久しく記事をアップできずご無沙汰したおりました。
新しい仕事の立ち上げなどに追われ、こちらに気がまわらなくなっていました。
さて、今回の選挙は追い風でもないのに自民の圧勝という結果になりました。
小選挙区制の弊害が指摘されていますが、目指すべきよりよい結果というものがどのようなものなのかが明確に見えていなかったことも事実です。
アメリカの大統領選挙などでも、毎回、共和党保守勢力の底力の根深さには驚かされるのと同じように、震災後、脱原発や増税で景気は冷え込むなどの世論が大勢を占めているかのような風潮は、いくらそれが正しいとしても、そう簡単に全体が塗り替えられるものではありません。
以前このブログで「ガラガラポンに期待しない」http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/4cdbad6d7ac200e1f409a78968dbc2e0/fbといった記事を書きましたが、今改めてこのことを思います。
最近、ある公共図書館を軸とした住民主体によるデジタルアーカイブ計画の企画書を書き、そのあとがきとして、同様の趣旨の文を書き添えました。以下にその部分を転載してみます。
今日の日本や世界の政治的・経済的行き詰まり現象は、加速する高齢化社会に深刻な不安をもたらしています。もはや「不況」や「デフレ」といった言葉では括りきれない次元で、世の中の根底から社会構造や価値観が大きくかわりはじめているのを感じます。
このような時代には、どこかでガラガラポンを期待したり、強烈なリーダーシップを求めたりする声も高まりますが、私たちは既に何度も、過去には考えられなかった大きな変化=ガラガラポン(政権交代、大震災、原発事故など)を経験しています。にもかかわらず多くの人々が求めている大事なことは未だに変えられないのです。
この変えられない現実とは、これまでの歴史を振り返れば、今や誰かの責任ではなく、社会を構成する私たち自身の力不足にほかならないことを痛感させられます。
これからの時代、真に求められる私たちの力とは、なにかウルトラCの解決策を得ることではなく、それは私たち自身の力をひとつひとつ高めていくプロセスの中にこそあります。
そうした力になによりも役立つのが市民のための情報の共有環境です。ネット技術の進歩などにより、こうした情報の共有環境は劇的に整いはじめました。
今こそ市民自身の手で、結論を急がずに大事なものをひとつひとつ手に入れ、身につける環境が求められており、そうした活動に公共図書館を軸とした市民の情報共有環境の整備は何よりも大きな力を発揮するものと確信します。
(引用はここまで)
書店よりも公共図書館というものの役割が発達したアメリカでは、ホームレスや失業者にこそ、図書館は開放されるべきだとして、そうした人びとにこそ役立つサービスを公共図書館は果たすべきだと考え積極的に取り組んでいます。
日本では、いかにパブリックといえども、ホームレスの人が館内にいたら注意され追い出されかねない雰囲気ですが、世の中で最も困っている人々にこそ、情報が公開され活用されるべきだという発想です。
わたしたちは、問題が深刻で大きいからと、政治家のリーダーシップに期待したり、抜本的改革の提言を専門家に求めたりしますが、今のゆれうごく政治を見ていると、必要なのは、たとえ小さなことでも私たち自身が与えられた条件のなかで目の前の問題をひとつひとつ解決していく力です。
自分一人の力ではどうすることもできないから、誰か力のある人にお願いすることも必要ですが、誰かにお願いすること以上に自分のいま出来ること探すこと、あるいは自分の能力を高める一歩を踏み出すことです。
また誰かに協力をお願いするにしても、丸投げではなく、より具体的な提案の仕方や問題の絞り込みなどしっかりと練り上げてこそ、成果に結びつけることができるものです。
そのためには学校や図書館などが、これまでの文化教養の砦としてのイメージではなく、今そこにいる人、一人ひとりが直面している問題そのものを解決していくための学びの場であり、調べて考えていく場であることが求められています。
趣味のカルチャー講座や教室が盛んになることは決して悪いことではありませんが、それ以上に、失業した人びと、リストラにおびえる人びと、独立・起業を考えている人びと、経営難で悩んでいる人びと、老後の生活に不安を感じている人びとにこそ役立つ図書館や学校がなければならないと思います。あるいは硬直した組織をどう動かすか、話の通じない相手にどう伝えるか、自分の感情をどうコントロールするかといった問題です。
より本を売りたい立場として、公共図書館の地域での役割を考えるものとして、生きていくため、食べていくための学びの場こそ築きたいと思っている者として思うことは、自分自身のかかえているその「やっかいな問題」に立ち向かうことこそが「生きる力」であり、目の前の人がかかえているその「やっかいな問題」を一緒に考えることこそが、より高い「知恵」であるということです。
現代人は、えてして「学ぶ」ことを口実にして、あるいは「みんなと相談すること」を口実にして、目の前の自分の問題から逃げていないでしょうか。
市民の権利や民主主義を、なにか誰かに文句を言う権利かのように誤解してはいないでしょうか。
政治家や市民団体などを通じて、誰かに圧力をかけて動かすことではなく(もちろんそれも必要な場合もありますが)、わたしたち自身の力で、ひとつひとつの目の前の問題解決能力を高めていくことこそが求められているのではないかと思うのです。
経済の問題など難しくてわからないとも言われますが、まさにその「わからない」ことで「自分自身を放棄」する習慣こそやめなければなりません。
その「わからない」ことこそが知る権利、義務であり、専門家にまかせるのではなく、専門家にわかるまで聞き続ける力なのです。
一見、時間と手間はかかるようでも、わからない人をターゲットにした方が、学校も含めて社会の知力、真の学力は上がるものです。
こんなことを書いても、田舎の暇人の戯言にしかすぎませんが、こうしたスタンスで今の世の中をみると、いくらかでも世間を悲観することなく、自分がおかれた環境に感謝する気持ちにもなれるものです。
確かに私には太刀打ちできないような現実に満ちていますが、自分のできることでひとつひとつ成果が上がれば、これに勝る幸福感はありません。
世界がどうなろうが、日本がどうなろうが、この小さな田舎で生きて行く俺たちは、勝手に楽しく生きて行ける展望がある。
ひと昔前に比べたら、お金がなくても、組織に依存しなくても、個人ができることは飛躍的に増大しました。
わたしはようやく世界的に「人類の本史」に入ろうとしているのではないかと感じています。
繰り返しますが、「私はガラガラポンを期待しません」
ただひたすら最も面白い時代に自分が巡りあわせたことに感謝しています。