近代民主主義の父と呼ばれるJ・ロックが、「個人の自由」を唱え、それは海を渡ったアメリカの独立宣言で、「生命、自由及び幸福追求」の権利という表現に結実しました。
ところが、ロック自身の『市民政府論』の中では、「生命、自由、財産」の3つであらわされてます。
アメリカの『独立宣言』を起草したジェファーソンは、「財産」という言葉は崇高な建国の理念としてはあまりにも露骨すぎると感じるデリカシーがあったのか、これを「幸福追求」という上品な言い回しに書き換えた。(関岡英之)
日本国憲法第十三条の「生命、自由及び幸福追求」という文言は、このアメリカ独立宣言を丸写ししたものらしい。
フランス国旗の青、白、赤の三色は、自由、平等、博愛だそうだけれども、この三つ目が意外と「財産」であったり「博愛」であったり、「幸福追求」であったり微妙に変わる。
いまやアメリカ建国の父ジェファーソンのデリカシーなどどこへ行ったやら、「自由」=「財産」とばかりに、世界に「博愛」や「幸福追求」などはどこか隅っこの方に追いやられてしまいました。
さらに「自由」も「財産」の自由なら認められても、個人の尊厳をもとにした絶対的自由など、様々な「世間」や「公共」の圧力のもとに「自由主義陣営」などという恥ずかしくなるような言葉とともに厚かましく覆い隠されてしまいました。
トランプが登場していろいろ世の中を引っ掻き回してくれるおかげで、この「自由」という言葉の真の意味や実態が、ようやく問い返すチャンスがちょっとだけ出てきてくれた感じがして、それが個人的にはとてもありがたい。
というのも、最近はやたら「自由主義陣営」とか「民主主義陣営」、はたまた「リベラル」といったような言葉が妙に鼻につくようになってしまったから😅
毎度わけのわからないことばかりですみませんが、自転車には、他のあらゆる移動手段と違ってこの「自由」を不思議と感じることができます。
車でもモーターバイクでもなく、電車でも徒歩でもなく、なぜかグラベルロードバイクには、「自由」が最もしっくりと収まる。
理由を聞かれたら困るけど、そこには「自由」を得るために必要な大切な何かがあるように感じられるからかもしれません。
地域社会や共同体自治を考えるとき、現代の機能しない「地方自治」の根本的問題が、そもそも明治の「町村制」のスタート時から横たわっていることを、地方自治に携わる人たちや地方自治を語る人びとがいったいどれだけ知っているでしょうか。
とても大事なポイントであるにもかかわらず、その歴史的経緯がほとんど知られていないのではないかと思うので少しでも多くの人に知っておいていただきたく、長い引用になりますがメモとして以下の本の一部を転載させていただきます。
『行き詰まりの時代経験と自治の思想 権藤成卿批評集』 書肆心水 2013刊
権藤成卿(ごんどう・せいきょう/せいけい)1868年生、1937年没。
在野の東洋古制度学研究者。明治以来の官治主義、資本主義、都会中心主義を批判し、原始以来の伝統的な生産・生活共同体の尊重を訴え、昭和期の農本主義思想家として大きな影響力をもった。昭和恐慌下の農村救済請願運動の中心人物の一人となり、その思想は血盟団事件などの思想的背景をなすものと見なされた。
主要著作 『皇民自治本義』1920年、『日本震災凶饉攷』1932年、『農村自救論』1932年、『君民共治論』1932年、『日本農政史談』1932年、『自治民政理』1936年、『血盟団事件 五・一五事件 二・二六事件 其後に来るもの』1936年。
この権藤成卿という人は、今ではほとんど知る人もいないのではないかと思いますが、おそらく戦後民主主義の側からの右翼的イメージが先行して、こうした著作の評価が顧みられずに歴史からほとんど忘れられてしまったのかもしれません。
(以下、本書95ページからの長文引用となります)
市制町村制
或る国と或る国との風俗習慣がそれぞれ異なっているように、自治に対する観念やその組み立て方もまた国々によって、独特の発達をしたものであるが、明治の藩閥官僚によって採用され、市制町村制として現在まで実施されている我が国の自治制度というものは、実は日本に於いて昔から自然に成長してきた自治の観念や組織とは根本趣旨が異なったものである。
明治二十一年に制定された「市制町村制」は、制定当時の政府顧問であったドイツ人のモッセとロエスレル の二人が、主としてその起草に当たったのであるが、この法制中に使用されている「自治」という言葉は、無論ドイツ流の自治を意味しているもので、日本古来の特質をいい表わすために使用されたものではなかった。外国制度上の「自治」を意味する外国語の翻訳に当たって、日本の用語である「自治」をあてはめたにすぎないのである。従ってその施行された自治制度の実態は、言葉こそ自治であるが、日本の本来の自治という言葉に含まれているさまざまな固有の要素を、抹殺するかないしは歪めるかして、組み立てたものであり、むしろそれはプロシアの地方制度を、そのまま移動したようなものといえるのであった。では一体その移植したものは、どんなものであったかというに、一言にしていえば、自治体の国家化出会ったのである。
本来、我が国古来の自治というものは、民衆がその衣食住生活を基礎とする公同共存の信条によって、自然に結び合った状態をいうのである。従ってそれは、民衆によって生み出されたところの、民衆の生存の仕組みなのであって、他の誰かの命令によって生み出されたものではない。民衆は治められるものではなく、自ら治まるのである。すなわちその自ら治るということは、民衆の義務であり、同時に権利であって、公同共存の生活をみだす者に対して、民衆が制裁を加えるのは、この権利と義務が発動した場合である。それ故に、この権能は自ら治まること自体の中に含まれているもので、これが真の自主権というものである。
「国家の統治作用を或る一地域の団体に委任したものが自治である」
「自治権は国家の統治組織の一部である」
「だから自治体の自主権の内容を規定するものは国家である」
「自治体は国家の監督下に在らねばならぬ。そして法令の範囲内でしか仕事をすることはできない」
「自治体の仕事をするという権限は、自治体が当然に有する権限ではなくて、国家がその目的を達する上に、特に自治体に与えた分権である」
これでは、自治体というものは、まるで国家の手によって、造られたもののようである。だが、本来の国というものは、人間の安全な生存のための集団生活が、漸次に村落の自治となり、村落の自治が更に郡県の自治となって、そうして郡県の自治が集まって、遂に一国となったものである。それ故に、自治体こそ一国の基礎単位である。
だが、明治の藩閥官僚は、この基礎単位たる自治体を、より良く発達させるように案配調斉したのではなく、返って自分らの「統治」に都合のいいように、自治体から自治の権能を奪ってしまったのである。
自治と地方分権
そして彼らは、自治体から自治の権能を奪うために「地方分権」ということを強調したのである。彼らのいう地方分権とは、中央の権力を地方に分ち与えるということであって、自治体によって存立してきた、固有の権能を認めるということではなかった。もしも自治体が本来何の権能をもっていなかったものなら、これで理屈は通るであろうが、本来の自治体は、それ自身の存立のために、立派な権能を持っていたので、それは自治する人の義務が、他から強制された義務でないのと同様に、他から分かち与えられた権能などではなかったのである。それは与えられなくても、すでに持っていた権能である。
地方分権とは、この権能を奪う代わりに、中央の権能を分譲しようということに過ぎない。そして「市制町村制」は、この目的にそって実施されたもので、すなわち「市町村は国土分画の最下級であるが、ある限界内においては自治の権能を与える」というのである。事実、こういう意味での権能は与えられたが、それが自治権能でないことは明らかである。或る人々は、現在の「自治体」の「自治」は、官から与えられたものだから、「官治体」という方がいいといっているが、けだし正当な言葉である。
このようにして、地方分権の呼称の下に創られた「市制町村制」の発布後は、自治体の自治活動を全く拘束する結果となり、自治体はその本然の機能を発揮することができないような有様となり、自治は萎縮してしまったのである。 「市制町村制」は制定後近年に至までに、幾度かその条文を改めたが、現行制度にあっても、依然として自治体は名目のみの自治体に止まっている。すなわちその権能は、相変わらず「国法」の特別指定するものとされて居り、更にこういう権能は、自治体にとって権能ではなくて、むしろ「負担」となっている現状である。
農村に及ぼした結果
このように「市制町村制」の制定後は、昔からの共同的自治の平調が破れ出し、伝統的性質が根底から崩れ出したのである。
その結果は、例えばこれを農村についてみれば「村」と「村民」とは全然隔離されてしまい、両者の関係は、この自治制が布かれる以前のような密接不可分なものではなくなったのである。何故そうなったかと言えば、すなわちその原因は、旧来の町村が改廃分合されて画一的な「行政区」にされてしまったことにもあるが、何よりもこの町村が、町村民と別個独立の「人格者」となった点にある。別のいい方では、町村は、それを構成し組織している町村民から、全然離れた「法人」という擬個人となったからである。これは西欧の個人主義的な法人思想が、この新しい自治権の根底に横たわっているからである。このような個人主義的形態は、個人所有権の確立を眼目とし、自治体を自分らの統治下に、新編成しようとした藩閥官僚には、まことに好都合なものであったに違いないが、しかし我が国の成俗とは全く相容れないものであった。
旧来の村落形態にあっては、村と村民とは、密着した一つの概念であり、村が村民と離れて抽象的に存在しうるなどということは、考えることもできなかった。村といえば、全村民が思い浮かぶように、全村民は村について生きていたのである。換言すれば土着的に生きていたのである。しかし「土着」の原則が破られた現在にあっては、このような関係を単に観念上に形成するさえ困難であるが、事実維新前後までは、村と村民とは不分離の全体であって、村の負担する公租は当然村民全体の共同負担であり、村の債務は同時に村民全体の共同債務であり、村の防衛は同時に村民全体の任務であり、そして村有地は同時に村民全体の所有地であったのである。こうした村落組織自体こそ、村民の公同的な、連帯的な、自治生活の公同修睦を示して余りあるものであるが、明治の翻訳的理論は、これを「狭溢な村落根性」として排撃したのであった。そして村落固有の歴史制を破棄して彼らが遺成した新町村は、住民にとっては「他人」の如き、従って自治の実態の伴っていない、形式的なものに過ぎないのである。ーーー自治体を法人としたことは、自治体を個人化したことであり、それはまた村が村民から独立した別個の個人として行動することを許したものである。
国政選挙もいよいよ終盤になりましたが、10月25日は2002年に自宅前で刺殺された政治家、石井紘基の命日です。
第154回国会において石井は、一般会計・特別会計・財政投融資から重複部分を計算したうえで、日本の年間歳出(国家予算)は約200兆円相当あるのではないか、と指摘しました。
この一般会計の外側にある特別会計・財政投融資に対して、議員や国民はまったく関与することなく、大半が官僚の采配のみで決められています。
100兆円規模の一般会計以上のお金(当時330兆円)が、国民の知らないところで毎年動いていることが、そのまま巨大な利権構造となっていることを石井紘基はたったひとりで調べ尽くし、その全貌は公表される前に殺害されてしまいました。
彼が残した資料63箱は、結局、その後も国会議員によって解明、活用されることなく今日に至っています。
今、国会や国政選挙で自民党の裏金問題が大きく取り上げられており、それが今回の大きな争点にもなっています。それはそれでとても大事なことですが、国会ではいつでも「予算が無い」と、教育や国民生活に密接に関わる福祉などの予算が削られる一方で、常に何兆、何十兆、何百兆というお金が、まともな議論や情報の公開もされることがないままに使われています。
直近では、大阪万博のお金があります。
この13兆円のうちの十分の一でも、能登の震災、土砂災害の復興予算に当てられれば、今起きている主要な財源問題のほとんどは解決することができます。
能登の災害で、これまで予備費で当てられた額は、
4月23日 1389億円
9月10日 1087億円
10月11日 509億円
今年元日の悲劇から半年以上、これから先どうしたら良いかわからず、国からは見捨てられたまま途方に暮れている奥能登住民に真っ先に必要なのは、インフラの復旧ですが、本当に優先されるべきは、ただ息をしているだけでお金が消えてく暮らしを改善するための減税特例処置です。
すでに北欧なみとも言われる公費負担率の高いこの国で、生活基盤を失った人にまで課せられる様々な税金は、限りなく思い負担であるだけでなく、その土地を離れて稼げる他所へ出て行かざるを得ない大きな要因にもなっています。
政府は、必要な予算措置をとるためには、まず役人を現地に派遣して見積もりを出すことからと言っています。
この予算計画の構造的矛盾はとても深く、役人の性格上、財政難を口にしていながら予算を増やすことは評価されても、予算を減らす減税政策は、省庁間の力関係が弱まることもあり絶対に評価されないことが、「職務」として大真面目に国民のためにはならない逆噴射としてし続ける構造になっています。
、
参照 日本の「コロナ予算」をデータで検証 コロナ予算77兆円 ーNHK
100兆円規模のコロナ予算も、何十兆という単位で使途がわからないままになっています。
たった一人でこうした政府予算構造の闇に挑んだ石井紘基のような議員は、今の国会のなかにはほとんどいません。
何人かは、石井紘基の意志を受け継ごうと頑張っておられる議員もいますが、官僚たちも、自らの利権を守ためには「優秀な」頭脳を使って必死の努力をしているわけですから、生半可な努力でこの巨大な利権構造は打開できるはずかありません。
生まれてこのかた好景気を知らず、
たとえ投票率が劇的に上がったとしても、
自分たちが多数派になることはあり得ない今の若い世代。
そうした時代に生きる彼ら彼女らの思考に、私はここ数年、どれたけ大切なことを教えられたことでしょう。
今日の小選挙区制に代表される、51人の考えを49人に押し付ける多数決の考え方が、どれだけ民主主義そのものを劣化どころか破壊をしているか。
われわれ世代の、多数派を目指せばまるで「正義」が実現されるかの安直な思考が、いかに間違っていたか。
そもそもものごとというものは、多いか少ないかではなく、個々の存在価値を認め、それぞれのクオリティを高めることこそが大事なのだと彼らはいつも教えてくれる。
「正しい」を実現することよりも、まわりに良い影響を与えられる「個」になれと。
そしてそこには、理念や方針の正しさ以上に、プロセスの「丁寧さ」が不可欠なのだと。
われわれの同世代(一部の真面目なみなさんには申し訳ないけど)には、この「丁寧さ」というのが決定的に欠落しています。あまりにも、継ぎはぎだらけの足し算思考ばかりです。
この「丁寧さ」があれば、結果的に答えは見えていなくても、より着実に大きなものにたどり着ける。
「丁寧さ」の欠落したところに、「信頼」は生まれない。(ここが私には一番難しい😅)
それでも彼らのおかげで、わたしの働き方、暮らし方も随分変わってきたのを感じます。
世の中の軸足が、なにを「する」かの時代から確実に、どう「ある」かの時代に変わりだしているのを感じます。
心から若い彼ら彼女たちに感謝しています。
幸せな働き方や幸せな暮らし方をしている人と、そうでない人との違いをみていると、自分の主観的な判断や個人的な感覚をとても大切にしているかどうかの差がとても大きいのではないかと思います。
もっとも、個人の幸せなんてまさに人それぞれで、他人が問題にすること自体が大きなお世話なのですが(^^)
得てして仕事では、何ごとも客観的、公平でなければならないと思われがちですが、ものごとを前にすすめるには、正しいかどうか分からないようなことを決める自分の勇気と覚悟こそが大事で、そこを回避した会議や集団は何も生み出さない。
組織のなかでは、一見どちらでも良いようなことでも、そこは譲れないという価値観、世界観の積み重ねこそが、のちの大きな違いとなってくる。
「客観的公平」という言葉が、教育の現場で、日常の仕事で、地域のあり方で、どれだけ目の前でつかめる幸せから遠ざかる方向に引っ張ってきたことだろうか。
個人的、主観的であることは、当然、責任と覚悟が発生します。
その訓練をずっと避けたままの「民主主義」が、いま制度疲労を起こしている時代のような気がしてならない。
「客観的公平」を求めない「民主主義」などあるのか?
と言われそうですが、そここそが人の幸せを考える側と社会のためと言われながら不幸を招いていく道の大きな分かれ目なのでは。
「正しい」と言われるようなことは、たいていは「灰色の男たち」が運んできます。
サラリーマンなのだから、組織の一員なのだから、とオーナーやトップの決定には逆らえないことが当たり前のように言われます。かつては、そういう面もあるくらいに聞き流していた言葉ですが、個人やまわりの幸せへの道を冷静に考えると、今ではそれははっきりと違うのだと断言できます。
もちろん、すべてが個人の主観優先という意味ではなく、問題によっては折り合いの付け方が大事な場合もあります。でもその場合であっても、個人の「了解」の仕方かとても大事であると思います。
これまでの「横並び社会」で済んでいた時代が終わるだけに、こうした主観性を大事にする社会は、一見、厄介で面倒な人が増える社会になるようにも思えますが、実際は、これまでの横並び社会よりも異なる世界観同士が絶えず対話することになるので、折り合いのつけ方などはずっと進歩するのではないかとも思います。
全国の問題解決の突破事例などを突き詰めて見ていると、組織の客観性よりも、個人の責任と判断のエネルギー量が上回っているところのみが、必ず何かをなし得ているのだと言い切ることが出来ます。
かつて人間は、自らのコントロールの及ばない圧倒的な大自然のなかで生きていました。
そうした環境下で人間は、「仕方がない」という言葉とともに何事も受け入れて生きていました。
それが都市の発達とともに人間は、自然の驚異から守られた人工物のなかだけで安心して暮らせるようになってきました。
そこでは何かコトが起こると、「誰がやったんだ」と責任を追及する(できる)社会になっています。
ところがいつの間にか、自然の脅威からは安全なはずの人工物だけに囲まれた都市のなかも、人びとのコントロールの及ばない、予測もつかない経済、国家、政治、民主主義、災害、近隣の人間関係などがあふれるようになっていました。もはや個人は、人工都市のなかでも、どの道を選択したら良いのか、どのレールに乗ったら良いのかもわからなく、何も保障されない社会に生きているかのようです。
大自然の脅威から逃れる場として発達したはずの都市の中でも、人間のコントロールの及ばないことがこれほどまでに増えた現代では、「仕方がない」との言葉とともに若者が政治離れを引き起こすのも無理もないことに思えてきます。
そのような時代の「民主主義」のしくみは、いまだに一枚の紙きれに個人の名前や政党名を書くだけで当選者にすべてを託してしまう「一票丸投げ民主主義」という実態です。現代の科学技術の進歩した世の中では、信じがたいほど硬直したシステムのなかで動いています。
台湾のオードリー・タンが提唱しているように、一人一票の多数決のみが民主主義ではありません。
ここで若者の投票率を上げましょうといったことは、必要な大事なことではあるものの、その結果は仮に成果が出たとしても「超超マイノリティーの若者が、超マイノリティーに格上げ」(成田悠輔)される程度のことにしかすぎません。
一票の格差の問題が憲法違反だからといって、それを是正するだけで今の日本の問題が解決するわけではありません。
そもそもこれだけ多様化している社会の諸問題を、一票の選択だけですべてを特定の政党や個人に一任してしまうこと自体が、相当な無理を強いられていると言えます。
教育、医療、福祉、外交、防衛、財政など多岐にわたる諸課題をすべてこの政党や個人の言っていることが正しいのでそこに一票を投じるのではなく、教育、医療、福祉はA党。外交、防衛がB党、財政政策はC党などと分野によって分けられるべき時代になっているのではないでしょうか。
現状の一票丸投げ民主主義の問題には、こうした多岐にわたる諸課題は一つの政党や個人にすべての項目を一任してしまう問題と、一度当選した政党や政治家個人に対して、その後に行っている行動をきちんと監視して、問題があったらすぐに是正させたり解任したりする力や権限を、次の選挙までの間、国民がほとんど持ち合わせていないという二つの問題があります。
こうした複雑な構図こそ、AIなどにまず問題を整理させ、自動的に導き出せる領域は答えを出した上で、われわれの判断に任せる仕組みが必要になってきているのだと思います。
失われた10年が20年になり、間違いなく30年を越えようともしている今、選挙で日本の根本矛盾を問うようなことは争点にさえなっていません。
本書では、これらのことについて、ノートのように思いついたことを列挙しており、こんなまとめ方で本になるのかとさえ思えるものですが、だからこそ、読者の思考を促がす格好の構成になっているともいえます。
ネット上では名の知れた方ですが、ちょっと体裁も提案の中身も前例のないものでありながら出足好調です。
日本の現状にウンザリしている方には、おすすめの1冊です。
#成田悠輔 #22世紀の民主主義
こんなことを言っても、今どき信じてもらえないでしょうが、
人は、図らずも、正しいことをするようにできている。
これは、性善説ということではなく、人間に限らない自然界の根本法則です。
水は、考えることなく
岩に当たれば砕け散り、
大きな石があれば、迂回するものです。
その水は、やがて大地に染み込み、
大海に溶け込みます。
大地に染み込んだ水は、地下水となり、
海に溶け込んだ水は、水蒸気となって雲になり、
循環していきます。
また障害となった固い岩は、砕け、
長い時をへて砂となります。
つまり、万物は流動するときに、
絶えず変化をしながら、「安定」へと向かっていきます。
これが有機的自然、無機的自然を問わず、
自然科学、社会科学を問わず、
万物に共通する自然法則です。
この自然法則のが貫かれるので、
人は図らずも正しいことをするようにできてるのです。
これが、行われない時というのは、
動くべきところで動かず、
流れる時に流れないときです。
障害があれば水は迂回します。
長く抵抗し続ければ、岩でもやがては砕けます。
ものごとを短期的にぶつかる瞬間だけを見れば、
悲観論や性悪説になりますが、
長期的に見れば自ずと楽観論や性善説となります。
そこに能力の有るなしとか、
経済力があるからとか、
時間があるかどうかも関係ありません。
価値観の問題でもありません。
ただ、自然界の道理なだけです。
そんなことをこの本は教えてくれます。
エイドリアン・べジャン『流れとかたち』紀伊国屋書店 2013年 定価 本体2,300円+税
エイドリアン・べジャン『流れといのち』紀伊国屋書店 2019年 定価 本体2,200円+税
小さい頃から転校を繰り返してきた私は、自分の立場が常に少数派、マイノリティーであることには比較的慣れている方だと思っています。
それは少数派であるというよりも、むしろ100対1くらいの力関係の中で生きている感覚です。
ところが最近、ふと気づいいたのですが、同じ100対1という僅か1%の立場であっても、分母を100ではなく1000にすると、分子は10になります。
自分と同じ立場の人間が10人もいると思うと、ちょっと気持ち悪くなるくらいです。
だいたいは、同じ考えの人間が2、3人もいれば十分なもので、もしも「七人の侍」のように、それぞれ違う能力や芸のある仲間が7人も集まれば、完璧とも言えるほど強力な集団になることと思います。
このことに気づくと、自分が常に少数派、マイノリティーの側であることは、なんらハンディーや不利につながるようなことではなく、もともと何かことを始めるときには、当たり前の立場であることに気づかされます。
多数派になれないから不利なのではないとうことです。
どんなことでも、二人目、三人目を探し出すことこそが大事な一歩であるはずです。
多数を形成するために必要なのは、この一人目、二人目の「覚悟」こそが大事で、その覚悟を持った人の周りにこそ、多数の応援者やギャラリーがつくといった感覚です。
それを抜きにいきなり「皆んなで」とか「大勢」に多くを期待したり、多数の側の「正義」を信じてしまうような勘違いは避けるべきでしょう。
時代が、行動する前に正しいかどうかを議論することよりも、まず実践して試してみて検証しながら前に進むことの方が、はるかに大事であるということがわかり出してきたような気がします。
そんな時代に、多数派でなければ始められない、勝てないといった論理は馴染みません。
細かく考えると、それにはいろいろな但し書きも必要になってきて、それにこだわりだすと、また多数決型民主主義に戻ってしまうのですが、
まずは、一刻でも早く
「やってしまえ」
あるいは、やることを「許容してもらう」ことが重視される社会になるべきで、今、世の中は着実にその方向に向かい始めているのではないかと感じています。
どんな環境にあっても、自分が1%の存在であることは、決して心細いことではなく、分母を1000にすれば、1%で十分な立場であることに気づかされました。
そもそも世の中というのは、たくさんの1%の積み重ねで成り立っているのですから。
一人、覚悟をした人間がいれば、
それは過半数だ。
トム・ピータース
以前どこかに51人の考えを49人に押し付ける民主主義が正しいといえるのだろうか、といったようなことを書いた気がするのですが、毎度のことながらどこに書いたのか確認できません。
このことは政治の世界だけでなく、企業組織や地域づくりなど、いたるところで直面しているので、私にとっては考える機会も多いテーマで、この間いろいろ考えてきてたどり着いた視点があるので、またつらつら書いてみます。
まず第一のポイントは、どうも現代の多数決型民主主義の前提が、独立した個人の集合としての多数決よりも、集団(組織や派閥)相互の対立を前提にした特殊な性格が強いことを忘れてはならないということです。
(日本の学校教育が、そうした独立した個人の集まりとしてみない集団管理型教育に留まっている後進性の問題も大きく関わっていますが、それはまた別の機会に書くことにします。)
そもそも過半数を取れば認められるという考え方、つまり51人の賛同が得られれば49人の意見は無効になるなどという論理は、極めて限定的な場合のみに適応されるべきことであって、それが通れば51人の立場は勝ったから当然かのような「正義」としてまかり通るなどというのは、絶対おかしな論理のはずです。
それがまかり通るという昨今の事例は、ほとんどが100人の個人のうちの51人の賛成と49人の反対という構図ではなくて、100人が所属している組織や派閥同士の争いを前提にしている場合が多く、組織相互の主導権争いの決着方法として機能しているにすぎないように思えてなりません。
極論すれば、初めから与党対野党の対立構図があり、与党の立場は初めから法案を何とか通す目的で臨む都合、妥協できる範囲の模索と十分審議は尽くされたというアリバイ確保のための審議であり、議論をしていたら立場や考えが180度変わるなどということは、初めからありえない構図で戦っているのです。
かりに立場が野党の立場であったとしても、そこは主導権を持っている側に対するアクションという意味で機能していることが多く、もしも、その100人を構成している個人が何の組織にも属さない独立した個人の集合として(現実にはそのような想定は難しいものですが、組織化されていない市民が一堂に会するような想定は徐々に現実味を帯びてきています)
こうした問題を一般論として語るのは無理があります。
しばしば地域で意見が真っ二つに割れる例として、ダム開発や基地問題があります。
どちらも巨大プロジェクトとなる事業を軸にしているため、地元でその利害(恩恵)に関わる人たちと、恩恵如何ではなく、安全や平和を求める人たちの間で、51:49の「正義」の攻防が繰り広げられます。
それが、ここ十年くらいの間に政治の世界では、小選挙区制と安倍内閣の登場とともに、どちらが51の側になるかに関わりなく、その51人の「正義」が絶対的力を持つかのようになってしまいました。
いつの時代でも国民の総数からすれば多数派であっても、議会で多数派になれない限り少数派に変わりはなく、弱者の側であり続けたわけですが、それでも少数派は生命が脅かされるような問題であれば、議会の多数決以外の様々な抵抗でその立場を守ることが、簡単ではありませんがしばしば可能であったと思います。
51人の多数派であっても、命に関わるような大事なことであれば、たとえ相手が49人はおろか仮に1人であっても、通常は蔑ろにはしにくいものです。
事実、わずか数人の少数派であったとしても、重要な問題であれば、世論に訴えたり、司法を頼ったり、デモなどの恣意行動をはかったり、様々な抵抗手段はあります。
また多数派の側も渋々かもしれませんが、そうした意見や抵抗がある限り、完全に無視することはできずに決定を見送ったり先延ばししたりすることもありました。
それがなぜか、長い議会制民主主義の歴史のなかでも安倍内閣に変わってから急に、49人の側の中身はいっさい問うこともなく、ただそこにあるのは、51人で多数派になったという主導権をとりさえ取れば、49人には構うことなく何でもありの世界になってしまいました。
近頃は、何かにつけて様々な活動で組織を相手にすると、物事を前に進めることが難しくなってしまい、結局は個人で自分の責任でするしかないのか、またはそうすることこそが正しいのか、と思うに至ることがとても多いのです。
異なる考えや立場の人同士が議論するときは、互いに積極的な意見を出し合っているにもかかわらず、議論のマナーやルールが未熟なばかりに意見が押しつぶされてしまったり、提案者自身が自らの意見を諦め投げ出してしまう場面を幾度となく目にします。
そもそも、民主主義というのは、最も効率が悪く手間のかかるやり方なわけですから、本来、相当な根気を持って臨まなければならないものですが、そうした訓練自体、大人になるまで現代日本ではほとんどされていません。
そんな民主主義の原点が、どこにあるのかさえも見えなくなってしまったかのようなこの国の姿がいまあります。
実践を優先する民主主義へ
そんな折に他方で、そうした難しい現実を突破している例もあることを知りました。
初めから組織を相手にして物事を進めようとすると、必ず意見が分かれて、妥協点を探ると内容が薄められてしまったり、目的そのものを諦めざるをえなくなったり、さらには説得し続けるうちにこちら側の心が折れてしまう、などの場合がとても多いのものです。
そこで「行動派民主主義」とでもいうような「論証」よりも「実践」を重視する活動の世界があります。
より早く一歩を踏み出すことによってこそ道が開ける活動なので、ことを起こす前の段階で、それが正しいかどうかを深く議論することにはあまり労力は割くべきではないという考え方です。
この行動前の不確実な要素が多い段階で、賛否の議論をすれば当然、未知の領域を不安視する意見が出て否決されてしまうのがオチです。ところが競争環境の激しい先進企業多くの現場では、そこを早く踏み出さない限り、良い結果を出せないのも目に見えています。
そこで役員会議で議論をした時に多数決を取れば、あえて少数意見の側を取り入れた方が、競合相手に真似をされにくく優位に立てると、あえて多数側の意見を排除したり、大勢の議論よりもトップダウンの決定を優先したりする方が良い結果を出せるというわけです。
もちろん、この選択は楽な道ではありません。
でも、そもそもより多くの付加価値を求めるならば、あるいはより強い競争力を求めるならば、当然の選択でもあります。
この「実践」や「行動」を優先する民主主義でより重要になってくるのは、結果の検証です。仮説で走り出すことを優先しながらも、その結果や経緯を見て絶えず検証と修正を行う力が求められます。
ここが行政と民間の最大の違いだと思うのですが、行政はほとんど企画書が通れば、あるいは予算が通れば9割の仕事は完了かのようにみなされます。
十分な結果が得られなくても誰も責任を取らず、危機感を持って修正されることはほとんどありません。
ところが民間の場合は、企画が通ろうが予算が通ろうが、その商品やサービスが売れなければ何のゴールにもならないのです。
予算執行率ではなくて、目標(売上げや利益)の達成度こそが全てなのです。
本来、そこは行政であろうが民間であろうが同じことのはずなのですが、そこにオーナー(出資者、納税者)がいないばかりに、「行政」は結果に責任を取りません。クオリティーを上げる努力をしてこそ結果が伴うのに、予算執行率にしか関心が向かないのです。
多くの事業が、企画が通り予算を獲得してからは、民間などに丸投げされるだけで、監査を受ける内容は不正な支出がなされていないかをチェックするレベルに留まっています。
いまだに予算を使い切ることこそが最大目標になってしまっているのです。
いくら経費がかかろうが時間がかかろうが、売れるかどうかこそが最大目標である民間企業とは、天地の開きがあるにもかかわらず、私たちの税金がそのような論理で今も大真面目に使われ続けているのです。
理論上の正しいかどうかや、その考えが多数に支持されているかどうかよりも、様々な現実の壁にぶつかり、必要な結果に至ることがいかに難しいことかを前提にして課題に取り組むことこそがどれほど大事であるかということを、これからの時代は十分認識しなければなりません。
1%がもつリアルな力
さらに、この現状への疑問に一層心強い後押しをしてくれたのが、現実の「1%のリアルな力」の姿です。
私は小さい頃から転校を経験してきたこともあり、もともとマイノリティー、アウトサイダーであることが「自然な?」立ち位置かのように育ってきました。
そんなせいか、いかなる組織でも100対1くらいのアウェイの環境であることに、好んでいるわけではありませんが、私の側にはそれほど強い抵抗はなく育ったような気がします。
何事も1対1の関係こそが基本で、複数といえども2人目、3人目こそが大事であることに変わりがないと思っています。またどんなことでも、物事を始めるときというのは、「自分一人でもやる」という最初の覚悟が基本であることにも変わりがないからです。
にもかかわらず、確かに現実は自分が多数を背景にしていないことで、多くの壁にぶつかります。
そんな折、一見数字のトリックかとも思いましたが、現実的な大きな気づきがありました。
それは、先の100対1の関係でばかり、自分が不利な立場であると思っていましたが、分母を100から1,000に変えると分子は10になります。
分母を1,000に変えると仲間は10人もいるのです。
これは私には多すぎるくらいです。
分母が1,000人になったとしても私には7人もいれば完璧なくらいの数です。
たとえ分母が1,000人になったとしても、3人から5人もいれば十分なのです。
「七人の侍」とは、よくできたもので、芸や技術、才能を持った人間が七人も集まれば、最強の集団になるのです。
つまり、1%を100分の1と見るのではなく、1000分の10と見ると、
そこには十分すぎる仲間がいることになるのです。
何か新しいことを始める時は、だいたいは二人目、三人目のこころ強い仲間が見つかれば十分なものです。
この二人目、三人目を探し出すことを抜きにして、安直に「多数」でなければ始められないと考えてしまうのは、とんでもない勘違いと言えないでしょうか。
多数になればなるほど、「覚悟」や「責任」から遠ざかってしまいように思えてなりません。
得てして「良い」ことや「正しい」ことであれば、誰もが参加してあたりまえかの感がありますが、そこに責任者、覚悟をもった人が一人いるかどうかが、極めて重要です。
ただ、現実には、この一人でもやる覚悟や少人数でまず試してみる行動優先型の多くは、その後の検証が甘くなりがちなのも事実で、残念ながらしばしば「独裁」への道にもなってしまうものです。
この100人にひとりの行動や、1000人に3〜7人の行動が、その他残りの圧倒的多数の人びとから最低限の許容を得られるかどうかは、実践プロセスの公開性やその後の検証、他人の意見も聞きながら行えるか、などにかかっているのですが、そこでまたみんなの意見を聞いていたら、また多数決型民主主義に戻ってしまいます。
どんなに少ないたった一人の存在であっても、10代で一人、20代でひとり・・・50代で一人、60代で一人の存在が集まったならば、それが4人でも7人でも、こんなに心強いことはありません。
また地元で一人、隣りの地域で一人といった存在がつながることでも十分です。
これは少数エリート主義の発想とも根本的に異なります。
エリート主義というのは、えてして学歴や肩書きなど、ひとつのモノサシだけで測られるものです。
それに対して、この1%の力というのは、100人に一人、1000人に十人、1万人に百人のそれぞれ異なる特徴や能力をもった人たちで構成される1%という意味です。
商店主であったり、美味しい野菜を作ってくれているおばあちゃんであったり、ペンションのオーナーであったり、陶芸家であったり、デザイナーであったり、一匹狼型の公務員であったり、料理人であったり、まさにバリエーションが豊富なことこそが命で、その物差しは多様であること以上に、まさに計り知れない幅を持ったものです。(このような意味で、自己紹介ではじめから上場企業に勤めていましたなどと言ってくる人は、地域では意外と使いものにならない場合が少なくありません。)
ここは、ざっくりとした結論で申しわけありませんが、 100対1というレベルの少数派とも言えないマイノリティは、決して弱者であったりマイノリティーだということなのではなく、そもそも民主主義の原点に返れば、その一人こそが民主主義の一番の出発点であるのだという「覚悟」が、基本であるということです。
その「覚悟」を持った一人に、もしも、同じ覚悟を持った二人目、三人目があらわれたならば、
こんなに幸せで心強いことはありません。
万が一、それが七人でも集まろうものなら、映画ならずともそれは「出来すぎ」と言いたいほどです。
ものごとの道理からすれば、多数派を形成しなければ始められない、というのではなく、いかなる場合であっても、一人から始まり、一人ひとりによって構成されている「多数」なのだということです。
多数決型民主主義も必要であることに変わりありませんが、これからの時代はそれが全てではないということも理解していかなければならないと思います。
一人、覚悟をした人間がいれば、
それは過半数だ。
トム・ピータース
実際に1%の力が社会全体に与る影響力を実証しようとした事例があります。
それは、ビートルズにも影響を与えた宗教家、マハリシによって提唱された「超越瞑想」による社会実験です。
その社会実験は、「一つの都市で、人口の1%の人びとが超越瞑想を行うようになると、集合的無意識が浄化され、ポジティブになり、その都市での犯罪発生率が有意に低減する」というものです。
これは、マハリン国際大学によってアメリカの各地域で様々な実験が行われ、統計的に有意ないくつもの結果を得ることができ「マハリシ効果」と呼ばれているそうです。
調査たデータの精度の信憑性はわかりませんが、感覚的には十分納得できることです。
この場合の1%とは、都市レベルのことなので分母は少なくとも1万とか10万人になるので、100人とか1000人規模のことになります。この地域の1%程度の住民が、公共に対して主体的にかかわるレベルが上がるだけで、その地域全体が明るく活発な地域に見え、他の住民も幸せに感じられるようになるというのは、元気なコミュニティの姿として十分想像がつきます。
なくてもともと
一人か二人いたらば秀
十人もいたらたっぷりすぎるくらいである
茨木のり子「友人」
『おんなのことば』(童話屋)
ちょっとうまくまとめきれないので、
ダイジェスト版を作りました。
関連ページ
能力はあってもお金がなくて報われない人。
能力も、財力もありながら、健康に恵まれない人。
能力も、財力も、健康も備わっていながら、人望のない人。
世の中、ほんとうに人それぞれですね。
誰もがみななんらかの欠点をかかえて生きている。
でも、立派な人を見ると、これらはすべて言い訳にすぎないことがわかる。
人は欠点があるからこそ、それをバネにして頑張っている。
ほとんどの人びとは、生涯をその努力の途上で終わる。
自然界では、働かないアリすら立派な役割がある。
人間界も、ほんとうは同じ原理で動いてるのだけど、
人間はそれを「言い訳け」として使うから間違った方向へ行ってしまう。
この時代、
家族4人かかえて頑張っているような人
あるいはシングルマザーで頑張っているような人の仕事の内容に
いろいろ問題があるからといって、
どうしてそれを非難することができるだろうか。
必要なのは非難ではなく
努力すべき方法や方向の提案だ。
それは、決して知識や能力のあるなしだけで決まるものではない。
それは、屍累々、乗り越えていく覚悟のある実践者
のみに見えてくるものだから。
久しく記事をアップできずご無沙汰したおりました。
新しい仕事の立ち上げなどに追われ、こちらに気がまわらなくなっていました。
さて、今回の選挙は追い風でもないのに自民の圧勝という結果になりました。
小選挙区制の弊害が指摘されていますが、目指すべきよりよい結果というものがどのようなものなのかが明確に見えていなかったことも事実です。
アメリカの大統領選挙などでも、毎回、共和党保守勢力の底力の根深さには驚かされるのと同じように、震災後、脱原発や増税で景気は冷え込むなどの世論が大勢を占めているかのような風潮は、いくらそれが正しいとしても、そう簡単に全体が塗り替えられるものではありません。
以前このブログで「ガラガラポンに期待しない」http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/4cdbad6d7ac200e1f409a78968dbc2e0/fbといった記事を書きましたが、今改めてこのことを思います。
最近、ある公共図書館を軸とした住民主体によるデジタルアーカイブ計画の企画書を書き、そのあとがきとして、同様の趣旨の文を書き添えました。以下にその部分を転載してみます。
今日の日本や世界の政治的・経済的行き詰まり現象は、加速する高齢化社会に深刻な不安をもたらしています。もはや「不況」や「デフレ」といった言葉では括りきれない次元で、世の中の根底から社会構造や価値観が大きくかわりはじめているのを感じます。
このような時代には、どこかでガラガラポンを期待したり、強烈なリーダーシップを求めたりする声も高まりますが、私たちは既に何度も、過去には考えられなかった大きな変化=ガラガラポン(政権交代、大震災、原発事故など)を経験しています。にもかかわらず多くの人々が求めている大事なことは未だに変えられないのです。
この変えられない現実とは、これまでの歴史を振り返れば、今や誰かの責任ではなく、社会を構成する私たち自身の力不足にほかならないことを痛感させられます。
これからの時代、真に求められる私たちの力とは、なにかウルトラCの解決策を得ることではなく、それは私たち自身の力をひとつひとつ高めていくプロセスの中にこそあります。
そうした力になによりも役立つのが市民のための情報の共有環境です。ネット技術の進歩などにより、こうした情報の共有環境は劇的に整いはじめました。
今こそ市民自身の手で、結論を急がずに大事なものをひとつひとつ手に入れ、身につける環境が求められており、そうした活動に公共図書館を軸とした市民の情報共有環境の整備は何よりも大きな力を発揮するものと確信します。
(引用はここまで)
書店よりも公共図書館というものの役割が発達したアメリカでは、ホームレスや失業者にこそ、図書館は開放されるべきだとして、そうした人びとにこそ役立つサービスを公共図書館は果たすべきだと考え積極的に取り組んでいます。
日本では、いかにパブリックといえども、ホームレスの人が館内にいたら注意され追い出されかねない雰囲気ですが、世の中で最も困っている人々にこそ、情報が公開され活用されるべきだという発想です。
わたしたちは、問題が深刻で大きいからと、政治家のリーダーシップに期待したり、抜本的改革の提言を専門家に求めたりしますが、今のゆれうごく政治を見ていると、必要なのは、たとえ小さなことでも私たち自身が与えられた条件のなかで目の前の問題をひとつひとつ解決していく力です。
自分一人の力ではどうすることもできないから、誰か力のある人にお願いすることも必要ですが、誰かにお願いすること以上に自分のいま出来ること探すこと、あるいは自分の能力を高める一歩を踏み出すことです。
また誰かに協力をお願いするにしても、丸投げではなく、より具体的な提案の仕方や問題の絞り込みなどしっかりと練り上げてこそ、成果に結びつけることができるものです。
そのためには学校や図書館などが、これまでの文化教養の砦としてのイメージではなく、今そこにいる人、一人ひとりが直面している問題そのものを解決していくための学びの場であり、調べて考えていく場であることが求められています。
趣味のカルチャー講座や教室が盛んになることは決して悪いことではありませんが、それ以上に、失業した人びと、リストラにおびえる人びと、独立・起業を考えている人びと、経営難で悩んでいる人びと、老後の生活に不安を感じている人びとにこそ役立つ図書館や学校がなければならないと思います。あるいは硬直した組織をどう動かすか、話の通じない相手にどう伝えるか、自分の感情をどうコントロールするかといった問題です。
より本を売りたい立場として、公共図書館の地域での役割を考えるものとして、生きていくため、食べていくための学びの場こそ築きたいと思っている者として思うことは、自分自身のかかえているその「やっかいな問題」に立ち向かうことこそが「生きる力」であり、目の前の人がかかえているその「やっかいな問題」を一緒に考えることこそが、より高い「知恵」であるということです。
現代人は、えてして「学ぶ」ことを口実にして、あるいは「みんなと相談すること」を口実にして、目の前の自分の問題から逃げていないでしょうか。
市民の権利や民主主義を、なにか誰かに文句を言う権利かのように誤解してはいないでしょうか。
政治家や市民団体などを通じて、誰かに圧力をかけて動かすことではなく(もちろんそれも必要な場合もありますが)、わたしたち自身の力で、ひとつひとつの目の前の問題解決能力を高めていくことこそが求められているのではないかと思うのです。
経済の問題など難しくてわからないとも言われますが、まさにその「わからない」ことで「自分自身を放棄」する習慣こそやめなければなりません。
その「わからない」ことこそが知る権利、義務であり、専門家にまかせるのではなく、専門家にわかるまで聞き続ける力なのです。
一見、時間と手間はかかるようでも、わからない人をターゲットにした方が、学校も含めて社会の知力、真の学力は上がるものです。
こんなことを書いても、田舎の暇人の戯言にしかすぎませんが、こうしたスタンスで今の世の中をみると、いくらかでも世間を悲観することなく、自分がおかれた環境に感謝する気持ちにもなれるものです。
確かに私には太刀打ちできないような現実に満ちていますが、自分のできることでひとつひとつ成果が上がれば、これに勝る幸福感はありません。
世界がどうなろうが、日本がどうなろうが、この小さな田舎で生きて行く俺たちは、勝手に楽しく生きて行ける展望がある。
ひと昔前に比べたら、お金がなくても、組織に依存しなくても、個人ができることは飛躍的に増大しました。
わたしはようやく世界的に「人類の本史」に入ろうとしているのではないかと感じています。
繰り返しますが、「私はガラガラポンを期待しません」
ただひたすら最も面白い時代に自分が巡りあわせたことに感謝しています。
世の中、国を問わず、性別や世代を問わず、さらには業種を問わず、おそらくまだまだ厳しい時代がつづくことと思います。
このような閉塞感がただよった時代には、「政界再編」などという言葉とともに、一度、世の中をガラガラポン(リセット)しなければだめだなどという風潮が高まってきます。もっと確たるリーダーシップが求められる時代であるとも言われます。だからこそ総選挙だ、などという言葉を聞くとわたしはとても虚しく思えてなりません。
確かにひとつの自治体や国のトップが変わるだけでも、これまで成しえなかった大きな変化が起きているのは事実です。でも、誰かに何かを期待するという発想そのものが、とても危険であるばかりか、結果は社会の進歩をもたらさないものだということも、もっとよく考えおくべきだと思います。
政治の問題に限らず、今の日本は、戦争でもおきなければもう変わらない。
いっそ隕石でも落っこちて、一度世の中をチャラにしてほしい。
などといった空気が蔓延しているのも感じます。
このような思いは、私自身もかつて思ったことがありました。
実は、つい最近、引越しなどの環境の変化もあってか、気力体力ともに喪失してしまい、最近では考えられなかったような自信喪失スランプに陥っていました。そんなときは、どうしても自力では突破口が見えなくなっているので、いっそもう一度首都直下大地震でもおきて、日本をチャラにしてもらえないものだろうか、などと考えてしまうものです。
この間、自分自身がそのような情況に追い込まれてよくわかりました。
といっても、不調のどん底にいるときにはなかなかそうした発想から抜け出せないこともよくわかったのですが・・・
ガラガラポンへの期待、
戦争でも起きなければ世の中変わらない・・・などなど
ほんとうに、そう思うほど世の中閉塞感に満ちていることは確かです。
でもよく思い出してほしい。
わたし達は、すでにそうした大変化、ガラガラポンを既に何度も経験しています。
政権交代?
政界再編?
未曾有の大災害?
どれももう起きていることではないですか。
経験していることではないでしょうか。
十分に!
にもかかわらず変えられなかった私達の力の弱さがあるということの方を、もっともっとよく見据えなければいけないのです。
いや、それは我われの責任ではなく、上の連中が悪い?
いや、もっと大きな変化が起これば、みんな目が覚める?
ひょっとしたらそうかもしれません。
でも、もう一度よく考えてみてほしい。
もっと大きな何かが起これば、それは保証されることなのでしょうか。
真に変わることを求めるのならば、目先の変化を求めてしまうほど後で大きな代償を払うことになるということも私たちは学んでいるはずです。
「他の何か」に期待するということもっと冷静に見なければいけません。
必要なもの、大事なことは
「誰か」の「他の力」ではなく
「私たち」の力なのです。
自分自身、元気なときによく言っていたことを思い出す。
会社であろうが、地域であろうが、国家であろうが、その1構成員である自分は、肩書きにかかわりなく、自分のかかわるその問題に対して常に「全権」を持っている。それこそが「一票」なのだ、などとは申しわけありませんがあまり思っていません。
もちろん、その「一票」が大事でることに異論はありませんが、たとえその「一票」を持たない、すべての社会的権利を喪失した立場であったとしても、「生きている個人」であるならば、自分がどうするかということに関しては、常に「全権」持っているという原則のことです。
誰もがスーパーマンになる努力をしなければいけないということではありません。
いやならやめる、
自分に力が無ければ助けを呼ぶ、協力を求める。
こういったレベルのことです。
自分に必要な次の一手は、いかなる場合でも自分が握っているのです。
「それぞれの国民はその国民に適合しその国民にふさわしい体制(国家)を有する」といったようなことをヘーゲルが言ってましたが、一部の人からこれは、不合理な体制を否定する権利をヘーゲルは見落としているなどとも言われました。しかしここでヘーゲルの言っている論点は、国民に不合理な体制であったとしても、国民自身がそれを変えられない限り、そこにはまだなんらかの「合理性」が存在しているという点にこそ核心があるのだと思います。弁証法議論に深入りする力は私にありませんが、閉塞感に満ちた情況から脱する手がかりというのは、難しい問題ではなく、自分に出来る次の一歩、一手をどう見極めるか、目の前のひとりにどう対処するかにこそすべてかかっているのだということです。
ほとんどの場合、すべての問題を解決する力は誰も持っていませんが、目の前のひとつの問題に集中さえできれば、多くの他の残っている困難な問題は、難問ではなくなるものです。
もちろんこれで日本が変えられるわけではありませんが、世界を変えるほどの自信がここから湧き出てくることは確かです。ひとりひとりが、自分の目の前のひとつの問題に集中することなく、国家や社会の問題が解決することは決して幸せな結末をもたらすものではないとうことを強く感じます。
マスコミに登場する人たちが、ガラガラポンを大いに議論してくれることは必要なことで、私も期待しています。楽しく見させていただいてます。
でも、私自身は決してガラガラポンには期待しません。
急激な変化や、特定の個人の力に依存した変化は、すぐに揺り戻しが起きて元に戻ってしまうからです。
次の本も、きっとこのようなことが書いてあるに違いないと思います。
ヒーローを待っていても世界は変わらない | |
湯浅 誠 | |
朝日新聞出版 |
以前どこかで読んだことです。
昔の左翼用語のイメージでとらえられがちな表現ですが、
「アジテーター」と「オルガナイザー」という言葉があります。
このふたつを区別する説明で、以下のようなうまい表現で説明されていたのを記憶しています。
アジテーターというのは、ひとつのことを10人の人に伝える仕事をする人。
オルガナイザーというのは、10のことをひとりの人に伝える仕事をする人。
というのです。
なるほどと思ったものです。
私たち本屋の仕事は、まさにこのふたつの方法をそれぞれ行うことが大事です。
あくまでもものごと原則は、1対1。
ハート・トゥ・ハートが基本ですが、それだけではビジネスになりません。
運動の輪も広がりません。
ただ有象無象のたくさんの本をいろいろな人に売るということではなく、
10人の人に伝えたいようなすばらしい1冊の本を見つけ出し、それを伝えること。
あるいは1冊の本の魅力が、10人に伝わるような売り方をすること、それが大事です。
本との出会いなど、まさにパーソナルなものです。
ひとりひとり、まさに千差万別の出会いによって成り立っているもので、私たちの仕事はそうした出会いに個別に対応していくことが求められています。
しかし、それをより多くの人にサービスとして提供して、ビジネスとしてそれが成り立つようにするには、ひとつひとつの出会いを個別の体験にとどまらせることなく、なんらかの仕組みづくりをすることが必要です。
それが、このオルガナイザーとアジテーターのふたつの方法論です。
特定のひとりのお客さんのためにすすめられる本を10冊選びだすこと。
児童書に興味のあるお客さん、
自己啓発書に関心の強いお客さん、
仏教関係に興味のあるお客さん、
海外のミステリー小説を読みあさるお客さん、
特に専門はないけれど強い読書意欲を持っているお客さん、
・・・等など
あらゆる分野の顧客に対応することなど、普通の人間に出来ることではありませんが、店の一部のヘビーユーザー数人のこうした需要に応えること、またそうした見方をしながら日々の商品をみていること、お客さんをみていることが大切です。
うちのB型のパートさんは、こうしたことを実によくやってくれています。
時々、こんな本がよく売れたものだと驚くようなことがあります。
またこんな本いったいどんな人が買ってくれたんだろうと思うこともあります。
その本は、確かに2冊目が売れるようなことはまずあり得ない特殊な本かもしれません。
しかし、その本を買ったお客さんがどんな人かがわかると、その本の次に仕入れるべき1冊の本が見えてきたりします。
ひとりのお客さんの指向やリクエストから10冊の本を導きだすこともありますが、
1冊の特殊な本を買ってくれたお客さの顔と名前を知ることで、それに続く10冊の本を見つけ出すこともあります。
1冊の本を、文化として見るためにも、商品として見るためにも、このように
1冊の本を10人につたえるしくみづくり、
ひとりのお客さんに10冊の本を薦めるしくみづくりは
とても大事なことなので、日々心がけて、ブログやホームページ、メールマガジン、チラシニュース、POPなどで訓練し続けることが求められます。
現実には、1冊の本を10人の人へでなくとも、3人くらいの人の顔を想い浮かべるだけでも
日々そうした訓練が出来れば十分だと思います。
普通の相手であれば、ひとりの人へ薦められる3冊くらいの本を思い浮かべるだけでも、十分だと思います。
ただ「良い本」売るということではなく、売るためのこうした「エンジン」を持つことが、ビジネスとしてはとても大事なことです。
以前、社会の基礎単位のこととしてブログに書いた内容ですが、大事な基礎数字の意味を最近の同業者の集まりで再認識したので、もう一度整理してみます。
日本中どこへ行っても、郊外の幹線沿いは良く知れた屋号の看板が並び、他方、中心地では衰退した街中商店街が細々と営業をしている姿をみます。
たまには例外的に元気な商店街をみたい、ナショナルチェーン以外の看板の並ぶ道路を走ってみたいと思っても、すでにその望みはほとんど断たれてしまっていると断言しても差し支えないほどにまでなってしまいました。
今どき、衰退した商店街でいくら頑張っても、顧客の絶対数が足りないのだからどうすることもできないかの嘆き声が聞こえてきます。
しかし、わたしはその考え方、発想は、根本から改めなければならないと感じています。
いついかなる業種であっても、そこにお客が来なくなったのは、規模の問題でも、立地の問題でもない。そこに「競争力のある商品とサービス」が無かったからであると。
今では、その「競争力のある商品とサービス」がなければ、たとえ全盛を誇った郊外店であっても、巨大ショッピングセンターであっても、たちまちに衰退してゴーストタウンと化す時代なのです。
「顧客のために」という言葉のもとに生まれる新しいサービスは、古いものを駆逐し、やがて自らも駆逐され、次々と新しい廃墟を生みだしていきます。
そこには、必ず新しい希望に満ちた街ができるといわれながら、その一方でこれまでに作られ続けた廃墟の量に私たちはようやく気づきはじめました。
はたして、市場はどれだけ拡大してきたのでしょうか?
私たちは企業経営の側からの市場規模拡大の論理に、あまりにも引きずられてしまっていないでしょうか。
以下に紹介する数字は、そんなことを考え直してみるためのものです。
それは、
1億 → 2万 → 5,000 → 1,000 → 200 → 40 → 2~8
という数字の流れのことです。
この話だけでも詳しく説明しているとかなり長くなってしまうので、今回は、この考えの軸になっている
1億 → 2万
という部分に限定して書くことにします。
1億というのは、日本の人口のことです。正確には1億何全万かなのですが、
乳幼児や一部高齢者など市場に影響のない(実際にはそんなことはないのですが)人々を除いて、わかりやすい数字としておよそ1億人を基礎数字としました。
次の2万というのは、書店、もしくは小売その他の営業所数のことです。
一番わかりやすい業種で、コンビニの店舗数が全国でおよそ5万店といわれます。
どこに行っても頻繁にわたしたちが目にする業種です。
それよりも多いのが歯医者さん。
全国に7万人もいるそうです。
他の医療に比べると、ほぼ医者の数が診療所の数と一致します。
ところが、この歯医者をさらに上回る業種があるのを知って驚きました。
それは、お寺です。全国に約7万5千あるそうです。
一部、廃寺同然のものもあるにしても、神社に比べたらはるかに専業の坊さんのいる事業体としてきちんと成り立っています。
他方、わたしたちの書店業界をみるとピーク時には2万3千あまりもあったものが、今では1万6千店ほどにまで減ってしまいました。
なんと6千店以上、約4分の1といっても良いほどの数が減っています。
さらに少ない業種としては、最近話題になっている産婦人科があります。
産婦人科や眼科などとなると1万人レベルになってしまいます。
日ごろまわりでちょっと探すのが難しくなる業種というのが、この1万人代の数字になるのです。
これらの数字をみて、私たちの業界、書店を振り返るととても実感としてもわかると思いますが、
全国で2万を切ると、ちょっとした田舎になるとその業種がない地域が出てくるということです。
わたしのまわりでも、もう住んでいる街にはコンビニ以外本屋はないという地域が少なからず出ています。
こうした実感から、2万という数字が、全国どこへ行っても身近に存在するかどうかのボーダーラインであると思って差し支えないのではないかと思うのです。
これを前提に考えると、
1億 ÷ 2万 = 5,000
という数式ができます。
もちろん、都市部と山村部では人口密度におおきな違いがありますが、
大雑把にみれば、業種を問わずひとつの店が対象とする市場の基礎単位は
5000人であるとみて間違いないのではないかと思うのです。
なにも高齢化社会対策に限らず、人が地域で健康で文化的な暮らし、安心して暮らせる環境をつくるには、
人が歩いていける範囲内(半径600m以内)で生活に必要なすべてのことが満たされる社会というのが、
これからの社会を考えた場合、国や地域を問わず求められる基本思想であると私は私は考え考えています。(参照:アワニー原則)
この半径600m以内という目安とともに、大事なのが5000人規模ということです。
もちろんこれには、地域によってかなりの幅をもたせて良い数字であると思いますが、全国平均で考えるとこれはかなり妥当な数字になっていることと思います。
平成の大合併などの発想ではなく、本来の住民自治を考えるならば、あらゆるコミュニティーの基礎単位として、このくらいの規模をベースに地域社会を組み立てることがこれからの時代、とても大事なことであると考えられるのです。
現実には、どんな業種でも5000人すべてが顧客になるわけではないので、
この内の2割、つまり1,000人程度の顧客を対象にしてビジネスが成り立たないといけないと考えることが、理想の地域社会のイメージのなかでは重要になります。
今の常識からすると、それではやっていけそうにないと感じるかもしれませんが、
かつての日本社会では、決してこの数字は高いレベルではなく、あたりまえの数字でした。
いえ世界の大半では、ヨーロッパも含めて5000人規模の市場の1,000人の顧客というのは、
普通の事業規模で考える数字であると思います。
むしろ、大事なのは、5000人規模の市場で成り立たない、やっていけない業種というのは、市場規模が小さいからやっていけないのではなく、その地域の5000人の需要にそこの商品やサービスの質が応えきれていないと考えることの方が重要になってくることです。
ここが大事です。
5,000人規模の市場で1,000人レベルの顧客の需要にきちんと応えられないビジネスが地域で生き残れないのであり、規模や立地の問題は、短期的な影響は大きいものがありますが、長期的に地域に生き残っているお店をみれば、なによりも大事なのは地域の要望に応える「競争力のある商品とサービス」の開発であることに例外はないことがわかります。
新規客を増やすことよりも、今わたしたちにわたしたに求められているのは、1000人の顧客の不満を解消し、その需要にきちんと応えることです。
その能力がないまま、企画やイベント、あるいは値引きポイントで新しい客を増やしても、それが優良常連客になることはありません。
たしかに業界の問題、地域や行政の問題などもたくさんありますが、まず、自分自身の問題としてこのことをしっかりとおさえることが、なによりも重要なのではないかと思うのです。
次回に、この1000人の顧客の実質部分といえる2割、つまる200人のコアの顧客をしっかりと捕まえる店づくりの考え方として北海道の岩田書店さんのやっている顧客カルテのことや、顧客情報と結びついたPOSのことなどについて書くことにします。