さて、そのお達しとは、
- これから1時間
- 校内を歩く
- すれ違う人の誰にも挨拶をする
- 必ず何らかの言葉を引き出す
というものだ。舞台に立ってもあがらぬよう度胸をつけるといった目的から発案されたように思える。しかし、それは女性の発想だ。まだ、青臭くて、ほとんど中坊丸出しのぼくはたった2人目でビビラされた。会話を引き出すどころか、上級生から、
「うるせー、何やお前、なめとんか」
「アッチ行け」
「はったおすぞぉ」
もし、町なかで、見知らぬ人から気安く声をかけられたらどう反応する? ぼくには度胸試しどころではなく、まさに命がけのように思えたのだが、練習法としては実に効果的であった。が、それは後になっての話だ。人見知りする性質(たち)のぼくには、現在、かなりの部分活かされているようだ。
なるべく人に遭わない場所を行ったり来たり、それでも時間はちっとも経過しない。そこで、古ぼけ具合に年季が入り、迷路のような薄暗がりの校舎を選んで進んだ。そこには剣道場があった。
5、6人の新入部員が道場前の廊下で正座させられていた。正座も大切なお稽古なのだ。隣のクラスの I が居た。命令ではなく素朴な好奇心から、
「なっとしたん(どんな不始末をしてお仕置きを受けたんな…の意)?」
たぶん口を開くのは厳禁だったのだろう、鬱陶しげに視線だけをぼくに投げ、元の姿勢を崩そうとしない。言いつけを思い出したぼくは必死で語りかけた。かれは頑なに沈黙を守ろうとする。後に銀行マンとして活躍する男だ、その頃から性根は座っていた。彼から見たらぼくは無邪気ではた迷惑なガキに映ったことだろう。それでも執拗なぼくの攻撃に根負けしたものと見える。
冷静な男が唇をうっすら片方だけ歪めた。しかも極力動かのを惜しむかのように。そして、照れくさそうに目を細めながら、とうとう呟いた。
「アッチ・へ・イ・ケ…」
大学生の頃は彼の自宅でしばしば麻雀に興じたが、形勢不利になるや決まってぼくはこの話を持ち出した。その度に、飲みかけのビールを噴出したり、煙草に咽たりしたものだ。
その彼が逝って、2度目の盆を迎える。今日は機会があり、仏壇に線香を供えることができた。位牌の前に馴染み深い銀行の名札を見つけた。
「ひろのぶぅー、オレ、転勤やてぇ、どこや思う? 新宮やさぁ」
あの日の記憶がまざまざと甦る。中上健次の「枯木灘」とその世界を語り合える文学青年でもあった。