寒さが厳しいこの時期は、どうしても身近な人を見送る機会が多くなります。
そんなとき、なぜかいつも一番つらく感じられるのは、もうこの景色をみるのはこれが最期なんだねと、車で見慣れた場所を通過するときです。
それは決して観光名所ではなく、暮らしのなかでいつも見ていた景色。
春霞かすみし空のなごりさへ
今日を限りの別れなりけり
定家
寒さが厳しいこの時期は、どうしても身近な人を見送る機会が多くなります。
そんなとき、なぜかいつも一番つらく感じられるのは、もうこの景色をみるのはこれが最期なんだねと、車で見慣れた場所を通過するときです。
それは決して観光名所ではなく、暮らしのなかでいつも見ていた景色。
春霞かすみし空のなごりさへ
今日を限りの別れなりけり
定家
先日、長野県のとっても元気な同業者の集まりにお呼ばれしてきました。
過去の勉強会に比べると、事前にいくつかの書店さんを訪問させていただけたことと、参加されているひとつひとつの書店さんとお話する時間がとれたことで、一方通行に終わらない貴重な時間を過ごすことができました。
このメンバーの書店さんが、困難な状況下におかれていることは他の書店さんと同じですが、にもかかわらずとても元気に見えたのは、なんだかんだ言ってもピーク時に2万3千店もあった書店が1万店近く減った今も生き残っている現実からも、ただの生き残りではなく、それぞれがなんらかの強みを持っていたからこそ、ここまで残っていられるのだということを痛感させられたからです。
プレゼン自体は準備不足もあり、十分に伝えたいことを表現しきれなかった反省があるので、ここにもう一度、今まで話す機会のなかった冒頭でお話しさせていただいた部分だけを整理しなおしてみます。
市場縮小の時代にいかにして売上を伸ばすか、巷での論調はどうもどこかで調達できるお金をジャブジャブ注ぎ込んでデフレマインドさえ脱却すれば、なんとかなるかのような施策にいまだに期待している人が多いのかもしれません。
でも、数年前に藻谷浩介さんが『デフレの正体』で、人口動態の変化こそが経済の基調を圧倒的に左右しているということを再確認し、そうした認識は少しずつ定着しはじめたようにも思えます。
ところが、その先に求められる施策が、同著者の『里山資本主義』のこれまたヒットを通じて認知されながらも、数字がついてくるかどうかということにおいて、評価が難しばかりにまだ必ずしも大きな流れにはなっていません。
そうした観点でよく引用されるのは、以下のようなグラフです。
つまり、非生産人口である65歳以上の高齢者の増加とともに、生産年齢人口(15~64歳)が減少していくことが、社会の基本的生産力が低下していく最大要因であると。
このことをまず踏まえれば、出版業異界のかかえている問題が、紙の本の文化の危機以上に、日本社会全体の共通の課題の上に成り立ってるのだということが確認できると思います。
そのうえで、この先どうなるのかということを、もっと冷静にみておくことが重要です。
それが次の図です。
どんな客観的な統計でも、グラフの縦軸、横軸の取り方で随分印象は変わるものです。
このグラフだと、長い日本の歴史の中でも、この一世紀前後に起こる変化がいかに異常なものであるかがよくわかります。
これをもっとわかりやすくしたのが、下のグラフです。
これらの数字が示す現実から私たちが学ばなければならないことが3つあると思います。
その第一は、これまでの経済や経営理論の多くが、この人類史上例をみない人口爆発(基礎数の増加)を前提にしたものであるということです。
その意味で、これまでの多くのビジネスモデルが、こうすればうまくいったとか、これをやったら数字が伸びたなどという経験の大半が、基礎数の増加を前提にした時代のものであり、その発想から脱却できない限り、これからの時代の経営はうまくいくはずはないと思うのです。
第二には、一億数千万人から6~7千万人レベルにまで減少するということは、確かに異常な事態であることに変わりはありませんが、世界の国々を広くみわたせば、ひとつの国の人口が一億を越える国などというのは、そもそも大国であり、世界の圧倒的多数の国々は6~7千万人以下の規模で成り立っているのがあたりまえであるということです。
この現実を下の世界の国ぐにの人口ランクの表を見てください。
中国、インド、アメリカ、ロシアなどの人口も国土も別格の超大国は別としても、そもそも一つの国土や言語圏、経済圏で1億もの市場がなりたつなどというのは、まぎれもない大国であるということです。
日本人の優秀さは、確かに忘れてはならないかもしれませんが、国際比較で言えば、主要先進国のヨーロッパの国々ですら7千万人以下の国々で、東西統一ドイツですら8千万人、イギリス、フランスは6千万人台です。
国民一人あたりのGDPの高い国々をみれば、さらにこれよりもずっと小規模な国々ばかりです。
このことを言語の面、国民文学がなりたつ基盤などを考えてみるともっと顕著な現実があります。
インターネットの普及などとともに英語圏は世界にひろがっているかに見えますが、世界の多くの国々の国民文学の市場は、その国の言語によって規定されており、多くのそれらの言語市場は、先進国の5~7千万人の規模よりもさらに小さく、数百万から数十万の人しか使わない言語で成り立っている国民文学が世界にどれほどたくさんあることでしょうか。
世界の圧倒的多数の民族や国家は、そうした数千万以下の市場で立派に生きているのです。もちろん決して楽なものではないでしょうが。
でも今世界の幸福度ランク上位の国々の顔ぶれをみると、この表の欄外であるばかりか、ずっと下の方の国ばかりです。
昨年の「世界幸福度調査」の結果が発表されました。
順位は以下のとおり。
1位 コロンビア(85)
2位 フィジー(82)
2位 サウジアラビア(82)
4位 アゼルバイジャン(81)
5位 ベトナム(80)
6位 パナマ(79)
6位 アルゼンチン(79)
8位 メキシコ(76)
9位 エクアドル(75)
10位 アイスランド(74)
10位 中国(74)
カッコ内の数字は純粋幸福度(「幸福を感じている人の比率」-「不幸を感じている人の比率」)です。
調査対象国は68カ国で、純粋幸福度の平均値は56。
先進7カ国(G7)のランキングはこんな感じです。
23位 カナダ(60)
28位 日本(52)
42位 アメリカ(43)
47位 ドイツ(40)
54位 イギリス(37)
57位 フランス(33)
57位 イタリア(33)
世界平均の56を超えているのはカナダのみですね。
一人あたりのGDPでは、幸福度1位のコロンビアや2位のフィジーを圧倒的に上回るG7の国々が、幸福度では散々な結果に。
引用元 http://www.huffingtonpost.jp/yuma-nagasaki/happiest-country_b_8906340.html
いまだに1億の市場をかかえた日本が縮小するとはいっても、それら世界の国々からしたら、「出版不況?」何を「優雅なこと」、いや「呑気なこと」、いやいや「なにをトンチンカンなこと」を言っているのだ、と思われかねない話なのです。
第三には、これらの現実からふり返ってみると、いま私たちが考えなければならないのは、人口減少社会に怯え、さらなる市場拡大の模索にすがることではないはずだということです。
必要なのは、「規模の経済」からの脱却です。GDPの数値の拡大などは、ただの膨張にしかすぎず、真の発展といえるものではありません。
もちろん、この真の発展は簡単なことではありません。
ましてや小規模で落ち着いた経済ではなく、しばらくは縮小の時代を生き抜かなければならないわけですから。
でも、ここでもう一度、先のグラフの人類の長い歴史を振り返ってみてください。
人類や地球生命の長い歴史の圧倒的部分は、市場の拡大によって支えられてきたのではなく、生命の再生産、持続によってこそ受け継がれてきたのだということです。
本来、この生命の再生産と持続こそが、社会の基本であり、市場の拡大や所得の増加は、第一時的要素では決してないということです。
それを、「規模の経済」の発想にひとたび陥ると、人類がこれまで積み重ねてきた大切な資産までも食いつぶすことさえ厭わないというのが、いまの世界経済が目先の利益優先を選択している延命処方箋の実態です。
いま私たちが直面している現実は、人類史上これまで経験したことのないような大転換がおきているわけですから、ではなにをどうすれば良いのか、決して簡単に答えを出せるようなことではありません。
でも、だからこそ、
教科書のようなものに安直な答えを求めることではなく、歴史を学び、自分の出来ることを考える「読書」こそが、より力になる時代に入りだしているのだと思います。
この意味では、「モノ」としての本を売る時代は、確かにもう未来はないと言えるのかもしれません。
これから拡大してくのは、消費型の読書ではなく、創造型の読書です。
つまり、「私」や「私たち」を一人ひとりが消費や所属によるアイデンティティではない姿でつくりあげていく、すばらしい時代が始まりだしているのではないかということです。
このことの詳細は、また長くなるので別の機会にふれることにしますが、脱消費型のすばらしい社会の「働き方」、「暮し方」、「幸せ像」を実現していくことは、決して遠い未来の話しではなくて、今いるこの場所で私たちがすでに実現できることであると私は信じています。
市場縮小、人口減少社会。
なかなか信じてはもらえないでしょうが、国を担う人たちにとっては大変なことかもしれませんが、私たちの「新しい幸せ」、あるいはかつて「誰もが知っていた幸せ」を取り戻す側にとっては、決して悪いことではないのです。