでにアダム・スミスの『国富論』も読めたらいいんだけど、評判の新訳本は、これもちょっと高くて手がでない。

国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究(上)
アダム・スミス
日本経済新聞社出版局
国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究 (下)
クリエーター情報なし
日本経済新聞社出版局


ピケティの『21世紀の資本』のような高額で専門的な本がこれほど売れるというのは、ほんとうに異例のことです。

きっかけはなんでもいい。

私もおかげさまで、『資本論』『国富論』はなんとか読了したいという衝動がわいてきました。

『国富論』『資本論』のふたつは、思想的立場いかんにかかわらず、現代社会を知るための必読書だと思います。

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子どもの成長の喜びにも匹敵する日々のドラマ「読書」

2014年08月08日 | 気になる本

晩婚や再婚も増えたせいか、自分が年をとってもSNSで様々な友人たちの子ども生育の様子が日々伝わってきます。

子どもの発達や生育ほど、日々たくさんの喜びや悲しみなど多くのドラマを生むものはありません。

子どものいない私でも、それは十分想像がつき、たとえ他人ごとでもそれが気持ちよく思えてうらやましい限りです。

そんなことを考えていたら、歳をとってもそんな子どもの成育のドラマに負けない喜びを日々感じて行きたいものだという気持ちがこみ上げてきました。

 

結論から言うと、何事も子どもの生育の姿に勝る喜びはないだろうということなのですが、

それでも、これほど日々の発見、喜びはないと言えるものを私は持っていました。

それは、「読書」です。

 

 

行くことのできない熱帯のサバンナの世界や極北の地へでもつれていってくれる。

遥か古代の人物像や、縄文人の暮らしや自然を知ることもできる。

およそ見ることはできないミクロの世界から、何億光年先の遠く宇宙の彼方にまで連れて行ってもくれる。

とろけそうな愛の姿や、準備しなければならない老いの心構えなども知ることができる。

どんなに出口の見えない閉塞した社会でも、明るい光をともしてもくれる。

自分の仕事の行き詰まりを打開する大きな手がかりも与えてくれる。

どうにも自分が前向きになれないときは、現実逃避の手助けさえもしてくれる。

 

これほど、変幻自在にどんな世界にでも自分を連れて行って、未知の世界のドラマを見せてくれるものは他にない。

もちろん、現実に勝るものはありません。

でも、日々、未知の世界を次から次へと見せてくれるものとしては「読書」に勝るものはありません。

本が見せてくれる世界は、あまりにも多岐にわたり、個人の想像を遥かに超えた世界ばかりです。

日ごろ、本屋の同業者と話していると、どうしても「読書」というと文芸小説を軸とした世界になりがちなことが、私にはいつも引っかかっています。

本の世界は、あまりにも広い。

現実の広さにはかなわないのだけれども。

にもかかわらず、一人の人間では、どんなに幅広い知識や教養を持った人間でさえ太刀打ちできない広大な世界が開けているのです。

その広大な広さを

本屋の世界、出版業界の世界、図書館の世界でも、およそ表現しきれていない。

それは決して蔵書の量の問題ではない。

売場面積の広さの問題でもない。

広大な世界の広さは、1冊の本のなかでも語り尽くせないこともある。

100坪の店より1段の棚にあらわされた世界の方が広大な場合もある。

1,000坪の書店よりも、ひとりの詩人の言葉の方が広いこともある。

そんな世界の広さをなんとか表現したいとの思いで仕事をしているのだけれども、なんとももどかしいばかりです。

深刻な出版不況などという問題ではなく、この本の無限に広がる広大な世界を、

私たちは、とても表現しきれていないのです。

自分が、どんなに本の恩恵を受けていても、それを本屋の業務として活かしきれないのです。

自分の表現力は、とうてい至らないけれども、

流れてくる業界の情報には感謝。

ネット技術でカスタマイズされる情報に感謝。

amazonにも感謝。

どうやって食ってるのか想像つかないような古本屋さんに感謝。

直接会ったら絶対に友達にはなれないような人でも、貴重な情報を提供してくれることに感謝。

太古の昔からの人類の蓄積文化に感謝。

だね。

 

 

 

電子書籍か、紙の本かの問題ではありません。

紙せあろうが、デジタルであろうが、この広大な創造の世界は、とても表現しきれないものがあるのです。

 

10年くらい前から、本のテーマ館といったイメージで特定の切り込み口で時代の文脈で表現する試みを重ねてきましたが、最近になってようやく図書館と書店とテーマライブラリーと現実の運動との一体化への道筋が見えて来たような気がします。

 

子どもの成長には、確かに驚くべきことがあふれています。

でも、それに負けないほどの目の前で起きている社会の現実、

日々、姿を変えて命を受け継ぐ自然の姿、

さらには自分自身の心の変化。

子どもたちの輝きに負けない数多の現実を感じて観れる幸せを、もっと大切にしたいものです。

 

 

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石牟礼道子が池澤夏樹=個人編集「日本文学全集」に

2014年07月15日 | 気になる本
今は文学全集や百科事典が売れる時代ではありませんが、時々、学校図書館から手に入る文学全集はないかと聞かれて、困ってしまうことがあります。
 
今でもまれに刊行されることはあるのですが、こうしたものが注文を受けたときに全巻揃うことは滅多になく、刊行直後でなければ大抵は歯抜けでしか入手できないからです。
 
そればかりか、青空文庫で主要な名作は無料で読むこともできる時代です。
新しく文学全集を刊行する勇気のある版元は、そうあるものではありません。
 
でも、無いと困るのです。
 
そんな現代に、とても意欲的な文学全集の企画が出ました。
 
河出書房新社から創業130周年記念企画として出された
池澤夏樹=個人編集 日本文学全集(全30巻)
です。
 
しかも、古典から現代までを網羅したもの。
誰もがいったい30巻にどうまとめるのかと思います。
 
そこが、池澤夏樹=個人編集とされたこの企画の真骨頂です。
こうした企画ができるのは、やはり河出書房新社さんか、筑摩書房さんとなるのでしょうね。

 
全30巻は、以下のような構成です。
 
1:古事記 池澤夏樹 訳■新訳   
 
2:口訳万葉集 折口信夫
百人一首 小池昌代 訳■新訳
新々百人一首 丸谷才一
 
3:竹取物語 森見登美彦 訳■新訳
伊勢物語 川上弘美 訳■新訳
堤中納言物語 中島京子 訳■新訳
土佐日記 堀江敏幸 訳■新訳
更級日記 江國香織 訳■新訳
 
4:源氏物語 上 角田光代 訳■新訳
5:源氏物語 中 角田光代 訳■新訳
6:源氏物語 下 角田光代 訳■新訳
 
7:枕草子 酒井順子 訳■新訳
方丈記 高橋源一郎 訳■新訳
徒然草 内田樹 訳■新訳
 
8:今昔物語 福永武彦 訳
宇治拾遺物語 町田康 訳■新訳
発心集・日本霊異記 伊藤比呂美 訳■新訳
 
9:平家物語 古川日出男 訳■新訳
 
10:能・狂言 岡田利規 訳■新訳
説経節 伊藤比呂美 訳■新訳
曾根崎心中 いとうせいこう 訳■新訳
女殺油地獄 桜庭一樹 訳■新訳
仮名手本忠臣蔵 松井今朝子 訳■新訳
菅原伝授手習鑑 三浦しをん 訳■新訳
義経千本桜 いしいしんじ 訳■新訳
 
11:好色一代男 島田雅彦 訳■新訳
雨月物語 円城塔 訳■新訳
通言総籬 いとうせいこう 訳■新訳
春色梅児誉美 島本理生 訳■新訳
 
12:松尾芭蕉 おくのほそ道 松浦寿輝 選・訳■新訳
与謝蕪村 辻原登 選■新釈
小林一茶 長谷川櫂 選■新釈
とくとく歌仙 丸谷才一 他
 
13:夏目漱石 三四郎
森�貎外 青年
樋口一葉 たけくらべ 川上未映子 訳■新訳
 
14: 南方熊楠 神社合祀に関する意見
柳田國男 根の国の話 他
折口信夫 死者の書 他
宮本常一 土佐源氏 他
 
15:谷崎潤一郎 乱菊物語、吉野葛 他
 
16:宮沢賢治 疾中、ポラーノの広場 他
中島敦 悟浄出世・悟浄歎異 他
 
17:堀辰雄 かげろうの日記 他
福永武彦 深淵 廃市 他
中村真一郎 雲のゆき来 
 
18:大岡昇平 武蔵野夫人 捉まるまで 他
 
19: 石川淳 紫苑物語 他
辻邦生 安土往還記
丸谷才一 横しぐれ 他
 
20:吉田健一 文学の楽しみ ヨオロツパの世紀末 他
 
21:日野啓三 向う側 他
開高健 輝ける闇 他 
 
22:大江健三郎 人生の親戚 狩猟で暮したわれらの先祖 他
 
23:中上健次 鳳仙花 半蔵の鳥 他
 
24:石牟礼道子 椿の海の記 水はみどろの宮 他
 
25:須賀敦子  コルシア書店の仲間たち 他
 
26:近現代作家集 Ⅰ
27:近現代作家集 Ⅱ
28:近現代作家集 Ⅲ
 
29:近現代詩歌
 詩 池澤夏樹 選■新釈
 短歌 穂村弘 選■新釈
 俳句 小澤實 選■新釈
 
30:日本語のために 
おもろさうし マタイ伝 日本国憲法前文 他
------------------------------------------------
体裁=四六寸伸判/上製カバー装/各巻平均500頁/挟み込み月報付 ●装幀=佐々木暁
 
 
古典文学のあたりは、そう違和感はない構成になっていますが、
14巻が、熊楠、柳田國男、折口信夫、宮本常一といった民俗学が文学全集のなかに入ってます。
民俗学者でありながら、それぞれの文章が文学的価値も十分あるのもわかりますが、文学史を考えるうえで、民俗学が占める位置が無視出来ないもの道理です。
 
そこから下って、17巻に堀辰雄、福永武彦、中村真一郎が出るあたりから、池澤夏樹ならではのカラーを感じます。
 
18巻大岡昇平や19巻石川淳、21巻開高健、22巻大江健三郎は異論はないでしょうが、
辻邦生、日野啓三、23巻中上健次、20巻に吉田健一が入っているのも、
現代の文学を語るには不可欠の顔ぶれを位置づけたこと、とても評価されるべきだと思います。
 
これらの作家が市場性は低くても、こうした位置づけがされるだけで、市場性に流されがちな様々な文学賞の選定に少しでも影響があることが期待されます。
 
 
そしてこの企画で私が何よりも感心したのは、女性作家として石牟礼道子と須賀敦子の二人をあげていることです。
 
ここが一番シビレました。
 
 
この写真の『苦海浄土』はこの日本文学全集ではなく、私の今持っている本なのですが、全3部の構成のうち第3部をまだ読んでいません。それが全3部をこの文学全集の第24巻で通読できるようです。
 
フィクションとして歴史をどう表現し語るか、日本人の心の有り様やその詩的表現の美しさにおいて、石牟礼道子という作家の表現域は突出した存在であると思います。
 
それが水俣病という重い社会問題がかぶさるために、えてして政治的闘いの面から評価されがちですが、その後のあらゆる日本の社会問題を考えるうえでの根底の姿を表現した作家として、今後ますます論議を呼び再評価されていくと思います。
 
 
そうした歴史を語るために、文学を語るために、また日本を語るために不可欠な作家、作品を30巻にまとめた池澤夏樹の視点が、今の出版市場のなかでただの新しい文学全集の刊行ではないと少しでも伝わることを願わずにはいられません。
 
端的に言えば、文学の手法を語るためではなく、日本を語るために不可欠な文学全集といった感じです。
 
それはあたかも、石牟礼道子が『苦界浄土』のなかで、九州の田舎から遠く東京にまで出てきた水俣病原告団が、日本と言う国はいったいどこにあるのだろうかと都会の路上で途方にくれる姿に象徴されるような、長い旅路の歴史のようなものです。
 
 
この企画がどれだけ売れるか、心配なところもありますが、
文学というものが、どのような力を持っているのかを現代に問う企画としては、拍手喝采の文学全集です。
 
是非、この全巻の構成を目に焼き付けてください。
 
 
*お詫びと訂正
  この記事を書いたときは、池澤夏樹=個人編集 世界文学全集のなかの石牟礼道子と
  池澤夏樹=個人編集 日本文学全集のなかの石牟礼道子を混同していました。
  石牟礼道子を評価する趣旨に変わりはありませんが、誤解した表現をお詫びいたします。
 
 
 
このことでさらに驚いたのですが、この池澤夏樹責任編集の世界文学全集では、日本人作家は唯一、石牟礼道子のみがとりあげられているのです。
 
 
池澤夏樹ならではの視点が強いにしても、それだけの価値がまぎれもないものであることは間違いないことと想います。
 
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円空と芭蕉

2013年12月01日 | 気になる本

円空と芭蕉って、ほぼ同時代の人だったのか。


「芭蕉は『奥の細道』で奥州の旅のつらさを嘆いている。しかし円空の旅は、芭蕉の旅よりはるかにきびしかった。芭蕉は、北は平泉まで旅したに過ぎないが、円空はそこからはるか北の下北に行き、そのころ化外の民であったアイヌ人の住む北海道(蝦夷地)に足を延ばし、北海道から津軽へ帰り、そして奥州を縦断して松島まで行った。円空の旅は芭蕉よりもはるかに過酷だったが、円空はその旅に何の嘆きももらしていない」梅原猛

 

芭蕉の旅、円空の旅 (NHKライブラリー)
立松 和平
日本放送出版協会

 こちらは、家内が教えてくれた。

 

 旅に求めた二つの生き方 自利と利他… 

 <いのちふたつのなかにいきたる桜かな>

自己を追求した芭蕉。

円空は庶民の為に12万体仏を彫り誓願し、他者の救ざいに自らの生涯を捧げた。

<わしが阿弥陀になるじゃない、阿弥陀のほうからわしになる。なむあみだぶつ。>

 

 

ついでに、最近出た話題の本。

 先週、六波羅蜜寺へ行って空也上人像をみることができました。

空也上人に劣らず、隣りにあった清盛座像には感動しました。

 

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「足尾」の歴史遺産と富岡製糸場の世界遺産登録

2013年08月07日 | 気になる本

「かみつけの国 本のテーマ館」

 第3テーマ館 群馬の山と渓谷 

    「足尾」関連 書籍ガイド  を更新しました。

       http://kamituke.web.fc2.com/page162.html

 

 

これまで、足尾関連図書ガイドとしていましたが、「図書」を「書籍」に変えるだけで、検索にかかる確率が随分あがるようです。

 

書籍を整理しなおしていてつくづく感じたのですが、

足尾という土地は、鉱毒問題というマイナスのイメージを抱えているにもかかわらず、実に多くの人々に愛されています。

 

このところ、世界遺産登録で盛り上がっている富岡製糸場の話題が目立つだけに、わたしは足尾の魅力の独自な際立ちを感じてしまいます。

 

 

どちらも近代産業遺産として同時代に繁栄した特徴があります。

また、戦後、急速に衰退していったことも同じです。

 

ところが、

足尾という町については、実に多くのその土地に暮らした人々が、本を出し、語りつぎ、今も研究され続けています。

他方、富岡製糸場となると、街の人々によって研究され出版された本は、足尾に比べると圧倒的に少ないのです。

どちらかというと、富岡製糸場の場合は、行政サイドにたった歴史や沿革をまとめた書籍ばかりが目につきます。

それどころか、出版された書籍の量そのものに、どうしてこれほどの差が生まれるのか、驚かずにはいられません。

 

テーマを広げて、絹遺産という視点でとらえれば、研究書の数であれば、富岡製糸場もかなり増えることと思います。

しかし、その場合でも、養蚕や機織りなどで暮らした人々が、自ら語ったような本は少なく、産業史の流れでの研究書ばかりが数にあがってきます。

いったいこの違いは、何なのでしょう。

 

現状では、世界遺産登録の可能性や注目度では、勝負にならないほど足尾よりも富岡製糸場のほうが勝っているのに。

 

個人的には、世界遺産登録を地域再建の切り札のように考える見方に賛同しがたい思いが強いのですが、何事もきっかけを活かし、より多くの人々が参加し地域のあり方を考えるようになるのは悪いことではありません。

だからといって足尾も、富岡製糸場に負けじと、世界遺産登録もどき振興に無理に力を入れる必要もないと思います。

でも、富岡製糸場の側は、ただ観光客誘致のための世界遺産登録ではなく、地域に暮らす人々が、自ら住んでる町の歴史に誇りと愛着をもつために、足尾町から学ぶことは、とても多いのではないでしょうか。

 

現実には、足尾町は古河鉱業に代わる産業もなく、かなり厳しい過疎の町であることにかわりありません。

ただですらこの厳しい経済環境下のことです。

他の山村とも異なり、産業が衰退したからといって農業に戻れるささやかな耕作地もままならないような谷あいの土地柄です。

足尾を訪れると、いったいこの町の人々は、どうやって食べているのだろうかといつも心配になるほどです。

 

それでも、

「魅力」を語るとなると、

圧倒的なパワーが、この廃れた小さな町の内外から集まってくるのです。

それは、町を通過するだけでは、決して見えないものです。

わたしも、それが何なのか、うまく説明することもできませんが、富岡製糸場世界遺産登録を目指してがんばっている人たちも、この「見えないもの」のパワーを是非、学んで育ててもらいたいものです。

 

何にもない山奥の村や町。

いつも、とても多くのものを私たちに見せてくれます。

何なんでしょうね。

ま、行けば誰もが何となくわかります。

 

 

 

 

 

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「火山のふもとで」 そしてその周辺

2013年06月21日 | 気になる本

 GW中の憲法記念日に、かつての草軽電鉄の機関車、愛称「デキ」が上信電鉄を走るというので、義父(96歳)をつれて下仁田の手前にある南蛇井(なんじゃい)方面へ向かった。

小さな機関車デキの姿は、田園風景よりも山間部の森の間をぬって走る姿の方が似合うと思ったからである。

高崎駅の出発、到着時刻から推定通過時間を予測して、おいしいそばをお昼に食べてから、南蛇井の不通渓谷近くに向かった。

撮影場所に近づくと、既に三脚をかかえた人々が何人も車の周辺にいる姿が見え、みな狙う場所は同じなのだなと思い、残された車のおき場所を探した。

ところが、車を少し離れた場所において線路の脇にきてみると、先ほど大勢いたカメラマンたちの姿がひとりも見えない。

ここからは見えないもっと良い撮影スポットにみんな移動したのかと思ったら、なんと車も一台もなくなっている。

どうやら通過時間を一本間違えたようだ。

義父に申しわけない。

取り繕うように、すぐそばの不通渓谷の美しい姿を撮影しながら、次の異動先を考えた。

 

 

 

電車つながりなら、横川の「鉄道文化むら」がある。碓氷峠の「めがね橋」がある。 

幸い新緑がちょうど芽生えだした季節で、どこを走ってもそれを見るだけで義父も十分満足してくれたようであった。

鉄道文化むらは、GW中ということもあり、かなり混んでいそうであったのでパスして碓氷峠の旧道へ向かった。

かつて国鉄バスの運転手をしていた義父は、県内の地理はかなり詳しい方であるが、県下南西部はあまり来る機会がなかったようである。

ところが、碓氷線の景色をみているうちに昔の記憶が蘇ってきたのか、いろいろな思い出を語ってくれた。

 (上記の本は、絶版で手に入らないものですが、碓井線の勾配などの路線の図面なども詳細に載っています。)

 

義父の話を聞いていると、いつもそれがいつごろの時代の話であるのか、つかみにくいことが多い。今回の話も定かではないが、それはどうやら敗戦後のまだ日本が米軍占領下にある昭和25年近辺のことのようだ。

 

 

かつてこの碓氷線で、大きな崖崩れの事故があったという。

敗戦間もない当時、救援の車両の確保もままならなかったので、物資や人の運搬応援として義父がバス一台とともに要員としてここへ呼ばれたらしい。

大規模な崖崩れであったようで、かなりの人手が動員され、埋もれた人の救出、土砂の除去の要員などは、みなこのトンネルの中に寝泊まりしていたという。

そこに下から駅長、局長(なんの局長か?)、署長?らもかけつけたのだけれど、そのどちらか後方を歩いていた一人がまた崩れた土砂のいけ埋めになってしまったらしい。

かなりの犠牲者が出たらしいが、遺体を引き取る被害者家族から、今朝はちゃんと首はついていたんだ。ちゃんと首は返してくれと詰め寄られる姿も目撃したとのこと。

義父はそのような現場へバスの運転手として赴き、片道は遺体を運び、片道はまたそのまま握り飯弁当を積んで往復したそうだ。

 

(後にこの事故は熊ノ平駅構内 土砂崩壊事故(昭和25年)であるとわかりました。)

http://www.gijyutu.com/ooki/isan/isan-bunya/usuisen/saigai-jiko.htm

 

そんな話を聞きながら、神社好きの義父であればきっと喜ぶだろうと峠の上の熊野神社へそのまま向かった。

連休中であるから、軽井沢へ降りてしまったら渋滞にぶつかることが明らかであったので、途中から林道へ入ろうと思っていたが、つい見過ごしてしまったので、軽井沢駅前に展示してあるデキを見てから、Uターンしてまた林道へ戻ることにした。

すると覚悟はしていたものの想像していた以上の大渋滞。ものすごい人と車。

この渋滞と人ごみを見て思い出した本。

多くの人には、軽井沢の避暑地、別荘地というとバブル以降のイメージしかないのではないだろうか。

地元の私たちにとっても、軽井沢というとバブルの時代に豪勢な別荘がどっと増え、その後、空き家になったままの家がいたるところに寂しい姿をさらしているイメージが強い。

それでいて今も夏場とGWなどの休日だけは、どっと人が押し寄せる。

そうかと思うと、瞬く間にまた人の姿が見えない町に戻ってしまう。

バブル時代の特殊な加熱はあったかもしれないが、どっと人が押し寄せ、あっという間にその人の姿が消えてゆくというのは、マイカー時代が到来してからの、ついここ30年くらいの姿である。

いくら別荘を持つような人であっても、かつて東京などからこの軽井沢まで来るには、新幹線もない時代、この碓氷線のアプト式鉄道を何度もスイッチバックで上り、軽井沢駅からも自分の別荘までは、人の駆け足程度のスピードの草軽電鉄や馬車などを乗り継いで歩くようなところ。車があっても高速道路はもとよりなく、ものすごい時間を要する場所であった。

したがって、そのような時間を割いてここを訪れることが出来る人というのは、多くは普通の職業の人々ではなく特殊な職業の人でなければならなかった。

必然的にそうした人たちとは、単に高額所得者ということではなく、小説家、画家、役者、音楽家、哲学者、翻訳家などである。

はたして、今の別荘地とバブル以前の別荘地の違いが、今の人々にどれだけ創造できるだろうか。

 

偶然ではあるが、それに近いギャップを今回私たちは、軽井沢中心地の大渋滞とほんの数キロ離れただけの別荘地の林道を通ることで感じることが出来た。

 

 

松家仁之『火山のふもとで』は、そんなかつての軽井沢の空気をページをめくるごとに感じさせてくれる本です。

 

私は、小説よりはノンフィクションを読むことの方が多い。仕事柄話題の本はある程度、半ば義務感で読む事がある。しかし、話題の小説を読んでも、8割がたはがっかりさせられることが多く、物語りの組み立て方や技法に凝った作品以外、純粋に小説としての読み応え満足させてくれるものに出会うことは滅多にない。

ところが、この作品は久々に、どの場面を読んでも小説としての描写に十分納得できる表現をともなったものであった。

(私見では、小説で確実にそうした作品判断が出来るのは、圧倒的に新潮社といって良いかもしれない。)

 

この作品が、高い評価を得る理由はいくつかあると思う。

まずは、今の中心地の姿とはおよそかけ離れた、かつての軽井沢別荘地の雰囲気をあらわした舞台設定。そしてその空気。主人公がかつて探鳥会に入っていた経験から、目撃する鳥たちとの出会いも、美しく語られている。

 

そして、そうした条件がより一層活かせる建築設計デザインという職業を軸にしたストーリー。

フランク・ロイド・ライトの晩年に学び、アスプルンドに影響を受けた建築家の設計事務所が、高度経済成長からバブルに向う上り坂の時代に、その時代を代表する勇壮でシンボリックな建物の設計をする著名な建築家と国立現代図書館の設計コンペを競い合う。

建物の形状インパクトで押すことこそ、建築デザインの真骨頂かの時代。これからの時代に求められる図書館の在り方を含めて、書架の配置、デザイン、椅子のあるべき姿などについてどうあるべきか、ディテールを余すことなく本書は描ききっている。

それが小説ならではの力で、建築素材それぞれの木材の質感にいたるまで見事に描写されているので、どの断片をとっても一貫した作品の香りにつつまれて読む事ができる。

もちろん、文芸小説には欠かせない若い主人公のほのかな恋心も柱になっている。

しかし、この作品にとって主人公のラブストーリーは、おそらく従のほうになる。

なんといっても、現代の軽井沢という別荘地の姿の変遷を背景に、建築デザインのディテールを通じて「モノ」と「ヒト」の在り方の大きな変化のはじまり、問いかけと格闘苦悶の姿を描ききっていることに今日のリアリティを増す要因があるのではないだろうか。

でもそれは読み人それぞれで良い。

全体構造を無視したとしても、それぞれの濃密な場面描写を通じて、誰もが最近の小説ではなかなか味わうことの出来ない世界を間違いなく体験できる作品だと思う。

 

この本との出会いのおかげで、私たちは碓井峠、軽井沢、浅間には何度となく来ていながら、今回ほど深く景色を味わえたこともなかったのではないかと思えたほどだ。

 

 

火山のふもとで
松家 仁之
新潮社

2012年9月刊行の本ですが、じわりじわりと評価が伝わりコツコツ売れていますが、現在は品切れ。はたして重版されるかどうか。

評価には確実なものがあるので、いずれ文庫化されるを期待する。

 

 

 

 

 

 

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写真家 坂本真典と骨董

2012年10月19日 | 気になる本

最近、手術をされた陶芸家の松尾昭典さんのところに、お見舞いをかねて遊びに行ってきました。 

思ったより顔色もよく、元気そうでほっとしました。 
持って行った電子手書きボードも、予想外に気に入ってもらえて嬉しかった。 

相変わらず、なんだかんだで自然のこととや本の話題で話しがつきない。 

本好きの松尾さん、最近、お気に入りの古本屋が相次いで無くなってしまってとても寂しいと、その古本屋の名前を聞くと、その名前が全部私の思っている店と同じ。 

そんななかで引っぱりだして来てくれた本が 
菊地信義『わがまま骨董』 平凡社 

とてもいい本なのだけど、なによりもここで紹介する骨董写真撮影の写真家、坂本真典(さかもと まさふみ)という人がすごい。 

どのようにして撮影するのか、骨董が宙に浮いた配置で、絶妙に作品を表現する。 
どうやって写しているのやら。いくつかの方法は考えられますが・・・ 


しかし、松尾さんの話でなによりも興味を誘ったのは、 
このような仏像の腕だけといった部分の骨董品は、 
けっこう出回っているがはずだとのこと。 

確かに明治の廃仏毀釈などの経緯などを思えば、仏像の頭や手足の断片などはけっこう存在するだろうが、私はまだそうしたものに出会ったことはありません。 

いい仏像などはかなり高価なものになってしまうけれど、こうした断片であれば、かなりの名品でも安く手にいれることができるのではないか。 

こうした断片で良いから、納得のできる名品を一つでも手にいれたいものです。 

松尾さんに影響されて、坂本真典さんの写真撮影の本を4冊、古書でみつけて買ってしまいました。 

今度、松尾さんが持っていないだろうと思われるこの3冊を持って、また遊びにいくとしよう。

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井上ひさし『ボローニャ紀行』について その3

2010年04月11日 | 気になる本
どうやら、その3は、書いていなかったらしい。
いくら検索しても記事が出ていないので、
そのままフェイドアウトしてしまったみたいです。

ま、私のすること
毎度、こんなもんです。。。

スミマセン。
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井上ひさし『ボローニャ紀行』について その2

2010年04月11日 | 気になる本
ボローニャ紀行 (文春文庫)
井上 ひさし
文藝春秋

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「そこにあるものを発見して表現する力」


ボローニャという都市はイタリア半島の付け根の部分の真ん中にあります。
北はアルプス山脈、南はアペニン山脈。
そのふたつの山脈の間を西から東へ、アドリア海へとポー川が流れ込む。
そのポー川とアペニン山脈の中間にボローニャはあります。

人口は確か38万人くらいだったか?
群馬でいえば、合併前の前橋市と高崎市をあわせたくらいの都市ということだろうか。

そこにたくさんのミュゼオがあります。
ミュゼオとは美術館や博物館のことで、それが市内に37もあるという。
この他に、映画館が50
劇場が41
図書館が73

そしてこれらの建物の多くは、使われなくなった煉瓦工場とかの古い建物を利用したものがほとんどであるといいます。
それらのなかのある産業博物館のこと。

「ここの展示のほとんどが動きます。これがわたしたちの博物館の第二の原則。その展示物の前には必ず赤いボタンが備えてあるんですが・・・」
そのとき井上ひさしは「『シルクの都市』時代のボローニャ市街」という表示の展示物の前にいました。
15、16世紀ころのボローニャ市街の惚れ惚れするほど精密精巧につくられたミニチュア模型でまるで500m上空の気球から見下ろしたような光景。

「赤いボタンを押してみてください」
と館長に言われてボタンを押すと、軽い機会音とともに街全体が上にあがっていき、その下から街の地下一階の模型がゆっくりせり上がってくる。
そのころ、たいていの家の地下には紡績機がありました。
つまり、地下一階が小さな紡績工場になっていたのです。

「ボタンを、もう一度、どうぞ」
すると、またもや街全体の地下一階が持ち上がって、その下から地下二階のミニチュア模型がせり上がってくる。
地下二階は運河の網の目模様。
遠くのレノ川上流から導かれてきた青い水が、街の下を右へ左へと経巡りながら建物の地下を通り抜け、やがてレノ川へ流れ込む様子が手にとるようにわかる。

「レノ川の水を導いて得た動力のおかげで、ここは世界一の絹の産地になりました。そしてボローニャの絹は船でヴェネツィアに運ばれ、全ヨーロッパへ輸出されたのです。」


なんか同じ絹の産地である群馬の桐生や富岡のことが思い浮かんできます。

ながい引用(一部勝手にいじってます)をしましたが、このエピソードだけから
わたしにはたくさんのものが見えてきます。

ここでは、ひとつの歴史を語り伝えるということを、日本の行政主導の博物館などと違って、地元の学校などが協力して、実にいきいきと見せる、魅せるものになっています。
この見せるしくみというのは、私はただ知識を伝える作業というものとは少し違う気ようながします。
地域の歴史というのは、文献などをあたれば、どこもそれなりのことは書いてあります。
ここに書いてあるのを読めばわかる、とでもいわんばかりに。

でも、本屋も似たようなものですが、
そこに書かれた内容のひとつのことがらの感動をいかに伝えるかということは、
どう表現するかということに最善の努力をしてこそ、
やっといくつかが人に伝えることが出来るものだと思います。

そしてそのプロセスこそは、圧倒的な部分は、純粋知識であることよりも、
職人的作業の積み重ねである場合が多いのです。

このボローニャのどこを見ても超一級といわれるミュゼオの数々は、
単に企画が良いからだとか、
街そのものに伝統があるから、
といったことで成り立っているものではないのだと思います。

それは、このミニチュア模型を地元の学校が作りあげるような地盤があってこそのものであり、
決して専門業者に外注して成功するようなことはない構造がここにはあります。

この大事なプロセスのことを理解しないで、ボローニャへ視察に行って真似をしても、また仮に同じものが作れても、リピーターがやってくることはないでしょう。

イタリアがドイツとともに職人文化のある国として知られていますが、
似たような職人文化と技術立国を誇る日本が、これから守り育てていかなければならないことを、自分の街レベルで考えるうえでのとても貴重な視点を見せてくれていると思います。

本来は、この模型のことから、ボローニャの産業構造のことを書く予定だったのですが、
長くなったのでまた次回。

           (以上、mixiの日記 2008年9月のものより転載)
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井上ひさしさんを偲ぶ 『ボローニャ紀行』 その1

2010年04月11日 | 気になる本
井上ひさしさんが亡くなられました。

だいぶ前にmixiの方にだけ書いた『ボローニャ紀行』についての記事、
ブログには出していなかったので、この機会に転載しておきます。

ボローニャ紀行 (文春文庫)
井上 ひさし
文藝春秋

このアイテムの詳細を見る




このところ、バイロイトという小さな町の伝統となったワーグナーの楽劇を毎晩見ていると、山ひとつ隔てたドイツとイタリアでかくも文化の違うものかと痛感させられます。

ヨーロッパの国々でも、このふたつの国を並べて論じるのは無理があるかもしれませんが、私には、個性あふれる地方都市の文化が栄えている非中央主権国家、反中央集権国家の代表格として、どうしてもこの二つの国はならべて考えたくなってしまうのです。

その思いを改めて強く感じさせることになったのは、井上ひさしの「ボローニャ紀行」を読んでからです。
本書の刊行は今年の3月。
本のタイトル、装丁からただの紀行エッセイとみられがちですが、読んでみると実に内容の濃い1冊でることがわかります。

現に8月を過ぎてから、ネット書店の上位にランキングされだしてきていることから、誤解でスタートしていながらも、その実力でじわりじわりとランクアップしてきた貴重な本であると想像されます。

私が、ボローニャなどの地方都市に代表されるイタリア文化の魅力を最初に知ったのは、今からもう20年以上前になります。
かつて東京で国際文化交流団体の仕事をしていたときに、

佐藤一子著『イタリア文化運動通信』合同出版
松田博著『ボローニャ「人民の家」からの報告』合同出版

などを読んで以来です。

あれから20年以上経た今日まで、イタリアの地方都市文化、地方自治文化はグローバル化の波に流されることなく続いていることを知り、とてもうれしくなりました。

(といっても、ボローニャは最近になって市長が代わってしまい、市街地への車の乗り入れがされるよになってしまったりかなりの後退が起きているようですが。)

それでも、ボローニャには未だに世界に誇れる地方都市としての文化がたくさんあります。
イタリアを詳しくみてみると、決してボローニャに限ったことでもないことも多いのですが、その実像は先進資本主義諸国のなかで近代化の遅れた国としてではなく、町工場や手工業の職人文化を守り抜く、中央政府をあてにしない国としての姿がそこには見えてくるのです。

お隣にフランスという、パリへの一極集中の代表国家、農業国でありながら、やたら意地で世界一をつくりたがる国をひかえ、
同時に、同じような職人(マイスター)文化と分散都市文化を保ちながらも近代工業化に成功したドイツなどを比べてみると実に面白い。

よくイタリアは、長靴(ブーツ)に見える国の形から女性の国、ファッションの国として語られることも多いが、井上ひさしは本書の冒頭で、そんなことはない実像を教えてくれる。

まずその国のかたち。
それは決して女性のブーツではない。

長靴のつま先には、サッカーボールのようにシチリア島があり、
今、まさに蹴っ飛ばしそうとしているかのようだ。
まさにそれはサッカーの国であることをあらわす。男の国である。
足の付け根にはベニスもある。

またそのシチリア島はマフィアの巣窟になっているので、今にもアフリカの方に蹴っ飛ばしたそうな気持ちも現れている。

そんな説明から、井上ひさしらしい語り口で、ボローニャという都市が今でも「ボローニャ方式」とよばれるすばらしい地域づくりのお手本を紹介してくれています。
見かけと違ってあまりにも内容が濃いので、これから数回にわたって(最近手抜きの日記が多かったし)紹介してみたいと思います。



mixi日記 「政府をあてにしない地方文化の国(1)」2008年09月24日より転載
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