ユダヤ教、キリスト教のことは、ほとんど理解しているとは言えない私ですが、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/bb/b8661f5668ec28d62524f2d572f2e694.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/18/eceab10120a90f2a6765f16a283745a6.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/ef/e74fb17e93f3f4bd0d69e4c27fd3ba13.png)
私は日常生活で車が不可欠な群馬県に住んでいる都合、年間3万キロ以上は走行しています。
したがって、車のなかで音楽を聴いている時間も多く、それは1日平均2時間といったところでしょうか。その時間の9割以上は、CDを聴いており、残りはFMを聞いています。
それが先月、急に車を買い替えることになり、おかげで待望の最新ナビを取り付けることができました。
今までのナビ画面では、田んぼの中や海の上を走行することが度々ありましたが、ようやくまともな走行が出来るようになりました。加えて嬉しいのは、はじめてSDカードにCDを録音して楽しめるようになったことです。
36ギガのSDカードにこれまで120~130枚くらいCDアルバムを入れましたが、まだ100枚以上は入るはずです。
数週間、この作業をずっとしていると、持っているCDを随分と見直すことが出来ました。
車の中で自分の聞く音楽と、SDカードに入れるもの入れる必要のないものの選別を考え、あらためて自分の音楽の好みを確認することもできました。
ひと口に自分の好みといっても、この場合、車内という小さな空間で運転中に聞くにふさわしい音楽という意味です。家で聴くものや他所の店内やライブで聴くものの好みとは自ずと異なります。
またSDカードに入れることで、普段のCDで個別に聞くのとは違って、アーティスト名や作曲家名、アルバムボックスタイトルなどで、通して流し聞きできる利点もあります。
そこで、一番最初に始めたのは、大好きなエリック・ドルフィーとオーネット・コールマンのアルバムを片端から入れることでした。
エリック・ドルフィーは、短い生涯で若いうちからのぶっ飛んだ演奏スタイルに極端な変化はないので、ただ自分の持っているアルバムの再確認で終わった感じでした。
対するオーネット・コールマンは、長い生涯で幅の広い表現スタイルにチャレンジしているので、通して作品が聴けるというのは(まだ入れるのが精いっぱいで通して聴けてるわけではありませんが)、とても新鮮な発見もあり楽しいものです。
あらためてプレイヤーとしてのドルフィーのスゴさ、コンポーザーとしてのコールマンのスゴさを認識しました。
私のジャンルを越えた音楽の好みとしても、この二人は中軸をなすプレイヤーです。
それに加えて黒人音楽として大事なのが、ちょっと飛びますがニーナ・シモンです。
ジャズが黒人の音楽と言われながらも、どちらかというと黒人が白人社会へ入っての音楽という性格が強いので、意外とアフリカ系黒人のスピリッツを黒人霊歌のように前面に打ち出したジャズは少ないものです。その点、ニーナ・シモンは、ステージでの語りや動きなどを見ると、もっとも黒人によるジャズ・ボーカルの魅力を打ち出してくれているので好きです。
YOUTUBEの以下の映像に、そうした姿がよくあらわれています。
https://www.youtube.com/watch?v=8mL3L9hN2l4&t=853s
ただ、車で聴く音楽という条件となると、私のニーナ・シモンコレクションの中からは2枚も入れれば十分かと思いました。
スタンダードを歌う歌手として外せないダイアナ・クラールは、美人ながらあまりにも太々しいので、いまひとつキャラが好きではないのですが、ピアノタッチセンスが抜群なので、悔しいけれど車で聴くにももってこいのプレイヤーと言えます。
ニーナ・シモンほどのブラック・カラーを打ち出した世界はなかなかありませんが、トラディショナルやオーガニック路線へ向かうと、ドン・チェリーがいます。
ドン・チェリーも、方向性やキャラクターは大好きなのですが、車で聴く音楽となると2枚も入れておけば充分。
この方向では、枚数の問題でなくアブドーラ・イブラヒム(ダラー・ブランド)のピアノと、ランディ・ウエストンの「ブルース・トゥ・アフリカ」ビックバンドバージョンとピアノソロバージョンは、何度でも繰り返し聞いて楽しめます。
さらにキャラクターで大事なのは、ミンガスです。
下の2枚(片方はDVD)は、MINGUSというタイトルで全く違うものなのですが、どちらも超お気に入りのアルバム。
ジョニ・ミッチェルの「ミンガス」とチャーリー・ミンガスのモノクロ・ライブ映像の「ミンガス」
ジョニ・ミッチェルのこのアルバムをはじめて聞いたのは、おそらくFM放送で、その時の衝撃は忘れられません。
「いったいこのギターは誰が弾いているんだ?」
「こんなユニークでセンスの良いギタリストがいたなんて」
アルバムメンバーのウエイン・ショーターのソプラノサックス、ジャコ・パストリアスのベースの腕ももちろんで、ほどなくジャコ・パストリアスが亡くなってしまっただけに、彼の限られた名演アルバムのひとつとしての評価が高いのはわかります。
が、このジョニ・ミッチェルのギターやボーカルのジャズプレイヤーとしてのレベルとセンスの良さは、どうしてもっと評価されないのでしょうか。不思議でなりません。
チャールス・ミンガスに捧げられたこのアルバムが最高傑作であるとともに、そのミンガスが、そこまで尊敬される由縁も、この車で聞くにふさわしい音楽を絞っているうちになんとなく見えてきました。
そして大元のミンガスといえば「直立猿人」とう代表アルバムが思い浮かびますが、個人的には、DVDで出ているエリック・ドルフィーを迎えたライブ映像が最高です。
https://www.youtube.com/watch?v=5STaUWmh9bw
もちろん、エリック・ドルフィーファンゆえということもありますが、小編成でスケールの大きな曲を表現するということにおいては、マイルス以上にコンポーザーとしての才能を感じます。とりわけ「オレンジ色のドレス」という曲に顕著にそれは見れます。
秋吉敏子、ルー・タバキン、ビックバンドも好きですが、車の中で聞く選曲となると、圧倒的にミンガスがいいです。クラシックも含めて、私の場合は、四重奏程度までの小編成、もしくはソロの音楽が好みなので、小編成でありながら大きなスケールの音楽を生み出すという面では、ミンガスが最高かと。
このような好みから出る帰結なのですが、私が車で聞く音楽の中には、マイルスやジョン・コルトレーン、MJQなどは入ってきません。
若い頃の初恋の思い出と重なるロン・カーターのソロアルバムも外れます。車で聞くには、なぜか、かったるいのです。それと妻には申し訳ないのだけど、ソニーロリンズは、初めから私の選択肢には入っていません。
ジャズでコルトレーンやマイルスを外すなんてあり得ないことかもしれませんが、マッコイタイナーのピアノソロはなぜか残ります。ドロドロサウンドでも、眠くはならないし。
ただ、定期的に聴きたくなるコルトレーンとエリック・ドルフィー共演のインディア、インプレッションズのアルバムは入れておきました。
同じかったるい部類に入るものでも、アランフェス協奏曲だけは、マイルスとジム・ホール、MJQなどの演奏が一気に聴き比べられるので、入れておきました。
ギタリストは、やはり小編成かソロでないと車内では合わないので、ジョー・パスだけは欠かせません。
そして、車で最も多く聴いているアルバム、私のナンバーワン!
上の写真では、ジョン・マクラフリンやマハビシュヌ・オーケストラのアルバムがたくさんあるように見えますが、実はこれもFMで聴いたある忘れられないマハビシュヌ・オーケストラの曲があり、ただその1曲に出会うために片端から買ってしまったものです。結局、未だにその曲には出会えていません。
でも、マハビシュヌオーケストラではなく、マクラフリン・トリオの演奏に出会えたことで、私の車内音楽世界は格段に楽しい日々となりました。
トリオというと、アルディメオラ、パコデルシアとのスーパーギタートリオの方が有名ですが、そちらは、車で繰り返し聞くようなタイプではありません。
https://www.youtube.com/watch?v=Idy5E5UXCYs&t=2468s
(マクラフリン・トリオのアルバムは、写真のものともう一枚あるはずなのですが、現在行方不明)
マクラフリンのアコースティックギターとそれをシンセ加工した独特のサウンドは、初めて聞いたときには、ギター、ベース、パーカッションの他に、誰がキーボードを弾いているんだと思ったほどです。
そして何よりの出会いは、パーカッションで参加しているインド人のTrilok Gurtu(トリロク・グルトウ)です。
映像を見るまで、まさかこんな格好でドラムを叩いていたなんて夢にも思いませんでした。
オレゴンにも加わっているのもうなずけますが、独特のサウンド作りの魅力もさることながら、ドラム、とりわけバスドラムのように聞こえるバスタムのキレの良い響きには、ずっと聞き入ってしまいます。たった3人で、これだけのサウンドを生み出してくれるというのも、車で聞く音楽として最高のもので、助手席に妻がいる時でも安心して流せるサウンドというのもありがたいところです。
オレゴンのメンバーそれぞれのソロアルバムなどは、とても斬新で面白いのですが、前衛すぎて車で聴く気にはなれません。
他に、セロニアス・モンク、山下洋輔のソロ、などのピアノソロアルバムが多いので、当然、キース・ジャレットのソロは、運転には聞き入りすぎる危険もありますが、よく聞いています。
あらためて要約すると
① アルバムが一貫したテーマや曲調で統一感のあるもの
② 大編成ではなくソロかトリオくらいまでの小編成のもの
③ バラード調のものは、概して眠くなるので繊細な表現を伴った作品に限る
そんな領域の選択で7~80枚くらい入ったでしょうか。
以上のような理由から、私が車で聞く音楽となると、不思議とビ・バップからクールジャズ、ハード・バップに至るジャズ王道の演奏は外れてくるのです。
だからと言って、それらの音楽が決して嫌いというわけではありません。
ただ車で聴くには合わないのです。
ここで、もう一つ気づいたことがあります。
車内という狭い空間の制約を強調しましたが、もうひとつの属性として、一人で聞く音楽と複数の人間、あるいは公共の空間で聞く音楽の違いというものを感じました。
私の好みのフリージャズは、好みの合った人とでないとなかなか安心して聞けないものですが、私は、マイルスやMJQがまったく聞けないということではなく、他人の家や公共の空間(ジャズ喫茶、飲食店店舗など)では、むしろフリージャズ以外の方が、自分自身も安心して聞くことができます。
実は、この辺にジャズを二分する重大な視点が含まれてます。
ちょっと文字で書き残すのは勇気がいるので、やめておきますw
とはいえ、32ギガのSDカードのおかげで、思わぬ深いところに入ることができました。
次回は、クラシック編を整理してみます。
ヨロコンデぶっちさんから、この芝居の案内を頂いたとき、今思えば大変申しわけなかったのだけれど、ぶっちさんが様々な境遇をかかえながら頑張っている企画とは思いながらも、この芝居の内容がどのようなものであるのか、またぶっちさんのどのような想いで実現されたものであるかについては、あまり深く考えてはいませんでした。
ただひたすら、とても一生懸命頑張っているぶっちさんなので、なんとかその姿をみて応援してあげたいとだけの気持ちでいたのです。
このことが、芝居を観終えたいま、とても申しわけなく思っています。
優れた作品だから見に来て欲しい、一生懸命練習したから見に来て欲しい、仲間としては、ただそれだけでも行くには十分な理由でもあるのですが、そうしたレベルではないこの作品に対する思いというものを、わたしは事前に十分読み取っていなかったのです。
もちろん、この芝居は、そうした意識はなくとも、ぶっちさんの前口上のつかみの巧さ。
花澤町子さんが登場する時の「命短し〜」のフレーズだけでウルっときてしまう歌の上手さから、序盤からすでに予想を超える仕上がりの芝居であることが十分わかるものでした。
でも、伝えたいのは当然、そこじゃないよね。
それを、わたしが事前にきちんと理解できていたならば、あるいは、チラシやネットでの情報が流れていたときに、そうした思いが多少なりとも伝わっていたならば、さらにどれだけ多くの人の期待が持たれた公演であったかと思わずにはいられません。
(前売り情報の期待が高いことは、かなり伝わったようですが)
8月15日までの間、毎年戦争を語り考える企画は数限りなく繰り返されています。
いつの時代になってもそれを語り伝えなければとの思いは、戦争を体験した世代が確実に減るとともに切実さも増すばかりです。
でも、それをどう伝えるのか、自分に何ができるのか、との思いの間では誰もが未だに悩み続けています。
そこに井上ひさしが晩年投げかけたこの作品に、ぶっちさんと花澤さんがどのような思いで取り組んだのかは、作品を通じてこそ伝わってくるのもではありますが、他方、事前にその意図がもう少しでも表現され伝えられていたならばと思わずにはいられませんでした。
確かにそれは、チラシのオモテに
「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、
それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが」
と書いてはあります。
その「おまいの仕事」をなすのは、演者だけではなく、そこに集まる観客一人ひとりも「おまいの仕事」をなすことが求められるのです。
それを今回、わたしが出来なかったことのお詫びとして、この文章を書いています。
音楽や芝居の表現力において、わたしはぶっちさんをとても高く評価しています。
そしていかに力量があっても、いかなる分野の仕事であっても、誰もが、「なんでわかってもらえへんのやろう」「なんで伝わりへんのやろう」といったつぶやきはともなうものです。
今回の公演のメディアの伝え方でも、まさにそうしたことがありました。
この度のぶっちさん達の公演などは、完璧なほどの表現を見せてくれているのですが、こちらから見ると想像以上にすぐれていた芝居である分だけなおさらに何がどこまで伝わっているのかという点から振り返ると、「もったいない」成果に感じてしまうことがあるのです。
こうしたことはもしかしたら、プロデュース不足とも言えるのではないかと思いました。
一つの作品を見せるのに、それがボランティアや無料公演がふさわしいのか、1000円の料金がふさわしいのか、2000円がふさわしいのか、タイトルデザインはどのようなイメージが相応しいのか、ぶっちさんのキャラクターを前面に押し出したような宣伝が良いのか、作品の主題を強調した方が良いのか、客席とフレンドリーな環境づくりが大事にするのか、はては会場のトイレ清掃がゆきとどいているかどうか。
また、それを実現するにはどのようなロケーションが求められるのか、などなど、一つ一つ詰める作業がとても大事で、ひとりでそれをこなすのもとても大変なことです。
そうした作業は、どんな企画の場合でもキリなくあるものですが、たとえそれを「そこまでやるのか」と言われるまでやり尽くしても、「作品」は、完成したと言えるのかどうかはわからない世界があります。
だからこそ、まさに「おまいの仕事」をその時々でなしていくには、自分自身の中で、またひとりひとり仲間の力でそれら細部を積み重ねていく根気のようなものが、どんな仕事の場合でも確かに「やっかい」であるけれども避けて通ることのできないとても大事なことであるとわたし自身も日々痛感しています。
そこを、単に「頑張っているから」で済ませるのではなくて、「いかに伝えるか」のために、細部にわたってプロデュースする努力の積み重ね、こだわり続ける監督の力量のようなものが、福祉、教育、平和運動や日々の仕事のなかでも、どれだけ大事であるかということ、まさにそれこそ、井上ひさしが生涯を通じて考え続け問い続けてきたことでもあると思います。
もちろん、ぶっちさん、花澤さん、他のみなさんが相当この日に至るまでの議論は積み重ねてこられたものと想像することができます。
それだけに、この芝居を完結させるには、事前の準備・練習と当日の感動と、やりたくても出来なかったことも含めてその次の連鎖を目指すには最低3年くらいの繰り返しを通じて磨き続けることが、どうしても不可欠なのではないかと思えてならないのです。
誠に勝手な話で申しわけありません。
というのも、この「父と暮らせば」という作品が、数々の戦争を語り伝える文芸作品の中でも古典となりうる要素を強く持っているばかりでなく、二人芝居という形式が、様々な演出によって各地で上演されることを可能にし、より深く国民に浸透されることが想像されるからです。
妻がこの芝居の感想を二人で語り合っているときに、井上ひさしが晩年、娘に毎日何時間も伝えたいことを語り続け、すべてを伝えるだけではなく、あとは自分で考えることの大切さを言い残したことを言っていました。
井上ひさしが投げてくれたボールを、ぶっちさんと花澤町子さん、その他の協力してくれた皆さんがしっかりと受け止めて今回の素晴らしい公演に結実させてくれました。
この財産をさらに磨き続けていくことでこそ、皆さんの思いも、より確かなカタチになっていくものと思いますが、私も事前にぶっちさんの思いを受け止められなかった後悔を晴らす機会として繋げられたらとも思う次第です。
http://yorocondeb.exblog.jp/25892651/
補足
こまつ座による、この『父と暮せば』の上演は、1994年の初演以来高い評価を獲得し、第2回読売演劇大賞「優秀作品賞」を受賞しています。
そうしたこまつ座の後に他の演出を試みることなど無謀にも思えますが、なんと宮沢りえと原田芳雄の共演で映画化もされてるらしいですね。
残念ながら私はその映画を観てはいませんが、宮沢りえの女優としての実力が見事に発揮された作品となっているようです。
原作のあらすじについてはコチラ http://ameblo.jp/classical-literature/entry-11763850932.html
10月25日に前橋の旧大竹レンガ蔵で行なわれた演劇、
劇団レレレレンガ 演劇公演「前橋出口」https://www.facebook.com/rerererengaを見てきました。
ちょっと遅くなりましたが、雑感メモを以下に思いつくまま。
記憶はつながるのか
言葉はつながるのか
意味はつながるのか
道はつながるのか
時はつながるのか
そんなイメージがわいてくる演劇でした。
正直なところ前半部分は、もしかして既存の形式や意味、空間を破壊するだけのよくある前衛演劇なのかと、ハラハラ心配しながら見ていました。
それが、レンガの上をMさんが歩くシーンでいろいろ具体的な言葉があらわれて、
やっとその後の展開が想像、把握でき、おちついて見れるようになった次第です。
でも、それら如何にかかわらず、Nさんの発声、身体力はすばらしい。
舞台を引き締める力があるのを感じました。
最初の戸惑いは、あのレンガ倉庫という空間が、異空間の利用でありながら
あまりに立派な舞台装置になりきっていることに起因するようにも思えました。
この演劇は、本来は屋外こそふさわしい。
芝居する側と観客との断絶破壊の構図で進行するイメージの歪みが、
狙いなのかどうかはわかりませんが、
見るも側の意識にゆらぎを与えたという意味では成功だったかもしれません。
でも、様々に分断され、断ち切られた空間や言葉や意味が、
空間をつなぐ、
言葉をつなぐ、
意味をつなぐ、
道をつなぐ、
という方向に流れたのかといえば、
それはまさに前橋という街そのものが持っている特徴のまま、
個々の断片は
「つながりきらない」
ものであったと思います。
それは、前橋などの都市で行なわれるまちづくりイベントの特徴そのものであるとも感じられました。
シネマまえばし、
レンガ倉庫、旧安田銀行担保倉庫
アーツ前橋、アーツ桑町・・・
など、意欲的な文化空間やイベントを行っている姿は
私の住む田舎からみるととても羨ましいものに見えます。
既存の設備をどう活かすか、
衰退の一途の街中をどう活性化させるか
しかけてくれる人がたくさんいることも、とても羨ましい限りです。
ところが、それらが活性化し刺激として成功しても
何か「つなげる」ものが欠けているような感じがぬぐえない思いがしたのです。
同時期に行なわれている「まちフェス」のイベントマップをみていても、それは強く感じました。
その辺が、この芝居テーマの狙いだとしたら、
とてもうまく表現できていたような気もします。
かたや私の住むみなかみ町の月夜野では、
文化活動といえば、年寄の俳句、歌、和讃、大正琴などの趣味の世界ばかりです。
こちらの田舎のレベルでも、高齢化のもと隣近所は、
なかなか「つながらない」傾向は深まっており、
都会と同じ厳しい現実があります。
しかし、それでも月夜野の場合は、自然の景観が
高度経済成長以来、環境破壊が進んだとはいえ、
田園風景や山々の景色を通じて記憶や意味、空間を
間違いなく「つないで」くれています。
「景観」がささえているものではありますが、
それは自然の「命」がつないでいるものです。
自然の生命がベースにあれば、すべては無条件に「つながる」のです。
もちろん、決して今のままで「つながる」楽園というわけではありません。
でもここが、企画やイベント、文化創造や新たな開発によって
「つながる」努力を重ねながら、つながりが連続するのかどうかの不安をぬぐえない環境と、
自然と人間の生命の連続が「つなぐ」ベースにある環境との
決定的な違いになっているような気がしました。
言葉や意味、
人や記憶、場所など
「つなぐ」ために「商品」を媒介することでしか「つなげない」「再構築できない」都市文化と
商品化されることのない「自然の生命」を基盤とする田舎文化の違いを
今回の企画は考えさせてもらえました。
「商品化」がすべて悪いということではありません。
あらゆるものが「商品化」に依存することなく、
「暮らし」のつながり、「働き方」のつながりを再構築することは、
都会においては、田舎とは比べものにならないとても難しい現実があります。
今、日本各地でアートの力で地域を再生する事例が増えており、
それはとても良い事で、私の地元でも是非、その方向でもっと頑張りたいと思っているのですが、
今見えている次の課題としてどうもこういったことが最近は気になります。
数年前から月夜野の地に定住するようになったせいか、
あらゆる問題をどうもこうした視点でばかりみてしまいがちなのですが、
私にとっては、個人的にとてもいい問題提起をしていただけた企画でした。
ご縁に感謝。
映画「奇跡のリンゴ」を観てきました。
久しぶりの映画で、当然、わたしたちの会員カードも期限切れ。
1年あまり、これといった映画がなかったのもありますが、この作品は、縁遠くなっていた映画館に足を運ばせるだけの期待感がありました。
こういう場合、しばしば原作に比べて映画は、スピード仕上げによる粗さや脚本の手抜きなどが気になるガッカリ作品が多いものですが、今回は期待を十分上回り映画作品としての出来映えもすばらしいものでした。
ストーリーなど泣かせどころは予想どおりでしたが、それでも、わたしは打ちのめされ、また、大いに励まされた。
そして、奥さんの大きな支えがあったことは、読んだ本でみていましたが、あんな立派なお父(義父)さんに支えられていたことは、この映画を観るまで知りませんでした(涙)
映画化が決まってからなのか、私も知らない間に、木村秋則さんの本も「奇跡のリンゴ」以外にも随分たくさん出ていました。
「奇跡のリンゴ」幻冬舎文庫
「すべては宇宙の采配」 東邦出版
「奇跡を起こす見えないものを見る力」 扶桑社文庫
「百姓が地球を救う」 東邦出版
「ソウルメイト」 扶桑社
「木村秋則と自然栽培の世界」日本経済新聞社
「自然栽培ひとすじに」創森社
「リンゴの心」佼成出版
「土の教室」 幻冬舎
本もたくさん出て、すばらしい映画も出来て、自然農法の影響力もこれでかなり広がることを期待したいところですが、私が行った映画館には、私たち以外の観客は2組だけ。
考えてみれば、私が福岡正信の『わら一本の革命』に出会ってのめり込んだのは20年以上前のこと。
手元にある本をみると、初版は1983年。
その後、世界各国で翻訳されて、大きな流れとなっていくと思いましたが、有機農業との違いもあまり認識されないまま、予想したような広がりは長い間見られませんでした。
福岡正信の語る世界は、自然農法という農業の領域だけでなく、無為自然のタオ(老子)の哲学として、多くの人に衝撃的な根本哲学を示すもので熱烈に支持されたものですが、この30年もの間は、結局、広がり度合いをみると「異端」のままであった気がします。
それが、今、自然栽培のなかでもひと際難しい果樹のリンゴで奇跡をおこした木村秋則さんによって、ふたたび注目を浴びる機会を得たことは、長い時の流れをみると感慨深いものがあります。
時代の変化で、やっと社会がこうした思想を受け入れる器ができてきたような感じがします。
それでも、木村さんが10年近くの年月をかけてようやく答えをみつけたのが1985年。
大きなうねりとなって広がりはじめたものの、自然農法は、農業全体からみればまだごくほんの一部のこと。
著作や映画に感動した者の側からすれば、こんなにすばらしい世界なのにと思いますが、現実のまわりのリンゴ農家、その他のあらゆる栽培農家は、まだこの農法そのものを知らない現実もありますが、それを知っても切り替えには、大きな覚悟と実際に収穫を得るまでのリスクがあります。
すべての農薬を止めて、土の生命力を取り戻し、作物のまわりの環境とともに生命の循環が再開されれば、コスト、労力ともに大幅に減らして、より美味しく身体にも良い作物ができる。
これは、単なる新しい技術をひとつ導入するといった話ではなく、自然に対する考え方、農業に対する考え方を根本から、自然本来の姿に転換するものであるだけに、時間は当然長くかかるものです。
しかし一時の流行とは明らかに違うので、後戻りすることはなく、長い時間はかかっても確実にこれからは広がっていくものと思います。
早く結果のでるものは、すぐに廃れるものです。
かといって単純に、結果を出すのには時間がかかるというものではありません。
大事なのは、10年、20年後、さらには100年後のすばらしい未来を、
心に描けた人だけが、
さらに、その未来像に向かってあきらめずに頑張れた人だけが、
「答え」を得ることができるのだと思います。
ほんとに、いい映画でした。
みなさん、本も映画も是非、みてください。
Abdullah Ibrahim & Ekaya - The Wedding
数日前にラジオで断片的に聞いたことで、正確なことはわかりませんが、
とても印象に残った話です。
小さい頃にテレビで放映される映画を片っ端からみたその人が、20年だか30年だかたってから、その記憶にある映画を片っ端から観たという話。
テレビで放映されたような映画なので、まず市販のDVDなどでは手に入らないものが多く、ほとんどは違法な映像を入手してみたとのこと。
テレビ放映はCMの時間の都合もあり、かなりカットされている場合が多いので、再度観ると、結末そのものが違っていたり、こんな話だったのかと驚かされることが多いとのこと。
20年、30年前は、今とは放映基準が異なり、こんな映画を放送してよいのかと驚くような作品も多いとのこと。
自分の好みや嗜好で選んだ作品ではなく、放映されたものを片っ端から観るということが、かえってその当時の自分の個人的体験や情況の記憶が「トラウマ」のように染み付いているとのこと。
そうした様々なB級作品を、自己の体験にからませて深く読み解いているところが実に興味深い話でした。
「トラウマ映画館」という本が昔出ていましたが、その本の著者の話なのかどうか、まだ定かではありません。
そんな面白い話のなかで、この人が自分の記憶をたどるとき、「その作品のディテールを記憶していない感動などというものは、ただ過ぎ去ったその場限りの興奮にしか過ぎない」
といったようなことを言っていました。
映画を観ても、本を読んでも、いつも、たくさんの感動と興奮がありますが、それが何だったのか、自分でそのストー^リーなり、ディテールなりを語れないようなものは、結局、ただ一時の興奮だけで、それも意味が無いわけではないけれど、やはり時が経つと何も残らないことが多いものです。
今、読んでいる本ですら、
ここはスゴイなどと感動していながら、数ページも先に進むと
もう前の驚きや感動は忘れて、新しいページの世界におぼれてしまっています。
これは必ずしも「記憶力」の問題ではありません。
(時々、悔しくなるようなひたすら記憶力の高い人を見ることがありますが・・・)
自分にとっての価値を高められるかどうかの問題だと思います。
毎度、思いつくままの雑感ですみませんが、そんな気がします。