


近頃、記憶力の衰えが甚だしい。
といっても私の場合は、人の名前が思い出せないなどというのは、今に始まったことではなく、若い頃から記憶力は弱いタイプだったので、それほど深刻には受け止めているわけではありません。
およそ物ごとなどというものは、覚えるべきことなどほとんどなく、過ぎゆくものは忘れ去ることこそが原則で、その中で心の底に、あるいは魂の奥に残ったものだけを大切にすればいいくらいに考えています。
そのため、小さい頃から勉強そのものは好きだったのに、なぜか受験のような試験勉強は大嫌いでした。
ただ、なかば読書をなりわいのようにしている立場上、目にした文字を正確に記憶できないことのハンディは致命傷になります。具体的表現に正確さがないと、伝わるべきことが伝わらなくなってしまうからです。そうした意味で我が身の記憶力の弱さは、自ら選んだ道ながらいつも後悔しています。
それでも、記憶に残せないような表現は、どこか伝わりにくい、残りにくい不適切さがあるものとの建前を言い訳をして、今日まで無事に生き延びて来ました。
と言い切って、終わりたいところだったのですが、最近、日常会話に出てくる固有名詞もやたら出てこなくなり、会話そのものにつまずくことが多くなってしまいました。
少しそのことを意識し出したのも、頭(オツム)を気にするのと同じくして頭髪も意識するようになってからのことです。
我が家は父方が、ハゲの家系であるため私は、もの心ついた時から自分がハゲることは覚悟して育ちました。幸い運よく50代までは、現代の生命保険(育毛剤)の効果があってか、予想よりは進行が遅く無事に過ごすことができました。
古馬牧人形浄瑠璃より
ところがさすがに還暦前後ともなると、もう誤魔化しようのないレベルに急激に侵攻してきます。そのあたりを意識し出すのと、自分の記憶力の無さが加速する時期が、妙に一致している気がします。
まるで、髪の毛が一本抜けるごとに、その抜けた毛穴から脳の記憶のエキスが漏れだすかのように・・・
古馬牧人形浄瑠璃より
その一本、待ってくれ〜
との願いも虚しく、今もどんどん進行しています。
同時に、名前はおろか、地名、商品名などが記憶のなかからどんどん霞んでいく。
脳の中の記憶を固定化するエキスが、抜けた毛の毛根から、シュワシュワと抜け出ていってしまうかのごとく。
最新の脳科学では、神経細胞ニューロンの結合を安定化させる働きのある「ヘナモン」というホルモンがあることが発見され、そのホルモンの多い少ないで人間の記憶力の差がでるのだという。
・・・とすると、抜け毛の毛穴から、このホルモン「ヘナモン」がシュワシュワと逃げ出すことで、記憶力の低下をもたらされるということか。
ただ、ここで同時に別の疑問もわく。
前頭葉ハゲというと、多くの人には何よりも天才のイメージがあります。
天才ピカソ
ピカソに限らず、おでこハゲは、むしろ天才などの記憶力の良い人のイメージが強い。
彼らの場合は、記憶安定化ホルモン「ヘナモン」は、逃げていかないのでしょうか。
その理由は簡単に説明がつきます。記憶力の良し悪しの差が生まれるのは、ハゲにあるのではなくて、毛根が開いているかどうかだからです。
髪の毛が抜ける時期は、毛根が開いたままなので、記憶安定化ホルモン「ヘナモン」が漏れ出しやすい。
しかし、抜けきって頭皮が安定すると、毛根はふさがり、ヘナモンは減少することなく頭の中に留まる。
天才は皆、ススキ野ではなく、前頭葉つるっ禿げ!
つまり、そういうわけで、私のような世代が、一番記憶力の衰退が起こりやすいことになる。
もう少しだけの辛抱なのです。
念のためお断りしておきますが、最近発見された記憶固定化ホルモン「ヘナモン」は、みなかみ町のある無名の天才科学者が発見し、論文を発表したものですが、いまだに脳科学の専門家の間ではまったく相手にされず、認知もされていないホルモンであることを書き添えておきます(笑)
妻が寝込んだ。
今はやりのインフルエンザだろうか。
ところが、うちの妻は、どんなに病気で苦しくなっても、医者に行かない。
薬も飲まない。
ただひたすら寝て回復を待つ。
苦しんで、苦しんで、のたうちまわって、回復を待つ。
安易に薬に頼らない、医者に頼らない、
という考え自体は私も賛成なのだけれども、
私よりはるかに頑なに妻はそれを貫きとおす。
風邪くらいならまだしも、
インフルエンザでそれはまずいだろうと言いたいところだが、
妻は言うことを聞かない。
https://toyokeizai.net/articles/-/147605
あるいは若いうちに大病を経験しているからなのか。
わけあって、週のうち3日しか一緒に暮らしていない私たちは、
時々そんな苦痛のうちに妻が我慢していても、私は目撃していないことも多い。
電話口の声が、いつもと違う時、体調がすぐれないのだろうと想像はするのだが、
大概は「大丈夫か?」と聞けば「大丈夫だ」と答えるのがわかっているので、
こちらとしても、なかなか打つ手がない。
それが今回は、週3日の一緒にいる時に寝込んだ。
細身で少食な妻は、ただでさえカロリー不足気味の身体なので、
ひとたび体調を壊すと、回復するエネルギーの余力そのものを人並みに持ち合わせていない。
いくら私が細身の女性が好みだからといって、そこまでしてくれなくても・・・
時々、不安になるのだけど、
万が一のことでもあったら虐待の疑いかけられること必至だ。
どう転んでも、素人判断で馬鹿なことをしたと非難を受けることも避けられない。
常識で言えば、本人が何と言おうが病院に連れて行くのが当たり前。
切迫した状況で顔色ひとつ見誤ったら、確かにとんでもないことになる。
もともとお互い別居中に万が一のことが起きたら
警察の捜査が入ることが避けられないだろうと覚悟もしている。
妻が納得の生き方を貫き通せるならば、
間違って殺人の疑いをかけられても構わないくらいの覚悟はあるものの、
自分自身、あの時病院に連れていっていればとの後悔を残さない判断が必ずできるとは思えない。
そんな危険な攻防を私たち夫婦は背負っている。
そもそも、こういう時の男はひらすら無能な存在。
何とか部屋の暖房を増やし、濡れタオルを当ててやり、
卵雑炊などをつくってやるものの、
ろくに気の利いた言葉をかけてやることもない。
できるだけそばにいて、黙って隣で本を読んでいるだけだ。
でも、そんな時間が過ごせることは、
苦しんでいる妻には申し訳ないが、少しばかり嬉しい。
何もしてやれない無能な立場でも、
他の機会ではなかなかできないただそばにいてやること。
自分の好きな本を読みながらという自分勝手はそのままでも、運良く今日は、
仕事が忙しいからなどと言わずにそばにいてやれることが少しばかり嬉しい。
昼は卵雑炊だったが、今度はお粥にしてやるか。
多少、味付けを失敗しても
美味しいと言って食べてくれることだけはわかっている(笑)
時々、自分のブログやホームページを見ると
そこにはなぜか
自分の興味があることばかり書いてある。
面白くてしょうがない。
冷静に考えれば、
自分が書いたのだから当然なことなのだけど・・・
これと同じ感覚にまた出会った。
今朝、ある探し物があって2階の部屋の本棚を見ていたら、
いつこんな本買っていたんだという全く記憶のない本が出てきた。
その時の本
そして、
改めて自分の本棚を見ると
そこには自分の興味がある本ばかりが置いてある。
これまた面白くてしょうがない気分だ。
これも冷静に考えれば
自分で興味があって買った本なのだから当然のことなのだけど・・・・
自分のしていること、書いたことが面白くてしょうがないというのは、
自分が過去にやったことを自分で忘れてしまっているからなのか、
興味があることでもまったく身についていないから起こることなのか、
自己撞着、自家撞着というのだろうか、
ただの自己満足というのだろうか、
自分では面白くてたまらないのだけれど、
どうも馬鹿げたこの意味が自分でもよくわからない。
何か重大な勘違いをしているのでなければ、
これは生涯、最高に脳天気に生きていける秘策を習得したということなのだろうw
あるいは、
なにか、とんでもない悪〜いビョーキにかかってしまっているのかもしれない。
先日、出勤で運転をしていたら、見通しの悪い路地から車の前へ、ものすごい勢いで猫が飛び出してきた。
ところがすぐに、近づくこちらの車に気づいてか、慌てて来た方へ駈け戻っていった。
と、思ったらまたすぐその猫は飛び出してきて、わたしの車の側面にゴツンとぶつかった。
あ~~、やってしまったかと思ったが、その猫は、
またものすごい勢いで後ろに引き返した姿がミラーにうつった。
はたして、
「痛って~」と思った程度で済んだのかどうか、
ただ無事であったことを願う。
多くの動物たちにとって、道路が格別危険な場所であることは十分わかっている。
だからこそ、彼らは道へ出るとき、決死の覚悟をもって飛び出す。
ただ、事前に左右を確認してから出るという知恵が働かないだけのことだ。
だけど、あの猫、飛び出してすぐ「マズイ」と気づいたばかりなのに、
1秒もたつかどうかの間にまた同じことをする。
あの見通しの悪い路地の後ろに、相当怖いメス猫でもいて睨みをきかしていたのだろうか。
道路の先に、相当うまそうな魚でも見えていたのだろうか。
考える余裕?
左右を確認する知恵?
猫だからそんなものはないと言える?
普通の人はそう思うのかもしれないが、わたしはまったくこの猫と同じレベルだ。
もちろん冷静な普通のときは、それくらいのことはあたりまえにやっている。
しかし、道路の先にうまい餌が見えてるとき、
あるいは後ろに怖いメス猫がいるとき・・・
私も左右確認なんかしていない。
ちょっと待って引き返すなんて思いもつかない。
たいていの場合は、余計なこと考えるより、まずやってみよだ。
行動は、悲しいかな、あの猫と同じ。
怪我程度で済めばいいのだけど、痛い目にあっていながら、また同じ行動を繰り返す。
うまい餌が見えてでもいれば、
あらゆる理屈をつけて、無謀に飛び出すことを正当化することさえする。
いや、本音を言えば、
いつまでも左右確認して、なかなか出ない人を見ると
後ろから蹴っ飛ばしてやりたいと思うことすらある。
(これは、言い過ぎた)
これでは、動物の知恵比べよりも劣る。
あ~、俺と同じレベルのあの猫、
打ち身、打撲程度で無事であることを心から祈る。
もっぱら読書は風呂の中というわたしですが、
時どき家に来てくれる別居の家内が、
このところ入浴中にココアを持ってきてくれるようになった。
ちょっと濃い目にいれてあって、
ココアはすぐに底に粉が沈殿するので、
ちゃんとスプーンをつけて持ってくる。
ときどきかき混ぜて飲むのだけど、
それでもどうしても底にココアが沈殿する。
そこで手っ取り早く湯ぶねからお湯をすくい、
そこでまた飲む。
ココアとはそういうものなのか、
これで結構何度ものめる。
湯ぶねからすくっては飲み、すくっては飲み、
湯の量が減ると浸かってて寒くなるので、
ちょうどそのころが風呂からの上がりどき。
湯ぶねいっぱいのココアを飲むみ、
お腹がいっぱいで、大満足のわたしでした。
(途中からのおはなしはもちろんウソですが、
おまえならやりかねないくらいに思われていることは承知!)
電車に乗っていたら、最近お世話になっている社長さんにちょっと似た風貌の人が、やや色あせたコートを着てたっていた。
なにとはなく、目があいふたりで電車を降りて一緒の方向にひきつられていく。
この人はいったい何をしている人なのだろうか?
一見、ただの浮浪者のようにも見える。
ぎらついた感じではないが、なんとなくただものではない雰囲気もある。
なんの会話をしたわけでもないが、私はただその人の後をついていく。
するとガード脇の路地を入ってコンクリートの古い建物のなかにひきつれられて入る。
ここの出入りは、その気になれな誰でも自由にできる場所で、後ろから子どもたちがかくれんぼの場所としてかけぬけて遊んでいる。
さらに薄汚れた通路を通って2階へあがる。
すると広い空間に箱に詰められた沢山のレコードや古いステレオ、アンプ類がずらりと無造作に積み上げられている。
レコードの箱を手前から見ると、マイルスやブルーノートの復刻シリーズなどがまとまってあり、量の多いわりには、マニアックなところを突っ込んでいるようには見えない。
どうやら、ここがこの人の生活の場であるらしい。
鉄道のガード下の空間なので、安く借りられているのかとも思えるが、なんとなく誰も管理者がいない空間に、この人が勝手に住み着いているだけのようにも見える。
そう思えるのは、さっき子どもたちが遊んでいたところとは、なんの境も無く、そのままこの空間に続いているからだ。
現に子どもたちは、なんのためらいもなくこの部屋を通り抜けて、奥の部屋へ行き、
そこでまだ別の遊びをはじめている。
それをこの60代くらいと思われるおじさんは、困ったようでもなく、ただ日常の風景としてなんの気にもとめないように見過ごしている。
時より子どもたちが通過するものの、一応ふたりだけの空間で座ることができたので、
おじさんはいったい何をやっている人なのですかと思いきって聞いてみた。
するとそのおじさんは、一枚の紙に書かれた自分の経歴、といってもそれは過去にしてきた三つのことを箇条書きにしたものをわたしてくれた。
それは、これまでの人生が3つの時期に分かれていて、それぞれまったく違う生き方をしてきたというものだった。
3つそれぞれが、とてつもなく突飛な生き方だったのだけれども、それがどのようなものだったか肝心なことを今思い出せない。
ただ、今がその3つの生き方の3番目の時期にあたり、なにも所有せず、なににも属さず、こだわりを捨ててなおかつ何の不自由もすることなく生きているのだということだ。
でも、風貌からは、現代風の「自由人」として個性を主張するといった感じではなく、普通の身なりでまわりから目立つこともなく、風景のなかに溶け込んで周囲の誰に気づかれること無く生きているようだ。
それが、ここの子どもたちとの接し方にあらわれている。
格別に子ども好きというわけでもなさそうだけれども、子どもたちが自然によってきて、世話をするわけでもないのに、何か見慣れない遊びをときどきいっしょにしながら、何かを伝えているような感じだ。
しばらくすると、そこにいる子どもたちといっしょにこれから山へハイキングにいくというので、またついていくことになった。
ところが、山の入り口を歩き出すと間もなく、ものすごいドシャ降りの雨になって、急遽、道端でシートを張って、簡易テントをつくることになった。
テントの足場作りも、雑草、草木のよけかた慣らし方が、妙に手際がいい。
すると、山の上から若い体格のしっかりとした青年が、駆け足で降りてきた。
ものすごい軽装であるが、もう山頂から降りてきたところだという。
聞くと世界各地の高峰をいくつも登ってきた経歴もある人らしい。
またしばらくすると下から町役場の人があがってきた。
上で遭難事故が起きという。
その事故処理で何かもめているとのこと。
事故当時の現場の状況を誰か証言してほしいらしいが、現場にいたものが誰もいない。
天候状況や道の様子など、その山から下りてきた青年こそ、もっとも適任ではないかと思うのだけれど、彼はこれからすぐに外国へたつのだという。
残るは、私にどうしても証言してほしいという雲行きになってきた。
ここ鳥取(なぜ鳥取、いつのまに鳥取?)まで、群馬から日をあらためてまた来るのか?
そんな余裕はない。
でも他に出来る人はだれもいない。
なんのめぐりあわせだかはわからないが、またここまで来るとするか。
(以上、今朝の夢の記憶)
先日のうちのB型のパートさんとのやりとりで学んだこと。
普通スーパーなどのお店の陳列は、右回りにお客が見て回るように配列されています。
本屋などでも、棚の商品が左から右に著者名50音順や、整理番号順にならんでいるのが普通です。
ところが、時々、入口の位置や駐車場や道路とのロケーションの違いによって、この原則が崩れるときがあります。
たとえば、縦に細長い店舗などの場合、入って右側の棚は、左から右への原則通りに陳列すると、
棚1本ごとに、奥から手前に、奥から手前にと歩くのとは逆方向に商品が並んでしまう。
本屋の場合は、それほど早いスピードで棚から棚へ目がうつるわけではないので、
あえてすべての商品を手前から奥への原則で右から左へ商品が流れるようにはしないことが多い。
でも、時々、入口が手前の原則で、右から左へ順番に商品をならべている店もあります。
考えてのことだとはわかるが、私は、こうした陳列を見ると胃が痛くなる。
同じようなことで、車の横に書かれた会社名などのロゴ。
ロゴであればまだひっくり返しようがないが、
社名などは、横書きの場合は、どうしても
進行方向である前から書き始めないとおかしいのではというとらわれがある。
車の左側側面は自然に「渋川書店」と書かれるが、
車の右(運転席)側は、進行方向を意識すると「店書川渋」と並んでしまう。
トラックなどでも、ときどきこうした文字の配列をした車を見る。
べつに社会で決まりごとになっているわけではないけれども、なにを基準にするかで
意見がわかれてしまう問題に、B型がとことん突っ込んでくる。
が、その突っ込み方がおかしい。
ひとつひとつの応対していたら、随分長い議論になってしまった。
けれども、けっこう自分でもいい勉強になった。
B型のパートさんとその右回りが自然な流れなのだと話していたら、
陸上競技のトラックは、競馬場なども含めて全部左回りに出来ている!
と反論してきた。
一瞬、たじろいだ。
競技トラックの類は、F1レースなどを除いて、確かにほとんどのものが左まわりに出来ている。
競馬、競輪、オートレースやスケート、そういえばローラーゲームなどもそうだ。
なんでだ?
でもまだこの程度の問題であれば、ある程度調べればすぐに納得のいく結論が見出せる。
これは人間の身体生理の問題で、
人の足は、通常は左足が軸足になって右足が効き足として動くようになっている。
サッカーで普通のひとは左足を軸足にして右足でボールをコントロールした蹴り方をする。
この原理で左足を軸に、右足で蹴って方向をコントロールする左回りのトラックの方が走りやすい。
それでは、どうして道路は歩行者が右、車が左なのだとくる。
これは国によって違う。
おそらく、歩行者が右よりも、まず車が左と決まったところから歩行者が右となったのだろう。
でも登山道や学校の廊下などは左側通行が原則だろう、と私が言ったら
B型は、私の学校の廊下は右側通行だったという。
これは、学校ごとに違うかもしれない。
しかし、わたしの感覚では、車などの心配のない歩行者専用道路などでは、左側通行が普通になると思った。
山などと同じで、人とすれ違う側が効き足、利き腕であるほうが、
挨拶をするにも、相手を交わすにも良い。
武士などの場合には、すばやく刀を抜いて切り殺すには、
相手が左側ですれ違うようでは難しい。右側の相手の方が切りやすい。
敵対する関係ならば、左側通行。
敵意のないことや信頼性を優先するならば、右側通行となるだろう。
もちろん武術の心得があれば、そんな苦手な向きなどあってはならないだろうが。
ともかくいろいろ話したことで、様々な問題を右優先、左優先かを考えると
人間の生理的条件によりものと、後天的文化による習慣づけによりものがあることがわかった。
ところが、
である。
このどちらにも属さない行動原理をとる人種がいる。
よる公共のトイレで、男子トイレ女子トイレの位置、
なんとなく手前か奥かおよそのパターンはあるような気がする。
そんな話をしだしたところ、B型のパートさんは、自らの行動パターンのことを話し出した。
B型のパートさんは、いつもトイレの男マークと女マークのついた標識はすぐに発見して見るという。
ところが入るときには、もうその標識は見ない。
なぜかこっちに決まっていると思った方に迷わず入っていく。
すると案の定「なにしに来たんだ!」
と男性から怒られて、すごすごと出る。
そういえば私の連れのB型も
よく映画館などにから出るとき、なんの迷いもなく出口とは逆の方向に平気で歩いていく。
わたしは、その確信に満ちた歩き方から、トイレに行くか、なにかパンフレットでも取りに行くのだろうと思って
その後ろ姿を黙って見送っていると、後で、なんで間違っているのだと教えてくれないのだと怒られる。
B型かどうかはわからないが、実家で旅行の話をしていたとき
母親が旅慣れた連れと話に夢中になって、連れが歩いて行く方向になんの迷いもなく一緒についていくと、
とんでもない方にふたりで行ってしまい、グループからはぐれてしまうことがあると笑っていた。
その叔母さん、きっとB型に違いない。
経験のないはじめての場所であれば、ふつうは多少なりともきょろきょろして
場所を確認したりするものだと思うのだけれど、どうもB型に限っては
何度失敗しても懲りずに、今日も思い込みで目の前に見えた方向へ突き進んでいく。
それまでB型のパートさんと長い議論をしてきたが、
結局、B型にとっては、こうした文化や生理的な特性など、
まったく関係ないのだ!