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かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

お金のかからない時代へ

2008年05月31日 | 無償の労働、贈与とお金
原油高を契機に、いろいろなものの値段が上がり続けている。

数日前だか、日銀が異例の「スタグフレーション」という言葉を口にした。



ビジネスベースでものを考えている多くの人には、インフレ待望論も根強い。

しかし、その期待を裏切るかのように、物価が上がっても景気がよくならない時代になっている。



今の物価の上昇は、一時的な変動要因によるものと見てよいだろうが、

景気循環サイクルの問題ではなく、やはり経済や社会の構造が

最近大きく変わったのではないかと思えてならない。



最近、風呂で読んでいた高井信夫氏の『朝10時までに仕事は片づける』かんき出版

のなかにに出ていたマクロレベルの数字を見てみると、



 1979年の企業の利益は7兆5010億円、欠損は6930億円、差額はプラス6兆8080億円でした。

全体で見ると企業はすごく儲かっていたのです。

 その後もこの差額はどんどん膨らんで、75年には7兆5530億円、

80年は19兆2200億円

85年は25兆5200億円

90年には43兆6340億円と

文字通り右肩上がりの成長を続けたのです。



こうして企業の利益が膨らむなかで、働く人の賃金もうなぎのぼりに上がっていき、みんな豊かになっていった。

ところが90年代以降はどうなったかというと、90年代初めのバブル崩壊を境に、企業利益は減り始めます。



それを数字で見ると、91年39兆3560億円、

95年には15兆2480億円に、

99年は8兆8860億円と下がり続け、

2001年はついに5兆2760億円まで落ち込んでしまいました。



父親の月給がどんどん下がっているのに、家庭では贅沢を少しもやめようとしない。

(引用終わり)



その家庭の代表は公務員たちであり、

老舗の看板を背負ったまま変化に対応しない企業たちでした。



でも、その一方で伸びている最先端の企業は、過去最高益を更新し続けています。



この変化を傍観している人たち、傍観せざるをえない人たちは、

ここに起きている現実をどう見ているのだろうか。



長いデフレスパイラルからようやく脱却したか否か、

なんとなくそんな声ばかり聞こえてくるのですが、私には今の経済状況を見ていると

景気循環の流れの変化ではない、もっと大きな変化が既に起きているのを感じます。



それは、結論から言うと、

90年代の組織のリエンジニアリングに始まり、社会全体に浸透するデジタル化社会の進展などにともなって、

景気の循環云々よりも、根底的に社会構造そのものが「お金のかからない社会」に向っているのだと思えるのです。



その根底構造がさらに、世界的な金余り状況を生み、投機マネーが右へ左へ揺れるたびに

世界経済を混乱させるに止まらず、巨大な破壊を繰り返す。

それは、一国をも滅ぼすほどの勢いで。



カネ余りが呼び起こす投機マネーの問題は横においても、

ここでこれからの企業経営の大前提を見損なってはいけない。



かつてトフラーは、「第一の波」の農耕社会、「第二の波」の産業社会が終わって、「第三の波」の情報化社会の到来を告げた。

そしてインターネットバブルの到来とともに、情報こそ、お金を稼げる領域であると、今も叫ばれている。



たしかに今はその情報云々が企業の命運を大きく左右している。

でもそれは、ほんの一時的な優位にしかすぎない。

情報の優位ほど長続きしないものはない。



ドラッカーが強調していた情報化社会、知識集約型産業も、

その比率が増し、社会での重要度が増すことは間違いないが、

決してそこでお金がどんどん取れるようになるわけではない。



(以下は引用です)



情報化社会においての花形ビジネスには、弁護士や会計士という仕事も含まれる。ところがいまや、

食いっぱぐれのない資格であるとされていたそういう仕事でさえも、コンピュータに取って代わられてしまっている。

「ファミリーロイヤー」や「クイッケン」などという100ドルくらいのパッケージソフトで、

弁護士や会計士の仕事の大部分ができるようになってしまっている。

(略)

学校の教師も同じだ。

経済学に関していえば、いまは、世界中の「経済原論」の講義でサミュエルソンの本の「輪読会」をやっているようなものだ。

 ところが、サミュエルソンが直接インターネットに出てきて教えてしまうと、「輪読会」をやっている程度の教師は失職してしまうのである。

 サミュエルソンなら、生徒一人から100ドルずつの授業料で10万人に教えたら、毎年1000万ドルの収入になる。つまり、サミュエルソンは高収入を得られるけれども、「輪読会」をやっていた教師は月500ドルのTA(補助教員)。

メシの食い上げになってしまうのだ。

         ダニエル・ピンク著 大前研一訳『ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』三笠書房



トーマス・フリードマンのように『フラット化する世界』上・下 日本経済新聞社

といった表現でそれを語る人もいる。



私の領域では、再三「情報の値段は本来タダ(無料)」という原則を言い続けているが、

1,000円、2,000円の書籍を売っている隣で、どんどん100円、500円の古書が出回る時代というだけでなく、

ネット上では、タダ(無料)で、それと同等の情報をいくらでも得ることが出来るようになってきているということです。



それは、著作権の侵害だと、また多くの人は叫ぶ。

しかし、情報そのものは、それを独占、秘匿することによってのみお金が取れるのだということを忘れてはならない。

このことは、わたしとあなたのすぐ隣でおきている現実が、

先の権利が虚無な主張にしかすぎないということをどんどん立証していく。



情報はなによりもその本源的性格からは、社会の公共財であるべきだ、という原則がある。



このあるべき社会に向って、世の中は確実に今「進歩」している。



もちろん、まだ巻き返しのエネルギーは衰えるどころか、加速すらしながら当分の間、襲いかかってくるだろうが、

格別なお金をかけなくても、多くの人が所得や身分の制約を受けることなく、かなりのことが出来る世の中になりつつあるのは間違いない。

本当の個人の付加価値生産能力が問われる厳しい社会かもしれないが、

それは既得権にあぐらをかくことなく、ひとりひとりが真に創造的に生きる社会への入口であるとも言えるだろう。



(余談ですが、私の不連続シリーズ「近代化でくくれない人びと」は、土地所有から排除されたり、身分を差別された人びとであるがゆえに、

,その社会では丸裸にされ、それゆえに人間として様々な技能を身につけることを必然として来ざるをえなかった流れとして、このこれから私たちが直面する「お金のかからない社会」の共通構造を感じるのです。)



このことは、同時に、営利目的にジャンジャン金を取れる領域が縮小していくことでもある。

単純な労賃や手数料収入や権利収入の領域は、これも当面、増加し続けることだろうが、

情報化社会が成熟してくるにしたがい、そうした領域で多額のお金を取ることも難しくなってくる。



私はこうした視点を前提にしているので、うちの店では、業界の動向の問題よりも

まず平均単価を下げる努力を抜本的に継続してしなけれなならないと考えている。

手間のかかる方向ではあるが、単価を下げ、回転率を上げる。

お客さんが買いやすい商品の比率を増やすこと。

ベースをそこにおいた方が、厳選された高額本はよりよく見えるようになる。

もちろん、そのための情報を増やすこと、これが一層大事になると思っている。



いろいろな運の良さもあっただろうが、業界がマイナス成長の時期に入ってから7年間、

書籍の売上げを伸ばし続けることが出来ているのは、この考えを前提としていたからだと思っている。



厳しいことを要求するように見えるかもしれないが、

お金をかけずに自分の労力を増やす。(あたりまえか?)

自分の労働からルーチンワークを減らし、新しいことを試す時間の比率を圧倒的に増やす。

そんな方向の準備をいま加速している。



お金は無くとも、かなりのことは出来る時代にもう入っているので、

あとはもう自分の頭の中の力の問題。



優秀な人の仕事を見るほど、その頭の違いは、頭脳の良し悪しよりも、

思考作業を分解してひとつひとつクリアしながら積み重ねる能力だと思う。



もう自分に必要なものは、すべて揃っている。

























・・・・はずだ。





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元気があればなんでも出来る(その2)

2008年05月28日 | ・・・ったくアホな生活
元気ですかぁ~?

元気ですかー?
ハハハハ、

元気があれば、なんでもできる。

元気があれば、下痢も治る。
ハハハハ。

元気があればでっかいウンコがスポンと飛び出す!
ハハハハ。

あまりにきれいに出るから紙もいらぬ。
ハハハハ。



で、昨日、すがすがしい快晴のもと、
長野に行ってきました。
ふと地図を見たら、高速が通じるまではなぜかいつも六合村から須坂に抜けていたのですが、
その北の万座、志賀高原を抜けるコースで行くと、県境を越えたらすぐ長野市につくことに気づいた。

長野に入ってからのトロトロ走行がいつもイヤだったので
今回は時間もあまり気にしない運転だから、こっちから行ってみることにした。

こんなに天気がいいのだから
高速を使うより、こっちの方がずっと気持ちいい。
大雑把に、群馬県内約2時間、長野県内約1時間、
合計3時間あれば長野市に着くとみて、
テレビの「冬ソナ」を観てから、1時40分に渋川を出た。

ガソリンはメーターの半分くらいだが、往復300キロくらいは多分もつだろう。

景色の良いところがあったら、いつもの商品撮影をしようと
一通りのものは積み込んで、車中の食い物も買い込んで
準備ヨシ。

紅葉の山もきれいだけど、青い空の下の新緑は生命力に溢れているから
自然と元気が出る。

最近お気に入りのCDをガンガンかけて走る。
(この元気の出る音楽のことは次回に書きます)

出てすぐ、群馬県内の地図しか車にないことに気づいたが
だいたいは標識見て走れば問題なく着くだろう。

八ツ場ダムの周辺道路工事が来るたびに進んでいる。
なんでこんな道路が必要なのか、現状の道路の高さとダム湖水面の高さの差のないところも、どんどん新しい道路が作られえている。

草津温泉経由にしようかとも思ったが、万座温泉の硫黄の香りをかぎたかったので、万座ハイウエイ経由にした。
そしたら有料道路料金1,050円だった。
この50円の半端、なんとかならないものか?
この50円が無ければ、払う側も、つり銭出す側も、どれだけスムーズに行くことか。

露天風呂の満足度は、草津や四万より万座の方が好きだ。
でも、今日は入らずに通過。

ハハハハ。
元気があれば、硫黄のにおいで満足。

高度が上がると、やはり群馬県内でも長野側特有のカラマツなどの針葉樹とシラカバ系の木々ばかりの景観。県内、北東の山に行くとブナなどの広葉樹が増えるのと対照的。長野だなーって感じがする。


横手山から下りに入ると、もう眼下には長野の街並みが見えている。
確かにあっという間に中野市街に入る。

でも長野市周辺に来てからトロトロ走るようになり、駐車場探しなどして車を降りるまで結構時間がかかった。

長野は、妙にスラリとした品のいい女性が目立つ。
都会的な人はいないけど、お友達になりたいタイプが群馬より多そうだ。

ハハハハ
元気があると、みんな友達のように見える。

予定の調査を済ませて、郊外の平安堂に寄る。

この時点で7時くらいだったろうか。
外が暗くなったら、もう方向がわからなくなり、
地図がないと来た時のようには走れそうにないと思い
長野県地図を買った。

おおまかな道路を確認するも、結局、あてずっぽうで走る。
明らかに途中、分岐を間違えたが、川と並行に北上すれば大丈夫だろうと
前の車の後をただついていったら、思いかけない抜け道で楽をさせてもらった。

ハハハハ、
元気があれば地図もいらない。

中野市の右折交差点だけ間違えなければ大丈夫。
と、思ったころ、ガソリンメーターを見たら、
もうEの文字に針がかかりだしていた。
これから峠越えだというのに大丈夫だろうか?

いやいや往復300キロの概算で考えれば、
半分入っていたのだから、ほぼ間に合うはず。

ハハハハ
元気があれば、ガソリンもいらない。

ちょっと心配になるが、
山を下りればどっかに一軒くらいはガソリンスタンドはあるだろう。

真っ暗闇の峠路を登るとき、どのくらいガソリンが減るか心配だったが、
横手山まで登りきって、それほどでもなかったので安心した。

ハハハハ。
元気があればガソリンも減らない。

あとは下るだけ。
まさか、来るとき通過した料金所。
こんな夜まで人がいるとは思えない。
たぶん、夜は無料通過できるだろうと思ったら、電気がついてるので一瞬
まさか!と思ったが、やはり人はいなかった。
通過時間は9時。何時頃までいたんだろうか?

と、思ったら別の心配が頭に浮かんだ。
これから月夜野までの道中、夜9時以降も営業しているスタンドはあるのだろうか?


いやいや、大雑把に300キロ。
はじめに確認したメーターの概算では足りるはず。

ハハハ、
元気があれば、余計な心配はいらない。

草津町の標識を経て、長野原町を通過するが、どこも街並みは真暗。
あや?

中之条まで行けば一軒くらいは開いているスタンドあるだろう。
原町でようやくスタンドの明かり発見。
でも、概算では足りるはずなのだから、ここはパスしていいだろう。
カードのある会社じゃないし。

と思って走り続けたら、中之条市街通過経路には一軒もスタンドの明かりはなかった。
やっとENEOSの赤い看板が見えたと思ったら、
セーブオンの看板だった。

概算で足りるとわかっているんだから心配はない。

ハハ、
元気があれば・・・

高山村に入ったら、とうとう赤ランプ点灯。
いやいや、ここまで来ればもう大丈夫。
最後の峠の上り坂も、志賀高原の登りに比べたら、
屁みたいなもんだ。

ハハ、
元気・・・
ブーーン、アクセルを踏む。

昔に比べたら道が良くなったので、それほどの峠道ではない。
ブーーン、と峠を上りきる。
ほらみろ、もう大丈夫だ。
あとは下るだけ。
赤ランプだろうか、ピンクだろうが、もう間違いなく着く。
ようやく確信が持てた。


おかげで、なんとか沼田の24時間営業のスタンドに着くことが出来ました。

ハハハハ、
だからはじめから、元気があればなんでも出来るって言ってたろうが。

月夜野の実家に10時半ころ寄ったら、次の手作り本を依頼された人から
校正原稿が届いていた。
ネットで注文した古書も2件届いていた。
紛失した大事な業界紙のバックナンバーをネットで見つけ注文したものも届いていた。

ハハハハ。
元気があれば、何でも揃う。

いい時代だ。


ハハハハ、
皆さん
元気ですかぁ~?

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元気があればなんでも出来る(その1)

2008年05月28日 | 気になる本
元気ですか~?

元気ですかー?
ハハハハ、

元気があれば、なんでもできる。

元気があれば、天気も晴れる。
ハハハハ。

元気があれば結石も消える
ハハハハ。

昨日はすがすがしい快晴だっただけでなく、
一日、元気の出ることがたくさんありすぎたので、
ちょっと今日が怖い。

元気のでること (その1)

iGoogleのガジェット追加やデザイン変更などしていたら、
Googleの便利な機能がいろいろ見えてきてしばらくのめり込んでいた。

そんな作業をしていたら、ブログ紹介からすばらしい本の情報に出会えた。

元気の出ることが押し寄せる一日は、
この本の目次との出会いからはじまった。

おそらく、
ただのベストセラーリストとして見ていたら気付かなかっただろうこの本。
「ラクをしないと成果は出ない」
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032075874&Action_id=121&Sza_id=GG




はじめにこの項目を見たときは
ビジネススキルのチェック項目かと思って感心してながめていたのですが、
よくみればこれは本の目次。

ひと項目見るごとに、
そうだ!
ヨシヨシ!
そっか、それで行け!

と頷きながら元気がでる。


はじめに
第1章 基本編
1 ラクをして成果を上げるのが基本中の基本 
2 ゴールを必ずイメージしてから仕事に取りかかる
3 自分にできないことをしている人を、素朴に尊敬する
4 お金で自分の時間は買えない。他人の時間なら買える
5 「ぜひ続編を」に即対応できるよう、素材は使い切らない
6 外部の人に自分の仕事のおもしろさが伝わらなければ、それはつまらない証拠
7 よくわからなかったら現場に行って考える
8 気になったら、まず買う
9 自分に対する相手の優先順位を上げてもらうことが仕事の基本
10 全体像と個別の処方箋を混同しない

第2章 インプット編
11 「つまらない」と思ったら、できるだけ早く撤退する
12 情報収集にのめりこまない。情報とは「出合う」ものだからである
13 立ち読みは書店でなく家の中でする
14 若いうちはテーマなしで一日一冊、四〇代は一日で五冊
15 興味がわいたことは講演やセミナーに出て、全体像と情報源を一気に押さえる
16 書棚一本の本がたまったら、新しい分野を開拓できる
17 ブログを世界中の井戸端会議における、「立ち聞き」として活用する
18 ウソには必ず理由や背景がある。それを探るとインプットが効率的になる
19 発行部数数千部のメルマガや専門誌や白書類にたくさん目を通す
20 図書館に行けば行くほど「無駄遣い」になる

第3章 ネットワーク編
21 いざという集まりには万難を排して参加する
22 アイデアは他人の頭で揉んでもらう
23 メールの未処理は「なし」の状態にして帰宅する
24 会いたい人にはできるだけ向こうから望んで会ってもらうように仕向ける
25 お願いした場合は「いつでも」と言う
26 予測がつかなかったら、親しい友人と賭けをする
27 人から薦められたものは、無理をしてでも即日取り入れる
28 期待値を下げる
29 自分の実力をマッピングしておく。身の丈を知ったうえで見栄を張る
30 先輩の一言アドバイスには、とにかくまず従ってみる

第4章 撃退編
31 締切日に納品しても、返信がないような会社とは仕事をしない
32 依頼には即決で答える
33 愉しめない喧嘩は避ける
34 自爆しない
35 NGな人には説明しない。NGな人とはモメない
36 クレームは、成長に不可欠なもの(一割)と、無駄(九割)に分かれる
37 できるだけ葬式には行かない努力を
38 三日かかることは一日でやる
39 「苦手なこと」は人の手を借りて解決する
40 NG上司に煩わされない

第5章 独立編
41 本当に「良いもの」は自分で売ってみる
42 出された問題はすべてその場で解決の方向と、「いつまでに」を明確にする
43 今の仕事を30年後にもやっているかを自問。もしNOなら続かない
44 自分の仕事が黒字になっていなかったら、絶対に会社を辞めない
45 商売道具への投資はケチらない
46 最初から必ず黒字にする
47 「この社と切れたら自分がアウト」という取引先は作らない
48 「やりたいこと」を周囲に話しておく
49 「好き」を安さの言い訳にしない
50 独自の販売回路をもち、その売り上げは五年で二倍が最低ライン

第6章 継続編
51 好きな仕事を増やすために、好きではない仕事を毎年二割ずつ削除する
52 「なるほど」と思ったことは、二四時間以内に「やる」メドをつける
53 過去を振り返らない
54 「何をしないか」を明確にしてゆく
55 常に確率を意識する
56 一発屋でなく、人気(売り上げ)×継続の面積を広げていく
57 貯金しなくても良いようなキャッシュフローを、常態化する
58 問題を見つけたら、必ず即日解決の糸口を見つけておく
59 継続させる小さな工夫を

第7章 組織編
60 今いるメンバーを前提にする。「上手くいかない」のを彼らのせいにしない
62 会議や集会は、参加者全員が「待ち遠しい」仕掛けをつくる
63 自分の「忘れグセ」を前提に、「忘れても、できる」仕組みをつくる
64 共有する言葉の定義を明確にしないと、誤解が量産される
65 コーチはするものではなく、優秀なコーチに短期間「つく」のが近道
66 どれくらい時間がかかるかは先に訊く。ギャラも先に決めておく
67 インセンティブを高める工夫だけで、成果が上がる場合は予想外に多い
68 毎日仕事が終わったら、机の上と周辺を完全にリセットする
69 「約束の優先順位」を見直すクセをもつ
70 休暇中も仕事をしたほうが、のんびりできる

第8章 時間編
71 会議は一企画につき二度だけで終える
72 決裁は火曜日の午前一〇時半から、と決めておく
73 探し物は一ヵ月で合計一時間以内に
74 人を待たせない。待たされても怒らない
75 「遅刻してしまった!」を先にイメージする
76 よほどゆとりがない限り、正義に多大なエネルギーを注がない
77 レファ本の常備は時間を節約する
78 出欠を迷うイベントには行かない
79 一万円札と名刺は三ヵ所に入れておく
80 もう腕時計をしない

第9章 アウトプット編
81 ノウハウはどんどん公開する
82 「好き」をお金にしてゆく
83 「本格的に勉強したい」分野の仕事を引き受ける
84 アウトプットしないものはインプットしない
85 数値目標とその根拠を明白にもつ
86 同じネタで何度も稼がないように自戒する
87 「新鮮でおもしろいこと」は三〇秒で説明する
88 毎晩アルコールが欠かせない人は伸びない
89 相手を飽きさせず一時間話せたらお金になる
90 「必要でないこと」は極力やらない

第10章 生活技術編
91 死以外の悲劇は、一〇年後に必ず人生の肥やしになる
92 子どもができたら、「仕事で二〇年後にブレイクする」準備を始める
93 昨日と違う今日、今月と違う来月、来年と違う再来年にする
94 加齢とともに遊び時間を増やしてゆく
95 最悪の事態を想定し、その兆候が出たら動く
96 よほど親しい人以外にはプレゼントをしない
97 ドタキャンは月に一度だけ、と決めておく
98 旅行用の持ち物リストをつくっておく
99 子ども部屋より書斎を優先するのが、家族のためになる
100 大切な人は命がけで守る
おわりに


昨日は長野へ行ったので早速、平安堂で現品を見てみた。

うーーーーーむ。
やっぱり、内容が豊富だから
オレはこの目次だけでも十分だ。

自分の店には、まだ入っていない本です。
早速仕入れる。
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「力」=Kraft 、 Macht 、Gewalt

2008年05月25日 | 「近代化」でくくれない人々
前回の一向一揆の特殊性のはなし、
もう少し補足しないと、真意が伝わらない気がしました。

「近代化」でくくれない人びとというテーマで、なぜ一向一揆に注目するのかということなのですが、
それは、闘いということを考えたときにどうしてもそれを
「政治的な」闘いと、武力なとの力を伴った「軍事的な」闘いに集約されがちですが、それ以外に、
生活者の視点に立ってみると「技術的な」闘いともいうべき、非政治的、非軍事的領域の重要性に気づくからです。

そしてこの領域を重視することから社会を組み立てる発想こそが、創造的な社会を築く条件でもあるのではないかと。

それで思い出したのが20年以上前に読んで、実家の棚に埋もれていた本。
唐渡興宣著『資本の力と国家の論理』青木書店 1980/09

本書では、日本語で言う「力」という概念が
ドイツ語では、Kraft、Macht、Gewaltとして使い分けられているということです。

(以下、引用)

Kraftという力は生産力(Produktivkraft)、労働力(Arbeitskraft)、自然力(Naturkraft)というように使用されており、それは何よりも生産的で、創造的な力である。すなわち、人々にとって肯定的で、積極的で、何かを創り出していく力なのである。それが可能態(デュナミス)における力であれ、現実的な力であれ、生産的、創造的に作用する力はKraftなのである。


Macht とは日本語で、威力、支配力、権力として訳されている力であって、それは何よりも人々に疎遠で、人々に対立する力なのである。Machtという力は実はその実体をKraftに持つものであるが、それの疎外された力がMachtという力なのである。

すなわち、それの実体をKraftという力に持つものの、人々にはそれが理解されず、そのMachtという力がどこからくるのか、またいかなる方向に作用するのかが理解されないがゆえに、Machtとして人々が意識する力である。

Machtという力は諸Kraftとしての諸力が集合され、結集されて押し出されてきたものであるが、人々にはそれの何たるかが不明である間は、それを神秘化したり、権威づけしたり、あるいはその前で動物的に従順となり、その力の前ではそれに服していくような力なのである。さらに、そうしたMachtとしての力に対抗して形成されるAnti-MachtもMachtとしての力なのである。


 Gewaltは暴力、権力として日本語で使用されているが、これは何よりも破壊的な力(Destruktions-Kraft)なのである。そなわちKraftという力が生産的、創造的な力であるのに対して、Gewaltすなわち、暴力とは、その正反対をなす破壊的な力なのである。
暴力としての力はその由来をMachtとしての力に持つ。その点で、Machtは潜在的、可能性においてGewaltである。それは一定の条件のもとでGewaltに転化する。
暴力Gewaltがいかなるものに対する破壊的な力であるかは、そのMachtの性格によって規定されており、Machtの集中的な発現こそGewaltである。

(引用終了)

得てしてGewalt(暴力)中心になりがちな戦国時代において、異例ともいえるほど、Kraftの諸力を積み重ねた組織をつくりあげたといえる一向一揆、浄土真宗の寺内町の考察が、私にはそのまま、現代の市民社会を考えるときに
政治偏重に陥りがちな傾向、最近ではやや少なくなりましたが反権力偏重に陥りがちな政治闘争への有効な反省材料としてとても興味深く感じるのです。



この本に枝折代わりに挿んでおいたバスクレセンスキー・ピアノリサイタルの半券の裏に書き写してあったメモに、以下のようなところが書き写してありました。

「貧困ということを生活苦においてのみ理解してはならない。われわれは富、生産力の主体的本質の何であるかを知っている。普遍的な富、生産力とは、何よりも人間の本質諸力、創造的力としての労働力にほかならない。人格の内容をなす労働力の略奪と破壊、これこそ貧困の本質的特徴なのである。」
                   同書 122頁より



Kraftということばの視点から、労働を、賃労働や被雇用者としての面にとらわれがちな傾向を、創造者としての本来の労働主体として見直すこととして、またそのまま政治、権力、暴力偏重の「力」概念を、生活者にとり戻す術として、とても大事なことに思えてならないのです。

さらに言い換えれば、それは上からの政治主導のこれまでの「近代化」に対する、下からの「近代化」を考察する大事な手がかりでもあるかと思います。


こうした補足を加えさせていただいたうえで、寺内町のことを次回に書きます。
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破格の強さを持った一向一揆の特殊性

2008年05月24日 | 「近代化」でくくれない人々
不連続シリーズ「近代化でくくれない人々」 約・第34回あたり?

間隔があいたり、話が飛んだり、自分でも前の話を忘れたり、
ほんとに心もとない不連続シリーズ。

いよいよ「百姓ノ持タル国」の話に入るのですが、
またまた、その前に、
その前提として、一口に一揆といっても
一揆のなかでも極めて特殊な性格を持っていた一向一揆の問題を
諸々の一揆と同列に語ってよいのだろうかという疑問があります。

一揆そのものが、戦国時代の土一揆、一向一揆など
戦争と飢餓の間で、村同士の争いまで含めて乱立していた時代と、
江戸時代に入ってから、初期の越訴(おっそ)中心の一揆から、後期のかなり組織だった圧力の一形態にまでなったものを一緒に論ずるのは、どうも誤解を生みやすい気がししてなりません。

そうした有象無象の一揆のなかでも、一向一揆というものがいかに特殊な性格を持っていたか、いくつかポイントをあげるおきたいと思います。

第一にそれは、一揆とはいいながらも、一向衆、浄土真宗本願寺という継続的な組織基板を持っていたことです。
突発的な一揆もたくさんあったには違いないのですが、個別に発生している一揆も、その多くは本願寺などからの指示のもとにあったり、蜂起を避けるようにとの手紙が送られていた事例や具体的な指示が出されている場合が多い。
たしかにそれは、「統率されていた」とはとても言い難いものですが、それでも他の大半の一揆がその都度、その場の首謀者の合議で進められていたものとは、大きく性格が異なっていたものだと思われます。

第二には、寺内町(じないちょう・じないまち)という、城下町、門前町とも異なる、商工業を含めた共同体を砦の内側に組織していた独立コミュニティーのようなものを組織基板として持っていたことがあげられます。
これは一向一揆の破格の強さの秘密でもあるのですが、他の一揆と異なり、石山、山科、長島などの寺内町のなかには、組織の中枢に、経済力のある商人や、鉄砲職人だけではなく戦闘に様々な応用のきく様々な技術者集団をかかえて登用していたことが特筆されます。
これは、史上例の無いといってもよいほど徹底した平等思想である親鸞の浄土思想によるところが多く、これまでと差別されてきた・非農業民や技術者たちが、対等に扱われ生業の場が保証された環境にあったことが、とても大きいと思います。

このことが、戦国大名たちの多くが農民と武士を中心とした兵力を城側の統制だけで管理していたのとは異なる、領主主導ではない、様々な技術者たちを中心とした幅広い階層を中軸に組織した武装集団として機能していたことにつながっていたと思われます。

これらの特徴があげられるかと思うのですが、一向一揆はどうしても念仏を一心に唱える狂信的武装集団としての面ばかり強調されがちなのが、私にはなかなか話をすすめにくく感じさせていました。

こうした前提のもとに、次回はいよいよ
信長や秀吉がその経済基盤の力強さを真似て盗んだとも思われる
「寺内町」のことについて書いて見たいと思います。
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群馬県立図書館の公開書肆情報

2008年05月23日 | 出版業界とデジタル社会
これだけネット検索技術が進歩した時代でも、
グーグルやアマゾンをいかに駆使しても、
検索にかからない大事な書肆情報というのは、けっこうあるものです。

こと地元の本に関しては、
群馬出身や在住の作家、
自費出版などで流通にのらない本、
タイトルなどに関連キーワードが何も含まれていないものなどで
大事な本の情報というのがたくさんあります。

そうした問い合わせに、書店も出来るだけ答えられるようにしたいのですが、
こうした分野で最も頼りになるのが、やはり群馬県立図書館です。

その都度、電話で問い合わせるわけにはいかないのですが、それだけに
ホームページで公開している下記の情報は、とても役に立っています。

群馬の本http://www.library.pref.gunma.jp/g_book/index.html


このページは「かみつけの国 本のテーマ館」
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/
群馬県・郷土出版案内リンク集のなかにも貼っていますが、
お店では、勝手ながら全文プリントアウトしてファイルしたものを
正林堂の店内におかせていただいてます。

最近、たまたまこの資料を担当されていた方が、出入りの高校の司書として転任されてきて、
いろいろなご苦労もあることをお伺いしました。

世の中、こうした人手を経てこそ得られる情報というのが
まだまだたくさんあるものです。

なかなか数字的な成果は見えにくいものですが、
こうした人のお仕事というのは、応援したいですね。


補足

これだけの情報も、元はワープロ入力しているわけだから、
公開情報もPDFファイルではなく、テキストデータとして読めるようにして、
検索カテゴリータグなどをつけてもらえれば、そのまま検索にもヒットすると思うのですが、いつかそんな改善をしてくれる日を楽しみにしてます。
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すでに起こった未来

2008年05月21日 | 出版業界とデジタル社会
著書のタイトルにもなっているドラッカーの言葉
「重要なことは〈すでに起こった未来〉を確認することである。すでに起こってしまい、もはや後戻りできない変化、しかも重大な影響力をもつことになる変化でありながら、まだ一般には認識されていない変化を知覚し、かつ分析することである。」
        P・ドラッカー著『すでに起こった未来』ダイヤモンド社

 今、あらゆる領域で進行しているデジタル化の流れとそのスピードのもたらす変化を、
受け入れない人々、
受け入れようとしない人々、
理解できない人々、
それらがいかに多くいようとも、
いかに彼らのアナログ信仰に説得力があろうとも、
「すでに起こった未来」の現実として、
私たちはもっと真剣に立ち向かって考えなければならない。


このことには度々ふれていますが、
出版、書店業界に襲いかかっているデジタル化の流れを見るにつけ、
これから先、5年、10年といったスパンでの方向転換を
もっともっと真剣に考えなければならないのではないかと常々感じています。

何度でも書きますが、
アナログや紙の文化は、決して無くなることはない。
むしろ価値を増す領域も多いことと思う。

しかし、その市場規模は遅かれ早かれ、
ピーク時の半分以下になることは間違いない。

1995年頃を出版業界のピークとみると、この10年で
市場規模は約2割、縮小している。
これからの10年を考えれば、どう考えても更に2割以上
加速して減少していくことは間違いないと思う。

でも同業者の多くは、未だにピーク時の半分以下になることは想定していない人が多い。

私は、この現実を電子辞書の普及実例を通して、
これこそ、「いまそこに起きた未来」の典型的な例であるといい続けている。

群馬県は電子辞書の普及率が、全国でもずば抜けています。
学校の先生方の話を聞いても、クラスの半分以上が電子辞書を使っているという。
でもこの群馬県の特殊性は、ほんの一次のことと考えるべきだろう。
すでに都内の進学校での普及率は既に100%に近いという現実もある。

未だに先生のなかには、紙の辞書の方が良いという先生もいるが、
現実には、多数の生徒が持ち込み活用している現実を、
そうした先生ですら否定することはできなくなっている。

また、ひとつの辞書を徹底的に使いこなしている先生の指導は、どんなに優れた機能の辞書にも勝ることもある。

でも書店の新学期の紙辞書と電子辞書の販売比率は、もう数年前に完全に逆転した。

ここで起きている現実というのは、
電子辞書が、ただコンパクトに紙の辞書の内容をまとめてあるというだけのことではない。
これまでの紙の辞書ではできない
・辞書相互のジャンプ機能
・履歴保存機能
・英語などの音声機能(単語だけでなく例文も先生の発音より正しい発音が聞ける)
・手書き入力機能(漢和辞書の画数やつくりの知識がなくてもすぐ調べられる)
・画面の拡大表示(高齢者に限らず、画数の多い漢字は、拡大しないと識別できない)

これらの機能が、反射の少ない液晶画面や十分なバッテリー寿命の技術などが実現することで、多くの人の身近なものとなった。
今後、さらにネットとの接続などで便利な機能は増えていくことと思う。

ここで起きていることをみて大事なのは、
新しいハードやデジタルコンテンツの技術により、
「勉強の仕方」がこれまでとは変わったということです。

こうした現実を見れば見るほど、
今、全国の独立系書店が経営の柱にしている学校関係などの外商販売の領域こそ、
ある時期を境にして、デジタル化の流れが一挙に加速する可能性が極めて高いと予想される。

実務的な機能を要求される教科書や参考書の領域こそ、
この電子辞書のように、デジタル化によって劇的に利便性が増すことが考えられるからです。

ノートパソコンに限らす、機能を限定すれば、5万円以下でそうした作業に使える端末は既に実現、普及している。
トータルコストで考えれば、明らかに教育予算や親の負担を軽減、削減しながら、より進んだ教育を実現する条件がそこに見て取れる。

とすると、この領域こそ、ある日突然、
行政判断によって、一挙にデジタル化の流れが加速する可能性が大きいといえる。


この現実は、
(1)、多くの独立系書店は大きく依存している外商分野の学校や官庁関係へ納品している主力商品が、あるときから急激にデジタル化にともない消滅していく可能性が高いということ。

(2)、今ピークを迎えている大型店の出店は、これからのデジタル化の現実にともなう市場の縮小という現実を前にして、急激に危機を迎える。

(3)、より自由な情報の移動が保証された社会では、商品の情報よりも、顧客情報こそ、経営の最大関心事になっていく。

以上のようなことが予想されるので、これからこれらの事柄について継続して書いてみたい。
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アクセス数の実態

2008年05月16日 | web PC関連
このgooブログに変えてから、おかげさまでアクセス数は、前のブログに比べると
出足から好調に推移しているのですが、
今日、「正林堂店長の雑記帖」の方に書いた記事のタイトルを
「けなげな可愛い子」としてアップしたら
いきなりアクセスが跳ね上がりました。

内容は、お店の外に昨年おいていたサフィニアの花の種が隣りの空き地に飛び、
知らないうちにいくつも花を咲かせていたことを書いたもの。

タイトルに飛びついて開いた多くの人は、
「なぁんだ。」とガッカリしたことと思う。

アクセスが多いにこしたことはないのですが、
やはり、ヒットワード狙いやうわべのCEO対策では
カウントを稼いでも意味がない。

総じて、特別な対策をしなくても
マメに記事を書いていれば、月1,000件前後のアクセスにはなるようですが、
携帯派だと、大まかにこの倍以上のアクセスになるようです。

「かみつけの国 本のテーマ館」の方は、一日平均アクセス数が
少ない時で1,000件程度、多い日では一日2~3万件にのぼるのですが、
これは、元の情報の絶対量が多いためで、全体が100項目を越えるページなので
一ページあたりに平均にならしたら10件程度になってしまう。

しかも、その大半は検索項目チェックで、求める内容があったかどうか
ほとんど確認だけで素通りされる世界。
おっ!と思って、ホームページの全体像や他のページまで見てもらえることなど
100人にひとりもたぶんいない。

やはり、ブログでもホームページでも
自分がどのようなコミュニケーションを取りたいのか、
どんな情報を発信して、どのような人にそれを届けたいのか、
それがはっきりしていないと、アクセス数というのは
ほとんど意味をなさない。

アクセス解析は、見ていて確かに面白いし、興味深い。

でも、やっぱり、見えない相手でも
自分が特定の人間を具体的にイメージしていなければいけないのだと
つくづく感じました。
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分散システムの時代へ

2008年05月14日 | 出版業界とデジタル社会
最近なぜか、かつては見向きもしなかった
三笠書房の知的生き方文庫にお世話になることが多くなった。

古本で結構、衝動的に買い込んでいる。
最近はグーグルやパソコン関係の本ばかり4冊ほど買って読んだ。


そこで、前から時々紹介しているグーグルのコンピュータシステムについての
考え方がまとめられていました。


グーグルが大量の情報を高速で検索するシステムで使用しているコンピュータは、
決して高度なスーパーコンピュータを使用しているわけではない。

台数は非公開らしいが、メインのコンピュータだけで
世界中で10万台以上にのぼると言われている。
バックアップ用のコンピュータを加えたらその何倍にもなるはずだ。


「グーグルは創業当初から一貫して、大型コンピュータを導入することなく、パソコン並みのコンピュータを使いつづけてきたのだ。なぜか。

そのメリットは、大きく分けて四つある。
第一のメリットは、多数のユーザーから一度に検索の要求がきても、処理能力が落ちないということだ。
対応する台数が多いので負荷がかかっても、その負荷を分散できるということである。他社の検索エンジンのように、少数の大型コンピュータを使った場合、強い負荷がかかると検索スピードが落ちてしまうのだ。

第二のメリットは、小型コンピュータなら情報量の増加に合わせて、手軽に増設できるという点だ。今後、ますます情報量は増加すると予想されるが、グーグルの方式ならば、情報量増加のカーブに応じて、一台ずつコンピュータを増設すればいい。
ところが、大型コンピュータの場合は、そうはいかない。安価なものではないため、処理能力の限界まで待ったうえで増設という手順になるだろう。増設直前の状態では、処理能力はかなり落ちてしまう。

第三のメリットは、ハードディスクやコンピュータ本体の交換が簡単だという点。
その部分だけ取り替えることにより、全体への影響は少なくてすむ。バックアップをとりながら進めているので、システムを止めずに処理ができる。

第四のメリットは、データを分散することで災害に強くなるということだ。」
 
             二村高史著『グーグルのすごい考え方』三笠書房


        

次第に、政治も、経済も、文化も
この方向に向っている。





つまり、
わかりやすくまとめると

家族のしがらみなんてとらわれずに
子供は、あちこちに
たくさんつくっておいたほうがいいってことだ。


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半身浴読書用椅子

2008年05月11日 | ・・・ったくアホな生活
以前から、私が風呂で長時間本を読むことを習慣にしていることについて、
まわりから体に良くないとの注意を受けていいました。

いくら注意されようが、自分にとって最も集中して本が読める場所なので、
真剣に改める意志はあまりなかった。

でも、2,3時間浸かっていると、曲がった腰が硬くなり
あとでストレッチをせずにいられなくなるので、
それだけでも体に良くないことは痛感していた。

そんなことを気にしていたら、テレショップで
風呂用座椅子と、半身浴用の小さい椅子が販売されているので
それを買おうかと、しばらく思案していました。

でもその小さい椅子で3千円ちょっとだったか、どうも
スチールとプラスチックのデザインが気に入らない。
機能性には確かにすぐれているのだろうが、
いまひとつ買う気にはなれない。


そんな思いでいたところ、ホームセンターに行ったら、
普通の木の風呂椅子が800円くらいで売っていた。
半身浴にはちょっと高すぎるが、木製なので足をちょっと切ればよい。

そして作ったのが写真の椅子。

ちょっと短く切りすぎたような気がするが、
もし低すぎたら、カットした板を横にして継ぎ足せばいい。

これでもう、3時間であろうが6時間であろうが、
安心して風呂で本が読める。

食料を持ち込めば、1日でも2日でもいられる。
ルンルン!だ。
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丸い世界のどこに起点を定める?

2008年05月05日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里
先日、早朝に月夜野へ行ってきたら、いつの間にやら沿線の木々が
まばゆいほどの新緑にもえぎ盛っていました。

この植物のエネルギーのもえ(萌え)さかる姿を見ると、
1年は春からスタートするものとの年度志向が当然のことに感じられます。

ところが、なぜか世界標準ともいえる暦は
1月という寒い時期が1年の始まりになっています。

このことについては以前、一年のうちで、どうして2月だけが
閏年や28日なんていう少ない日数にさせられ、
一年の矛盾を一身に背負わされなければならないのか?
という疑問を「2月生まれの乱」として提起した時にふれました。

これだけ科学技術、天文学の進歩した現代で、
均等な12ヶ月割りでなく、2月だけが極端な調整役を一身に背負わされることに
どんな合理的根拠があるのだろうか、という問いです。

そのときに理由として確認されたのは、

もともとローマの暦では、1年が3月から始まっていて、
3月から始まって10ヶ月という考え方をしていました。
そして残りの二ヶ月分は「死の季節」だと・・・

二月だけが他の月より日数が少ないのは、最後の月であったため調整に使われたのと、
もうひとつの理由は、アウグストゥス帝のわがままによるものとのこと。


なんで、こんな非合理的な暦を現代でも使わなければならないかというと、
第一に、月の周期で決まる一ヶ月の単位と地球が太陽の周りをまわる
公転周期の辻褄あわせという難題にこたえるためと、
第二に、それらの矛盾を12ヶ月で表現するために、30なり31日で表現するにしても、
必ず「整数」で処理しなかればならないという問題があるからです。

で、前回の話(4月28日の日記)の流れからは、
静止した物体(見かけ上)は三角形をその最も安定した状態としてもち、
安定しているということは、
同時に分割しやすいという性格をあわせ持つ。

それに対して運動している物体は、
内部に矛盾をはらんでいるからこそ、
運動しているといえる意味において、
割り切れない数字(円周率のように)を絶えず不可分のものとしてもつ。
その継続した運動状態の最も安定した姿が円(○)であると。

この原則からフラーの理論などにつながっていったり、
道教や禅思想の○などの原理へとイメージはつながるのですが、

固定的でない運動する物体は、
それが最も安定した状態であっても、多少の不安定を伴った状態であっても、
運動している、あるいは生きているということから
必然的に「割り切れない」という性格と
「整数」ではあらわしにくいという性格を持っている
という大原則を持っているのです。

このことを現代の日常生活では忘れられてしまっているだけでなく、
意図的にそうした思考を近代の歴史では排除してきた経緯があると感じるのです。



もうひとつ。
「丸い」ということの必然からまた、
始まりと終わりの設定し難い継続した運動表現であることから、
1年のはまりをいつにするか(冬?春?)
ひと月のはじまりをいつにするか(新月、半月、満月)
1日のはじまりをいつにするか(日の出?深夜?)
といった問題が生じる。

この円という性格からすれば、現行の暦の姿に
絶対的な合理性が決してあるものではなく、
現在の暦に至るまで様々な試行錯誤が繰り返されたように、
まだ非合理な矛盾を多分に含んでいるということを忘れてはならない。

確かに世界的に普及してしまったものを変えるのは大変なことです。
それだけに今求められるのは、全否定をすることではなく、
世界標準と同時にローカルな基準というものも、
言語と同様にあってもおかしくはないのではないかというのが
「2月生れの乱」と「月夜野町は旧暦を公用歴に」という私の叫びの趣旨なのです。


で、この難題に挑むもうひとつの背景は、
ものごとを整数によってのみ表現する思考、
割り切れないものを排除する思考
これから脱却することが、自然界に生きる人間にとってとても大切であると感じるからでもあります。

かつて日本の一日の時間は、非定時法を用いており、
同じ一日24時間でも
日の長い夏の昼間の12時間は長く
日の短い冬の昼間の12時間は短く設定されていました。

日の出と日の入りの時刻から逆算して12等分なり6等分していたわけですから、
1時間の長さが季節によって違ったということです。

これは不便で非合理であるかのように思われていますが、
自然と人間の生理を中心にした発想からは、
とても正当な考え方です。

グローバル経済と同じく、
世界標準という発想や考え方が普及していくこと事態は、
避けられないばかりでなく、決して間違ったことではありません。

しかし、その世界標準とともに、他のローカルな表現方法や
異なる規格のモノサシは、世界標準が絶対的でないという意味だけでなく
表現を広げ、より深い交流を進めるためにも必要なことであるということが、
これから少しずつ認められてくるのではないかと思うのです。


話を戻して、ひとつの円環運動の起点をどうするかという問題。

春から1年が始まるのではなく、寒い冬から始まるという感覚、
太陽の昇る朝から一日が始まるのではなく、真夜中の零時から1日が始まるという感覚、

これらは
「陰極まって陽となり、陽極まって陰に転ず」という
中国独特の陰陽思想の影響がみられるとも言われてます。

陰(寒)の極限の頃であるからこそ、
陽(暖)のはじめとなる。

でも、そんなことは知らなくても、
陰、闇、寒の極がどこにあるかということを、
時計の針に頼ることではなく、生きていく感覚としてつかむことが、
陽、明、暖に転ずるエネルギーの感覚として
とても大事なことだと思うのです。

毎度、とりとめのない思いつきで書いているに過ぎない文ですが、
そんな円(○)というものの性格を考えるにつけ、
通貨単位で円を使っていることと
国旗が日の丸をデザインしていることって
なんて素晴らしいことなんだろうと思ってしまう。

と、言いながら、
日頃、天皇とは友達でも親戚でもないので
「君が代」はキライ!なんて言ってる私なのですが・・・・
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静かなる魅力溢れる山なみ 皇海山と足尾山塊

2008年05月03日 | 上野国「草の者」研究所
発売予告を見てから待ち望んでいた1冊が
本日入荷しました。



増田 宏 著「皇海山と足尾山塊」
   白山書房 定価 本体2,800円+税



この著者は、以前「かみつけの国 本のテーマ館」のなかの
 群馬の山の本の紹介のページで、
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page042.html

前著「袈裟丸山  自然と歴史・民族 」
  七月堂 (2002/04) 定価 本体2,000円+税

山の魅力を深く語るその著者の姿勢にとても共感したことを取り上げさせてもらいました。

その増田宏さんの新刊が出るということだったので、
中身を見るまでもなく、期待に胸が膨らんでいました。


また、昨日会った友人が、ちょうど明日、
はじめて皇海山に行くという話を聞いたところ。

急な話で時間に余裕がないだろうが、今日中に絶対に手に入れるようメールで促した。
祭日で登山者もたくさんいることだるから、
5冊くらい担いでいって、山頂で売って来いと(笑)

定価2,800円というちょっと大きい重い本だけど、
ほんとうに、普通の山のガイドブックとは違う、その山の歴史・民俗史を含めた
すばらしい本なのです。
増してや、登山コースそのものは百名山のなかでも地味な山だけに
その周辺の足尾銅山や日光修験道との深いかかわりや歴史痕跡が見えてくると、
どこにも増して味わい深い山域であることを改めて知ることができます。

本書全体の多くの部分は魅力溢れる沢登りルートや
あまり知られていない登山道の紹介になっていますが、
それでもひとつの山域の魅力を語った本としては、
「足尾山塊の山」「足尾山塊の沢」「上州武尊山」をかつて出版した
岡田敏夫氏以来の山岳本の歴史に残る労作もいえます。

また最近では
高桑信一の『古道巡礼』東京新聞出版局の
根利山の開発・古道の歴史調査の後を継ぐものでもあります。

第5章の 足尾山塊の歴史は、
特別に登山に興味のない人でも、群馬の歴史に興味のある人であれば
是非、読んで欲しい章です。



本書の概要

一、足尾山塊の自然
    地形・地質/植生/山の歴史
二、登山コース
  1、一般向き登山道
    皇海山・庚申山/松木連峰/白根山
  2、明瞭な登山道のないコース
    宿堂坊山/錫ヶ岳・笠ヶ岳・三ヶ峰/皇海山から水行寺山
    両毛国境縦走/赤城山から袈裟丸山
三、足尾山塊の渓谷
  1、渡良瀬川水系
    松木川/神子内川/庚申川
  2、片品川水系
    三俣沢/湯ノ沢/三重泉沢/栗原川
  3、大谷川水系
    外山沢/柳沢
四、積雪期の足尾山塊
  皇海山・庚申山/松木連峰/錫ヶ岳・笠ヶ岳・三ヶ峰/白根山/両毛国境縦走
五、足尾山塊の歴史
  1、足尾山塊における日光修験の回峰行
  2、根利山の開発
  3、根利山の古道
  4、足尾銅山


本書は、時期は早いかもしれませんが
まぎれもなく「かみつけの国 本のテーマ館」の
ブック・オブ・ザ・イヤー受賞作品候補といえるでしょう。


この記事は、今日の「正林堂店長の雑記帖」よりを加筆訂正したものです
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