前からイメージしていたお酒をのむ盃。
ぐい飲みは様々な種類が出ていますが、飲み口の浅い「かわらけ(土器)」の形のようなものをずっと探していました。
戦国武将が出陣前に盃を手にもって飲む姿が、肘をはって飲み干し地面に盃を叩き付けるようなものです。
これは「浅い」ということがポイントです。
「浅盃」というそうですが、そもそも盃という字は「皿二不ズ」と書くくらいです。
皿に近く浅いのが本来の姿なのでしょう。
貝が原型だともいうし。
でもこの形は、盃を口に近づけたときに浅いとこぼれやすいので、水平を保つことに気をつかい、どうしても肘がはった姿になります。
肘が脇について呑むのでは、格好がよろしくない。
それは単なるポーズの選択の問題ではなくて、盃のかたちによって決まるものなのです。
以前、そうしたかたちの盃を冷酒器を探していたときにひとつだけ見つけることができて、とても重宝していました。
ところがこの盃、ひょっとしたはずみで割れてしまいました。
再度同じものを買うかどうかしばらく迷っていました。
そのうちに似たものが見つかるのではないかと思って機会あるごとに探していたのですが、
いくら探しても類似のこうした浅い盃は見つかりませんでした。
そこで、馴染みの陶芸作家の松尾昭典さんに相談してみました。
こうしたものはイメージが大事なので、現品のないままうまくそのイメージを伝えられるかどうか
不安なまま松尾さんに話してみました。
すると、酒のみの気持ちはわかってくれたみたいで、その飲むときのしぐさを真似してくれて
なんとなくこちらの気持ちは届いたような感じがしました。
それから1ヶ月くらいたってからでしょうか。松尾さんの工房を訪ねてみると
焼く前の盃がもう出来ていました。
曰く、「馬上盃」をイメージしてつくったみたとのこと。
「馬上盃」?
揺れる馬の上で呑むための盃は、高台が高い姿になっています。
器の縁を持つのではなく、高台を手にもつようにできているのでしょうか。
でも、こんなふうに浅い構造だったらなおさら馬上ではこぼれやすいことになると思うのですが。
私のイメージからは、高台の高いことがちょっと不安に感じましたが、
他の形状や仕上がりの色のイメージはほぼ共有できているような気はしました。
期待感と不安が混ざったまま、ドキドキしながら待っていたら、
松尾さんから焼き上がりましたとのハガキが届きました。
焼き絞められたそのかたちは、思ったほど高台は高くなく、
何よりも、色味がすばらしいものでした。
これは、きっとお酒をそそいだら、もっと味がでるだろうと期待されました。
家に帰って酒をそそいでみると、予想を遥かにこえて、すばらしい風合いがでました。
手に持った感触がすばらしい。
酒をそそいだ表面の色あいは、まるで月の香りを映しこんだような雰囲気が感じられます。
松尾さんにお願いするしかなかった最大の理由、他に類似品がないことがこの現品をみてあらためて痛感しました。
これは、居酒屋へ行くときにも、
「マイ盃使ってもいいですか?」
と持ち歩いていきたいようなものです。
日本酒好きならば、是非、これで呑んでみてくれ、と見せてあげたい。
これをいただいてきた今日、松尾さんは病院の検査の日でお会いできませんでしたが、
この感動を早く松尾さんに感謝として伝えたい。
松尾昭典「泥魚」
http://kamituke.web.fc2.com/page152.html
のちに、みなかみ〈月〉の会の結成記念のイベントでこの盃を見せたところ大好評で、月待ちの場でこの盃を使うともっと大事な役割りがあることに気づきました。
それは、縄文時代からある月の再生思想にかかわる考えで、「月ー子宮ー水ー蛇」という「再生シンボリズム」のなかでとらえることができます。
ネリー・ナウマン『生の緒』(言叢社)に以下のような記述があります。
月の盆に入った液体は、かならず雨となって降り注ぐふつうの水というわけではない—それは不死の飲み物、永遠なる若返りの飲み物でもある。とはいえ、月神の目や鼻、口などから浸出する涙や鼻水、唾液がどうして「生の水」だとみなされるのだろうか。辻褄があわないように見える。しかしそれらは神の分泌物であり、神のさまざまな資質を分有する液体なのである。しかも、各月末に死んでから新月の開始とともに死者の国から登場してくる神そのものの生の液汁であり、それは「原始的思考ではことごとく永遠の復活や不死、永遠性」を表す神にほかならない
月の水を集める道具として縄文土器や土偶の顔のかたちが理解できると大島直行氏が『縄文人の世界観』(国書刊行会)などで強調されていますが、まさにこの「月香盃」も、そのように月の香だけではなく、月の水を生命再生の象徴として集めていただく盃にして活用していきたいと思います。
さらに、のちに知ったことですが、ほかの盃の語源説のなかに、「さかづき」は「逆さ月」からきているというのもあることを知りました。
盃に移る月が、逆さまに写って見えることから生まれた言葉であるとのことです。
これまで盃に移る月を写真に撮ろうとしたことはありますが、なかなかうまく撮れません。
今のところ、これが精一杯で、この月を飲むほす余裕などありません(汗)
のちにこの月香盃は、小鉢としてもなかなか素敵な使い方があることを知りました。