更新、ご無沙汰しておりましたが、本年もよろしくお願いいたします。
昨年末から、家のことに追われたりしていて更新できずにいました。
今日の葬儀のややこしいしきたりについて、様々な疑問を感じている人は多いことと思います。
一口に「仏教」といっても、現代のそれは江戸時代に檀家制度が確立されてからの形式に大きく依存していて、江戸時代以前の「信仰」としての仏教の姿は、今日ではかなり歪められ誤解されているようにも思えます。
しかし、不満や批判はいろいろあっても日常のお寺さんとのつきあいのなかで、その都度どう折り合いをつけて解決していくかということは、とても難しいものです。
本来の仏教の教えからすれば、戒名にランクをつけたり、宗派にこだわったり、お寺中心の儀礼ばかりで葬儀がすすめられたりすることは、あり得ないくらいに思えることなのだけれども、それが普通の世界になってしまっています。
最近になってようやく、仏教内部からも、そうした批判や疑問に答えるしくみづくりが各地でつくられはじめているようです。
でも、それらの事例を簡単に自分のお寺に突きつけて、世の中はもうこうなりだしているのだから、おたくも変えてくれと言うのは難しいものです。
今回、はじめて喪主の立場で葬儀にかかわり、そうしたことを随分勉強できました。
幸いうちの地域は、とても自由な雰囲気の組うちだったおかげで、こちらの意向をかなり反映させてもらうことができましたが、それは決して自分の希望を押し通したというようなものではありません。
最近では、葬儀のやり方ひとつでも、年寄りの間でさえ意見がわかれるような時代です。
その多くは、こういう例もあれば、こういうやり方もあると持ちかけられ、どちらでも可能であるのならばこうして欲しいと希望を出した程度のことでした。
「世間ではこうだ」
「うちの寺ではこうだ」
「うちの組ではこうだ」
などといろいろあるものですが、実態を広い視野で見ればみるほど、
なにごともそうなのですが、
「私はこうしたい」
「私はこう思う」
「私はそれは嫌だ」
をオブラートに隠しながら言っているにすぎないことが多いものです。
阿部謹也が「世間とは何か」
世間とは、私とあなたのことである
と喝破したことが思い出されます。
今では、日本という国の姿ですら、いや世界の姿ですら大きく変わろうとしている時代だから、歴史と伝統のあるしきたりも、価値あるものは残し、歪められたまま多くの人が不自由しているようなことは、どんどん変えるべき時代であると思います。
ところが、これを一生懸命議論しましょう、といった提起の仕方をしてしまうと、残念ながら声の大きい人の意見に引っ張られてしまうことが多いのです。
こうした冠婚葬祭などの儀礼ほど、理屈の議論だけではなく、様々な相手の立場をどれだけ思いやれるかが大切になると思います。
様々な立場、心情の人たちが同席すること、
これこそが地域の力の核心部分であるからです。
それは単にカドがたたないことを目指すということではなく、大人の折り合いのつけ方としての知恵の出し合いのようなプロセスです。
今回少しだけ、強くこちらの意向を反映させていただいたのは、お寺が主人公になってしまうことは出来るだけ避けたいので、どちらでも良いような場所であれば、お寺さん抜きの親族のみの場にさせていただきたいお願いして、一部はそうさせてもらいました。
結果、ちょっとお寺の悪口を言う場にもなってしまいましたが、今そこにいない人の悪口は言わず、お互いちゃんと顔をあわせて様々な折り合いをつけられる大人の社会、そんな地域を力をあわせてつきっていきたいものだと、強く感じた四十九日でした。