「財源がないのだから仕方がない」
「軍備を増強せずにどうやって守る」など。
エリート層は「国民が受容し、屈服すれば」、自分たちは権力を維持できるとわかっている。
世の中が多様化することを良しとするのならば、より異質のものを拒否することなく、異論があるのであれば互いに真正面から議論できる環境を大事にしていきたいものです。
最近参加させていただいてる複数の読書会には、共通した特徴があります。
その第一は、30代半ば以降の若い世代が中心であること。
第二は、共通の課題図書を決めて、その本について語り合ったり、ビブリオバトル型とかではなく、参加者それぞれが持ち寄った本について自由に語り合うスタイルであること。
第三は、比較的少人数であることです。
といっても、いずれの読書もこれに強固にこだわっているわけではなく、結果的にそうした傾向を持っているだけです。
ただこのことが、従来多かった共通のテキスト講読型の読書会に比べると、参加者それぞれの本との個人的な関係、家族や恋愛、仕事や地域の関わり、育児や教育問題など、たっぷりと聞くことができるようになっています。
それは、ただ実用性においてばかりでなく、たとえSFや詩的空想世界に飛んで行ってしまう場合でも言えます。
そもそも読書は、極めて個人的な営みです。そのパーソナルなものを他人と共有するというのは、本来なら対極の関係にあります。
それが面白くてたまらないのは、面白い本の情報交換というだけでなく、異なる考えや生き方の人との出会いに醍醐味があるからです。
それをたっぷり味わうには、どうしても少人数であることが不可欠です。
また、無味乾燥な会議室などは使わずに、出来るだけユニークな空間であったり、屋外の自然空間で、さまざまなその土地固有のノイズを抱えて行うことも大事です。
本をより詳しく深く読むこと以上に、参加者それぞれのその本との関わりのノイズの部分の方が、意外と核心であったりするからです。
ここ数年で、従来型の書店ではなく副業型のブックカフェが急速に増えているのも、何か同じ背景があるような気がします。
私は読書というのは、知識や教養をためること以上に、その人が自分自身の直面している課題に立ち向かうエネルギーのあらわれであると思っていますが、最近は自然にそのような流れが広がってきているように見えて、とても嬉しく感じます。
もちろん、世の中にはいろいろなスタイルのものが幅広くある方が豊かな社会になっていけるものですが、右肩上がりの横並び社会が終わったおかげで、経済的には悲惨でも、何かとても良い流れが生まれているように思えてなりません。