ヨロコンデぶっちさんから、この芝居の案内を頂いたとき、今思えば大変申しわけなかったのだけれど、ぶっちさんが様々な境遇をかかえながら頑張っている企画とは思いながらも、この芝居の内容がどのようなものであるのか、またぶっちさんのどのような想いで実現されたものであるかについては、あまり深く考えてはいませんでした。
ただひたすら、とても一生懸命頑張っているぶっちさんなので、なんとかその姿をみて応援してあげたいとだけの気持ちでいたのです。
このことが、芝居を観終えたいま、とても申しわけなく思っています。
優れた作品だから見に来て欲しい、一生懸命練習したから見に来て欲しい、仲間としては、ただそれだけでも行くには十分な理由でもあるのですが、そうしたレベルではないこの作品に対する思いというものを、わたしは事前に十分読み取っていなかったのです。
もちろん、この芝居は、そうした意識はなくとも、ぶっちさんの前口上のつかみの巧さ。
花澤町子さんが登場する時の「命短し〜」のフレーズだけでウルっときてしまう歌の上手さから、序盤からすでに予想を超える仕上がりの芝居であることが十分わかるものでした。
でも、伝えたいのは当然、そこじゃないよね。
それを、わたしが事前にきちんと理解できていたならば、あるいは、チラシやネットでの情報が流れていたときに、そうした思いが多少なりとも伝わっていたならば、さらにどれだけ多くの人の期待が持たれた公演であったかと思わずにはいられません。
(前売り情報の期待が高いことは、かなり伝わったようですが)
8月15日までの間、毎年戦争を語り考える企画は数限りなく繰り返されています。
いつの時代になってもそれを語り伝えなければとの思いは、戦争を体験した世代が確実に減るとともに切実さも増すばかりです。
でも、それをどう伝えるのか、自分に何ができるのか、との思いの間では誰もが未だに悩み続けています。
そこに井上ひさしが晩年投げかけたこの作品に、ぶっちさんと花澤さんがどのような思いで取り組んだのかは、作品を通じてこそ伝わってくるのもではありますが、他方、事前にその意図がもう少しでも表現され伝えられていたならばと思わずにはいられませんでした。
確かにそれは、チラシのオモテに
「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、
それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが」
と書いてはあります。
その「おまいの仕事」をなすのは、演者だけではなく、そこに集まる観客一人ひとりも「おまいの仕事」をなすことが求められるのです。
それを今回、わたしが出来なかったことのお詫びとして、この文章を書いています。
音楽や芝居の表現力において、わたしはぶっちさんをとても高く評価しています。
そしていかに力量があっても、いかなる分野の仕事であっても、誰もが、「なんでわかってもらえへんのやろう」「なんで伝わりへんのやろう」といったつぶやきはともなうものです。
今回の公演のメディアの伝え方でも、まさにそうしたことがありました。
この度のぶっちさん達の公演などは、完璧なほどの表現を見せてくれているのですが、こちらから見ると想像以上にすぐれていた芝居である分だけなおさらに何がどこまで伝わっているのかという点から振り返ると、「もったいない」成果に感じてしまうことがあるのです。
こうしたことはもしかしたら、プロデュース不足とも言えるのではないかと思いました。
一つの作品を見せるのに、それがボランティアや無料公演がふさわしいのか、1000円の料金がふさわしいのか、2000円がふさわしいのか、タイトルデザインはどのようなイメージが相応しいのか、ぶっちさんのキャラクターを前面に押し出したような宣伝が良いのか、作品の主題を強調した方が良いのか、客席とフレンドリーな環境づくりが大事にするのか、はては会場のトイレ清掃がゆきとどいているかどうか。
また、それを実現するにはどのようなロケーションが求められるのか、などなど、一つ一つ詰める作業がとても大事で、ひとりでそれをこなすのもとても大変なことです。
そうした作業は、どんな企画の場合でもキリなくあるものですが、たとえそれを「そこまでやるのか」と言われるまでやり尽くしても、「作品」は、完成したと言えるのかどうかはわからない世界があります。
だからこそ、まさに「おまいの仕事」をその時々でなしていくには、自分自身の中で、またひとりひとり仲間の力でそれら細部を積み重ねていく根気のようなものが、どんな仕事の場合でも確かに「やっかい」であるけれども避けて通ることのできないとても大事なことであるとわたし自身も日々痛感しています。
そこを、単に「頑張っているから」で済ませるのではなくて、「いかに伝えるか」のために、細部にわたってプロデュースする努力の積み重ね、こだわり続ける監督の力量のようなものが、福祉、教育、平和運動や日々の仕事のなかでも、どれだけ大事であるかということ、まさにそれこそ、井上ひさしが生涯を通じて考え続け問い続けてきたことでもあると思います。
もちろん、ぶっちさん、花澤さん、他のみなさんが相当この日に至るまでの議論は積み重ねてこられたものと想像することができます。
それだけに、この芝居を完結させるには、事前の準備・練習と当日の感動と、やりたくても出来なかったことも含めてその次の連鎖を目指すには最低3年くらいの繰り返しを通じて磨き続けることが、どうしても不可欠なのではないかと思えてならないのです。
誠に勝手な話で申しわけありません。
というのも、この「父と暮らせば」という作品が、数々の戦争を語り伝える文芸作品の中でも古典となりうる要素を強く持っているばかりでなく、二人芝居という形式が、様々な演出によって各地で上演されることを可能にし、より深く国民に浸透されることが想像されるからです。
妻がこの芝居の感想を二人で語り合っているときに、井上ひさしが晩年、娘に毎日何時間も伝えたいことを語り続け、すべてを伝えるだけではなく、あとは自分で考えることの大切さを言い残したことを言っていました。
井上ひさしが投げてくれたボールを、ぶっちさんと花澤町子さん、その他の協力してくれた皆さんがしっかりと受け止めて今回の素晴らしい公演に結実させてくれました。
この財産をさらに磨き続けていくことでこそ、皆さんの思いも、より確かなカタチになっていくものと思いますが、私も事前にぶっちさんの思いを受け止められなかった後悔を晴らす機会として繋げられたらとも思う次第です。
http://yorocondeb.exblog.jp/25892651/
補足
こまつ座による、この『父と暮せば』の上演は、1994年の初演以来高い評価を獲得し、第2回読売演劇大賞「優秀作品賞」を受賞しています。
そうしたこまつ座の後に他の演出を試みることなど無謀にも思えますが、なんと宮沢りえと原田芳雄の共演で映画化もされてるらしいですね。
残念ながら私はその映画を観てはいませんが、宮沢りえの女優としての実力が見事に発揮された作品となっているようです。
原作のあらすじについてはコチラ http://ameblo.jp/classical-literature/entry-11763850932.html