GW中の憲法記念日に、かつての草軽電鉄の機関車、愛称「デキ」が上信電鉄を走るというので、義父(96歳)をつれて下仁田の手前にある南蛇井(なんじゃい)方面へ向かった。
小さな機関車デキの姿は、田園風景よりも山間部の森の間をぬって走る姿の方が似合うと思ったからである。
高崎駅の出発、到着時刻から推定通過時間を予測して、おいしいそばをお昼に食べてから、南蛇井の不通渓谷近くに向かった。
撮影場所に近づくと、既に三脚をかかえた人々が何人も車の周辺にいる姿が見え、みな狙う場所は同じなのだなと思い、残された車のおき場所を探した。
ところが、車を少し離れた場所において線路の脇にきてみると、先ほど大勢いたカメラマンたちの姿がひとりも見えない。
ここからは見えないもっと良い撮影スポットにみんな移動したのかと思ったら、なんと車も一台もなくなっている。
どうやら通過時間を一本間違えたようだ。
義父に申しわけない。
取り繕うように、すぐそばの不通渓谷の美しい姿を撮影しながら、次の異動先を考えた。
電車つながりなら、横川の「鉄道文化むら」がある。碓氷峠の「めがね橋」がある。
幸い新緑がちょうど芽生えだした季節で、どこを走ってもそれを見るだけで義父も十分満足してくれたようであった。
鉄道文化むらは、GW中ということもあり、かなり混んでいそうであったのでパスして碓氷峠の旧道へ向かった。
かつて国鉄バスの運転手をしていた義父は、県内の地理はかなり詳しい方であるが、県下南西部はあまり来る機会がなかったようである。
ところが、碓氷線の景色をみているうちに昔の記憶が蘇ってきたのか、いろいろな思い出を語ってくれた。
(上記の本は、絶版で手に入らないものですが、碓井線の勾配などの路線の図面なども詳細に載っています。)
義父の話を聞いていると、いつもそれがいつごろの時代の話であるのか、つかみにくいことが多い。今回の話も定かではないが、それはどうやら敗戦後のまだ日本が米軍占領下にある昭和25年近辺のことのようだ。
かつてこの碓氷線で、大きな崖崩れの事故があったという。
敗戦間もない当時、救援の車両の確保もままならなかったので、物資や人の運搬応援として義父がバス一台とともに要員としてここへ呼ばれたらしい。
大規模な崖崩れであったようで、かなりの人手が動員され、埋もれた人の救出、土砂の除去の要員などは、みなこのトンネルの中に寝泊まりしていたという。
そこに下から駅長、局長(なんの局長か?)、署長?らもかけつけたのだけれど、そのどちらか後方を歩いていた一人がまた崩れた土砂のいけ埋めになってしまったらしい。
かなりの犠牲者が出たらしいが、遺体を引き取る被害者家族から、今朝はちゃんと首はついていたんだ。ちゃんと首は返してくれと詰め寄られる姿も目撃したとのこと。
義父はそのような現場へバスの運転手として赴き、片道は遺体を運び、片道はまたそのまま握り飯弁当を積んで往復したそうだ。
(後にこの事故は熊ノ平駅構内 土砂崩壊事故(昭和25年)であるとわかりました。)
http://www.gijyutu.com/ooki/isan/isan-bunya/usuisen/saigai-jiko.htm
そんな話を聞きながら、神社好きの義父であればきっと喜ぶだろうと峠の上の熊野神社へそのまま向かった。
連休中であるから、軽井沢へ降りてしまったら渋滞にぶつかることが明らかであったので、途中から林道へ入ろうと思っていたが、つい見過ごしてしまったので、軽井沢駅前に展示してあるデキを見てから、Uターンしてまた林道へ戻ることにした。
すると覚悟はしていたものの想像していた以上の大渋滞。ものすごい人と車。
この渋滞と人ごみを見て思い出した本。
多くの人には、軽井沢の避暑地、別荘地というとバブル以降のイメージしかないのではないだろうか。
地元の私たちにとっても、軽井沢というとバブルの時代に豪勢な別荘がどっと増え、その後、空き家になったままの家がいたるところに寂しい姿をさらしているイメージが強い。
それでいて今も夏場とGWなどの休日だけは、どっと人が押し寄せる。
そうかと思うと、瞬く間にまた人の姿が見えない町に戻ってしまう。
バブル時代の特殊な加熱はあったかもしれないが、どっと人が押し寄せ、あっという間にその人の姿が消えてゆくというのは、マイカー時代が到来してからの、ついここ30年くらいの姿である。
いくら別荘を持つような人であっても、かつて東京などからこの軽井沢まで来るには、新幹線もない時代、この碓氷線のアプト式鉄道を何度もスイッチバックで上り、軽井沢駅からも自分の別荘までは、人の駆け足程度のスピードの草軽電鉄や馬車などを乗り継いで歩くようなところ。車があっても高速道路はもとよりなく、ものすごい時間を要する場所であった。
したがって、そのような時間を割いてここを訪れることが出来る人というのは、多くは普通の職業の人々ではなく特殊な職業の人でなければならなかった。
必然的にそうした人たちとは、単に高額所得者ということではなく、小説家、画家、役者、音楽家、哲学者、翻訳家などである。
はたして、今の別荘地とバブル以前の別荘地の違いが、今の人々にどれだけ創造できるだろうか。
偶然ではあるが、それに近いギャップを今回私たちは、軽井沢中心地の大渋滞とほんの数キロ離れただけの別荘地の林道を通ることで感じることが出来た。
松家仁之『火山のふもとで』は、そんなかつての軽井沢の空気をページをめくるごとに感じさせてくれる本です。
私は、小説よりはノンフィクションを読むことの方が多い。仕事柄話題の本はある程度、半ば義務感で読む事がある。しかし、話題の小説を読んでも、8割がたはがっかりさせられることが多く、物語りの組み立て方や技法に凝った作品以外、純粋に小説としての読み応え満足させてくれるものに出会うことは滅多にない。
ところが、この作品は久々に、どの場面を読んでも小説としての描写に十分納得できる表現をともなったものであった。
(私見では、小説で確実にそうした作品判断が出来るのは、圧倒的に新潮社といって良いかもしれない。)
この作品が、高い評価を得る理由はいくつかあると思う。
まずは、今の中心地の姿とはおよそかけ離れた、かつての軽井沢別荘地の雰囲気をあらわした舞台設定。そしてその空気。主人公がかつて探鳥会に入っていた経験から、目撃する鳥たちとの出会いも、美しく語られている。
そして、そうした条件がより一層活かせる建築設計デザインという職業を軸にしたストーリー。
フランク・ロイド・ライトの晩年に学び、アスプルンドに影響を受けた建築家の設計事務所が、高度経済成長からバブルに向う上り坂の時代に、その時代を代表する勇壮でシンボリックな建物の設計をする著名な建築家と国立現代図書館の設計コンペを競い合う。
建物の形状インパクトで押すことこそ、建築デザインの真骨頂かの時代。これからの時代に求められる図書館の在り方を含めて、書架の配置、デザイン、椅子のあるべき姿などについてどうあるべきか、ディテールを余すことなく本書は描ききっている。
それが小説ならではの力で、建築素材それぞれの木材の質感にいたるまで見事に描写されているので、どの断片をとっても一貫した作品の香りにつつまれて読む事ができる。
もちろん、文芸小説には欠かせない若い主人公のほのかな恋心も柱になっている。
しかし、この作品にとって主人公のラブストーリーは、おそらく従のほうになる。
なんといっても、現代の軽井沢という別荘地の姿の変遷を背景に、建築デザインのディテールを通じて「モノ」と「ヒト」の在り方の大きな変化のはじまり、問いかけと格闘苦悶の姿を描ききっていることに今日のリアリティを増す要因があるのではないだろうか。
でもそれは読み人それぞれで良い。
全体構造を無視したとしても、それぞれの濃密な場面描写を通じて、誰もが最近の小説ではなかなか味わうことの出来ない世界を間違いなく体験できる作品だと思う。
この本との出会いのおかげで、私たちは碓井峠、軽井沢、浅間には何度となく来ていながら、今回ほど深く景色を味わえたこともなかったのではないかと思えたほどだ。
2012年9月刊行の本ですが、じわりじわりと評価が伝わりコツコツ売れていますが、現在は品切れ。はたして重版されるかどうか。
評価には確実なものがあるので、いずれ文庫化されるを期待する。