かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

酸っぱいものが消えてしまった社会

2022年11月19日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

もはや信じられない人も多いかもしれないけど、昔はリンゴもミカンも、酸っぱいのが当たり前でした。
酸っぱいけど、味も濃かった。

そもそも、かつては甘い食べ物自体がとても貴重なものでした。
それが今では、甘くないもので市場で許されるのはレモンくらい?
すべてが甘いものだらけになってしまいました。

生き物が自らの身を守るために必要であった酸っぱさや渋さが消えてしまったのです。


この甘いことが常識になってしまった社会ってすごいことで、必然でもあったけど、これはあらゆるものの見方、考え方を相当変えたと思います。
果物に限らず、市場に出回るあらゆるものがそちらの方向に流れたからです。

ずっと三十代半ば以降の最近の若い世代が素晴らしいことばかり私は強調していますが、そう思えない若い世代も増えてる例で次のようか面があります。

坂上忍が誰かとの対談で話していたことですが、今の番組スタッフは、やってはいけないことがある場合、そのだいぶ手前でブレーキをかけている。それに対してわれわれは時々ここまで出たら危険であると、はみ出してみて火傷するかどうかみて、もしくは治る程度の怪我ですむか、致命傷になるか確かめたりしている。というようなことを言ってました。
今の番組スタッフは、その危険ラインの2歩も3歩も手前で自主規制していると。

そんな感覚の世代が増えていることも感じています。
なんとなく、やってはいけないことは絶対にやってはいけないと。

もちろん、やってはいけないのだけど、地元の近世郷土史に詳しい大島先生が、江戸時代、お上がやってはいけないということは、たいていみんなやっていたのだと言ってたのを思い出す。
村単位で違法の芝居や博打していて、お上が来たらみんなでサッと隠す。そんな文化がありました。
多くの人がやっていたから法律があるのだと。

なにも違法なこともしようという話ではなく、違法ラインの2歩も3歩も手前でやめてしまう風潮が広がっているような感じがしてならないのです。

なんか、酸っぱいものが世の中から消えてしまった社会、これはとんでもない世の中になってしまうのではないかとの妄想が最近膨らんでならない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「客観的公平」よりも、自分の主観、感性で決める覚悟と責任が大事

2022年11月12日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

幸せな働き方や幸せな暮らし方をしている人と、そうでない人との違いをみていると、自分の主観的な判断や個人的な感覚をとても大切にしているかどうかの差がとても大きいのではないかと思います。
もっとも、個人の幸せなんてまさに人それぞれで、他人が問題にすること自体が大きなお世話なのですが(^^)

得てして仕事では、何ごとも客観的、公平でなければならないと思われがちですが、ものごとを前にすすめるには、正しいかどうか分からないようなことを決める自分の勇気と覚悟こそが大事で、そこを回避した会議や集団は何も生み出さない。

組織のなかでは、一見どちらでも良いようなことでも、そこは譲れないという価値観、世界観の積み重ねこそが、のちの大きな違いとなってくる。

「客観的公平」という言葉が、教育の現場で、日常の仕事で、地域のあり方で、どれだけ目の前でつかめる幸せから遠ざかる方向に引っ張ってきたことだろうか。

個人的、主観的であることは、当然、責任と覚悟が発生します。
その訓練をずっと避けたままの「民主主義」が、いま制度疲労を起こしている時代のような気がしてならない。

「客観的公平」を求めない「民主主義」などあるのか?
と言われそうですが、そここそが人の幸せを考える側と社会のためと言われながら不幸を招いていく道の大きな分かれ目なのでは。

「正しい」と言われるようなことは、たいていは「灰色の男たち」が運んできます。


サラリーマンなのだから、組織の一員なのだから、とオーナーやトップの決定には逆らえないことが当たり前のように言われます。かつては、そういう面もあるくらいに聞き流していた言葉ですが、個人やまわりの幸せへの道を冷静に考えると、今ではそれははっきりと違うのだと断言できます。

もちろん、すべてが個人の主観優先という意味ではなく、問題によっては折り合いの付け方が大事な場合もあります。でもその場合であっても、個人の「了解」の仕方かとても大事であると思います。

これまでの「横並び社会」で済んでいた時代が終わるだけに、こうした主観性を大事にする社会は、一見、厄介で面倒な人が増える社会になるようにも思えますが、実際は、これまでの横並び社会よりも異なる世界観同士が絶えず対話することになるので、折り合いのつけ方などはずっと進歩するのではないかとも思います。


全国の問題解決の突破事例などを突き詰めて見ていると、組織の客観性よりも、個人の責任と判断のエネルギー量が上回っているところのみが、必ず何かをなし得ているのだと言い切ることが出来ます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする