かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

質量のない世界、ほとんどないように見える世界

2024年10月08日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

世の中には、「質量のある世界」と「質量のない世界」があると言いますが、私たちが普通に質量のない世界というと、多くの人は心の世界や思考の働き、または霊とか魂の世界を思い浮かべることと思います。

あるいは、哲学の根本問題の物質と精神のどちらが第一次的か、唯物論と観念論の対立もこの流れかもしれません。

 

ところが、ここ数年ほどの間に人間の心や思考の世界というものは、決して質量のない世界ではなく、極めて物質的な活動であることが急速に意識され始めました。

心や思考の働きが、人間の神経細胞の連携スピードや興奮した時に心臓から大脳に送られる血液の量などによって決定的な制約を受けていることで、異常にのろい活動であることがわかり始めたからです。

というのも、chat GPTやAIの普及で、日常的に物理的抵抗をほとんど感じさせないスピードで情報が処理され「思考」されるような世界を目の当たりにすると、人間の思考や心の働きがいかに遅い活動であるか、人間という存在がいかに物質的制約を受けたものであるを痛感させられているからです。

今わたしたちが体験している「質量のない世界」というのは、ほとんど質量がないかのように感じられる世界と、実際に質量のない世界とが混在してるのが実態ですが、どちらにしてもそうした考えを日常の世界と科学の進歩で実感して普通に受け入れられる時代に生きているというのがスゴい!

物理的抵抗が限りなくゼロに近いような宇宙空間での常識と、地球上の大気や重力の影響を受けていることが常識のこの世界が、急速に折り合えるかの、数学的知性や、何か音楽的感覚のようなものが急激に花開いていくような感じです。だからこそ、地上の「私」という個人のもつ身体性や社会性の制約そのものが、創造や個性のとても愛おしい条件になっていることにも改めて気づかされます。

そこに何か答えがあるわけではないけれど、時代の変化とともにものの見方が根本から変わりはじめることで、人類の本史がようやく始まりだしたような感覚に襲われています。

ゼロポイントフィールド、レンマ学、華厳経、神の世界などが急速に交差して感覚で理解されだしているのが今面白くてたまらない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海がもつ、川などのあらゆる水との最大の違い

2024年08月19日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

海と川の違いは、そのスケールの圧倒的な差や塩分のあるなしもありますが、違いの一番大事な点は、リズムの有る無しだと思います。

 

岸辺に押し寄せる波。

沖合いの波のうねり。

月の引力による潮の満ち引き。

 

これらどれをとっても、

太古の昔から休むことなく、

常に一定のリズムで、

繰り返し、

繰り返し、

流れてきたリズムです。

 

これこそが、

ただの有機細胞のなかから心臓が誕生し、

鼓動がはじまる

最大の源であったと思います。

 

この海のリズムは、

太古からの繰り返し、

繰り返しでありながら、

ひとつとして同じ波はありません。

ひとつとして同じかたちはありません。

ひとつとして同じ音はありません。

 

まさに「生命のゆりかご」たる由縁です。

原初の世界で、魂が共鳴するのは、植物よりも

もしかして海。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神も仏もありませぬ

2024年07月15日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

わたしは神仏の話は結構好きな方です。
でも矛盾しているようですが同時にこの

「神も仏もありませぬ」

という言葉も大好きです。

通常、この言葉は、身も蓋もないような状況やそのような言葉づかいのこと指して言いますが、そのような意味とともに私は「神も仏も区別しない」といった意味でこの表現が好きなのです。

歴史的には、神も仏も区別しないとは、神仏習合のイメージがわくことと思います。

もちろんそれもありますが、私は、そもそも神さまというのはサムシング・グレートとしてのエネルギーのようなものであり、それに名前をつけた瞬間から人間軸でものごとを区別し始め、ものごとを差別するようになってしまうのもと考えています。

モーゼも、「みだりに神の名を口にしてはならぬ」と言い、神の名を口にした瞬間から差別や対立が生まれるのだと兄のアロンの振る舞いを戒めています。

そもそもほとんどの宗教の開祖は、教団・宗派をつくったり、偶像崇拝そのものをかたく戒めています。

日本の歴史でも、

雄略天皇が葛城山で異様な神に出逢って「お前は誰か」と問うたとき、

相手は「オレは一言主神(ひとことぬしのかみ)である」と答えてしまう場面があります。

この自らの名を相手に名乗ってしまった時点で、その土地の神は相手(中央の神)への服属、その土地の固有性の封印を意味します。


名乗るとき、あるいは名前をつけられたとき、すなわち特定の立場からの命名であるからこそ、序列や階層性が避けられないのです。

そうした意味で、八百万の神というのは、ただたくさんという意味だけでなく、序列のない多様な世界観という意味で、とても大切な思想であると思っています。

ただ、それは中心軸のない虚無主義やニヒリズムに通じるのではないかとも言われがちですが、私はそうは思いません。

その八百万の神の世界というのは、夜空の満天の星のようなもので、空一面に散りばめられたどこか一つの星であっても、それは太陽の何十倍の大きさの恒星であったり、とてつもない大きさの銀河や星雲であったりします。
つまり、一つひとつの点にしか見えない世界が、とてつもなく大きな世界なのです。

この例で言えば、キリスト教、ユダヤ教、イスラムなどや、天台宗、浄土宗、日蓮宗、真言宗だろうが、神道であろうが、それぞれがはかりしれないほど大きな星の一つひとつであるのだと。
それほど大きいので、星や銀河や星雲の内側から見れば、自分の世界こそが全ての宇宙であるかに錯覚してしまうのは、確かに無理もないことです。
一つの信仰や一つの文化、一人の人間世界だけで、あまりにも広大ではかり知れない世界があるからです。

そんな無限宇宙の世界観を、ひとり空海だけが曼陀羅の宇宙観のなかで、神も仏も全てを包摂したものとして、のちの神仏習合へも通じる世界観としてみていたような気がします。

空海が、ものごとを説明する表現として言葉の力を使ったり曼陀羅図を描いたのは、必要なこととして異論はありませんが、それらの世界の大元は、言葉や形では言い表わし尽くせない大いなる何者か、サムシング・グレートであるという意味で、

「神も仏もありませぬ」

という立場で私はあり続けたいと思っています。

この神社のご祭神はなんですか?と聞かれることの違和感について前に書いたこともありますが、そもそも神の名はみだりに口にしてはならないものだと私は思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「流出人口」の実態に「関係人口」の手がかりをみる ~拡散する人びとをつなぐもの ② ~

2024年07月13日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

日本の人口は、現在の年齢別人口ピラミッドを見る限り、多少の少子化対策がうまく機能したとしても長期的には、いづれ現在の半分程度、6〜7千万人規模にまで減少することは、ほぼ間違いないことと思います。

ところが、能登半島地震で甚大な被害を受けた珠洲市は、このたびの震災被害を受ける前の段階で、ピーク時3万8千人ほどいた人口が1万2千人ほどまで、つまり三分の一以下にまで激減していました。 図表2 (珠洲市の)年齢3区分別人口の推移」参照

ざっくり、人口1万人ほどで世帯数5千戸という規模の都市に、1万戸ほどの住宅があったということです。

 

そうした町にこのたびの地震が襲いかかったことが、その後の復興のあり方を決めることの大きな障害を生んでいます。

これは、単に膨大な空き家が復興の妨げになっているというだけではなく、地域コミュニティーがあまりにも急速に変質してしまう環境下にあることが、将来の計画を立てること自体をとても困難にしているからです。

 

こうした長期的な時代の変化をふまえるうえで、とても参考になる表現がありました。

それは、現代日本研究の権威でもあるイギリス人ロナルド・P・ドーアが、『シノハターーーある日本の村の肖像』という本のなかでの記述です。このことはジェイン・ジェイコブズ『発展する地域、衰退する地域』のなかの引用で知ったのですが、調査で気づいたその具体性が、日本人には知っているようで意識されていない事実のとて良い表現なので、少し長くなりますが、以下に引用させていただきます。

「遠い昔、おそらくシノハタは最低生存の農業と手工業によって生計を立てていた地域であったと思われ、都市との交易関係はなかった。しかし、人々の記憶に残っている限りでは、時折、江戸から商人が訪れていた。村の人々は商人にいくらかの換金作物を売り、代わりにお茶や紙などいくらかの商品を買い、そして税金などの現金払いのための金を得ていた。そのような伝統的経済における主要換金作物は、米と繭であった。繭のほうは、ときとともに重要になっていった。村の人々はまた、商人にわずかな材木、季節のものの少しばかりのきのこ、自家製の炭を売った。この三つの産物を手に入れるためと自家用の薪を手に入れるために、村人たちは植林された山をこまめに、すみからすみまで歩きまわった。不作の年には、必死でそれらを探し歩いた。シノハタではいまでも、木の根や実、薬草類は、ひっくるめて「飢餓食」とよばれている。

 1900年から55年の間に、生産方法や道具の改良によって米の産出高はかなり増大した。稲作で節約できた時間は、細心の注意と大変な労力とを要する繭の生産にあてられるようになった。また絹がこの国の主要輸出品であった二十世紀前半には、養蚕は重要な仕事だった。しかし、シノハタに関するかぎり、収益は少なかった。自転車などいくつかの目新しい商品を買える家も多少はあったが、村全体は依然として貧しく、生活には明けても暮れても心配がつきまとった。いまから思えば想像を絶するほどの大変さだったのである。

 都市の大きな力のうち、ほんの一つか二つだけが及んでくる場合には、伝統的な農村地域に降りかかる運命は、えてして面白味もやる気もなくさせるものになりがちである。養蚕の市場が衰えたときのように、市場の変化によって伝統的換金作物への需要が減少するだけであれば、その変化によってシノハタはいっそう貧困になっただろう。バルドーの人口が減ったときのように、遠方の都市の仕事の牽引力によって村の人口が減ったかもしれない。農業労働節約型の都市の技術の大量流入によって、それだけとってみれば、農民たちが怠け者になったかもしれない。都市の工場が一社だけ移植されて、シノハタは会社町になったかもしれない。あるいは、村を出ていった息子や娘や夫たちからの仕送り、または何らかの福祉補助金によって、村は外部の金に依存して生きていくようになったかもしれない。

 しかし結局、1955年以後のシノハタの運命は、こういった暮らしとも、過去の暮らしともまったく異なっていた。拡大する東京の都市地域がシノハタに及んでそこを取り込むようになったときから、拡大の5つの力全部が、相互に作用し合いながら影響を及ぼし始めたのである。

と、ここまでは多くの歴史分析でよく見られる表現です。

続いて、シノハタの人びとがどのように拡散していったかを、極めて具体的に記述しています。
一見、ありきたりの描写のように見えますが、このような視点を経済学者達はもちえていません。

しかし、こういった都市の仕事の移植工場がきたというだけでは、この村の新しい非農業的な暮らしぶりをよく伝えることにはならない。というのは、シノハタはいまでは、谷間や、もっと先の他地域と経済的に複雑に入り組んだ関係ーーーそれは、旧来の経済にはなじみのないものであっても、都市地域に組み込まれた地域としては典型的なものだったーーーをもっているからである。たとえば、ある家では、妻は近くの部落に移植された下着工場で働き、夫は、染色工場に勤めている。またある家では、夫は「工場」の下請会社に勤め、妻は保険の外交員をし、息子の一人は東京空港の大ホテルで料理人見習いになった。また、他の人は、谷間を25マイル下ったところにある県庁所在地であり商業都市でもあるサノ市(仮名)に、事務の仕事を得た。他に、隣の県の電機会社のトラックの運転手をしている人もいれば、材木会社に勤めている人、さらに、小さな工場を始めたが破産し、管財人から任命されて守衛になった人もいる。ある人は芋を専門とする農業改良普及員になったし、他の一人は、近くの農業試験場に勤めている。町の農協の職員35人のうち数人がシノハタの出身である。(町とはいくつかの村落からなる行政単位で、1300世帯、人口約5000人を擁する)町のいくつかの協同組合連合会の穀物部門は自分たちの工場をつくったが、これは特に若い農民のパートタイムの仕事と農閑期の仕事を提供することを目的としていた。はじめ近隣の村のニジマス養殖場で働いていたあるシノハタの男性は、妻が「男なみの賃金」を稼げる建築の仕事を得たときに退職した。この収入で、妻は夫を扶養することができ、夫のほうは、農業を多少やる以外は、自然研究に精を出した。こういったことに没頭するなどというのは、以前だったら、大変な貧困を覚悟しなくてはできなかったであろう。」

 

つまり、シノハタの人びとは、それぞれ異なる条件でバラバラに様々な職種に散っていったのです。それは、かつてのハワイやブラジルへの移民や、集団就職列車で都会へ行った若者たちとはまったく違う姿です。

そしてこうした都市へ流入した人々が集まる場所といえば、ショッピングセンターです。
そこでは、またバラバラな人々が知らない者同士、互いを知らないままの客として、店員としてたくさんの人びとが集まっているのです。

互いの顔を知らないからこそ、より多くの商品をなんのしがらみもなくより多くの人びとに自由に販売でき、また購入できる場所が約束されるわけです。

いつの時代でも、環境の変化に応じて人の移動は、さまざまな形で行われていますが、このシノハタの人々の例に見られる「バラバラな姿」というものを頭に置いて置いておいてください。後に能登の被災地復興のあり方を考える上での大事なポイントになります。

 

 

再び時代は戻りますが、シノハタの次の転機を以下のように表現しています。

「1975年までに、この部落の農業所得は、総所得の半分以下になった。しかし、それは農業所得が減ったからではない。逆に、増えているのである。

 こういった変化が生じている中で、都市の五番目の大きな力である資本も、変化をもたらしつつあった。町の政治課題は、おもに、道路、橋、学校、灌漑用水路、『および、これらのものに対する中央政府の補助金獲得政策』である、とドーアは言う。全体としては、公共支出の15パーセントは一般的公共目的向けに慣例化した形で県や国庫から出され、残り45パーセントは、特別な目的のための特定交付金の形で出されてきた。そのほかに、都市からの資本の流入のうち重要なものとしては、先にふれた「工場」が支払った土地代金と、政府が米価に組み入れて最終的には都市の消費者が支払う補助金とがあった。

 シノハタが恩恵を受けた特定交付金のなかで最も重要なのは、1959年の台風と水害によるものだった。その昔、1814年に天領の役人が編纂した地誌は、山あいの谷間を急こう配で流れる川について「この地方の災いの元凶である。この川は、大量の砂と石を流れにのせて運び、水路を塞ぎ、川床は不断に高くなっている。したがって不断に堤防を高くsる必要がある。場所によっては、水面が周囲の田畑の水準より6~10尺お高くなるところがあり、いつか決壊すれば、必ずや田畑に砂や石を流し込み、その除去には何年も要する』と書いている。心配された災害は、シノハタでは平均して一世代に一回ぐらいずつ発生し、それが原因の一つともなって、昔の村は飢饉食に頼らざるをえなかったのである。」

 

つまり大きな災害による莫大なお金の流入です。
こうした変化は、半世紀くらいのスパンでみれば意外とどの地域でも起っていることです。

 

 

「ドーアが1975年にシノハタを再び訪れたときにも、トラックが列をなして川から砂利を運び出しており、仕事は減りそうには見えなかった。シノハタの人々は、1059年の台風をふり返って、それが村に訪れた最大の幸運の一つだったという。というのは、そのおかげで、シノハタだけの力では、おそらく実現できなかったような改良を行うことができたからである。

 シノハタの経済的転換は、村の人々の勤勉、知力、才覚という特性によるものだとするのにも一理あるようにみえる。しかし、転換後のシノハタの人たち自身が、先祖のほうがもっと勤勉に働いていたことを認めているのである。才覚について言えば、昔のシノハタの人たちのようにわらで蓑をつくるほうが、現在のシノハタの人が店にレインコートを買いに行くよりももっと才覚が要るのである。手持ちの材料がいかに少なかったかを考えれば、シノハタの人々は信じられないほど才覚に富んでいた。今日その子孫は「同じ」シノハタの人間であり、中には実際の同一人物もいる。変わったのは、人間としての彼らの特性ではなく、都市の市場、仕事、技術、移植工場、資本のすべてが同時に、大規模に、相互にほどよくシノハタに影響を及ぼすようになったという事実なのである。村の転換は、これ以外の観点からは説明できない。」

 

以上、長い引用をさせていただきましたが、人口減少とともに多くの地域が崩壊していき、どのようなかたちで復興あるいは再建をしていくのかを考えるうえで、とても重要な文であると感じました。

第1回目には、能登へ行って感じた能登の実情について書きましたが、次回はこのジェイン・ジェイコブズが引用したロナルド・P・ドーアが、『シノハターーーある日本の村の肖像』の記述を踏まえて、

・分散していく人々の実態、

・日本のこれからの姿の縮図にも見える能登地域の特徴

・日本特有の風土について

・分散する人びとを再びつなぐものは何か

などといった視点で書き続けてみたいと思っていましたが、震災被害に次いでこの夏に襲った未曽有の集中豪雨による土砂災害のダメージがあまりにも大きいので、問題の立て方自体をより根本的に見直す必要がでてきました。

したがって次回は、この土砂災害によってトドメをさされたかのような能登の深刻な実態から、改めて話をすすめたいと思います。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広い野原を自由に飛び回る音楽

2023年10月27日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

そこは、ちょっと畑のような、ただの野原のような、規則性と不規則性が入り混じった広大な野原。

 
そこに電子ピアノが一台置かれている。
 
そこに誘ってくれた何か図書の仕事をしている若い女の子と、音楽の話をしてくれる女性と私の3人で、何やら音の表現についてやり取りをしていた。
 
最近、長いことピアノにはさわっていないけど、二人について行けるか不安をかかえたまま、まぁなんとかなるだろうと対話に加わる。
 
最初に簡単なコード進行に合わせて、ベースラインだけあわせる。
 
これだけやってれば、こんなに自由に歌えるのよ、と彼女。
 
え?そんなに簡単?
 
といっても、彼女は初見で楽譜を自由に読めてるじゃないか。それは俺にはついていけないよ。
 
そうじゃないのよ。
この音とか、この音。
それに乗せていけばいいの。
 
この感じがわからないなら、
そっちのピアノのフタを外してみて。
(あれ?電子ピアノじゃなかったのか)
 
そこで言われるがままに、畑の一番端っこにある方の蓋からひとつずつ外し始める。
 
そんな遠いところから外さなくてもいいのよ。
 
あ、そうか。
そっちの近くだけでよかったのか。
 
これで音がわかるでしょ。
 
コードはここがAm
といって彼女は畑の一角にぴょんとはねる。
そして、こっちがDmと、次の畝にぴょんと跳ねる。
こうして、どこにでも跳べばいいのよ。
と、飛んだ先のコードに合わせながら、現代風の歌を歌ってピアノ伴奏も続けている。
 
え?
音楽って、そういうこと?
 
そういう間にも、彼女は広い野原をどんどん遠くまで自由に飛んでいってしまう。
 
人参の音。
 
キャベツの音。
 
ドングリのメロディー。
 
こっちはススキのメロディー。
 
(わっ、そんなにどこでも行っていいんだ)
 
 
すると突然、ここに案内してくれた図書の女の子がその場に泣き崩れてしまった。
 
あたしの今までの活字の世界は、一体なんだったの?と。
 
 
するとピアノの彼女、
何言ってるの。
音も言葉も同じでしょ。
ほら。
 
と、また自由に歌い出すと、
さらに彼女は泣き崩れてしまった。
 
そこまで泣き崩れる彼女をみて、
俺はどうしたらいいんだ。
 
そうだ、あの曲なら俺も自由に飛んでいけるかもしれない。
 
そう思い、自分の宴会芸、ラベルのボレロ山下洋輔風をこれまでのアクションよりもっと派手に指や肘、足を使って弾き始めた。
 
そうか俺はこの感じでいいんだ。
これで行けば出来るかもしれない。
 
 
 
ざっと今みた夢を文字起こしすると
こんな感じでしたw
 
自由に出来るはずなのに、
自由に出来る自由と
自由にできない自分たち。
なんか突破口が見えたような。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これから始まる人類の本史

2023年05月07日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

#ChatGPT の日常への浸透スピードが凄い!もう、この勢いは止まりません。
AIやロボット、ChatGPTにどんどん人間の仕事が取って代わられる話もしきりです。

でも、ものごとを深く考えることで、これらの技術で取って代わる論理的思考のレベルは、人間の思考では極めて初歩段階のものにすぎないことがわかってきます。

ただの情報や論理は、どんどんAI、#チャットGPT などに置き換えてなんら問題ないと思います。
確かに日常の仕事や暮らしは、膨大な情報の処理で成り立っている部分が圧倒的な比率を占めているので、そこに革命を起こすAI、ChatGPTが社会にもたらす変化は、間違いなく劇的なものがあります。


そもそも人間の活動にとって本当に肝心なのは、

①論理では貫けない感情の力
 (どんなに理屈で筋が通っていても感情で受け入れられないと通用しない例など)

②確率統計をもひっくり返す意思の力
 (たとえ1%の可能性であっても強い意志の力で乗り越えられる場合があることなど)

③人間のコントロールの及ばない圧倒的な偶然性の支配下にある自然界の現実、
 (いかに科学技術や文明が進歩しても、私たちを覆う自然界では、隕石の衝突や様々な災害や疫病、気候変動などの偶然性や奇跡の連続ともいえる外的要因によって、今日のわれわれの存在は支えられている実態がある)

④意識を介在せずに成り立っている生命過程
 (自然界はもとより人間の個体レベルでも、大脳意識の介在しない無意識の自律神経系の活動によって生命は成り立っていることなど)

など、これらを前提とした「社会一般」ではなく、

「私」と「あなた」の今日の思考と決断、行動と暮らしです。

 

 AIや量子コンピュータの仕組みなどを見れば見るほど、人間の高次神経機能や思考の世界といっても、基本は基礎的な生命の化学反応の積み重ねで、99%以上は同じ物理法則の上で成り立っています。

 



人間のする仕事が無くなるかの議論がありますが、とんでもないことです。

先の四つの要素から考えれば、人間と自然の生命過程こそが、世界の基本構造なのだから、きちんとした食生活をしようとしたり、子育てや家族との時間を大切にしたり、生命を支える自分の畑を耕したりする生活、それらのことが日常の現実とても忙しい毎日です。


 関連ページ(「経済活動」よりも「生命活動」に「信」をおく社会

食っていくために稼がなければならない仕事から解放されて、生きていくためにしなければならない膨大な生命時間にこそ、手間と労力をつぎ込む社会に向かいだすことは、なんら間違ったことではないはずです。
もちろん、その転換は容易いことではありませんが、その努力と苦労こそ、最も人間がやる価値のあることです。

生命と向き合うということは、そこにこそより手間暇をかける価値があるということですから、他の領域はどんどんAIやロボットに置き換えられてもなんら問題ないはずです(^^)

これまで私たちがイメージしてきた未来社会像とは、もっぱらこんなイメージでした。

 

 

 

でも、これからの私たちがイメージする未来社会は、AIやロボット技術などのおかげで膨大な情報や作業に支えられた部分は、限りなく見えない世界(地下やバーチャル世界)に押し込められて、普段目にするのは、以下のような世界なのだと思います。

 

 

 


コロナパンデミックで世界中がわずか数日ロックダウンしただけで、
私たちは見たこともないような澄んだ空を見ることができました。



人類は、あまりにも稼ぐためだけのしなくても良い仕事に追われ続けて、

GDPに換算されない大切な生命時間を犠牲にし過ぎてきたことに気づくだけの話です。



ここから私たち人類の自然過程にしっかり寄り添った人類の「本史」が、ようやく始まるのだと思います。

 

 



(この記事は、別ブログ「これから人類の本史がはじまる」「物語のいできはじめのおや ~月夜野タヌキ自治共和国」の記事を加筆訂正したものです)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多数派という意識こそが差別を生む

2023年04月03日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

毎年、サクラの季節になると、どこもかしこもサクラの話題一色になります。

私自身も毎年、何箇所かの一本桜の開花情報を頼りに出かけることはとても楽しみにしています。

ところが春は、サクラばかりでなく、たくさんの花々が一斉に開花するときです。華やかさでは桜に劣るかもしれませんが、限りないほどたくさんの美しい花々をこの時期には目にすることができます。決してそれらの花々は、桜の脇役として咲いているわけではありません。

それぞれが掛け替えのない役割をもって、太陽と土と風と虫たちとの絶妙の共演バランスのうえでタイミングをはかって開花しているものです。


確かに日本人がサクラに対して特別の感情を持ち、それを愛でる長い歴史と文化を持っているのは素晴らしいことです。菜の花畑やダイコンノハナの群生をベースにした桜の花の美しさも格別のものがあります。

でも、これほどまでに桜一色になってしまう季節に咲いている桜以外の他の花々は、どうしても桜の圧倒的存在感に押されてしまうものです。それは決してサクラが悪いわけではありません。

圧倒的多数の存在そのものが、無意識に少数のものを圧迫してしまう関係にあるからです。それを通常、多数の側は意識しません。

 


自分たちが多数になることによってのみ、「正義」が実現できるかの従来型発想の図

 

ニッチという言葉があります。

ビジネスでよく使われる言葉で、隙き間産業、隙き間商品などに対して用いられる言葉ですが、このニッチという表現が生物学では「生態的地位」と訳されることを知りました。

 生物学でニッチは、「適応した特有の生息場所 (生態的地位)」のことを指す。生物は、種が生きていくために適した環境を求めるが、同じエリアに多くの種が存在する場合、生存競争を勝ち抜くか、エリア内で棲み分けをすることで、それぞれの種を存続させる(例:同じエリアで日中は昼行性のワシが活動し、夜間は夜行性のフクロウが活動する)。このように、その種に適応した生態的役割や位置のことをニッチと呼ぶ。

つまり、すき間などの少数、弱者の立場を表すというよりは、それぞれの存在固有の地位を表すという意味です。

ニッチをこの生態的地位とする解釈からは、ビジネス用語として用いられるニッチの隙間のような、それぞれの個体数の多い少ないといったイメージはなくなります。少数、あるいは希少な側にいるからニッチなのではなく、それぞれの個体が持つ固有の立場、条件こそ意味があるということです。

ニッチとは、隙間にある希少な存在、少数者ということではなく、それぞれに固有の立場であるとみると、多数派、あるいは少数派という数を軸にした分け方そのものの意味が消えてなくなります。

多数派であるか少数派であるかの問題ではなく、
それぞれの「あり様」こそが大事であることを図式化したもの

実は、最近、そうした多数、少数の力関係を示す典型的ともいえる歴史的な逆転劇起こっています。

ローマ帝国の誕生以来、長い間あたり前のようにまかり通っていた欧米中心の白人社会が、アメリカやヨーロッパの国内に移民が大量に流れ込む時代になってきたことで、それぞれの先進諸国内で白人社会が必ずしも多数派とは言えない環境が急速に広がりはじめました。

はじめは奴隷として自ら増やしてきたアフリカ系黒人に加えて、ユダヤ難民、肌の色を問わない戦争難民、イスラム系移民、中国、日本をはじめとするアジア系移民など、いつの間にか、欧米諸国のどの国を見ても、必ずしも白人社会がもう多数派とは言えなくなる変化が加速しています。

かつてG7の先進諸国が世界で占めるGDPの割合は7割近くもありました。
それが今では、G7の占めるGDP比は5割を切り、今後も間違いなくそれは下がり続けます。それは、もともと世界の人口比で見れば、白人社会などというのは3割程度の少数派にしか過ぎないという現実を確認するだけのことなのですが。

こうした変化によって、これまで長い歴史の間、当たり前のように思っていた欧米白人中心の社会観というものが、いつの間にか自国内での立場が少数派になりはじめていることに気づき出したのです。それが必然的に巻き返しを求めるエネルギーとして移民差別やナショナリズムの台頭などの姿として現れはじめたわけですが、トランプ現象などもその典型的な現れです。

社会や政治に対する関心が薄れて、投票率は最早議会制民主主義が機能しているとは言えないレベルになると、個々のマイノリティーの声に耳を傾けることよりも、より刺激的な保守発言の方が票を集めやすくなってくるものです。そうした変化、加速する対立が今後どのようになっていくか、私には分かりませんが、他方で、こうした変化には世界史的に見て今までには考えられなかったようなものの見方の変化をもたらしてくれていると思います。

 


それは、長い歴史の間ずっと常識と思われていた欧米白人社会の常識(=「正義」)が、とたんに揺らぎはじめたということです。

常識の側とか正義の側とかいった問題ではなく、今まで常識と思っていた立場が、その内容の真偽の問題ではなく、ただ少数派になったというだけで、根拠を失い、ただそれだけの理由で自分たちが圧迫や弾圧を受ける側になっていると気づいたことです。つまり、欧米白人社会が、理念上の平等を目指すかどうかに関わりなく、社会の中で自分たちがただ少数派であるというだけで必然的に不利な立場におかれ、様々な圧迫、迫害を受けることになるのだと、千年、二千年単位の歴史レベルではじめて気づきはじめたのです。

マイノリティーの人々の置かれてきた立場というのは、彼らに対する偏見や差別をなくして平等な社会と築きましょうなどという理念では解決しがたい、絶対的な少数側の不利を抱えている現実に、はじめて自ら白人社会の側が向き合うことになったのです。

 


ここに至ってようやく私たちは気づきはじめました。

少数者は、多数派になってこそ「正義」が実現できるものではないということを。

多数決で過半数をとりさえすれば、それで合理性を得たと判断できるものではないということを。

 


私たちは、性的マイノリティーや少数民族、あるいは身体障害者に対して、「差別することはいけません」、「平等でなければならない」といった感覚だけで接しがちですが、先のことを振り返ると、差別が起こる圧倒的な部分は、マイノリティーに対する様々な偏見よりも(もちろんそうした偏見も大きな問題としての実態もあります)、自分たちがただ多数の側に立っているという勘違いに端を発していることが非常に多いことに気づかされます。

これまでそんなことを言ってもほとんど説得力はなかった時代が長く続きましたが、欧米白人社会の地位の低下を彼ら自身が体験することで初めて、政権交代や革命などによる変化以上に、本質的なことを人類が学ぶことができているように思えます。

そもそもそれぞれ固有の価値を持つ生命体は、いついかなる場合でも数の問題や多い少ないで解決できるようなものではありません。それは多数決を単純に否定するという意味ではなく、社会という複雑な利害関係を調整する一つの「方便」や「知恵」として多数決はあるに過ぎず、それを絶対視してしまいうような「民主主義」観こそ克服していかなければならないということです。

 


決して春になると一斉に咲き誇るサクラが悪いわけではありません。

白人社会が悪いわけでもありません。

人間だけに起こる、自分たちの側だけが「常識」であり「正義」の側に立っているかの勘違いこそが、無意識のうちにマイノリティーに対する圧迫、差別を生んでいるということです。

社会そのものが、ある程度の均質性を前提とした横並び社会では、何を「する」かの比較で優劣が決まっていました。それが価値観の多様化とともに多極化した社会では、何をするかではなく、人びとはどう「在る」かに軸足を置くようになりはじめました。

異なる価値のもの、数値化が難しい質の問題を不特定の人に説明することは、そもそもとても難しいことです。それを数や量に換算することでこそ、それが可能になるものです。しかし、数や量に安易に変換することのできない質や価値というものを、私たちは面倒くさがらずに、よりあるがままに受け入れる努力というものを決して怠ってはなりません。どんな個体でも、数の問題ではなくそれぞれが固有の生態的地位を持っているということに今ようやく気づける時代になりはじめました。

 


日本社会の政治、経済分野の後退現象はまだまだとどまることがないかもしれませんが、世界史的な変化として今、こうした変化に少なからぬ人びとが気づきはじめたことが、私には嬉しくてなりません。

本当の民主主義に近道はありません。

必要な、より遠回りすべき価値のある道のりが、やっと見えて来たところです。



 #ニッチ #生態的地位 #マイノリティー #少数派 #多数決

 

関連ページ 差別「しない」ではなく差別を「感じない」意識 

      心強い1%のリアルな力

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

酸っぱいものが消えてしまった社会

2022年11月19日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

もはや信じられない人も多いかもしれないけど、昔はリンゴもミカンも、酸っぱいのが当たり前でした。
酸っぱいけど、味も濃かった。

そもそも、かつては甘い食べ物自体がとても貴重なものでした。
それが今では、甘くないもので市場で許されるのはレモンくらい?
すべてが甘いものだらけになってしまいました。

生き物が自らの身を守るために必要であった酸っぱさや渋さが消えてしまったのです。


この甘いことが常識になってしまった社会ってすごいことで、必然でもあったけど、これはあらゆるものの見方、考え方を相当変えたと思います。
果物に限らず、市場に出回るあらゆるものがそちらの方向に流れたからです。

ずっと三十代半ば以降の最近の若い世代が素晴らしいことばかり私は強調していますが、そう思えない若い世代も増えてる例で次のようか面があります。

坂上忍が誰かとの対談で話していたことですが、今の番組スタッフは、やってはいけないことがある場合、そのだいぶ手前でブレーキをかけている。それに対してわれわれは時々ここまで出たら危険であると、はみ出してみて火傷するかどうかみて、もしくは治る程度の怪我ですむか、致命傷になるか確かめたりしている。というようなことを言ってました。
今の番組スタッフは、その危険ラインの2歩も3歩も手前で自主規制していると。

そんな感覚の世代が増えていることも感じています。
なんとなく、やってはいけないことは絶対にやってはいけないと。

もちろん、やってはいけないのだけど、地元の近世郷土史に詳しい大島先生が、江戸時代、お上がやってはいけないということは、たいていみんなやっていたのだと言ってたのを思い出す。
村単位で違法の芝居や博打していて、お上が来たらみんなでサッと隠す。そんな文化がありました。
多くの人がやっていたから法律があるのだと。

なにも違法なこともしようという話ではなく、違法ラインの2歩も3歩も手前でやめてしまう風潮が広がっているような感じがしてならないのです。

なんか、酸っぱいものが世の中から消えてしまった社会、これはとんでもない世の中になってしまうのではないかとの妄想が最近膨らんでならない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未だ計測できない大切な領域

2021年11月11日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

わたしのカーステレオのSDカードには、300枚くらいのCDを入れることができ、いつも移動の最中楽しんでいます。

ところが、今のクルマのスピーカーがあまり良くないせいか、どうも曲に入りきれない不満があります。

カーステレオのアンプのためなのか、スピーカーの問題なのか、クルマのボディの音響によるのかは分かりませんが、音質によって決定的に左右されるのは、デジタルになって極端になったように思えてなりません。

かつてアナログの時代には、たとえモノラルであっても、カセットテープであっても、音質が劣った場合でもその曲にグッと入りこむ事ができたのに比べると、デジタルの音楽は、音質が劣ると途端にその曲に入っていけなくなってしまうような気がしてなりません。

昔の音質が悪くても、心の奥にまで届く音楽。

あれはどこへ行ってしまったんだろう、と。

この差はなんだろうと思っても、なかなか立証することはできません。

ただビビッド、クリアーだけを求めるのではなく、魂のような部分。

それは決して観念的なことではなく間違いなくあります。

 

 

これと同じことを野菜などの農産物でも感じます。

現代の野菜や果物は、昔に比べたらはるかに甘く、みずみずしくなりました。

ところが、確実に味は薄くなり、野菜や果実の生命力そのものが弱くなってきているように思えてなりません。

キュウリでもナスでもトマトでも、昔はもっと味が濃かった。

 

あの味は無農薬、有機栽培であっても容易には再現できません。

かつての青くて酸っぱいリンゴの味が懐かしいです。

あの酸っぱさは、決して現代の完熟前だから出る酸っぱさではありません。

現代の農業では糖度などしっかり計測、評価できるようになっていますが、生命力の強さを表す指標は何かないのでしょうか。

なにか身の回りの至るところから、生命力のようなものがどんどん消えていってしまっているような気がしています。

これは立証できない私の感覚の問題に過ぎないかもしれませんが、私のまわりの多くの人が同じような印象を口にしています。

とても大事なことが、ただ数値化できない、計測できないというだけで、どんどん置き去りにされていってしまうように思えてなりません。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子持の眠り姫が受胎する瞬間

2021年02月27日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

 

以前「子持の眠り姫」(俗称)という、子持神社の参道から西側に見える山裾が、参道松並木からみると女性の寝姿に見えることを紹介したことがあります。

 

 

 

 

この参道から見る小野子山の山裾が、女性の寝姿に見えること自体は地元でもよく知られたことでした。

それが改めて注目されるようになったのは、この眠り姫が子持神社の参道を登るにしたがって、なんとお腹が膨らんでくるように見えるということを発見してからでした。

 

それを知っただけでも大興奮だったのですが、その話の先にはさらなる驚きがありました。

もしかしたら、西側に沈む月がこの眠り姫のちょうどお腹の位置に沈む瞬間があるのではないかという仮説を思いついたことです。

つまり、「子持の眠り姫の受胎の瞬間」です。

 

月の出月の入りをアプリで確認してみると、時期によるのですが、十五夜の翌日、翌々日ころ、明け方の月が沈む時、子持の眠り姫の寝姿の上に満月が沈むことが確認できました。
確かに月の沈む位置が、ちょうど眠り姫のお腹のところに落ちていく時期があります。

薄々想像はしていたものの、月の沈む位置の季節の問題と、眠り姫と月の位置関係で見る場所の問題があり、それを実際に確認するまでは至っていませんでした。

 

それがようやく2018年12月の満月の翌々日早朝、みなかみ町を朝早く出て渋川市に向かい、月の入り時刻は午前7時55分であったので、山の高さを考慮して1時間ほど前からスタンバイすることができました。

すると、

 

 

 西の空に雲が流れておりハラハラしましたが、雲の流れが早かったのでなんとかなるだろうと待っていたならば、ちょうど眠り姫の上に雲の下から月が でてきました。

 

 そのまま降りてくれれば、なんとか眠り姫のお腹に降りてくれるかと期待しましたが、降りた先は真下に位置するお腹より、もう少し上のオッパイの位置でした。

 

 

月の出月の入りマップで見てみると

 まだ冬至直後で、月の入り方角は小野子山方面になります。

 

しかし、のちに気づいたことですが、場所を変えればほぼピッタリの位置で見ることができます。

やはりできれば、子持神社の参道上で見れる位置を確認したいものです。 

 

また1、2月の満月直後の数日にもチャンスがあります。

 
 

そもそも、古代において祭礼、祈りの多くは夜を徹して行われるものでした。

西暦での暮らしが日常化した現代ではなかなか気付かれないかもしれませんが、伝統行事の多くにこうした習慣は最近まで残っていました。

 

そうした夜の祈りの中でも、1年のうちで最も夜の長い日(冬至)、この日から太陽のエネルギーが増していく日に祈り続け、その夜明けに、自然歴の上での生と死の転換、生命の授受が行われると言われます。
大嘗祭も天皇霊の授受がそのような場として行われているようです。

1年のはじまりは、西暦の1月1日に意味がないのは言わずもがなですが、旧暦の1月1日と共にこの冬至こそ、陰陽のリズムからは1年のはじまりにふさわしい日と見られていました。


(天皇の神事として謎の多い大嘗祭についてはこちらを参照 大嘗祭に秘密の儀式が・・・

 

こうした古来の月に関わる習慣のことを知ると、まったくの推測ですが、子持神社のこの参道の位置、もしくはこの東西のどこかの場所で、子宝を願う女性が満月の夜を徹して祈り続けて、明け方になりようやく東から太陽がのぼる時。

眠り姫のお腹に月が沈み、まさに感動をもって生命受胎の瞬間を見て祈りが成就されたことが想像されるのです。
 

私の勝手な推測にすぎませんが、古代の人々がこれを意識していなかったとはとても思えません。

関連ページ「年のはじまり、月のはじまり、1日のはじまりのこと」

 

 

なお、『子持の眠り姫』という呼称は、私たちが勝手につけたものですが、このストーリーと命名の由来については、『神道集』のなかの以下の記述に依拠しています。(『神道集』は、関東など東国の神社縁起を中心とした、本地垂迹説に基づいた神仏に関する説話集)

 

『神道集』第三十四 上野国児持山之事

日本国第四十代天武天皇の御代に、伊勢国渡会郡から荒人神として出現し、上野国群馬郡白井に保(保は律令制下の郷里の単位で、庶民開墾の私田の地)に神となって現れたのが児持大明神である。

その由来は、

 伊勢の阿津野の地頭に阿野権守保明という長者がいた。保明は子の一人もいないのを悲しんで、伊勢大神宮に祈願した結果、児守明神に祈願するとよいという指示があった。そこで児守明神に参籠祈願すると、七日の満願の暁、御宝殿の内から二十二、三に見える女性が現れ鏡をくれる夢を見た。

帰国後間もなく阿野保明の奥方は懐妊。やがて持統天皇の七年の三月中ごろ無事安産。取り上げてみると鏡のように曇りのない美しい姫君で、父母共に大喜び、児持明神から授かったので児持御前と名付けた。

 

 

 

 

そして1月21日(月) 十六夜の日に、ようやく眠り姫のお腹に入る月を撮影することが出来ました。

 残念ながら月の入りが8時頃であったため、太陽が上がってしまっているので、月の明かりが弱く微かにしか写りませんでした。それでも、子持神社の参道からこの受胎の瞬間が見れることは確認することが出来ました。

もう少し月の入り時刻の早い十五夜以前に再度撮影を試みてみます。

 


陰暦正月(睦月)十七夜 望・立待月 月齢15.9(2022年2月17日6時30分撮影)

 

 

ほとけは常にいませども

うつつなるぞあはれなる

人のおとせぬあかつきに

ほのかに夢にみえたまふ

    『梁塵秘抄』より

 

 

2021年から幸いなことに叔母の家の犬の散歩当番がなくなったので、以前よりは撮影チャンスは増えましたが、天候や私の根性などの条件が折り合う機会がなかなかありませんでした。

それがようやく2月27日、雪が散らつくなかにもかかわらず西の空だけ運よく雲が切れて撮影することができました。

 

月の入り、6時26分

地平にかかる雲がわずかに遮っていますが、まさに受胎の瞬間です。

 


2月27日の月の出、月の入方向   月の入時刻6時26分、日の出時刻6時18分

翌日、もう少し南のお腹の上に落ちるチャンスを狙います。


2月28日の月の出、月の入方向    月の入時刻7時1分 日の出時刻6時16分

 

ところが、たった1日の違いですが、予想以上に月の入る位置は南にずれていました。

 

さらに追い討ちをかけるように、東からは太陽がのぼりはじめ、周囲はどんどん明るくなります。


ということは、改めて眠り姫が受胎する瞬間は、十五夜ではなくて限りなく満月の日に限られているのではないかと思われます。(のちに最も美しく見えるのは、十七夜あたりの月が最も美しくお腹に近く落ちるらしいことを知りました。)

つまり、旧暦・陰暦の新年、小正月のころに見られる現象ではないかということです。

 

月の入位置の変遷

 

このことを確認するには、来月の満月の日、来年の旧暦12月(西暦2022年1月18日)満月なども比較してみなければなりません。

また、より良い条件でこれらを撮影できたらまたこのページを更新させていただきます。 

 

 

のちに陰暦の新年の満月のころ、かつては行事の多かった小正月の時期こそ、この「子持の眠り姫」に限らず、最も感動的な瞬間なのではないかと思えてきました。

庚申信仰などでは、「日待月待」という表現があります。
私はそれを、「日待ち」とか、「月待ち」とかを大切にする、楽しむといった意味で見ていましたが、こうした眠り姫受胎の瞬間の感動を体験すると、日の出と月の入りが同時におきる瞬間や月の出と月の入りが同時におこる瞬間のことこそを重視していたのではないかと思えてきました。

 

 

闇夜からしだいに空に青色が生まれ、

地平線、山並みの縁が美しい暁のグラデーションに彩られたとき、

眠り姫のお腹に月が徐々に近づいていきます。

 

やがて月が眠り姫のお腹に吸い込まれると、

程なくして背中側、東の赤城山に朝陽がのぼってきます。

 

これほど感動的な瞬間はありません。

ぜひ、皆さんも体験してみてください。

そして古代から人々がずっとそれを意識して暮らしていたことに思いをはせてみてください。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしも、わたしが一本の木だとしたら

2020年02月29日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

 

わたしが、一本の木だとしたらどのように、

根っこをはやし、えだを伸ばしてきたのだろうか。

 

早川ユミが『種まきノート』アノニマ ・スタジオ(2008年)の中で、こんな問いかけをしていました。

 

このところ、わたしの親の世代が相次いでなくなり、人の一生というものをこれまでになく、真剣に考えるようになりました。

そもそも人は何のために生きるのか。

容易ならざる問いですが、早川ユミさんのこの問い方は、とても共感できるものでした。

 

もしもわたしが一本の木だとしたら・・・・

 

 

考えてみました。

 

もしもわたしが一本の木だとしたら、
どれだけ深く根を張ることができただろうか。

どうやら、深く掘ることばかりに気がいって、広く根を張ることは疎かになっていたようだ。

 

もしもわたしが一本の木だとしたら、
どれだけ年輪を重ねて太い幹になれただろうか。

年輪は、年数とともに自動的に増えるものですが、夏と冬の寒暖の差を受けて、

密度の濃い丈夫な幹に育ったとはとてもいえない。

 

もしもわたしが一本の木だとしたら、
枝を広げることだけは随分やってきたといえるかもしれない。

でもそれにふさわしい幹や広くはった根を育てていないので、

強い風に煽られたら、いつ倒れてもおかしくない育ち方をしている。

 

もしもわたしが一本の木だとしたら、
どんな花を咲かせていただろうか。

枝いっぱいに花を咲かせることなど、

未だ一度もできていないような気がする。

美しく咲かせることができるのなら、老木になって一度だけでも良い。

 

もしもわたしが一本の木だとしたら、
どんな実を生らすことができただろうか。

子どものいない私にとっては、自身の種から芽が育つことはないかもしれないけど、

周りの木々のために、日陰を作ったり、風よけになったり、

やがて苔むして、朽ちて、

せめて他の生命の肥しになることができれば幸せなことだろう。

 

仕事で何かをなした達成感も大事ですが、

もしもわたしが一本の木だとしたら、という問いかけは、

より自然なかたちで自分を振り返ることができる、とても良い言葉です。

 

沼田市白沢の石割り桜

 

人間や動物は、足を持ち移動できるのだから、木とは前提条件が違うのではないかと言われそうですが、とんでもありません。

昭和・平成・令和という時代に生まれた私たちは、決して自ら選んでこの世に生まれてきたわけではありません。両親の遺伝子を受け継ぎ、この日本、この地球という現代の条件の中に、気がついたときには産み落とされていたのです。

この国に根を下ろして生きなさいと。

この時代で芽を出し枝を伸ばしなさいと。

この世界で花を咲かせ、実を実らせなさいと。

一本の木と全く同じように、自分の意志では動かしようのない決定的な自然条件、歴史条件のなかに生まれ育っていることを忘れてはなりません。

 



 

 

もしも私が一本の木だとしたら・・・

 

 

さらには、一代のみ、一本のみとして考えないことも大事でしょう。

 

 

         お花がちって 実がうれて、

         その実が落ちて 葉が落ちて、

         それから芽が出て 花が咲く。

         そうして何べんまわったら、

         この木はご用が すむかしら。

                 『木』 金子みすゞ

 

 

ぜひ皆さんも考えて見てください。

     「もしも、わたしが一本の木だとしたら」

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

闇から生まれる最初の色 「青」

2019年08月30日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

 

 

 

 

暗闇から

一番最初に生まれる色彩は、

 

 

 

 

 

 

青といえば、

空の色、

海の色に始まり、

 

 

 青は文字通り水色、空色として地上を代表する色彩となっています。

 

 

 

どちらも無限ともいえる深い空間から生まれた色です。

その深さが極まれば、当然行き着く先はまた「闇」であり、

黒色の世界となります。

 

したがって、プリズムの原理は知らずとも

闇のなかから最初に生まれる色彩は「青」となります。

 

私が中学生のときの担任が美術の先生で、それは厳しく恐い先生でした。
でも、振り返ると今日まで記憶に残る大切なことを
最も多く教えてくれたのもこの先生です。
その先生が何の絵だか記憶はありませんが、私が描いていた絵の闇の部分に
この黒い面に一点だけ青絵の具をつけると深みが出ると教えてくれました。
ひとつのテクニックを教えてくれたにすぎないかもしれませんが、
今思えば黒・闇と青の関係を伝えてくれるものでした。

それともう一つ思い起こされるのは、
小学生のとき、ポスターを描く宿題で山の自然保護だかの絵を描いたことがあり、
そのとき遠くに見える山は青く見えると教わったことを意識して
山なみを三角形の直線を重ねた表現で描いた記憶があります。
これは自分なりにはシンプルに抽象化された表現がうまく出来たつもりでしたが、
なぜか先生の評価は高くなく入選しなかったことが悔しかった記憶があります。
あとで振り返れば、どこかのポスターにあったような表現であったため、
子どものポスターとしては評価されなかったのだろうと解釈しています。 

 

 

古来、人びとは文明を問わず、この青という色彩を

黄金・金色、朱色・赤とともに特別な意味を感じていました。

 

 古代エジプトの黄金と青色だけの彩色

古代エジプトにおける青の色材は、アフガニスタンのみで産出されるラピス・ラズリ(ウルトラマリン)が珍重されたが、これは極めて貴重なもので、かつ塊状なので加工利用が難しい。そこで、手軽に利用できるウルトラマリン代替の青として、人工的な銅の顔料、エジプシャン・ブルー(エジプト・ブルー)が発明された。これは同時に、人間が化学反応を伴うプロセスで初めて合成した青顔料でもあった。
参照 エジプシャン・ブルーとハン・ブルー
https://sites.google.com/site/fluordoublet/home/colors_and_light/egyptian_blue 

 

黄金・金色や赤・朱色に古来多くの人びとが魅了されてきたことはわかりますが、

かくも青色に多くの人びとが魅了され続けてきたのは、

いったいどのような理由によるものでしょうか。

 

 モスクの装飾もブルーが基調

 

 

同じ古代からの文化でも、
かたや中東から北方や東方に向かうと
赤や朱色が基調になってきます。

赤の文化は、中国、日本ばかりかロシアでも、
「美しい(クラシーバ)」という言葉は 、
「赤い」と同義語であると聞いたことがあります。

こうした色彩文化の違いは、どこからくるのでしょうか。

 

 

 白色の次にあらわれた青色

 

 

古代から、シルクロードを経て日本にやってきた青色は、

藍色に代表されるジャパンブルーともいわれる色彩にまで進化しました。

それは、鉱物系の色彩から植物系の色彩への変遷ともいえます。

 

  

志村ふくみ 志村洋子 志村昌司『夢もまた青し 志村の色と言葉』河出書房新社

 

 

 

 

 日本語で「アオ」は、しばしば「黒」や「緑」と同義語であったりします。

このことも、闇から生まれる最初の色が青であることから考えると、黒や緑などの原初の色彩を総称して「アオ」とする見方が自然に理解できる気がします。

まさに「色即是空」の「色」が「アオ」と似たニュアンスに感じられます。

 

 

 

 

青そのものの表現バリエーションでも

水色、空色、青色の周辺に、

藍色、藍鼠、濃藍、濃紺、露草色、納戸色、縹・花田色、群青色、紺、紺青、

紺藍、瑠璃色、瑠璃紺、杜若(かきつばた)色、桔梗色、勝色、熨斗目色、

浅葱色、水浅葱、錆浅葱、新橋色(金春色)、勿忘草色、露草色、白群、

鉄色、鉄紺、青鈍、甕覗(かめのぞき)・・・・など

 

 青が魅力的な松尾昭典さんの陶芸

 

 上の皿は松尾さんの新作で、井戸の底から見上げた夜空をイメージしたものだそうです。
写真ではちょっとわかりにくいですが、金色の星がかすかに散りばめられています。 

 

 

 

この青が洋風表現の場合でも、ブルー、シアンの周辺に

ナイルブルー、ピーコックブルー、ターコイズブルー、マリンブルー、

ホリゾンブルー、スカイブルー、セルリアンブルー、ベビーブルー、

サックスブルー、コバルトブルー、アイアンブルー、プルシャンブルー、

ミッドナイトブルー、ヒヤシンス、ネービーブルー、オリエンタルブルー、

ウルトラマリンブルー、ウイスタリア・・・・など

紫系、青緑系を除いても結構あります。

 

 

 

このように振り返ってみると、「青」という色がもつ性格は

無限の深みのなかに歴史(時間)の深さと、立体(空間)の深さ

を兼ねそなえた色彩であることにあらためて気づかされます。

 

しかもそれは、闇に一番近いところに生まれた色彩であるため、

まだあらゆるノイズ(騒音)も生まれる前の静寂もあわせ持っています。

このことは同時に、わずかなノイズ(騒音)さえも目立つということであり、

自ずと高い精神性もともなってきます。

 

源氏物語の世界にも見られるように、青の隣りにある色彩「紫」が最も高貴な色であるというのも、何かこのような青色の属性から推察できるような気もします。

 

 

現代で、ブルーというとブルーな気分として、落ち込んだ気持ち、沈んだ気分、憂鬱な気分などを指す意味もありますが、これも底の限りなく深いところに落ち込んだような感覚からきているのでしょうか。

いづれにしても、青、ブルーの色は、底はかない「深さ」のようなものを感じさせます。

 

 

そして、

 

闇から生まれる最初の色「青」の究極が、コレ。

 

 

以上、「月夜野百景」リーフレットのシリーズで、夜・闇の意味についてまとめる素材を洗い出してみました。

 

 

 関連ページ  新緑の季節「生命の誕生」が緑色であることの意味

 人の色の好みは、赤だろうが緑だろうが所詮好みの問題にすぎないと思っていました。

ところがこう振り返ってみると、今まで青色が好きだという人は、緑や赤に比べてなにをもって好きと思っているのか推し測りがたい面がありましたが、何かとても高い精神性をもった尊敬すべき人たちのように思えてきました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神は人に命じることも人を助ける義務もない

2019年04月19日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

房総半島の先っぽにあるcへ行ってきました。

ここはカミとは何かを考えるうえでとても大事な神社であることを知ったからです。

 

 

私が妻と歴史をたどる旅にできるときは、振り返ってみればなにかと「古社」を訪ねることが多いものです。

それは、私たちがいつも天武・持統の時代を経て大陸思想の影響下でこの国のかたちかたちがつくられる前の姿にこだわっているからです。

ときには、中世の源氏物語に代表される高度な貴族文化に惹かれたり、鎌倉仏教のエネルギーに魅了されたり、戦国期の力強い桃山文化に圧倒されたり、幕末・明治の西洋を驚かすほどの庶民文化に魅了されたり、横道だらけのなかでの旅なのですが、それでも旅では一貫して縄文時代以来、今日に至るまで深く日本に根付いている根底の文化を、私たちは非大陸的な思考の中に見ています。

その典型が、この安房神社のような「古社」です。

 

 

実は、この安房神社もネットで検索すると、日本を代表するパワースポット、「イヤシロチ」、三大金運神社などといった内容で出てきます。

しかし私たちは、神さまや神社というものをそのようなものとしては考えてはいません。

先にタイトルに示してありますが、神さまに御利益を求めるのは、人間の実に身勝手な話です。

そもそも神さまは人に命じることも人を助ける義務もありません。

まして神は人を罰することもありません。

 

 

そもそも神さまは「なんでも叶えてくれるから偉い」というような欲がらみで祈るべきはありません。


恵まれた土と水と光と植物の種が、すみやかに、とどこおりなく育つにはどうしたらよいのかを教えてくれるのが神であり、その通りに行うのが人の努めであり、そうして作った新米を神に供えて祝ったのがそもそもの神事なのです。 

今、天皇の皇位継承とともに大嘗祭や新嘗祭などの行事が注目されていますが、天皇はまさに神ではなく人として、こうした神(天)との約束事をひとつひとつ滞りなくきちんとやり遂げることに意味があるのであって、決して誰かの損得や御利益のためにすることではないのだと肝に銘じなければなりません。

こうした欲にまみれた俗世間の祈りとの違いを、日本の天皇の姿というのは本来はもちそなえているものだと思います。

長い天皇の歴史の実態は、大きく揺れ動き必ずしもいつでも立派であったとはとても言い難いかもしれませんが、こうした行事を常に滞りなく行い続けてきたことによって、その矜持を保ち続けることができたといえるのかもしれません。

それだけに今の美智子皇后のふるまいには、皇室の歴史の中でも本来あるべき姿をきちんと実践して私たちに見事に見せてくれている格別の存在感を感じます。

 

 

自然界では、神さまといえども必ずしも優しくて良い神さまばかりではなく、荒らぶる神も存在します。

そうした人間のコントロールなどおよそ及ばない自然界の中で人は、慎んで生きること、「慎まる」ことこそ大切にしなければならないものと思います。

 

この辺が西洋の一神教、天地創造の神であるGOD、自分たちの神こそがエライというような宗教と決定的に異なるところです。

原始アニミズムともいえますが、草木や動物たちと人間が対等に言葉をかわしていた頃、日本では八百万神の時代、人や神に序列をつけることはありませんでした。

 

私たちが息をするように身の回りに感じられるものがカミです。

 

つい私たちは神社の拝殿にばかり手を合わせて祈りがちですが、立派な拝殿が作られたのはずっと後世のことで、神さまは必ずしもそこにいるわけではなく、そのずっと背後です。だいたいの方向としてはあっているのでしょうが。

 

 

それぞれの生き物の中には「人格」のような格の差こそそれぞれあっても、それは順位、序列といったようなものではありません。

それが大陸から仏教が入ってくるとともに、神々にも序列がつけられ人間社会の中でも序列が重視されるようになってきました。

その境界が縄文時代から聖徳太子の時代までと、天武・持統の時代、藤原氏による国家支配が強まる時代にあると感じています。

もちろん、藤原支配が強まっても、他方では現代、とりわけ先の東京オリンピックの頃までは、縄文的な日本の姿は脈々と受け継がれてきていました。

それが、これから平成から令和にかわり、様々な天皇の皇位継承行事がとりおこなわれるとき、先の東京オリンピックの頃から急激に日本が失ってしまった大切なものを、今度のオリンピックで、なんの反省もなくさらに加速的に失っていってしまいそうな世の中の空気を感じています。

そんな空気のただよう今日この頃であるだけに、私たちはこうした神社に足を運ばずには入られませんでした。

 

そして事実、安房神社は、パワースポットブームなどに穢されることなく、「鎮まる」空気に満ちた素晴らしい空間でした。

 

 

 

 

 

 

さすがに房総半島の南端というだけあって、群馬では見られない常緑広葉樹が多いことも驚きでした。

そうした植生が育む空気も、日本を理解する上ではとても大事なことと思います。

 

 

 以上、これまでの内容の多くは下記の『先代旧事本紀大成経伝』の優れた解説を参考にしていますが、文献学上、『先代旧事本紀』とともに歴史記述の明らかな齟齬が認められることなどからこれらの文献は偽書とされてます。にも関わらず、その衝撃的で説得力ある内容から現代に至るまで多くの影響力を持っています。私は偽書だとしても、これほど素晴らしい偽書は他にないと思っています。
 私はとても多くの大切なことをここから学んでいますが、何事もすぐに感化されてしまう私とは異なる賢明なみなさんは決して鵜呑みにはされないように気をつけてくださいw。

 

今回は、皇位継承の時期なので、カミと天皇との関係に絞って書きましたが、太平洋側の海洋文化圏としての房総半島についてや、鹿島・香取神社とその他の在来神社のこと、縄文、蝦夷対策の境界や東国武士の発生の歴史などについては、いつになるかはわかりませんが、またあらためて書かせていただきます。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軽く考えないで欲しい「景観条例」、ここぞ本丸!

2018年12月29日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

私の地元、みなかみ町で新しい「景観計画」の策定準備を始めている記事を見ました。
ユネスコエコパーク認定にともない、関連する条件整備は当然必要になってくることと思います。

みなかみ町景観計画の策定

ところが、この「景観計画」が今後の地域の将来に対してどれだけ重要なことであるのか、さらには、この計画に実効性を持たせることがどれだけ困難なことであるか、それらが公開されている資料(拝見したPDF資料自体はとても立派なものです)や議事録などからは、どうも十分討議されているようには見えませんでした。
担当職員が一生懸命作ってくれただけで、関係機関や住民との間の練り込みがされた痕跡があまり見られないのです。 

パブリックコメントも募集していたようですが、知らずにすでに締め切りもすぎていたので、 この機会に思うところを少し書いてみたいと思います。 

 

 

1、世界から大きく立ち遅れた日本の現状

まず「景観条例」に実効性を持たせることがいかに困難なことであるかは、日本一の国際観光都市であるはずの京都の実態から十分にうかがい知れます。

世界の無電柱化の実態は、ロンドン、パリ、ベルリン、香港、オークランドなどは100%地中化していて、アジアでもソウルとかマニラ、ジャカルタ、北京とかはすでに50%くらい無電柱化されていますが、東京はなんと7%というレベル。

だから当然、旗が振られてそれなりに頑張っているのですが、それでも遅々として進んでいるわけではないのが実情です。

それは、世界有数の観光都市である京都でさえ2%という水準に如実に表れています。

 

  

 

  


世界に誇る文化遺産を持ち、文字通り日本でトップクラスの国際観光地である京都でさえ、観光地としての「景観整備」、個別には、「看板規制」「電柱の地中化」「歴史建造物や町並みの保存」などは、ヨーロッパのみならずアジアを含めた国際比較をみても、恥ずかしいほどの水準にとどまっています。

ゴミが散乱しておらず、清潔なトイレやマナーの良さなどでは、世界トップ水準の国であるにもかかわらずです。

それでも京都には、個々の文化遺産に優れたものがたくさんあるので観光客はたくさん来てくれているのですが、諸外国の観光地の景観に比べたら、やはり雲泥のさがあると言わざるをえません。

 

さらに今では、無電柱化というと都市部市街地から進められるのが当たり前かのようになっていますが、ヨーロッパでは、市街地がほぼ完了したからという差もあるかもしれませんが、農村地帯であっても、電柱や看板などの広告物が景観を損ねないようにする対策は、電柱地中埋設に限らず様々な方法で実施されています。 

 

 

日本のように道路があればそこに電柱を立てるのが当たり前なのと違って、ヨーロッパでは、都市部に限らず農村部であっても、できるだけ電柱が視界に入らない工夫がされています。

 

 

こうしたことはずっと指摘されていながらも日本を代表する観光都市京都では、未だに現状をなかなか変えることができない実情と原因をよく理解する必要があります。

しばしばこうしたヨーロッパなどの例を出すと、もともと歴史的建造物の多い国だからできていることだといったようなことを言われますが、ヨーロッパの都市の多くは戦争によって破壊された場所ばかりです。日本の都市が空襲で破壊されたのとなんら変わるところはありません。その多くは、戦後になって修復、再建されたものです。

条件が良い悪いの違いでは決してありません。

どこを目指しているかどうかの違いであると思います。 

電柱地下埋設のことを中心に例をあげましたが、これも地域で話題にすると1キロ地下埋設するのに何億円かかると思ってるんだと言われます。だからほとんどは国や県から出る予算待ちの計画しかできない発想になりがちですが、だからこそ、これも地方「自治」の核心テーマになるわけです。

そこが見えていないと、どんなに立派な「景観条例」を作ってもそれに実効性を持たせることは到底できないのではないかと思えてなりません。

 

 

その上で、次に大きな壁となるのは、みなかみ町独自のの歴史的、地理的障害の問題です。 

 

 

2、みなかみ町の独自障壁、課題

 

歴史的な独自課題

今の姿からは想像がつかないかもしれませんが、上越線が開通する以前の水上温泉は、湯原温泉と言われたひなびた温泉で、農閑期に近在の村から湯治客が訪れていた程度であったそうです。

それが、大正、昭和から始まった数々のダム建設や清水トンネル開削、それと同時期の水上駅の発展にともない旧水上町周辺は劇的に発展してきました。多くの温泉地が発展できたのもそうした背景があってこそのことです。

 

原田正純『ぐんまの鉄道』みやま文庫

上記みやま文庫では、「鉄道町 水上」の変容と題して、鉄道を中心に発達した水上の歴史を詳しく紹介しています。

主だった事項を以下に記します。
昭和16年時点での水上機関区の職員数は255名にものぼったとの記録があります。(家族を含めたら国鉄職員の占める比率がいかに高かったかがうかがい知れます)しかし徐々に鉄道拠点が水上機関区から高崎第二機関区や長岡運転所に移行して行き、水上機関区の機関車は昭和57年までには全てが廃車となりました。

それほどの歴史のある水上駅でしたが上越新幹線の駅は、上毛高原駅となり昭和57年に新潟までの区間開通となりました。

昭和30年代後半から40年代が水上温泉の最盛期で、観光客数は昭和61年の百七十万人がピークであったと言われます。
平成13年の観光パンフレットに28カ所あった水上温泉の宿泊施設は、同27年の観光協会ホームページでは12施設に減少しました。

 

このようにみなかみ町は、周辺他県の観光地のようにスキー場の増大とともに発展してきた新潟県魚沼地方やリゾート開発主導で成長してきた長野県側などと違って、「ダム開発」と「トンネル工事」に代表される巨大公共事業とその時々の産業主導で発展してきたのが、この地域の特殊性であるといえます。

当然、温泉地として知られるようになった観光産業とはいえ、景観への配慮がなされることはこれまでの町の歴史ではほとんどありませんでした。 

ここに、豊富な観光資源がありあがらそれが活かしきれないみなかみ町の大きな特徴があるのではないかと思います。

 

そのことは、旧水上町の明治時代からの人口推移を見ればさらによくわかります。
グラフ化できれば良いのですが、
合併前後を通した資料が手元にないので継ぎ接ぎ情報になりますが、


明治初期の旧水上町の人口は2千人程度だったようです。

 

それが戦後、昭和30年代には、1万人を超えるほどまでに激増しました。

ところがその後、みるみる急降下しだし、またたく間に元の3千人近くまで下がってしまいました。

 

  旧水上町の人口推移 『町誌みなかみ』より

 

緩やかに増え緩やかに減少期へ入った旧月夜野町や旧新治村に比べると異常な急上昇急降下です。

対する旧月夜野町は、平成7年以降は減少に転じていますが、どちらかといえば日本全国の平均的な推移に近く、3千人くらいの時代から緩やかに増え続け、現在の1万人水準に到達しています。

新しい地区別データがありませんが、3地区を比較してみると、
全国の地方の人口減少傾向と比べても異常な実態であることがわかります。

 

この水上地区の問題は、みなかみ町に合併されたことで全体で緩和することができた面がありますが、夕張市が破綻した問題と同じ構造を今も抱えていることに変わりはありません。多様な地場産業を育てることがないまま、巨大プロジェクトに牽引されるがままに器が肥大したまま残されてしまったのです。
だからこそ、その突破口を観光でということになってしまうのですが、ここにこそ観光みなかみ町の構造的な大きな課題が出ていると思います。

そこには急上昇、急降下した地域ならではの有形無形の莫大な負債があり、その処理費用は大変なものであることがこれからも予想されるのです。でも、地域のイメージを変えるには、ここに踏み込むこと抜きにその先は考えられません。

 

 

地理的な独自課題

 さらに、この地の景観を損ねる要因としては地理的な特殊性があげられます。

同じ豊かな山間部の自然を売りにしている観光地でも、その地形は様々です。

次の写真は、みなかみ町では普通に見られる道路の景観です。

 

 

 

これが、周辺の山々の傾斜が緩やかであると、自然と路肩幅も取りやすく、のり面もコンクリートで固める必要もなくなってきます。

このコンクリートの比率の差も、景観に大きく作用しています。

地域全体で目に入るコンクリートの量が、劇的な差を生んでいるのです。

 

この上と下の写真の違いがわかるでしょうか。

 

 

こうした背景が、同じ観光地でありながらも、長野県や新潟県のような観光リゾート型成長を始めからとってきた場所との大きな差を生んでいます。

 

 

3、どれひとつとっても重大テーマになる各論

さらに個別に見ると

① 電柱地下埋設問題

      

日本から電柱が無くならない酷すぎる理由 

 電柱地下埋設というと、莫大なお金がかかるので国や県の予算頼み思考になりがちですが、
 まず国際的な観光地水準を目指す前提で優先順位や計画をしっかり持つことが求められます。 

 さらに地下埋設以外にも、電柱ルートの変更・迂回や、柱の化粧処理など打つ手は色々あります。

 

② 乱立する首都圏への送電線網

さらに、関東の水源、首都圏の水瓶であると同時に首都東京への電力供給源でもあることから、南北に送電線が何本(5本?)もはしることが宿命づけられています。それは利根の水源ばかりでなく、新潟から首都圏への送電線もこの地を通過することになります。

いたるところに美しい景観はありますが、観光名所を撮影するにも、山を撮影するにも送電線を避けて限られたアングルを見つけなければなりません。

そんなこと言ってもどうすることもできないではないかと言われますが、10年〜30年のスパンで考えると、電源や水源などエネルギー資源管理の考え方や技術はどんどん進歩します。
必ずしも水源地の避けられない宿命とは限りません。

 

③ 看板規制

 

④ ガードレール・フェンス対策

 国、県、市町村、私有地でまさに縦割り行政の管理下にありますが、 公共性の高い場所なら、
 たとえボランティアであっても、さっさと焦茶色のペンキを塗ってしまいたいものです。

⑤ 私有地外観の公共性

    軽井沢のような別荘地であれば、初めから個人の敷地であっても周辺の環境に配慮した
   建物や植栽にすることは当然と思われるかもしれませんが、
   これもこれからの世界基準から見れば、特殊な観光地や別荘地に限らない地域づくりの
   基本目標になってきているといえます。
   もちろんそれは簡単なことではありませんが、
   ゴールとしては明確に設定しているかどうかが大事です。
   目標が明確になっていれば、行政コストをかけなくても、
   自発的住民によって始められることもたくさん考えられます。 

⑥ 草刈り問題

   近隣の高山村などのレベルまで、もしみなかみ町が草刈りを徹底するとしたら、
    年間の回数で3倍、一回の人員でも2〜3倍の規模が必要です。
    もちろん、そんな予算はとてもない、ということになりますが、
    これも地域のお金をどう有効に回すかの問題だと思います。 

 

⑦ 自然草花の植生管理

   都市公園のような花壇も美しいものですが、ユネスコエコパークにふさわしい
   自然の植生を知り活かした景観づくりとはどのようなものなのでしょうか。
   みなかみ「ヤマブキ」植栽考

 

 

 

つまり、景観づくりにはほとんど考慮することなく産業主導で成長してきた土地柄があり、この負の遺産を解消することに、みなかみ町には大規模な独自対策が求められるわけです。

 

ベネッセ(「よく生きる」の意味)の会長、福武總一郎は、

「努力しているのに幸せになれない理由は、幸せな地域にいないからだと思った。」

と、ちょっと誤解されそうなことを言っていますが、その意味は、

「幸せな地域にいないと、自分だけが幸せになろうとする。そうすると、自分さえ幸せになればいいというグルーディー(貪欲)な人の集まりになってしまう。(それが東京だと思った)」

と語っていますが、これは都会に限ったことではありません。 

「景観」とは、まさにこうした幸せな地域をつくるとき、もっとも基本に位置す課題であると思います。 

 

観光が成り立つには、まず第一次産業である農業や林業が元気であることが大前提でなければなりません。

さらに第一次産業が成り立つには、そこに豊かな自然があることが大前提です。

それら豊かな自然が生かされているかどうかが、まさに人間と自然の折り合いで作られる「景観」のなかにあられているわけです。

「景観条例」に基づいた計画とは、当然それらを含めた総合的観点で検討されなければならないし、それだけにもっと広範な議論を重ねてしっかりと練りこんでいかないと、大きく出遅れた日本のレベルをなんら取り戻すようなところにはおよそたどり着けないのではないかと感じます。

 

環境問題は、実利に直結したものが少ないだけに、議会などではあまり人気がないテーマで膨大な予算が絡めば困難は一層増しがちです。
でも環境問題の課題の多くは、この半世紀(特に先の東京オリンピック以降)の間に作られた負の遺産の問題であり、困難な問題であっても4〜50年後には当たり前になっているようなことばかりです。 

行政サイドでは、どうしてもバランスを優先した計画にならざるをえないものと思いますが、抱えている困難な条件を突破することを考えれば、喉の奥深くで複雑に絡み合った骨を、口から手を突っ込んで取り除くような覚悟をもって明るい未来を手元に引き寄せなければなりません。

ただの美しい景観が増えれば良いというだけの問題ではなく、ここにこそ地域の課題の根本に関わるテーマが深く内在しているものと思います。どんな課題でも問題に気づけば、遅すぎるということはありません。
幅広い住民の議論を巻き起こす一歩が今からでも踏み出すことができたらと思います。 

 

とはいえ、ここで何をいっても一住民のつぶやきにすぎませんが、もっと幅広い議論を起こすことは今からでも遅くはないはずです。毎度、思いつくままの文で申し訳ありませんがパブリックコメントにかえて書かせていただきました。

 

 

 

関連するこのブログ内の記事

 「雇用」より大切な「仕事」観

② 税の集め方・使い方が逆行した日本の公務員システム みなかみ町の場合

③ 行政の財政支出が膨らむのは、そこにオーナーがいないから (準備中)

④ 心強い1%の力 多数決型民主主義からの脱却

⑤ 企画・イベントよりも、まず競争力のある商品とサービス

⑥ 点と点がつながり線になっても、安易に「面」にはしない

⑦ 経済活動よりも生命活動に「信」をおく社会

⑧ 生産の基礎単位としての「家族」 再録メモ

⑨ 生涯をかけて学ばなければならない「お金」の使い方・活かし方  (準備中)

⑩ 異常な人口爆発の時代が終わり、適正サイズに向かう日本

  地域を支える様ざまな労働スタイル 

  ガラガラポンは期待しない

  「行政」にとらわれない社会の基礎単位

  遠く感じる「自治意識」

 

 

 

#みなかみ町 #景観条例 #景観計画 #電柱地下埋設 #ユネスコエコパーク

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異常気象は「恩恵」ももたらす?

2018年11月10日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

ほとんどの地域で稲刈りは、遅くても10月末には終えているのが普通ですが、いまいろいろお世話になっている田村さんの田んぼは、毎年11月に入ってから刈り入れをします。

といっても、暦を見て、稲の生育を見て、天気を見て決めることなので、明確にいつと決められることでもないようですが、今年の夏の猛暑は農家にとって様々な影響を与えたようです。

数日前から、この田村さんの遅い刈り入れの稲を撮影しに寄っていたのですが、昨夜、田村さんの方から是非写真を撮ってもらいたい稲があるとの連絡をいただきました。

それは、この夏の猛暑が原因なのかどうかはわかりませんが、突然変異の稲が出たので、それを撮影してほしいというのです。

それは喜んで、と今朝すっ飛んで行ってきました。

聞くとそれは稲の茎が異常に太いものが出たのだと言います。

前にも、こうした茎の太い稲が出たことはあるそうですが、今回で2回目であるとのこと。

これも手作業の稲刈りでなければ気づかないことでしょう。

 

リンゴやミカンなどの果実類は、突然変異が出やすいそうですが、稲の場合は滅多にないそうです。

いろいろ話を伺っていると、異常気象の時こそ、自然界の生き物にとって多くは災難であるかもしれないけれど、同時に新しい生命が生まれるチャンスでもあるようです。

田村さんいわく、環境が激変する時こそ、それまでの環境では生まれてこなかった新しい異端児が出てくるものだと。厳密には、突然変異種は異端児よりももっと稀なもので、革命児とか異星人に近いレベルのものです。

この異端児というのは、環境が安定している時にはあくまでも異端児として排除されていく立場なのだけれども、これまでになかった環境が現れると、この異端児こそが次の時代を作る主役の側になる可能性があるというのです。

その意味で、異常気象というのはこうした異端児が生まれてくるチャンスでもあるので、農業の未来にとっては必ずしも悪いことばかりではないのかもしれないと話してくれました。

苗や種を買ってきて植える農業と違って、親から生まれた子どもをきちんと育てる農業を行っている田村さんにとっては、こうした一つ一つの突然変異の事例は、とても大切なもののようです。

DNA解析や遺伝子組かえ技術で組み立てる生命ではなく、生まれ育った一つひとつ固有の環境の中でこそ生命は輝きを増すのですから。

田村さんと農業の話をしていると、いつも子育てや教育の話をしているのか、現代医療の話をしているのか、はたまた哲学の話なのかわからなくなります。

 

田村さんに何か太さを比較する目印になるものはないかと言ったら、綿棒を出してくれました。

帰ってから気づいたのですが、普通の稲と並べるのが一番わかりやすかったですね。

また次に撮影してくることにします。

農業を経済効率だけで考えてしまうと、細胞の数は変わらないまま、ただ太らせることや、より甘くなることのみを追いもとめがちですが、本来は、生命そのものの力を強くすることこそが基本であるはずです。

それには、畑に実ったものの姿だけを見ていたのでは何もわかりません。

育つ前の土の中の環境にこそ、まず目を向けなければなりませんが、それは目に見えるミミズや昆虫だけではなく、人間の目には見えないたくさんの微生物によってこそ支えられているものです。

現代農業は、そのデータを全くとっていません。

たとえが古いかもしれませんが、窒素、リン、カリの配分比率の問題ではありません。

確かに昔に比べたら、化学肥料や農薬が人間に取ってどれだけ害があるかどうかは、しっかりとしたデータを取り「安全」なものを「より多く」生産する農業は飛躍的に進歩してきました。

でもどんなにデータで立証されようが、生命が痩せ衰えていく農業に未来はありません。 

農業をめぐっては、後継者問題をはじめ太刀打ちできない大きな問題が山ほどのしかかっていますが、だからと言って目先の利益を追求したところでその場しのぎにしかならないことも確かです。

農業に限らず、世の中全体が「生命」とどう付き合うかを、一つひとつ考えること、見つめること抜きには突破口は出ないものと思っています。

そんな意味でも、田村さんの畑にお邪魔することは私にとって最高の時間です。

 

 

同じく、下の写真は、昔はなかった姿だと言います。

稲を刈ったそばから新しい芽が見事に出ています。
こんな光景が最近はあちこちで見られるようになったそうです。

原因は、気温が暖かくなったからなのか、栄養の与えすぎによるのか一概に断定はできないようですが、これならそのまま二毛作ができそうです(笑)

もしかしたら、これから本当にそんな時代になっていくのでしょうか。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする