毎週日曜の朝は、月夜野から渋川へ向かう出勤途上、妻を渋川の家におくりとどけています。
この事情を詳しく説明するのはやっかいなので、ここでは省きます。
いつもその道は国道17号を使わず、景色の良い三国街道、高山村を通っていきます。
先日のその車中での会話、大事な話をしたような気がするけど、早くも忘れそうなので、記憶のあるうちに書きのこしておくことにします。
どこからどうなってこの話になったかは覚えていませんが、「石の上にも三年」のことに話がおよんだ。
なにがあっても「石の上にも三年」。我慢する意義を妻が語った。
多くの苦労を経験している妻は、それが自分の糧となり肥やしとなっている自負がある。
わたしも妻のそうした面は、見かけの華奢な体からは想像つかない内に秘めた強さのあらわれとして、とても頼もしく、また心強く感じています。
かたや私の方はといえば、これといった苦労はほとんど経験することなく、
困ったことがあっても、ほとんど自分の都合の良い方に流れる「運の良さ」のみに救われっぱなしで、この年まで「のほほん」と生きてきてしまった。
この話題、どうもこっちの分が悪い。
でもね。(形勢を立て直さねば)
同じ「石のうえの3年」でも、その過ごし方でまったく違ってくるんじゃないかな。
ただひたすら我慢して、しかめ面で耐える3年とでは。
耐える力を訓練する意義は間違いなくあるけれど、
それが良い方に活きるかどうかは気持ちの持ち方の問題が大きい。
3年間はその場を逃れられないと腹をくくり、すべてを受け入れ、
笑顔でいられれば、運命は間違いなく良い方向に流れる。
それが出来れば文句はないが、たしかに普通はなかなかそこまでは出来ない。
そうまではしなくても、自分の今を受け入れ、他人のせいにしないだけで
まったく違った価値の3年の過ごし方にはなる。
でも、まだ余裕があるときはそんなこと言ってられるけれど、
えてしてたったひとつのつまずきが、
まわりのなかのたった一人との関係のゆがみが、
自分の体のほんの一部分の不調が、
まったく違う世界に落とし込んでしまうもの。
たったひとつのことが。
冷静に考えれば、その問題以外の
残り99の問題はスムーズに運んでいるのに。
10人中9人との人間関係はうまくいっているのに。
体の他のすべての機能は健康にはたらいているのに。
問題がおきても、他の圧倒的部分は、問題なく動き、機能していると
気づくことができれば解決、回復への展望は持てそうなものだけど、
えてして誰もが、たったひとつのつまずきに、
すべてが不安、絶望の世界に入ってしまったかのように思ってしまう。
こころの動かし方ひとつで、人はなんとも逞しくも情けなくも変わりうるものだ。
車中での妻との会話は、だいたいこんなところまでの内容でした。
ふりかえってみるととても大事な話であったと思うので、ここから先は、その後の補足になります。
東日本大震災と福島の原発事故があってからか、自分たちの暮らしの「安全」や「安心」とは何だろうかといったことは、たしかにかつてなく意識するようになった気がします。
ちょっと言葉を整理してみると、
「安全」というのは、文字通り「全て」が保証されることを前提にした表現で、
「99%の安全」とはなかなか言わないし、これは説得力がない。
10分の1だろうが、100分の1だろうが、1000分の1だろうが、
「完全(すべて)」でないと「安全」とは言い切れないのがその言葉の特質。
他方、「安心」の場合は、数字の問題ではない。
先の安全の確率が、99%であろうが、97%であろうが、
60%であろうが、さらには30%であろうが、
「信頼」できるかどうか、「信じる」ことができるかどうかが鍵になる。
「安全」は「全て」かどうかの問題。
「安心」は「心」の持ち方、ありようの問題であるといえます。
多くの企業は、「安全」を保証するためにものスゴイ努力を重ねて、事故の「確率」を限りなくゼロに近づける努力をしています。
にもかかわらず、相次ぐ不祥事をみると、いかに高度な「安全」が保証されていると言われても、それを信じるに値する数字として額面通りに受け取ることはできない。
原発の安全性や放射能被曝の問題などは、まさにそれで、
どのくらいのレベルであれば安全なのか、どんな基準値を示されても、今のわたしたちに「安心」をもたらすものではありません。
低線量被曝の問題、日常あふれる他の発ガンリスクとの比較の問題も同じに見えます。
数値の確率を上げることは、もちろん必要不可欠ですが、それだけでは「安心」できない、「信じる」ことができない。「信頼」することができないまぎれもない現実があります。
近代社会は、あまりにも「安心」を数字や量だけにやよりすぎてきたように見えます。
数字、確率の裏付けがなければ安心できないのは事実であるかのようですが、実態をみると何か違うだろう、と思っていたところ、この気持ちをといてくれる表現に出会いました。
小林秀雄の『学生との対話』(新潮社)のなかに
「信ずるということは、責任をとるということです。」
「信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。
そうすると人間は集団的になるのです。」
といった表現がありました。
かつてどこかに「信じる勇気」のことを書いたことがありますが、どれだけの裏付けがあれば、わたしたちは「信じる」ことができるのでしょうか。
「近代科学」という新しい宗教にどっぷり浸かって生きて来たわたしたちは、あまりにも数字と論理にたよることに慣れすぎたように思えます。
99%の確率なら大丈夫なのか、
96%では不安なのか、
99.9% 99.9999%なら安心なのか。
立証する論理の緻密さ、論文の不備のない完璧さこそが保証なのか?
どんなにこれらを突き詰めても、到達できないゴールがあることを、現代の多くの企業や組織が気づいていないように見えます。
それは「信じる」勇気と「覚悟」の問題です。
先の妻との車中での会話でみると
10のことがらの内、ひとつがうまくいっていないと不安になる心と、
10のことがらの内、9もうまくいっているのだから大丈夫だと思えることの違いです。
このふたつのギャップは、確率を上げることでは解決しません。
どんなに数値や論理を突き詰めても、
どこかで「信じる」勇気をもつこと、
「覚悟」を決めることを抜きには、「責任」をもった仕事には至れないのではないでしょうか。
確かに企業や組織にとってリスク管理はとても大事です。
でもそこで最も重要なのは「責任」の所在だと思います。
それが明確でないまま数字を突き詰めていても信頼には至れません。
ここに大きな思考と心の「飛躍」があることを多くの人は気づきません。
昔の人は「背負うこと」の価値、重みを知っていたのだと思いますが、
現代人は「背負わず」に、
ただひたすら「論証」することを大真面目に追求しています。
わたしたち見ている側からすると、「背負わず」にひたすら「論証」する説明とは、どう譲っても「言い訳」にしか見えません。
この話、通じるでしょうか。
「信じる」こと
「覚悟」すること
「責任」を負うこと
「安心」というものは、これらの意識を取り戻さない限り
今の社会にうまれるものではないと思うのです。
が、今の公務員や、経営難に追い込まれている企業の中の社員の姿をみると・・・
そういう私自身、
やはりサラリーマンという立場でいたときは、どんなに自由、勝手きままにさせてもらっていたとはいえ、この「責任」と「覚悟」、「信じる勇気」からは遠いところにいたことが、今になってよくわかります。