長野県には、読書村というのがあることを知りました。
読書村と書いて、(よみかき)村と読むのだそうですが、今は木曽郡南木曽町大字読書という地名になっているところです。
この「読書」という地名は、歴史の古いものではなく明治7年に与川村(よかわむら)、三留野村(みどのむら)、柿其村(かきぞれむら)が合併したときに、それぞれの頭文字をとってつくられたとのことです。
是非いつかは訪ねてみたいところでしたが、2016年1月に、近くの本屋さんを訪ねることを兼ねて、行くことができました。
近くに「読書ダム」などというところもありましたが、町村合併で南木曽となってからは、残念ながら旧読書村を思わせるところはほとんどありませんでした。読書小学校もあったようですが、なんて素晴らしい学校でしょう。
この(よみかきむら)を勝手に(どくしょむら)と読み間違えてしまうことをみて、私は、はたと気づきました。読書とは、本来、書=本を「読む」行為のみをさすのではなくて、「読み・書き」を一体のものとしてとらえたものであるのだと。
私たちが読む本は、確かに誰かによって書かれたものを読んでいるわけですが、誰かが書いたものを読むから「読み書き」なのではなくて、読むことと書くことが一連の連続した営みであることが大事なのではないかという意味です。つまり、誰かが書いたものを読む、読んで(調べて)から書く。
著者が書くために読む行為と、読者として読んでから書く行為は不可分のものであるはずなのに、私たちはあまりにも「読む」ことに限定して「読書」をとらえてしまっています。これはなにも、ただ読むだけではなくて読書感想文や書評をもっと一生懸命書きましょう、という話しではありません。
以前、「作文」という活動も、ただ文を書かせることにその意義があるのではなく、書き手(子ども)と読み手(教師や親)との「関係」の構築作業であることにこそ、その真意があらわれるのだという事例紹介を「この本の素晴らしさを伝えたい 飯塚義則『えがおの花』」の記事で書きました。
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/c754bf80699238047309374ca1a6fa10
長い説明になるとは思わずに書き出してしまいましたが、むかし私が気功を習ったときに、気功の先生が、人は食べる(入れる)ほうにばかり気をとられているけれども、大事なのは食べる(入れる)ほうよりも、出す方だ、とよく言っていました。まず、毎朝スポーンとウンコが出るようなカラダになっていなければ、どんなに栄養を口からとっても吸収されるわけがないと。
また、こんなことも言われました。
体が思うように動かないから、頭で考えて無理に動かそうとする。
思ったままに動く体が出来ていないところで本ばかり読んでいるから、思うような結果がでずに、余計な苦労ばかりするようになるのだと。
・・・そういうことです。
「読む」行為は、頭ですることです。
「書く(調べる)」行為は、体と頭を使ってすることです。
つまり、結構やっかいで面倒なことでもあります。
面倒だから出来るかどうかの問題ではなくて、面倒に感じること事態が問題であり、その部分こそが、より多くエネルギーを費やす価値のある大事な部分であるということです。
そもそも「書道」の「書」などは、ただ書くというだけではなく、その行為そのものが「道」を追求する行いであるという意味で、大事な実践のプロセスであります。
もともと「読書」の「書」は、「書道」の「書」の要素も強くあったことと思われます。コピーや写真などの技術の無かった時代においては、本は「書き写す」ことによってのみ、普及し伝えることが可能だったわけです。
現代から見れば、それは印刷やコピーの技術がなかったばかりの効率の悪いことのように見えますが、本来は「書き写す」ことによってこそ、著者が伝えたい「情報」や「心」を自分の頭や胸のなかに取り込むことができたわけです。
この意味で振り返ると、現代の著作権論議は、情報化社会が進むにしたがって必然となる著者、制作者の保護を重視しているようでいながら、情報というものの性格のほんの一部の側面だけを保護する偏ったシステムに思えてなりません。
「書き写す」「印刷する」「コピーする」などの方法の変化は、原点である「書き写す」ことによってこそより自分のものとすることができる意義から振り返れば、積極的な読み手ほど「書き写す」ことや「書き取られる」ことが必然であるからです。
(これも考え出すと長くなるのでここでは深入りは避けます)
本来、「読む」という行為のそもそもの動機は、ただ「学ぶ」「知る」といった教養や娯楽のためではなく、なんらかの自分の直面した現実から発したものであるはずです。たとえそれが純粋な娯楽の読書であったとしても、またそれがたとえ現実逃避のための読書であったとしても、読むことのリアリティをどこで感じることが出来ているかをみれば、そのひとの何らかの今の日常のなかにある矛盾こそがその根拠になっているものです。
藤井孝一『読書は「アウトプット」が99%』(知的生き方文庫)という本もありましたが、これは読んだ本の内容をまとめる、表現するなどということだけではなく、日常の仕事や暮らしで表現し、行動するという連続性があってこその読み書き=アウトプットのことを言っているわけです。
私は仕事柄、もっとどんどん本の紹介をしなければならない立場ではありますが、次第に軸足が、本の紹介をすることよりも、自分が読んだ本を参考により多くのことを試してみること、企画書をどんどん書いて提案することこそが大事になってきています。
本そのものの紹介よりも、テーマ中心に移り、それがやがて企画提案中心になり、さらには「働き方」「学び方」「暮らし方」の再構築がメインになるにつれて、あくまでもこれらの活動のバックグラウンドとして二次的な意味合いで本の重要性がくっついてくるようになってきました。
したがって本屋の仕事も、自分の仕事のなかではあるひとつの領域として続けてはいますが、それが決して主目的になっていない今の姿は、あながち間違っているものではないと思っています。
「読書」は、単に本を読むだけの営みではなくて、読み書き実践の一連の連続した行為であるはずだからです。
もし「読書」に自信のない方は、ぜひ南木曽の旧読書村にある読書発電所(読書ダムもあります)へ行って、読書パワー充電のお参りをしてきてくださいw
ウィキペディア画像より
ウィキペディア画像よりトリミング加工
旧読書村に行った折には、是非一緒に寄りたい桃介橋
関連ページ
序 「たて糸」を断ち切りひらすら「よこ糸」のみをかき集めてきた時代
2、「読書」は本来、(どくしょ)ではなく(よみかき)です
4、もう一つの「不滅の共和国」 「野生」の側にある本と本屋の本分