仕事のついでに、
いや遊びのついでに
京都に行ってきたのですが、
奈良と違っていろいろ考えさせられたので、また思いつくままにつらつらと書いてみます。
まず、室生寺などの最高峰の寺とは別次元の話として、
観光寺といいきっても良いほどの有名な寺々でも、当初は大地の上にドンと建つ奈良の寺院に比べると京都のお寺には、なんとなく周囲の緑に囲まれた風情のようなものがあるような印象がありました。
ところが、今回あらためてよーく見てみると、近世以降に建て直された寺院の多い京都のほうが、奈良の寺よりも周囲の景観に溶け込んでいない、お飾り的な建物が多いことにも気づきました。
もちろん嵐山など郊外にいけば、それなりの風景に美しく溶け込んだお寺もたくさんありますが、その庭の植栽などを見ると、禅の思想を極めたものも含めて、どうも造園業者のいいお得意さんになっているだけにしか思えないところが多いように感じてしまいまったのです。
それは、細部にゆきわたったサービスの出来ない企業と同じように、それぞれの信仰が人々に届く姿になりきれていない姿なのではないかとも思えるのです。
その点、東寺だけは、なにかとてもいい雰囲気を感じました。
東寺については、またどこかで書くとして、
そうした観光寺の不整合性とは裏腹に、もう一方で、
京都という地域文化のレベルの高さというのも痛感させられました。
その第一は、食文化やファッションです。
今回、じっくり調べて入ったのではなく、たまたま歩いていて気になったいくつかの看板のうち、こっちにしようとその場で決めて入った店だったのですが、そこの料理の美味いのなんのって。驚きました。
私はお造りセットを頼んだのせすが、その刺身の美味いこと。
これまで新潟や静岡、北海道などの鮮度のいい魚介類には、確かに感動しましたが、鮮度が売りとも思えない京都の刺身が、どうしてこれほど甘く美味いのだと驚嘆させられてしまいました。
なにも京懐石などといわずとも、ふらっと入った店でこれほどの料理が楽しめるのかと参ってしまいました。もちろん値段も普通よりはちょっと高いものでしたが、東京だったらこうはいかない。
それと街ゆく人たちのファッション。
同じ都会でも、東京、大阪だと、もう少しケバいファッションの女性が目立つ印象があるのですが、観光客と地元の人の区別こそつかないものの、
どうみてもぶっ飛んだファッションの女性が少なく、皆、とても落ち着いた安心して見られる(オジサン好み?)ファッションに溢れていました。
(そういう私は、いつものユニクロとサンダルのままの旅)
こうした文化の底力の差というものを、郊外の住宅地を歩いているときに更にもうひとつ痛感させられました。
それは、観光地周辺の個人住宅の庭の植栽のセンスの良さです。
日本中どこへ行っても、草花が好きで庭いっぱいに、なんやかやと植えている家はありますが、京都の通り沿いの家々の庭の木々や植栽は、実にきれいでした。
まず、選ばれた木々、草花が違う。
そしてそれらの植え方が違う。
ずっとこの違いは、何なのかと考えていて、ようやく思い浮かんだのは、
京都の人びとのこの草花、木々の植え方は、ただ沢山の緑で溢れていれば良いという発想の庭づくりではなく、一本一本の草木が、歌に詠まれるための鑑賞を目的としたかのような植え方であることに気づきました。
もちろんすべての庭の草木が、そのようなものではないでしょうが、私たちの周りの愛好家とは明らかに違うセンスの良さを感じました。
この木いいね。この花いいね。
これもあれも、ではなく。
今ならこの花に限る。
この草でこそ。
といったような一本一本がはっきりと演出されたような植え方に感じられるのです。
ずっとそうした街並みを見て関心しながら、写真を撮らなかった。
やっぱり自分は素人なのだと、これも痛感させられました。