かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

スポーツ振興・インド・草の者

2008年08月28日 | 上野国「草の者」研究所
ちょっとわけのかわらない三題話ですが、おつきあいください。


北京五輪の放送は、ほとんど観れなかったけど、
それでも運良く、女子サッカーのドイツ戦と
ソフトボールの決勝戦だけはみれた。

このふたつだけでも、十分満足させてくれる内容でした。

ソフトボールについては、もう十分語られていることでしょうが、
女子サッカーの躍進とその実力の高さを見せつけたドイツ戦は、ほんとにすばらしかった。結局は負けちゃったけどね。
男子でもあれだけワンタッチでパス回しをすることはそうは出来ない。
今後がとても楽しみです。

で、北京五輪が終わってから湧き出したのが、他国と比較してみたときの日本のスポーツ予算の低さでした。
メダルひとつ増やすのに、約1億円の増額が世界相場のような論調。
日本も、中国、韓国、イギリス並に増やせと。
たとえ同等にまでとはいかなくても、日本の現状はあまりにも低すぎると。

日本の予算が低すぎることは納得できるのだけど、だからといって中国やイギリスの真似をしても、なんなんだと言いたい。

そこで、世界のメダルの獲得数を見てみると
おおよそは、メダル獲得数のベースは国力≒人口の関係にあり、大国アメリカ、中国、ロシアが上位を占めるのが基本構造。
比較的、国力よりも健闘しているのは、レジャーやスポーツの盛んなオーストラリア、カナダあたりだろうか。
そうした前提でみると、日本は、おおまかに妥当なレベルにあり、どちらかといえば、
体の小さいわりには十分健闘しているともいえる。

ところが、こうした前提でずっと気になっていたのが、インドです。
今や中国とならんで、既存の先進国を脅かす存在で、ITや科学技術の分野では、今やインドのエンジニア抜きでは成り立たないほど、世界の中枢を支えている。
人口規模だけでなく、国力の進展もめまぐるしい。

ところが、ことスポーツとなると、
なぜかインドは、いかなる分野をみても、あまり顔を見ない。
中国ほどではなくとも、少しは上位に出てきそうなものだけど、
どんな競技を見ても、インドが上位に加わってくることはない。
カレーを食べると、競争心が無くなるのか?

そういわれてみれば、
確かにカレーを食うと満足してしまい、もう他にはなにもいらない気分になる。

でもインドに限らず、なんとなくインドから東南アジアにかけての民族は、競い合うという雰囲気ではない。
すぐにしゃがんでしまい。まわりの様子をただぼーっと眺めてしまいそうな感じ?
これはなにか文化、民族性の問題なのだろうか?
それとも、インド洋を吹き抜ける風のなせるワザ?

でも、私からすれば、スポーツはダメでも、エンジニアとすばらしい音楽文化を持っているだけで、すばらしい国であることには違いない。
インドがメダルの数にこだわらない国家戦略をとっているわけではないだろうが、
ここで気づいてほしいのは、国力=人口規模=経済力の構造にかかわりない、それぞれの国の魅力、独自の強さをいかにつくるか、ということに
もっともっとスポーツも含めて目を向けるべきではないだろうかということです。

経済力と同じく、軍事力の議論でも同じなのだけど、ものの強さを常に「量」でしか比べられないひとたち。
「量」が大事な指標に違いないのだけど、
国が小さいのに
体が小さいのに
なぜこの国は、この分野ではかくも強いのだろう
と言われてはじめて尊敬されるのではないだろうか。

強くなるには、国力=人口=経済力=軍事力を増やさなければ勝てない
の論理では、ほんとうの競争にはなっていない。
スポーツこそ、最もこうした論理から脱却するべき分野でしょうに。


で、わたしが思うに、
そうした「量」の比較に左右されない真の「強さ」を実現するような
スポーツ振興政策を日本こそが、とるべきではないだろうか―、

ということで、三題話の最後、
「草の者」の登場となるわけです。

総じて、スポーツ競技者というのは、選手として活躍する期間が短いだけではなく、
引退後の生活の保証がないのも特徴で、運良く、監督やコーチとしてその世界にとどまれる例は、確率からいえば極めて低い。
そればかりか、身体的にも、スポーツ選手の方がなぜか短命である場合が多い。
芸術家や農林漁業の自営業者のほうがずっと、
相場でいえはスポーツ選手よりも長生きしていると思う。

かといって、かつての社会主義国のように、メダル獲得者に一生安心して暮らせる年金生活を保障することが、20歳そこらで栄誉を得た選手の生涯を考えると、それがほんとうの幸せになっているとも思えない。

こうした構造を考えたとき、
国が真にスポーツ振興に力を入れるということを考えるならば、
メダルの獲得数を増やすことに何十、何百億の金をつぎ込むことが良いことといえるだろうか。

そんなことに何百億つぎ込むよりは!
「草の者」の事業に10億ばかし、つぎ込んだほうが遥かに国民のためになるのではないだろうか。

いや、5億でもいい。

つまり、競技としてのスポーツを問題にする前に、
子供の読み・書き(プラス書道)・計算の能力をしっかりつけることが、その後の学力、思考能力を大きく左右するように、個別競技を問う前の基礎体力、
つまり、
「強靭な足腰」を小さいときから鍛え、
社会人から高齢者になっても、その鍛錬を国民の基礎活動と位置づけることができれば、
スポーツの領域に限らず、あらゆる領域に波及する
国民の健康増進に最も効果のかる活動となるのです。

こうした鍛錬に、私の「草の者」の活動ほど適した運動はない。

闇夜であろうが、
崖であろうが、
激流越えであろうが、
道のあるなしにかかわりなく、一夜にして100キロを駆け抜ける能力を持った日本国民が育てば、
いかなる外国の軍事力に対しても、徹底ゲリラ戦で闘い生き残ることができる。
あらゆる競技に適応できる基礎体力を持った国民が育つ。
年衰えても、足腰だけはしゃんとした老人となり
施設のお世話になる必要はなくなる。
いつまでもうじうじ考えず、スパッと行動に移れる国民ができる。

すばらしいではないですか。

5億といわず
3億ぐらいでもできるんじゃないかな?

ね。
「かみつけの国 草の者研究所」に、
どお?
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山のとっておきの読書空間

2008年08月24日 | 上野国「草の者」研究所
わたしのプロフィールのなかで紹介している読書空間のひとつ、
第7書斎、いくつかの山のお気に入りスポットで 、
上州武尊山の前武尊山頂手前に、不動岩という場所があります。

ここは、本業として山伏をされている三重院の円信さんの修行の中心地でもあります。

登山口の駐車場からその不動岩までは、1時間程度で着くことができます。
時計をきちんとみたことがまだありませんが、駐車場からなだらかな登りが約10分。
樹林の中の急登が約30分。
尾根を数回のアップダウンを経て不動岩までが20分といった程度の配分だと思う。

家から最も近い「草の者」の修行コース水沢山よりも、車の移動時間を除けば最も手軽な場所です。
それでいながら、ロケーションは抜群!
尾瀬や谷川岳のように登山者が列をなしてくることもない。
平日であれば、一日誰にも会わないことも多い。

この岩の上に寝転んで、私は3、4時間すごすのです。
独立した岩の上なので、谷あいからいつも涼しい風が吹き上げてくる。

山頂に向けて細い稜線が連なっているので、時々つむじ風が
まるで天狗が駆け抜けていくかのように、吹きぬけていきます。

風の音と小鳥のさえずりを聞きながら、
ウヰスキーのポケットビンをあける。
ピーナッツかチョコボールをつまみに飲むことが多い。


山に登りつめたときはビールが飲みたいものですが、
長期滞在型となると、どうもウヰスキーのほうがいい。
寝転んで少し落ち着いたら本を読む。
今回はカラマーゾフの4巻、最後の200頁の裁判シーンのところだけ読もうと思って持ってきた。でも、私の場合、山で小説を読むことは少ない。

ウヰスキーの酔いがまわったらそのまま寝る。

今回は撮影で1時間近くも使ってしまったので、本はあまり読めなかった。
その分、ウヰスキーの減りが早い。
でも、ポケット瓶の5分の1くらいは残しておくのが大人の理性。
いい気分でくいくい飲んでると、岩の上で立ちあがったときにクラ~っとなると危ないし、下りのときのほうが足元は危ない。

最初は3分の1くらいは残すつもりが、4分の1くらいなら・・・・・と
それでもなんとか5分の1だけでも、
いや6分の1でも変わらないか?
などと適当に基準は変わってしまうのだけど・・・

今回は、初めてビデオを持って登った。
山の上からのワイドな映像は、広角レンズがないと、なかなかそのスケールは写せないかと思ったが、ビデオだと意外と簡単にそれが可能であることを感じた。
これからは、できるだけ持ってくることにしよう。
アナログビデオなので、デジタルに変換、編集してからアップします。


これから、定点観測場所として撮影も続けることにしよう。
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新刊書は自我のため、古書は知性のためにある

2008年08月23日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)
「新刊は著者主体で促進される国内の経済であるのに対して、古書は主題別に推し進められる世界の経済なんだ。新刊書は自我のためにあり、古書は知性のためにあると言い換えてもいいね。」

本を語る表現で、久しぶりにガツン!とくる言葉に出会いました。
業界紙「新文化」2008年8月21日号に出ていたイギリスの古書の村「ヘイ」の王様が語る頑固で崇高な理念の記事です。


英国中西部のウェールズ地方の極めて交通の便の悪い場所に、今や世界的に知られる約30件の古本屋が密集するところがある。本紙の取材の相手は、この村を世界的に知らしめた立役者リチャード・ブース氏。

ヘイを真似した古書村は、今では全世界に15もあるといいます。
古書の村では日本にも只見村の例がありますが、それとはちょっと性格が違います。

書店業界、出版業界の市場縮小にともない、古書の販売を併設する書店も増えていますが、新刊書と古書の市場の違いについて、この方は流通上の違いだけではなく、商品のもつ性格の違いをとても深くとらえています。

私は、自分の店で一部、古書も取り扱っているのですが、見かけの粗利の良さや、二次流通市場の広がりだけから、新刊書店が古書販売に参入してはいけないと思っています。
古書は古書のきちんとした管理が出来ないと、新刊書以上に死んだ棚をつくる原因になるからです。
それでは、どのような棲み分けが求められるのか、といった問いにブース氏は的確に応えています。

「新刊書は国内の経済、古書は世界の経済」といった表現は、ブース氏のビジネスモデルの成功体験からきているものですが、この国内、世界という表現は、ローカルか、グローバルかといったニュアンスだけでとらえてはいけないと思う。
それよりは、「古書は主題別に推し進められる世界」といった表現のほうが大事だ。

もちろん、規模の経済のなかでは、ブックオフのようなモデルは間違っているわけではない。また新刊書のデータを見せながら、圧倒的多数を様々な古書店や個人が出品する古書データの販売で稼いでいるamazonも、ひとつの理想のモデルであることに異論はない。

しかし、規模の経済のビジネスモデルの枠のなかでは、売り手が知識や情報に攻め込むことはない。
顧客・読者が勝手に大量の在庫情報のなかから見つけてくれることこそが大事だからだ。

ここが私にとっては一番大事なポイントだと感じました。

ブース氏は、「私たちは、貧しい経済によって動いている」という。
だが、同時にそれは世界を相手にしている。
古本の村は、ともすれば地域内の小さな読者から始まると思われがつだが、それは間違いだと言う。全世界のマーケットを相手にしてこそ初めて可能になるのだと。

ここに「主題別に推し進める」ことと、「古書は知性のためにある」ということ、「全世界の顧客のメーリングリストこそが財産」という所以がある。
古書をおいているビジネス、古書を大量に扱っているビジネスではない。これは攻めの情報ビジネスだということだ。


ここに最近わたしがずっとキーワードとして追い続けている問題を、大きく後押ししてくれるものを感じます。

・書店は「版元の代理人」であることから速やかに脱却し、「顧客の代理人」にならなければならない

・書店に必要なのは「配本」ではない!「仕入れ」だ!



ブース氏はさらにこういう。
ラテン語の諺で「最良のものが腐敗すると最悪と化す」というのを知ってるかい?
これはBBCのことだよ。
BBCは私のヘイでの活動を批判し破壊しようとした。なぜなら私は彼等とグルだった政治家にとって驚異だったからだ。でも私が相手にしているのは全世界のマーケットであり、世界的な古書の売買をしている。


現状のマス市場やメジャーな世論とは徹底的に闘い、ニッチのテーマでゲリラ的に攻め続ける世界文化の問題だ。行動はゲリラ的でありながら、その思想は常にグローバルであるということだ。

なんてことを田舎の小さな書店で叫んでも通じないだろうけど、この記事を見て、とても心強い味方を発見した満足感でいっぱいです。


私個人は8、9割を古書で購入していながら、新刊書店の仕事をしていることの矛盾も、これでだいぶ整理することができそうです。
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混ぜる、異質なものを混ぜる

2008年08月22日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
わたしのもうひとつのブログ「正林堂店長の雑記帖」のほうに、先日亡くなられた福岡正信さんを偲ぶ記事を書きました。
そこで「自然の森」、「モンモノの森」というものを作り育てることを考えると、本物の森づくりをされている宮脇昭さんの活動と福岡正信さんの考えも、とてもリンクした思想であったことを感じました。

本物の自然環境をつくる。あるいは復活させるには、出来るだけ異質なものを混ぜて育てることが重要であると。

人工の「自然」環境と異なり、ホンモノの自然は、無数の生物が時には競争しあい、時には助け合い、時には共生しあい、複雑なバランスを築き上げている。
ホンモノの森を見ると、決して単一樹種で成り立っていることはない。
高木、亜高木から低木、下草類まですべて、それぞれの役割を担っている。

ホンモノの森を再現するための植樹するときは、出来る限り異質な木の苗木を混ぜて、密に植える。すると、それらの木々は適度に競い合って、成長とともに、自然に棲み分けもされていく。
これが強い本来の森をつくる。

異質なものを混ぜた方が強いということは、生物界のみの話ではない。

城づくりなどの石垣を積み上げる技術でも、近世以降の四角く整形した石を積み上げるよりも、様々な大きさや形の自然石を積み上げたほうが崩れにくい。
方形の石を積み上げる方が確かに効率は良いが、横揺れなどの地震でもおきれば、簡単に崩れてしまう。
それに対して、大小様々な大きさ、かたちの石を積み上げた石垣は、どのような方向の力が働いた場合でも崩れない。

このような工法を比叡山の麓、坂本宿周辺に住んでいた穴太(あのう)衆が技術として持っており、安土城の築城などに大きく貢献したらしいことが、白洲正子の『かくれ里』のなかに書いてあったような気がする。

人間も同じだ。
先日の尾瀬の寅さんのブログで、金子みすずの有名な詩からとった、知的障害者とのかかわり方を説明したすばらしい映像が紹介されていた。

尾瀬の寅さんブログ


先に分類することよりも、異質なものであろうがなんでも、あるものはごちゃ混ぜにした密な環境があれば、自然に、競争も確かにあるが、互いに無くてはならないものを持ち合った関係であることに気づいていく。

学校の表面的な平等主義よりも、異質な者同志がつながる関係こそ優先されなければならない。

相手を知らないことでうまれる誤解も多いが、それだけに、まずは「混ぜる」ことのほうが大事だ。

それが、ほんとうの強い社会をつくる前提条件だろう。

混ぜる、なんでも混ぜる。

他人のブログも混ぜる。

ホームページもメールもリアルも混ぜる。

仕事も遊びも混ぜる。

公も私も混ぜる!?

自分のものも他人のものも混ぜる!?

(この辺でやめとくか)



私は、引っかき回すことだけは、得意なのだけど・・・
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「さくらんぼの実る頃」のはなし

2008年08月16日 | 「近代化」でくくれない人々

毎度、文章下手、話下手なため、また長~いはなしになります。

以前、佐野眞一の『甘粕正彦 乱心の廣野』という本の紹介で、甘粕大尉が満州の闇世界に君臨しながらも坂本竜一が演じたような不思議な魅力も兼ね備えていたことを書きましたが、いつも歴史のことをいろいろ教えてくれる高校の先生が、本書の内容からいろいろな方向につながる話をさらにしてくれました。
先生のくれた資料(大野修平さんのシャンソン解説など)をもとに、ちょっとおさらいしてみます。

この本は、この甘粕が暗殺したといわれる大杉栄との関係を調査し、甘粕は実際には殺した張本人ではなかったのではないかということを書いています。

それで、当時の無政府主義者、大杉栄の人物像にも迫っていくのですが、大杉栄の妻は、これまた有名な女性活動家、伊藤野枝。
この伊藤野枝も実に破天荒な生き方をしているので、興味を持ち出したらきりがないのだけど、このふたりの間に5人の子どもがいた。(野枝は3度結婚して7人の子どもを産んだ)

長女が魔子(のち真子、魔性の夫婦の間に生まれた子といったような意味だったかな?)、次女・エマ(のち幸子)、三女・エマ(のち笑子)、四女・ルイズ(のち留意子)、長男・ネストル(のち栄)という名前。
悪魔くんどころではなく、どれも大真面目につけた名前だ。
このへんに、大杉が現代のイメージするアナキストというよりは、ずっと理想主義的、ロマン主義的思想家であったことが垣間見えてくる。

エマという名前は、エマ・ゴールドマンからの命名。ルイズという名前はルイズ・ミッシェルからの命名。エマ・ゴールドマンがどんな人であったかは検索してもらうとして、ここでは、ルイズ・ミッシェルに話を絞る。

話はちょっと飛ぶように見えるかもしれませんが、シャンソンの名曲で「桜んぼの実る頃」という曲はご存知でしょうか?タイトルでわからなくても、曲を聴けばたいていのひとは知っている。宮崎駿の「紅の豚」のテーマで使われた曲でもあります。

ちょっと聴いただけでは、単なる甘い恋の歌といった感じなのですが、このシャンソンは、パリ・コミューンの悲痛な思い出と深く結びついている。
このパリ・コミューンは歴史上画期的な自治政府といわれるのですが、短命に終わる。
その短い間のなかで5月21日から28日にかけて、パリを包囲したヴェルサイユ軍によってコミューン連盟兵と一般市民の大量虐殺(血の週間)が行われた。

この闘いのなか、詩人のジャン=バティスト・クレマンが20歳くらいの野戦病院付の看護婦、ルイーズと出会う(5月26日のこと)

彼女は手に桜んぼの入った籠を携えていたという。何か役に立つことはないかとやってきたのだった。一同は彼女に敵から守れるかどうかわからない、と断ったが動こうとしなかった。ルイーズは少しも恐れず、かいがいしく負傷兵の手当てをした。

クレマンの妻の証言によると、彼はその娘と再会したいと思い、住所を尋ねたそうだ。が、それは果たせなかった。彼女も犠牲者になってしまったから。

コミューンの評議員でもあったクレマンは、1866年頃に「桜んぼの実る頃」の歌詞を3番まで書いていた。そしてバリケードのなかで出合ったルイーズの姿に感銘を受けて、彼は4番のクゥプレを書き足した。そのなかにある「あの時から、この心には/開いたままの傷がある」とは、2ヶ月で幕を閉じたパリ・コミューンのこと、そしてあの虐殺を指している。

このシャンソンは次の献辞とともに彼女に捧げられた。
「1871年5月28日日曜日、フォンテーヌ・オ・ロワ通りの看護婦、勇敢な市民ルイーズに」

http://jp.youtube.com/watch?v=rZBoYVoQe8o

対訳  桜んぼの実る頃
作詞:ジャン=バティスト・クレマン
作曲:アントワーヌ・ルナール

桜んぼの実る頃に
陽気な夜鳴き鶯やまねつぐみは
みな浮かれ出す
美しい女たちは物狂おしい思いにとらわれ
恋人たちの心は明るく
桜んぼの実る頃に
まねつぐみはさらに上手にさえずる

けれど 桜んぼの実る頃は短い
二人連れ立って 夢見ながら
耳飾りを摘みに行く季節は
おそろいのドレスを着た恋の桜んぼが
血のしずくのように葉蔭に落ちている
けれど 桜んぼの実る頃は短い
夢見ながら珊瑚色の耳飾りを摘む季節は

恋の痛手が怖いのなら
美しい女たちを避けなさい
悲惨な苦しみを恐れない私は
一日たりとも苦しまずに生きることはない
桜んぼの実る頃に
あなたたちもまた 恋に苦しむことでしょう

私はいつまでも桜んぼの実る頃を愛する
あの時から この心には
開いたままの傷がある
幸運の女神が私に与えられても
この傷を癒すことはできないでしょう
いつまでも桜んぼの実る頃を愛する
そして 心のなかのあの思い出も


私よりもちょっと上の世代で、学生運動をやってた人たちなら、みんなこの話を知っているのでしょうか。
さて大杉栄、あるいは伊藤野枝はどこでこのはなしを知ったのでしょうか。

中断している不連続シリーズ「近代化でくくれない人びと」で、いよいよ「百姓ノ持タル国」の話になるのですが、フランス革命よりも早く、しかも長期にわたって領主のいない自治共和国を日本が築いていた歴史があるにもかかわらず、こうもその後の歴史に開きがうまれてしまったのは、こうした歌にドラマを盛り込んで広く伝える力、宣言や綱領に趣旨を明確に表す力に欠けていたためなのではないかと思うのです。

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働く者の権利?

2008年08月13日 | 無償の労働、贈与とお金
前回、明治維新後の没落武士の姿に、現代の社会構造の変化についていけない階層の問題をダブらせて書きましたが、安定期が続くほど「働く権利」というものがゆがめられていく傾向にあることも感じます。

今の労働組合の姿を見ていると、働く者の権利を擁護する立場でありながら、その実態がなぜかそれとはかけ離れたものになってしまい、『蟹工船』がベストセラーになるような今こそ本来は組織拡大されるべきなのに、まったくそのような流れにはなりそうにはありません。

社保庁の労組の姿に限らず、いつのまにか労働者の権利が、「働かない権利」であるかのようになってしまったのはなぜでしょうか。

もちろん、賃労働の社会が広がってからの長い歴史の多くは、不当な労働から働くものを守る闘いでした。
非人間的な扱いから開放されて、人間的な労働を求めること、人間らしい暮らしを求めることが、闘いの中心課題でした。そうした努力で戦後の労働運動が果たしてきた役割は確かに大きかった。

低賃金、長時間労働からの解放。たしかにそれらは大事なことに間違いない。
しかし、働く者の権利の第一は、
「働けること」
であるはずではないのか。


前に紹介した『日本でいちばん大切にしたい会社』のなかの話で、あるお坊さんが幸福とは、
①人に愛されること、
②人にほめられること、
③人の役にたつこと、
④人に必要とされることです。
このうちの①以外の三つの幸福は、働くことによってこそ得られるのです、と言ってました。

この前提にたつならば、私は不当で過酷な労働から解放されるために「8時間労働」という枠組みは意味があるかもしれないが、本来の人間の自己実現の労働に近づくためには、8時間以上働く権利というのも当然あってしかるべきだと思っています。
(まずは、法定8時間の内容が、働きがいのあるものにするのが先ですが)

つね日ごろ、好き勝手なことばかりやっていながら、その上にお金まで貰ってしまって申しわけないと思っている私には、お金(経費を負担すること)を払ってでも働くことにそれほど矛盾は感じないのですが、責任ある立場でありあがら8時間労働に固執することなどは、責任を取りたがらない口実にしか過ぎないのではないかとも思ってしまう。

70代くらいに見えるお客さんが、レジでポツリと「疲れるような働きか方をしているうちはまだダメなんだ」と言っていたのを思い出します。

時間にとらわれずに、好きなだけ働けること、
これこそ、理想の労働者像だ。
労働者の最大の権利であるはずだ。

やれ8時間労働だ、やれ有給休暇だ、やれ定年退職だなどという前に、
死ぬまで好きなだけ働かせてくれる社会を目指す労働組合なんて出来ないかしらん。


毎度ながら、勝手なことばかり言ってごめんなさいね。
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維新後の没落武士階級が思い浮かぶ

2008年08月11日 | 歴史、過去の語り方
わたしたちは、歴史の大転換というものを何度か経験しています。
なかでも、戦国時代から天下統一に至る時期、開国から明治維新に至る時期、大戦から敗戦・占領下での復興に至る時期などの主な大転換を比較してみると、社会構造の変化の度合いという視点でみるならば、明治維新後ほど現代と酷似している時期はないのではないかとふと感じました。

なにも体制は変わっていないのに、社会構造だけは劇的に変わろうとしているという意味でです。

士農工商という身分制度のもとで、長い間それがあたりまえの制度として社会に浸透していたものが、突然、崩れ去ったとき。
制度の維持管理を職務としていた武士階級は、丸裸同然にされて新しい社会のなかに放り出されることになりました。
なかには運良く新しい国家の官僚として、軍人として、警官や教員としての身分を保証されたものも少なくありませんでしたが、その多くは職を失い、傘貼りなどの内職をしながら新しい時代の片隅で余生を生きながらえざるをえませんでした。

かれらが直面していた現実は、ふたつ。
ひとつは、それまであたりまえだと思っていたシステムが通用しない社会。
もうひとつは、所属するものが無くなったときに突きつけられる、
「それではあなたは何だったら出来るのですか?」
という問い。

新しいシステムで社会がどんどん突き進んでいく時期には、結果を出せないものは、いかに理屈をこねても取り残されるばかり。
ペリーなどの外交圧力をかけてくる側からは、幕府や役人の業務処理ののろさばかりが際立って見えていたことだろう。

文化や技術水準は高い日本であったため、生産技術や文化の輸入などはめまぐるしく変貌を遂げていったものの、管理部門やホワイトカラーにあたる人々の生産性は低いままでなかなか変わろうとしなかった。
かといって、それらの人々は決してサボタージュをしているわけでもなく、それほど能力が劣るひとたちというわけでもなかった。
どちらかというと、誰もが目の前の仕事は黙々と真面目にこなす人々だった。

でも彼らの多くは、目の前に横たわっている現実が提起している問題に、結果としては、
誰一人として答えを出すことができなかったひとたちだ。
彼らの多くは、一般の人々よりも学問はでき計算もできる人々であった。

それゆえにかれらは人一倍熱心に、予算がなければ現実にはできない。
時間がなければ無理だ。
客観的、公平に考えればそれはできない。
などの理由を命がけでならべたてる。
そういうことには誰にも負けない能力を発揮する。

その隣で、新しい時代の人々は、お金がなくても、時間がなくても
必要なことは必要なだけやるのがあたりまえの世界で、厳しい競争環境のなかを生きていく。

こうしたギャップがいかに社会全体で広がっていても、やはり、長い歴史を同じ体制で生きてきた人々は、自分を変えることはないまま、自分の参加できる場所、所属できる場所だけを求めて新しい社会のなかをさまよい続ける。

経済、文化は予測こそできないものの、現実とともにめまぐるしく変化していくにもかかわらず、政治家や官僚、教員や行政職員、老舗企業の管理職たちは、なぜかくも頑なに変わろうとしないのだろうか。

百数十年前と酷似したこのような現実をみるとき、わたしは、ホワイトカラーなどの管理部門の生産性の向上はたしかに不可欠ですが、そのことを問題解決の第一の手がかりとは考えたくない。
それは一部では有効なことかもしれないが、なにかちょっと違うような気がする。


本来、管理部門やホワイトカラーは、体制が持続すればするほど、絶えず必要以上に増殖してしまう傾向がある。それに対して新興企業や新しい時代を代表する組織は、共通して「管理」=「現場」の第一線である。

後方で指揮する管理者などいらない。

今、必要なのは、難しい組織管理のノウハウを幹部に叩き込むことよりも、各人に権限をもたせて現場の問題をその場で解決していく労働者に変えていくことだ。

最先端の現場にいるものにより多く権限を与えて、行動する前の議論の時間よりも、まず実行して検証する時間の比率を圧倒的に上げることのほうが大事だ。

所属先の変更・配置転換や、雇用の確保といった視点ではない。
今、それぞれの現場で山積している問題の最先端の現場に、権限と労働力を集中することこそが第一だ。

それをせずに、頭数を減らすだけのリストラで、いったいどうやって危機を乗り越えられると思うのだろうか?

硬直した教育現場の先生方の苦悶を見て、ふとこんなことを感じました。

国民の批判にさらされて、頭数を減らすことばかりに終始している公務員制度改革をみて、同じ問題を感じました。

また、いたるところで、売り上げの減少を経費と人件費削減だけで解決しようとしている企業の姿をみて一層こんなことを感じました。
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人間は考える“足”である

2008年08月08日 | 上野国「草の者」研究所
随分昔からよく使っているパスカルの有名な言葉をもじったフレーズですが、私のオリジナルなのか、誰かがとこかで使っていたのか記憶がない。
人間は考える“足”である
私のオリジナルであることを願う。
と、思ったが、検索してみたら、なんとたくさん出てくることか。
誰もが思いつく言葉であるばかりか、はじめから勘違いしていると思われる記述も随分多い。

これをいうとただのジョークにしかとられないことが多いのだけど、私は大真面目に大事な思想を表現した言葉であると思っています。
(私の使う言葉はなぜかいつも、冗談だか真面目なんだかわからないと言われるような表現にいつもなってしまうのはどうしてだろう。大真面目なのに・・・)

つい最近、友人の家に遊びに行って、靴の下にしくための注目のインソール技術の話題になったときにこの言葉を思い出したので、私のブログやホームページのなかでも、たぶん時々使っていますが、昨日の日記の大疾歩き(おおのり)や草の者の修行の意味を理解してもらうためにも、もう一度、整理の意味もこめてここに書いておきます。


私はなにかにつけて、頭だけで考えることの弊害を書くことが多いと思います。
代表的なのが
「議論分析ばかりしてないで攻めてみよ」
「読書の自己目的化はよくない」

これらの話をすすめるときも、この人間は考える足である、という視点は大事な基調になっています。


その第一の理由は、生理的理由によるものです。
人は考え事に熱中すると、部屋のなかをうろうろ歩き回ったり、貧乏ゆすりをしたりすることがありますが、それは、活発に活動している能に血液と酸素を送り込むために、足を動かすことで第二の心臓といわれる機能を発揮し、ポンプの役割をしていることにほかならない。
こうした理由から、歩くことと脳を働かすこととは不可分の関係であることがわかりますが、これだけでは関連を指摘しているだけで、とりわけ重要であることの説明にはなりません。

そこで次に書く第二の理由が必要になる。

人がものを考えるときは、えてして頭と目と口に意識が集中しがちで、頭で考えていれば、目で見ていれば、口でしゃべっていれば、思考活動を行っているように思いがちですが、私は、それらの行為では、思考していないとはいわないが、創造的、生産的な思考は絶対にそれでは行われないと思っています。

創造的、生産的な思考は、必ず手と足を動かすことによってのみ、実現することが出来るのだと思うのです。
正確には、人間の五感すべて、体の機能すべてを使ってこそ、創造的、生産的な思考に至れるということですが、現実には、先に言ったように、頭と目と口にばかり意識がいってしまうので、その三つ以外の、手と足と肌に意識を集中することこそ大事であると思います。

手と思考との密接な関係は、いろいろなところで語られていますが、手はほんとうの意味での「知性」と直結していると思います。
極端な言い方をすれば、「手」は「知性」の代弁者であると。

手を使って行う思考とくらべると、頭や目だけで追う思考は、ことごとくただのメモリー機能か、せいぜいそのメモリーの関連づけ作業レベルでしかない場合が大半であることがわかります。

それに対して、ものを「書く」、「つくる」などの手の作業をともなった意識を対象化する作業をともなうと、それはメモリー機能やその関連づけにとどまらない、かならずその行為者個人の創造的営みに入ることが出来ます。
メモリーにある社会の一般的な認識が、手の作業を通じてその人の個別な認識に具体化していくことで、その人固有の創造的、生産的な活動にはじめて入ることが出来る。

それと同じく「肌」は「感性」の代弁者であるといえます。
肌で感じることこそ、より全体的に、直感的にものごとをとらえる条件だと思うのですが、この説明はちょっとやっかいで長くなりそうなので端折ります。

で、肝心な「足」は、
私は「意志」の代弁者であると思うのです。

前になにかの話で、「足運びの術」として、人との関係を築いたり、ものを考えたりするには、今いる場所にじっと座って考えていることよりも、あるいは向こうが来てくれることを待つよりも、こちらから先に行くこと、訪ねることがいかに大事であるか、というようなことを書いたことがあるかと思います。

もちろん、大勢の人が訪ねて来てくれるような人徳も限りなく価値あるものだと思いますが、ものごとの思考には、自分の立っているその場所の座標軸を変えると、それまでには想像できなかった新しい視点を得られることは、誰にも想像に難くはないと思います。
しかし、その今立っている居心地の良い場所を動くということは、誰もがためらうことでもあり、それは避けるほうが楽だと考えがちです。

でも、そこで思い切って足を使って座標軸を変えてみない限りは、決して創造的、生産的な思考には入り得ないのではないだろうか、というのが私の視点です。

まさに、その面倒な足を使った行為こそ、その人の意志のあらわれであるからです。
その足の動きを伴わない思考は、意志をともなっていない分だけ、その人固有のものではないのです。

この「意志」をもった思考こそが、単なるコンピューターなどの記憶装置と異なる、人間の人間たる思考の核心部分なのです。

また、こうもいえる。
人間は考える“意志”である

なんかニーチェあたりが言っていそうな言葉だ。


また端折りますが、人間が二足歩行で立ち上がり、知性の代弁者である「手」を獲得してことで、はじめて足も即物的な移動手段から、意志の代弁者たる「足」を獲得したとも言える。




文化活動でも企業の生産活動でも、あらゆる領域でこれはいえると思います。
手と足を動かさない思考は、決して創造的ではない。生産的ではない。
手と足を動かさない思考をしている限り、絶対にお金にはならない。

だから、
人間は考える“足”である

ジョークではないのです。

(かなり端折った説明になってしまいましたが、なんとか要点は書けたと思います)
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大疾歩(おおのり)から草の者の修行へ

2008年08月07日 | 上野国「草の者」研究所
これまで大疾歩(おおのり)の練習、別名、上州でいうところの草の者の修行をすることを、私は、真田氏の活躍した領地のルートで行うことにばかりこだわっていたた。
そのために、出発地と目的地への足の便の不自由さから、なかなか機会をつくれずにいました。

ところが、あくまでも修行のためのルートと考えれば、真田街道に固執する必要はなにもないということに今更ながらに気がついた。
この場合、出発点まで車で行って、到着地から電車で戻ることなど、まったく考える必要はない。
それさえこだわらなければ、かなり自由な時間に頻度を上げて修行をすることが出来る。

今、住んでいる「草の者」の仮住まいから直接、修行をスタートさせることが出きるということに、どうして今まで気づかなかったのだろう。



第一段階の大疾歩(おおのり)修行コース(水沢山への往復)

今の仮住まいから榛名山ろくを約5キロ、緩やかな登りを歩くと水沢山の登山口にたどり着く。そこから水沢山山頂までの往復は、ほど良い軽登山のコース。

山頂はある知人が法螺貝の練習をよくしていた場所だ。

このコースだと、朝4時くらいに出れば、ちょうど7時頃までには戻ってこれて
通常の生活のなかでも行うことができる。
幹線道路も通らないので、道中の自然も満喫しながら歩ける。

これをとりあえず週に一回のペースで続けるだけでも、かなりの回数はこなせる。


そして月に一度くらいのペースで、
第二段階の修行コースとして、渋川から南北の街道ルートを往復する。
・渋川から前橋(城)への往復
・渋川から高崎の手前、箕輪城への往復
・渋川から三国街道を経て高山への往復
・渋川から利根川沿いを通って沼田城への往復

(どれも往復20~30キロの行程だ。これも出来るだけ幹線道路は避けて歩く)

これで、一晩のうちに30キロ歩くことにまず馴れる。

この経験を積んでいるうちに、実際の真田ルートの約100キロの行程の3分の1ずつをこなしていく。
・名胡桃城または、マイミク山伏の三重院から岩櫃城まで
・岩櫃城から嬬恋まで
・嬬恋から上田城まで

ここまでが第二段階。
大疾歩(おおのり)の修行行程である。


その次が第3段階。

これは一日がかりで100キロの真田街道を歩き通すことになる。
それともうひとつが、30キロの行程を道路を歩かず、地図上に定規で引いた直線の上を真っすぐに歩いていく修行。
崖があろうが、川があろうが、民家の居間を通り抜けることになろうが、
とにかく、「ちょいとごめんなさいよ」と通り抜けていく。夜中に。

このレベルは、通常の靴では不自由なので、裏にスパイクのついた
営林用地下足袋を使用する。
膝まで完全に防備するスパッツも着用し、藪のなかを走り、崖をよじ登り、川を泳ぎ渡る。

ここで急にレベルアップする。
草の者の修行と呼べるのはここからだ。

ただ歩くだけではなく、スピードが要求されるのはもとより、
不審者と思われないように目立たずに行動することも大事な修行のひとつ。
その場その場で地元の人間になりきった行動が求められる。

闇のなかに完全にとけ込む術も必要・

そうそう、修行!修行!
ブログなんて書いてる場合じゃないのだ。


この草の者の修行の意義については、説明を改めてしておいたほうが良いかもしれない。
次回に書きます。
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いよいよ来た!大地を震がす雷鳴とともに

2008年08月06日 | ・・・ったくアホな生活
昨夜から今朝7時頃まで、ここ「かみつけの国」では
一晩中、雷鳴が止まなかった。

しかも、それは夕立前の雷とは異なり
突然、ドスンとばかりに大地を揺るがす雷鳴が数十分おきにずっと繰り返されるもの。

かといって、突然大雨が降り出す出もなく、
雨は一晩中シトシト降りつづいただけ。

遠いところで聞こえる雷鳴は、
空爆の戦闘機が空気を切り裂いているような音に聞こえる。

近くに落ちるときは、まるで艦砲射撃を受けているようだ。

戦艦大和の主砲は、富士山をも乗り越える射程をもっていたそうだけど、今のアメリカの戦艦なら、横須賀から群馬まで狙うこともできるのだろうか。

夜中に何度となく枕元のパソコンで、
突然戦争がはじまったのではないかと確認したくなるほどだった。

連日、かなり広い範囲で雷雲が観測されてはいるものの、
このように、一晩中、ひとつの地域で雷が鳴りやまないなどということ
過去にあっただろうか?

ただならぬ雰囲気がただよっている。

朝、風呂に入っていたら、
頭を洗う前になって水が止まってしまった。

来たぞ

きたぞー

友が呼んでいる。


俺の時代がやってきた


全国の同志達!

もし、携帯電話、インターネットなどの
あらゆる通信手段が途絶えた時は、
水沢山の狼煙を合図に、
ここ、かみつけの国、草の者のアジトに集結せよ!








・・・さてと、


仕事に行くか。
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もう少し、安吾に憧れて

2008年08月02日 | ・・・ったくアホな生活
やはり、安吾といえば・・・・

散らかった部屋に座ったイメージでなくてはいけない。

日ごろ整理整頓を心がけている私としては、
主義に反する、の、だ、が、
雑然とした部屋を苦労して作り上げ
何枚か撮ってみた。

いやー、これだけ散らかすには苦労しました。ハハハハハー


前回よりは顔も四角く見えて
本物に少し近づいただろう。



ほんとは着ものを着たかったのだけど、持ち合わせがないので
甥がプレゼントしてくれた作務衣でごまかした。

プロフィールには、別のアングルの写真を使ってみた。

毎度、仕事が忙しくなると
どーしてもこういうことがしたくなる性分なのだ
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安吾に憧れて

2008年08月01日 | ・・・ったくアホな生活
どうも気になって仕方がないのだけど、
昔からの人気作家ベストテン。
女性が選んだベストテンにだけ、松本清張と坂口安吾が必ず上位に入る。

何がそれほど女性を惹きつけるのだろうか?
どうもイメージがわかない。

とりわけ安吾。
晩年を群馬の桐生市で過ごした安吾は、地元でも嫌われ者で通っていた。
写真を撮られるのを嫌っていた安吾が、
書き散らかした原稿用紙のゴミに埋もれた書斎で
カメラを睨んでいる有名な写真がある。


私も、今の部屋がきれいになってしまう前に!
なんとか安吾のような写真を撮っておきたい。

とりあえず携帯で練習



無精ひげのあるときに、一生懸命髪を逆立てて
他にいくつかのタイプを撮ったけど
どれもキモイ絵にしかならない。

一生懸命カメラを睨みつけても
輪郭に優しさが出てしまう。


懲りずにいずれ完成させて、
作家バージョン
ミュージシャン・バージョン
草の者バージョン
と続けたい。
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