お盆を控えて、仏様を迎える用意をした。こんな時期なので、神がいるかどうかを”単純化して”考えてみた。
神はいるかと問われると、答えるにはなんとも悩ましい。信じる者にはいるし、信じない者にはいない。
そこで、こんな風に考えてみた。
前にブログで取り上げた『シンドバットの七つの遺産』を引用する。
まず、
七つの海を制覇したシンドバットは、世界中で集めた財宝を七つの蔵に納めた。
シンドバットは三人のこどもに遺産相続の方法を、次のように遺言した。
長男に総ての蔵の半分を相続し、次男にはその残りの半分を、そして三男にはその残りの半分を相続させるというものだった。ただし、蔵を切り分けることは禁止します。
は、はじめに空の蔵を1つ造らせ、八つにします。
まず、長男にこの八つの蔵の半分を与えます。
次は、次男に残りの四つの蔵の半分を与えます。
三男に残りの二つの蔵の半分を与えます。
残っている空の蔵を、がもらい受けました。
このように七つの蔵を遺言通り見事に裁いたのでした。
存在しないものが、あたかもあるかのような存在感を示します。
神とは、このではあるまいか。
存在しないは、ないよりはあった方が、双方 真に上手に治まる。
神は、信ずる者同士の柱になり、指針になる。
例えば、キリスト教は「信じる者は幸いなり」と教える。
したがって、神は存在するかと問われると、
『神は存在します』と答えたい。
頓智問答のようではありますネ。
きっと、反論が現われることでしょう・・・。
ここでは、国際性は無視します。
なにしろ異なる神があるので悩ましい。お互い、譲り合わなければ紛争になる。
宗教でいかに多くの血を流したことだろうか。
存在
─── = 無
無限
無限を基盤にした存在は有り得ない。
無限の存在など無い。
我
─── = 空
神
神を基盤にした我など空しい。
我は神なりとすることは空しい。
自然
─── = 無
神
「 神が無から天地を創造した可能性 」
神はいるかと問われると、答えるにはなんとも悩ましい。信じる者にはいるし、信じない者にはいない。
そこで、こんな風に考えてみた。
前にブログで取り上げた『シンドバットの七つの遺産』を引用する。
まず、
七つの海を制覇したシンドバットは、世界中で集めた財宝を七つの蔵に納めた。
シンドバットは三人のこどもに遺産相続の方法を、次のように遺言した。
長男に総ての蔵の半分を相続し、次男にはその残りの半分を、そして三男にはその残りの半分を相続させるというものだった。ただし、蔵を切り分けることは禁止します。
は、はじめに空の蔵を1つ造らせ、八つにします。
まず、長男にこの八つの蔵の半分を与えます。
次は、次男に残りの四つの蔵の半分を与えます。
三男に残りの二つの蔵の半分を与えます。
残っている空の蔵を、がもらい受けました。
このように七つの蔵を遺言通り見事に裁いたのでした。
存在しないものが、あたかもあるかのような存在感を示します。
神とは、このではあるまいか。
存在しないは、ないよりはあった方が、双方 真に上手に治まる。
神は、信ずる者同士の柱になり、指針になる。
例えば、キリスト教は「信じる者は幸いなり」と教える。
したがって、神は存在するかと問われると、
『神は存在します』と答えたい。
頓智問答のようではありますネ。
きっと、反論が現われることでしょう・・・。
ここでは、国際性は無視します。
なにしろ異なる神があるので悩ましい。お互い、譲り合わなければ紛争になる。
宗教でいかに多くの血を流したことだろうか。
存在
─── = 無
無限
無限を基盤にした存在は有り得ない。
無限の存在など無い。
我
─── = 空
神
神を基盤にした我など空しい。
我は神なりとすることは空しい。
自然
─── = 無
神
「 神が無から天地を創造した可能性 」
「神」の存在・・・。これは、ホント人それぞれに考え方が違ってて、難しい問題ですよね
救ってくれるのも地獄に突き落としてくれるものも神様、って私は思っているかもしれません。
この話、私が小さい頃聞いたときは、親からもらった7頭の牛バージョンでした(^-^;
己の信じた道で本懐を遂げられるならば救われる、と言うよりも『満足して』死ねる。
こう言う事を神は言いたいのではないでしょうか?
なんの目的もなくダラダラ生きていても意味が無い。生きている以上は生きる意味がある。
だから神は一つではなく生きる人間の分だけ存在していると思っています。
こんばんは。青い鳥はつかまらぬものです。
謎を解明したとき、新たな謎が生まれるものです。
解明され尽くされることはないでしょうが、
いろいろな事象がだんだん解明されてもいます。
しかし、
ひとの精神性を解明することは不可能と思えます。
(blue)さん へ
お盆で仏壇に向かい南無阿弥陀仏と唱え、
神棚に家内安全を願い、神について考えました。
日本では八百万の神が住むことによって、我々も
実に住み良い世界に住んでいるように思えます。
好い加減といえばどの神をも信じてしまうので
いさかいごともトコトンまで行かないのに救われます。
一方、一神教を信じる世界では相手を許さないため
紛争になるのでしょうね。
>7頭の牛バージョンでした(^-^;
え゛ぇ~?
もっともシンドバットは物語上の想像の人物でしょうから、
牛バージョンを採用したのかも知れませんね。
(修一狼)さん へ
神は存在するのか?
を考えることは、神を冒涜するものと教える神も
あることでしょうね。
神はあるべきものであり、ひたすら崇め拝むために
存在するという教えもあることでしょう。
日本の神は、八百万の神というおおらかな神に守られた
われわれは幸せといえます。
それこそ世界に数多(あまた)な神を凝縮して一国に
もっているともみなせます。
ひとつの神と決めつけないで認め合えば紛争はなくなると思えますね。
多拿花さん へ
数で独りなのは、個々の数ではあるものの
代表の数は、やはり①。
1に1を加えても1に確執したがる1
はい、
1+1=1
はて、へんてこな数独を証明しますヨ。
百美子さん へ
会うのは縁ですね。
縁が薄いと遠ざかり、
そして別れていきます。
ひとりで生まれて、
ひとりで死んで逝く。
おっ きょうは哲学的なiina。
ひろちゃん へ
見事な入道雲!
iina宅もきょうお盆供養しました。
お坊さんも忙しく早目のご出馬でした。
小倉生まれのiinaのお坊様さまは、関東以東とは
別らしく関東別院からお坊様が派遣されてお参りに
来てくれるのです。
お浄土までカーナビを使えると道中を迷わずに済むのですが・・・。
frauyamadaさん へ
爽快なジェット機を使った水上スキーは、相当な"腕"
ちがった"足腰"が必要ですヨ。
死を賭けているので、絶対に失敗してはいけません。
お盆なので笑撃画像は、10日間隔より早めてみようかな!
映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」は面白そうですね。
でかけてみよう・・・。
kayokoさん へ
駅前ブログなんて優れものがあるのですね。
それぞれの駅ごとに、担当者をきめて情報提供しているのでしょうか。
なかなかユニークな専門ブログ !
こんごともよろしくお願いします。
赤いとか熱い悲しいとか感じている存在が私です。では、赤いとか熱いとかは物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。では、音はどうでしょうか。心の外の世界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている音はありません。味はどうでしょう。同様に味もありません。臭いはどうでしょうか。臭い感覚は外の世界にはありません。硬い柔らかいと言う事は、在るでしょうか。それもありません。次々に心が作り出している感じを捨てて行きます。最後に残るのは、この範囲にあるものが存在している、そして時間が経過しここに移動したと言う、時と空間の直感だけです。
しかし、貴方が感じている時空間も、決して心の外にある時空間を、直接感じている訳ではありません。心が作り出した時空間を、感じているのです。仏教では色即是空と言います。貴方が見ているものは、心が作り出したもので、決して心の外にある存在ではありません。心が作り出したものは、消えたりもします。現れたり消えたりするので、是と言った実態はありません。つまり、有でも無でも無く空なのです。物質は無から有は生じません。有か無かのどちらかです。耳から聞こえる音も、鼻から匂う匂いも、舌の味も、肌から受ける触感も5感は全て空であると言っています。概念や意思も空なる存在です。ですから、赤いとか熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。
この世の中には、物質でないものも存在しています。もし物質だけであったら、どうでしょう。ロボットは物質だけで出来ています。科学が発達し高性能なロボットが出来たら、人間と同じ反応をするでしょう。世間話をして冗談を言うでしょう。やかんに触れると熱いと言うでしょう。しかし、私たちが感じている熱さを、感じている訳ではありません。何かを感じていると言う事は、人間は物質だけから出来ているのでは無いことを証明しています。
心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。
花瓶を見たとします。眼が光の刺激を受けて、神経の中を信号が流れ、脳に到達します。脳がその信号を受けて、脳の中の物質の一部が花瓶に対応する動きをします。私は、その花瓶に対応する物質の動きを感じて、花瓶を感じるのです。カメラが光の刺激を受けて、ケーブル及び電波で信号が流れ、テレビに到達し、その信号をテレビが受けて絵や音を作りだし、それを私が見ているのと同じです。
テレビを見ているのが自分です。決して、テレビが自分なのではありません。では、脳と言う物質が私なのでしょうか。花瓶を感じているのが、自分なのです。脳と言う物質そのものが、花瓶を感じているのでしょうか。もしそうなら、そこらに転がっている石も何かを感じているはすです。本当に陽子と中性子の周りを電子が回っている存在が、何かを感じているのでしょうか。熱いとか悲しいと言う感覚は、決して物質ではなく、精神的な存在です。その様な精神的なものを感じている私は、物質ではなく精神的な存在なのです。決して、石や木が何かを感じている訳ではないのです。
テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。もし見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。同様にもし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。
仏教ではこの事を、不生不滅・不増不減・不清不穢と言っています。私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。清くなるものでも、穢れるものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。
死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。私自身は、死んだ後も何ら変わらずに存在しています。ただ、信号を送る脳が無くなったので、何も感じていないだけです。そして、新しい脳が信号を送り出したとき、私は又前と同じ様に感じるでしょう。ただし、人間の脳とは限りませんが。
私が感じている感じは感じ取る事が出来ます。しかし、それを感じている私自身を感じる事ができるでしょうか。達磨はインドから中国に来て、皇帝に「お前は誰か。」と尋ねられました。すると「そんな事は、私は知らない。」と答えました。私自信はどの様にしても感じ取ることは出来ません。
心の中の世界そのものが、私の一部なのです。心の中の世界に居る一人の私が、私なのではありません。仏教では、その1人を小さい私と呼びます。心の中の世界に居る敵も、私の一部なのです。ですから、キリストは汝の敵を愛せよと言ったのです。
人間より遥かに高性能な脳が私に刺激を送る様になれば、もっと豊かな世界が心の中に広がるでしょう。そう言う意味で、現在私が感じている世界は私の一部にしか過ぎないのです。限界はありません。脳と言う物質がどんどん進化して全知全能な物質になり、私に信号を与え出したら、私は全知全能になるはずです。仏教では、仏に成るのではない貴方が仏なのだと言っています。貴方は、自分の存在を疑えますか。デカルトは、全ての事を疑って見ました。しかし、考えている自分の存在だけは疑えないと言いました。
このように難しく長文で解説されると、catbirdさんが思ったように、あるいは
そうであるかも知れないと思ったりもします。
デカルトが「われ思う 故に われあり」といった哲学を利用し、達磨が禅問答
したり、仏教やキリスト教も引き合いに使い、六感と五臓六腑の違いにも言及
します。それぞれが尤もらしくありますが、逐一考えると矛盾もありそうです。
あまりに大きなテーマをブログの狭いコメント欄で理解するのは難しいことなの
かも知れないと思いいたります。
いずれにせよ、catbirdさんの投稿をありがとうございました。 m(__)m
神はいるのかいないのか、長文に対するiina様の対応も素晴らしいです。
結局「神」というものでさえ、私達の認識を越えるものではありませんから、言葉をどれだけつないでも同じこと、言い表せないということなのでしょうね。
それゆえ、シンドバットの倉庫の話しは心に沁みます。神はこのようにして各自の心の中で味わうしかないものなのでしょうね。
iina様とじかにお話ししたいなんて思いも感じておりま^す^
記事紹介ありがとうございました。
ふぅ~む、よく分かりませんが、のしてんてんさんはそのように思ったのですね。
> 自我を見つめているもの、それこそ真実であり、宇宙の1なる存在としてある、(空間=意識=神)と言えるのではないでしょうか。
これも、iinaには難しすぎて、よく分かりません。
「神は存在するか❔」の末尾に、WEBでひろった算式を載せています。次の通りです。こちらも分かった気にさせますが、結局はよく分かりません。
我
─── = 空
神
神を基盤にした我など空しい。
我は神なりとすることは空しい。
自然
─── = 無
神
(のしてんてん)さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上のURLに置きました。
とても真摯な気持ちが伝わってきて嬉しいです。
「たまごを立てるということは、キャンバスを切ることと同じだったのです。」
はっきり言って、この飛躍を分かるはずはありませんよ^ね^
でも芸術家は発信し続ける。これが性というものなのでしょうか。もしこれがiina
様を悩ましているのなら申し訳ないことです。
紹介して頂いた数式は私にも分かりません。iina様が私の表現を分からないという同じ体験をしているのだと、ちょっと笑ってしまいまし^た^
「分からない」でいいのではないでしょうか。分からないもので覆われている私達人間ですから、結局最後に自分が納得できる何かに出逢えるのではないかと、私などは悠長に構えておりま^す^