「7万人の人が自宅を離れて彷徨っている時に国会は一体何をやっているのですか!」
2011.07.27 国の原発対応に満身の怒り - 児玉龍彦
http://www.youtube.com/watch?v=eubj2tmb86M
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「核」と「放射能」というもののもつ「とてつもない危険性」の問題以外に、現代特有の「巨大事故」がどうしても起きてしまう理由というものも、同時にもっと真剣に考えなければならないと感じます。
これも、前に書いたこととは別の「個々の安全性と高めるだけの発想では解決しない」、巨大事故がおきる理由としてどうしてもあげておかなければなりません。
チェルノブイリ事故はどのように起きたのか
(以下、武田徹『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』中公新書ラクレよりの引用でおさらい)
チェルノブイリ原発が建設時に不手際があった欠陥原発だったことは事前にある女性ジャーナリストが指摘しており、事故後になってその記事の指摘が的中したとして世界的に有名になった。ただそれは結果論であって、それまでのチェルノブイリ原発は事故を起こさず運転されてきており、むしろ優秀な炉として評価されていたため、停電時にディーゼル発電機が立ち上がるまでの間、タービンの慣性回転を利用して発電し、緊急炉心冷却系に電力を供給する実験の対象として選ばれる。
86年4月25日、夜の11時になって出力降下作業に着手され始める。これは実は二度目のトライであり、最初はその半日前に行われ、出力を低下させ始めた運転員は、同時に緊急炉心冷却装置ECCSの信号回路を切っていた。回路が生きていると実験中、炉心の水位が下がった場合に、ECCSが作動し、注水が行われてしまう可能性があったためで、これは予定された作業だった。
ところが、その後に予定外のことが起きた。出力をさらに下げようとした時、キエフから指示があり、電力需給の関係で50%の出力で運転を維持しろと言う。その段階で実験は半日おあずけになってしまった。
その後交替した運転員が実験を再開させる。ところが、直後に出力が一気に3万キロワットに落ちてしまった。あわてた運転員は出力を回復させるべく悪戦苦闘し、なんとか20万キロワットまで戻したものの原子炉は極めて不安定な状態になる。かろうじてなだめつつ出力を維持したが、その時点で制御棒を引き抜きすぎていた。
そして運転員はタービン停止に伴って原子炉を緊急停止させる信号も切ってしまった。これは規則違反に当たるが、最初の実験がうまくゆかなかった時にもう一度やり直せる状態を維持したかったからだと考えられる。
翌午前1時23分04秒。実験のために緊急閉鎖弁が閉じられ、以後、タービンは慣性で回転し続けるが当然、その回転数は減り始め、タービン発電機に繋がれていた循環ポンプの能力も低下する。その結果、炉心を流れる水の量が減り、冷却水温度が上がり始め、内部の水泡を増加させた。チェルノブイリのRBMK型と呼ばれる炉は、低出力中に水泡が増えると出力が増加する。
かくして暴走が始まる。緊急停止を行う回路は切られており、制御棒を抜かれた状態で、暴走を止める術はもはやなかった。
原子炉は同43秒から44秒までのたった1秒の間に3億2千万キロワットまで出力を増加させ(フルパワー運転の100倍、20万キロワットだった実験時の出力の1600倍)、燃料ウランは内部から粉々に砕け、高熱の酸化ウランが冷却水と接触し、蒸気爆発を起こして原子炉建屋の上部を吹き飛ばした。破戒された原子炉は内部にたまっていた放射性物質を大気中に放出し、それは遠く日本の空にも降り注いだ。
(引用、ここまで)
参照映像
チェルノブイリの真相 ~ある科学者の告白~
http://www.dailymotion.com/video/xk1hj2_yyyyyyyyyy-yyyyyyyy_shortfilms
長いけど、是非見てください。
高木仁三郎は、「チェルノブイリの事故を、事故論として総括すると
〈ひとつひとつが信じられないような規則違反が重なり合うというもっとも信じられないことが起こった〉
ということではなく、
〈ひとつひとつでは起こりにくいようなでき事や規則違反が連なってかえって起こりやすくなった〉
ということなのだ」という。
『巨大事故の時代』(弘文堂 1989年)のなかで高木仁三郎は、多重防護による安全設計が、なぜあっさり破綻してしまうのかを検討しています。
このなかで高木は事故を重畳型、共倒れ型、将棋倒し型の3種類に分類してます。
チェルノブイリの事故は、まさにこの将棋倒し型の典型でした。
事実は、まさに「核」ゆえにのことであるわけですが、ここには「核」に限らない「安全性」の問題が浮き彫りになってもいます。
個々の場面のミスや規則違反は、私たちの日常でもよく目撃されること、よく起きていることです。
そこには、注意力の強化や組織の体質だけでは解決できない、もっと大きな問題が潜んでいるように見えます。
このところ企業への節電要求が、日本の産業の競争力をさらに減退させるのではないかという懸念が広がっています。
でも私にはどうしても理解できない。
今の電力不足問題は、夏の猛暑の時期、エアコンなどの利用が増える時間のピーク電力需要が電力会社の最大供給能力を超えた時だけの問題で、それ以外の大半の時間帯は、電力の削減・節約をしても、今の電力危機を解決する方法としては、そもそもほとんど何の意味も持たないのではないだろうか?
あくまでも電力危機は、需要のピーク時に供給能力を超えてしまうことを避けるにはどうしたら良いかの問題であるはず。
もちろん、無駄なエネルギー排出を減らすこと自体は、環境のためにも必要なことで意義があることは疑いません。
しかし、夜間の余剰電力を利用した揚水発電の事例にも見られるように電力の余る時間帯に、一生懸命節電することの意義がどれだけあるのだろうか?
残業禁止の取り組みや夜間の照明を落として電力節約することに、どれだけの意義があるのだろうか?
まだしも震災直後の計画停電の時期は、国民的な協力で危機を乗り越えようといったムードが強かったので、細かいことを問題にする必要もなかったかもしれないが、今、この時期に及んで、総量規制的な節電協力の発想はどうしても理解ができません。
多くの企業が、厳しい経営環境のなかにもかかわらず、15%削減に涙ぐましいほどの努力をして協力している姿を見ていると、なぜそれほどまでに協力しなければならないのか?
東電の圧力や権限がそれほど強いからなのか?
単に企業の社会貢献意識の高さの現われなのか?
やはり私には理解しがたい。
工場が平日休業を増やし土日稼動へ移行するなどの、ピーク時の電力使用が跳ね上がることだけに、もっと集中して対策を打つほうがはるかに大事なのではないだろうか。
業種ごとに個別に対策を考えれば、打てる手立てはいろいろ出るはず。
電力の需要に応じて供給側の量を簡単にON、OFFの切り替えの出来ない、作り出したら止められない原子力発電の思考枠に、なぜそうまでしてあわせなければならないのでしょうか?
これから増強が求められる自然エネルギーは、電力の計画的な安定供給が難しいなどとよく言われますが、需要が減っても無駄な電力を作り続け、ちょっとした事故のたびに莫大な発電が停止する原子力発電に比べて、いったいどれだけ地域分散型の自然エネルギー発電が不安定だというのだろうか。
だれか説明してくれてる人、どうか教えていただきたい。
最近、原発関係で、高木仁三郎以外に私が読む機会の多い人としてジャーナリスト武田徹があげられます。
武田徹氏は5月末、新聞社の取材で福島県石川町を訪ねています。
東京新聞の7月17日(日)に石川町のことを取材した同様の記事が出ていましたが、こちらの取材の署名は秦淳哉となっていました。
私は小学校2年から中学2年までの間、福島県の喜多方市に住んでいたのですが、石川町と聞いて、すぐにはその場所がわかりませんでした。
文章から郡山の南、いわき市に向う方向、いやもう少し南といった印象ですが、磐越東線をたどったのでは見つからない。郡山から水戸へ向かう水郡線をたどることでみつけることが出来ました。
この石川町。実は日本の原爆開発の重要拠点であったのです。
日本の原爆開発と聞いただけで、えっと感じる人も多いのではないかと思われます。私も知りませんでした。
1928年にオットー・ハーンがウランの核分裂実験に成功。
そのハーンのかつての研究仲間でナチスの迫害を避け、デンマークに亡命していた物理学者りーゼ・マイトナーはその実験結果を物理学的に検証し、二つに分裂した原子核の質量を合計すると元のウランよりも軽くなり、減った質量分が強力なエネルギーとして放出されることを計算で示した。
この研究がたちまち世界に広がり、第二次大戦がはじまろうとしていたときに核爆弾開発競争が一斉にはじまった。
こうした世界の流れに対して後に被爆国となる日本も決して例外ではありませんでした。
理化学研究所の仁科芳雄博士が陸軍航空技術研究所に「ウラン爆弾」の研究の進言したと言われるが、1943年1月に仁科を中心に研究がはじめられた。相前後して海軍も京都帝大理学部の荒勝文策に核爆弾の開発を依頼している。
(以下、引用)
この新型爆弾お原料になるウランの入手先として白刃の矢が立ったのが、福島県石川だった。旧制私立石川中学校(現在の学法石川高校)の創立者・森嘉種が石川で採掘される鉱物について明治30年代に紹介し、ペグマタイト(巨晶花崗岩)の産地として注目されるようになる。以後、多くの研究者、学者が石川で産出される多彩な鉱物についての研究を重ね、その中には放射性の鉱石が混じっていることが早くから知られていた。44年12月に日本陸軍は石川町でのウラン採掘を決定。45年4月から石川中学校の生徒を勤労動員して採掘させた。 (以上、武田徹 「原発報道が見落としてきたもの」講談社広報誌より)
(石川町の原爆開発や勤労動員の実態については、石川町史編纂専門委員らが地道な調査を重ねています。)
原爆の製造には何段階もの行程が必要。
ウラン鉱石を精錬し、不純物を取り除いたイエローケーキと呼ばれる粉末にする。これを六フッ化ウランに転換し、ここからウラン235を分離する。さらにウラン濃縮を高め原爆に使用するウランができる。
ウラン抽出には最先端の技術が必要で、日本の研究はまだ基礎研究の段階。
原爆の完成にはほど遠いものであった。
この石川町の他に55年に岡山、鳥取県境の人形峠でウラン鉱山が発見され、本格的な採掘がはじまったが、これも採算割れで中止になる。
こちらの鉱山採掘跡地は、今も立入禁止区域になっており、その影響が問題となっている。
このあたりの問題については、武田徹『わたしたちはこうして「原発大国」を選んだ』中公新書ラクレ に詳しい論及があります。
日本でのウラン採掘は、これらすべてあわせても原発一基を1年稼働させるほどにもならない量であるらしいが、問題はそれではない。
かつて唯一の被爆国として世界平和を訴えていた日本にも、未熟ながらも原爆開発の歴史があったこと。
こうした原爆開発の拠点として福島があったこと。
こうした事実を知ると、今の原子力発電の事故というものをとらえる文脈が大きく変わってくるのではないかということです。
そもそも、原子力の平和利用といっても「核」という「とてつもなく危険」なものの本質は変わらない。
野坂昭如が言っていたように、原子力の平和利用と軍事利用に差があるわけではなく、平時の「核」と戦時の「核」の違いにすぎない。
実際に多くの人々が「核」の平和利用によって人類の明るい未来が切り開かれるかのように思って努力を重ねてきたこと、すべてを否定する気はありません。
しかし、また一方で、「核」という本質からは、それを平和のために区別しようとする努力とは関係なく「軍事」と不可分のものとして存在してきたこと、さらにそうした意志をもって原子力開発の歴史がつくられてきたということを、今あらためて確認する必要があると思うのです。
多くのマスコミが、東北の震災・津波被害の取材にくらべて、こと原発問題となると、政府・東電の広報から踏み込んだ取材がなかなかされないトーンダウンした論調が目立つのは、必ずしも単にスポンサーがらみのがんじがらめの構造によるものだけではない。
武田徹はそのことを、「戦前と戦後の日本を断絶させ、両者を異質な社会だとみようとする傾向に安易に乗じて、歴史を真剣に相手取らなかった結果ではなかったのか―――」 と指摘する。
このたび講談社現代新書として出された武田徹『原発報道とメディア』は、こうしたことを鋭く指摘した興味深い本です。(7月17日現在、品切れ中)
アメリでは政府が組織して原子炉の安全性の研究「RSS」と言われる研究が行われました。原子力規制委員会の管轄下で75年に「WASH-1400報告」が出され、俗にこれはチェアマンを務めた教授の名前をとって「ラスムッセン報告とも言われていますが、この報告によって安全神話を確立させたきらいがあります。(その後この報告は、くじに当たる確率論議のような数字は、そもそもあてになるデータとはいえないといった批判にさらされますが、1979年にスリーマイル島事故が起きて信頼度を失います。)
「WASH-1400報告」は、たとえばチェルノブイリ級の大事故が起こって、内部にたまっていた放射能が一気に外部に放出されて、大量の人が死ぬ、そして何百万という人が多かれ少なかれ影響を受けるような大事故の可能性は、確率的にどれくらいで評価されるのかとうことを、膨大なデータベースと費用と作業時間を使って解析的に行った研究です。膨大な報告書が出ていますけれども、一般的に原子炉の巨大事故が起こる確率は、きわめて低いというのが結論でした。
その結果は、広告書の正確な数値的表現ではないのですが、広告書の作成者であるラスムッセン教授たちによって、原子炉の巨大事故が起こる確率は「ヤンキーズスタジアムに隕石が落ちる確率よりも低い」と表現されました。
しかし、その後も、政府関係も含めていろいろば報告が出され、何千年とか何万年に一回の事故確率ではないかというのが、より真実に近い状況として想定されるようになりました。
何千年に一回、たとえば千年に一回というと非常に低いように思いますが、これはひとつの原子炉についての確率です。
現在、世界には四百基以上の原子炉がありますから(研究用のものを除く)、一つ当たりが千年に一回の大事故を起こす可能性があるとすると、2.5年に一回は世界のどこかで大事故が起こるということになってしまうわけで、千年に一回という確率は大変な数字になります。それよりは多くなくて数千年に一回ぐらいの確率ではないかとも言われています。
そういうことを考えると、だいたい今くらいの原発の数だと、十年に一回くらい大きな事故が起こるのではないかと思われます。だから一基当たり数千年に一回ぐらいの原子炉の事故の確率というのは、案外真実をついているのではないでしょうか。
戦後、原子力開発の予算をとりつけ原発推進の道筋をつけたのは、若き日の群馬出身の若き日の中曽根康弘だったけど、脱原発、反原発の立場を科学者として貫き通したのも群馬出身の市民科学者高木仁三郎だった。
http://www.youtube.com/watch?v=IkR9-LoJAzE
http://www.youtube.com/watch?v=PUquFYo26vM
高木仁三郎が病床で書いた未完の小説
『鳥たちの舞うとき』
(古書でないと入手できません)
『原子力神話からの解放』 講談社+α文庫