かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「経済活動」より「生命活動」へ「信」をおく社会

2017年09月24日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

誰にとっても、仕事(経済活動)が大事であることに異論はありません。

しかし、現代人の暮らしは、あまりにも賃労働型の仕事に多くの暮らしが従属してしまっているように見えてなりません。このままでは、いくら経済的な豊かさを得ても、結果的に幸せな暮らしを手に入れることが難しい社会になってしまっています。このことを、人間社会と自然の生命活動全体から捉え直すことができないと、GDPさえ伸びれば幸せな社会が実現できるかの誤解はいつまで経ってもなかなか解きえないのではないかと思えます。

この問題は、いつか整理しなければと思っていたので、うまくまとめられるかどうかわかりませんが、以下このテーマに今回は挑戦してみることにします。

生命をも犠牲にして発展する経済活動の諸問題については、他の場でもいろいろ指摘され続けていますので、ここではそれとは違った角度から考えてみることにします。

 

 

そもそも人の一生のうちで、経済的収入を得るための仕事をしている時間の占める割合は、想像以上に少ないものです。成人するまでの20年、定年後の20年を除けば、人生80年と言われるうちの半分程度しか使っていません。

 

【図① 〔年単位〕 人生80年と見た場合の労働期間】 

                            * OECD基準での現役世代は、15-64歳

それどころか、年間労働日からすれば二百数十日、およそ1年の6割くらいなわけですから、生涯の総日数からみれば30%程度の労働日数となります。

 

【図② 〔日単位〕 人の一生の労働日の比率】

 

さらに、8時間労働に換算すれば、1日24時間のうちの3分の1しか仕事には使っていません。

 

【図③ 〔時間単位〕 一日24時間の構成比】

 

 

 この時点で、生涯就業時間は、その時代の社会の総時間からすれば、
単純に人生の10%程度の時間で担われていることになります。

この数字が信じられますか?

 

【図④ 〔時間単位〕 人の一生の生涯労働時間比率】

 

 

深刻な高齢化社会が加速する時代を象徴することとして、よく以下の事例が引き合いに出されます。

「1950年時点では、12.1人の生産年齢人口で1.0人の高齢者を支えていたのが、2016年時点では2.2人。

さらに2065年の予想人口比率では、おおよそ4人で3人を支える計算になるといいます。」

 

しかしこれも、頭数割りではなく、一生の総時間で割れば、全く違う風景に見えてくるはずです。

 

 そして、現役世代の就業率は、専業主婦の割合がさらに低下し続ける傾向にありますが、およそ70%程度です。

専業主婦の比率が大雑把に女性の半分。(1995年頃に逆転して専業主婦の比率は下がってますが、8時間労働に満たないパート労働が多いので仮に8時間労働換算ではトータル半分と見させていただきます)

「なぜ、こんなに多いのか?「専業主婦世帯数」720万!  http://president.jp/articles/-/18338

 

現実にこの世に生を受けた総時間の中で、働いている時間などというのは、転職・失業・病気・増え続ける非正規型労働などの条件も加味し、労働力人口の実質でみたら、社会全体の中で負担されている総労働時間の比率は、おそらく実態は7%にも満たないのではないでしょうか。

 

【図⑤ 〔時間単位〕 人の一生の生涯「労働」時間の実質推定比率】

 

 

 

生産活動以外の時間は、睡眠・休養や余暇の時間としてみることが一般化していますが、こうした図式でみると、それは余暇や自由時間であるどころか、むしろ仕事よりもこちらの方こそが生命活動の中心部分であることに気づけると思います。

間違いなく経済活動の方が、生命活動全体からみれば極めて限定的で特殊な活動領域であるわけです。

収入の多い人びとであれ、あるいは収入が少ない圧倒的多数の人びとであれ、仕事があってこそ、またより多く働いてこそ豊かな生活が保障されるかに思われがちですが、人生の90%以上を占めるこの仕事以外の時間の意味は何なのでしょうか。

 

こんな図式が見えてきたにもかかわらず、他方、日本では「過労死」するほどの長時間労働の実態があります。

実際、今なお週60時間以上労働する就労者が1割近く存在するといわれます。同時に、非正規型雇用の比率はどんどん増え、短時間労働の雇用形態も増すばかりです。

今なお経済成長のためには雇用の流動化を一層増すことなどが堂々と叫ばれていますが、実態は、圧倒的多数の労働者が、「働き方を選べない」環境下にあることこそが問題であると思います。

「働きすぎて死ぬのではありません。
働かされすぎて死んだり、辛くなって自殺したりするのです。」
                 (五味太郎) 

この意味で大事なのは、労働時間の短縮が国際水準から見て日本が深刻な出遅れ状態であることは間違いありませんが、問題の核心はむしろ「時間」よりも「働き方」の方にこそあるといえます。

しかし、今の私の周りには、こんな言葉を投げかけても聞く余裕もなく、1日1日を必死に働き、しかも私などよりもはるかに社会的責任を立派に果たして頑張っている人々がたくさんいます。

とりわけ日本の子育て世代やシングルマザーなどは、国際比較を見ても異常な環境下で多くの人が頑張っています。

それだけに、その先に目指すものが、より多く消費する社会や所得を上げることでしか解決できない暮らしの構造からの脱却を真剣に考えていかなければならないものと考えます。

現代人の生涯支出のうち生存のために最低限必要な食費を除いたならば圧倒的部分は、教育、医療、住宅、車などによって占められています。

右肩下がりの成熟社会では、この部分を圧縮することの方が所得を上げることよりも、はるかに豊かさを保証することにつながります。

そもそも子どもの幸せのためと言いながら、今いる子どもと一緒に食事をする時間や遊ぶ時間を犠牲にして何になるのでしょうか。

  

  

五味太郎 『大人問題』 講談社文庫 (品切れ2017年時点)

 

それにしても働くということが、人生の10%にも満たない時間の使い方であるにもかかわらず、現代人の暮らしは残りの90%までが、何故これほどまで仕事に従属してしまうのでしょうか。

 

武井壮は、「8時間働いたって16時間余ってんだから」と言ってました。

残念ながら、多くの人にとってそれらの時間は、自分の時間としてではなくテレビやネットなどの他人の世界の消費時間として消えていってしまっています。

私たちの仕事以外の時間は、単に「余暇」や「休息」、あるいは単なる「趣味」や「消費」の時間としてではなく、生命活動の本源的営みの時間として、もっと見直す必要があると思います。

仕事で、大きな仕事と小さな仕事を区別してしまう人は、得てして「運」から見離されてしまうものですが、生命の本源的営みの領域である炊事、食事、洗濯、掃除、子育て、介護、さらには睡眠などこそ、様々なボランティア活動などとともに、大きい小さい、大事かどうかを問わず、一つひとつがかけ替えのない生命活動の重要な要素なのです。

どれもが決して「片付ける」「消化する」「はぶくべき」時間ではなく、それらが「自発的なもの」でさえあれば、どれもが美しく、輝きあふれ、楽しいものにできる時間であるはずです。

まさにこれこそが生命の創造と再生産の核心部分です。

わたし達が仕事以外の日常生活の領域で、どれほど豊かな創造的な生命の営み時間を持っているか、ということです。

 

今までわたしたちは何をもって生産的労働と非生産的労働を区別していたのでしょうか。

何をもって営利活動と非営利活動を区別していたのでしょうか。

単純にお金につながらない生命の営みのなかにこそ、大事な仕事はたくさんあり、また経済活動全体も、そうした土台の上にこそなりたっているのだということを、改めて考え直さなければなりません。

そもそも、人間や自然界で最も生産的な活動とは、子供を産んで育てることです。

日常生活のすべてをお金で手に入れなければならない都会生活を行っている人々には、なかなか想像しがたいことかもしれませんが、経済活動よりも、命の再生産の営みこそが、社会の根源として位置付けられなければならないものと考えます。

さあ定年後をどう生きようか、などといった次元の話ではないのです。

 

 

 

こうした気づきを通じてこそ、逆に何のために働くのか、仕事を通じて実現していく価値がどこにあるのかも見えてくるのではないかと思います。

経済を目的にすると、人が手段になる。

と言います。

このように子供を産み育てるということを軸とした生命活動を中心に考えれば、経済活動は、生命活動全体のほんの一側面にすぎないのだと思います。 

 

 

私のホームページタイトル http://www.hosinopro.com には、
「働き方」が変わる、「学び方」が変わる、「暮らし」が変わる、「地域」が変わる。

と書いていますが、誰かに「させられ」コントロールの及ばない「働き方」ではなく、自らがそれを選び創れる社会

誰かに「与えられ」る「学び方」ではなく、自らそれを発見し創れる社会

忙しさに追われて消化するだけの「日常の暮らし」ではなく、自らそれを組み立てて創れる社会

そんな豊かな社会が今始まり出しており、またそれを多くの人が手に入れられる時代になり出しているのではないのではないかと、感じています。

 

 

 

私たちは、これら多くの課題解決の糸口は、

夜の時間の過ごし方のなかにこそあると考え、

経済活動より生命活動に信をおいた暮らしを月夜野の地から

「月夜野百景」https://www.tsukiyono100.com/の活動などを通じて

表現していけたらと思っています。

 

 

過去の関連ページ 

「生産の基礎単位としての家族(再録)」
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/62cc2ebc0943a89a2feefa7b6d2a48bd

 「ガムシャラ貧乏よりも、お気楽貧乏がつくる幸せ社会」
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/516550e83f7e13656fa6f5802d3c19c6 

 「一生を棒にふってでもやる価値のあること」
https://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/cca382fe15b1274ccb672df495f8e5a1 

 

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ガムシャラ貧乏より、お気楽貧乏がつくる幸せ社会

2017年09月21日 | 無償の労働、贈与とお金

政策として、国民の所得が上がることは確かに大事なことです。

でも現実に多くの人々が幸せになるうえで大事なのは、すぐに所得が増えなくても、
今、この瞬間、瞬間、多くの人々が幸せを感じられるかどうかです。

何故ならば、いつの時代でも世界の圧倒的部分の人たち、9割以上は常に貧乏であるからです。

そのためには、ただひたすらガムシャラに働くことで得られる幸せよりも、
今ある条件のなかで幸せを感じられること、お気楽に生きていける暮らしの方が、
はるかに大事であると思います。

 

この意味で、わたし達が本来目指す社会は、よりお金のかからない社会です。

より多く消費することで得られる幸せよりも、

自らがより多く創造する側に立てる社会ということです。

 

それは固定費が低い暮らしの実現であると同時に、モノに依存しない暮らしのことです。

現代人の生涯支出のうち生存のために最低限必要な食費を除いたならば圧倒的部分は、教育、医療、住宅、車などによって占められています。

右肩下がりの成熟社会では、この部分を圧縮することの方が所得を上げることよりも、はるかに豊かさを保証することにつながります。

そもそも子どもの幸せのためと言いながら、お金を稼ぐために今いる子どもと一緒に食事をする時間や遊ぶ時間までを犠牲にして何になるのでしょうか。

そんな社会の手がかりを永崎裕麻著『世界でいちばん幸せな国フィジーの世界でいちばん非常識な幸福論』(いろは出版)は教えてくれます

 
 
最低限のお金がなくて、どうやって幸せになれるんだ。
 
健康不安や人間関係の悩みをかかえて、どうして幸せになれるんだ。
 
誰もがそう思うでしょうが、
 
ハイ。それでもカンタンに幸せになれます。
 
よ〜く考えると、本当に大切なことにお金はかからないものです。
 
 
 
関連ページ
 「貧乏神が神様であることの意味」
 
 「経済活動より生命活動に信をおく社会へ」
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