
第一部に新藤兼人監督の反核映画『第五福竜丸』(1959)を上映し、第二部は、新藤氏の息子であり、プロデューサーの立場で支える新藤次郎氏が新藤監督映画の世界観について話すオープン講座。
新藤兼人氏(1912-)は、日本の現役最高齢の映画監督で、ことしに人生最後の作品とした『一枚のハガキ』が第23回東京国際映画祭審査員特別賞を受賞し、話題になった。
「氏が広島に生まれたことで、映画において積極的に反核の問題を取り上げてきた。
1951年『愛妻物語』で監督デビュー。以降、『原爆の子』、『第五福竜丸』など創作活動を開始。60年、全編セリフを排した『裸の島』がモスクワ国際映画祭のグランプリに輝く。
改めて日本における原子力問題についての再考を求められている現在、新藤氏の足跡を辿り、氏のメッセージを再認識することの意義は非常に大きいと思われる。」ということだったが、講演では独立プロの苦労話というスタイルだった。
『第五福竜丸』の映画は、ドキュメンタリー・タッチで感情移入を排除したのが功を奏し、いまも色あせずに評価が高いという。
氏の映画は、昨年にBSで放送された『裸の島』を観ていたが、破産直前まで追い込まれており、最後に撮ることになるのだからと撮りたい映画を創ったら評価され、独立プロとして息を吹き返し生き残ったのだそうだ。

映画の途中で気分が悪くなった人がでて中断。運び出される様子がこの写真だが、1人のために救急隊員が10人ほども来たのには驚かされた。
15分ほどで再開されたが、無事だったとのこと。この日はとても暑く上着を脱いで聴いていたので年寄りには辛かったようだ。
追
『裸の島』のロケをしたのが、広島県三原市にある宿彌島。
其処に、7日のNHK「鶴瓶の家族で乾杯」で向かうかも知れない展開になった。次週14日に期待してみよう。
新藤 次郎 氏
株式会社近代映画協会代表取締役社長・協同組合日本映画製作者協会代表理事
1949年生まれ、神奈川県出身。1971年日本大学芸術学部写真学科卒業。在学中より新藤兼人作品中心に独立プロのスチールを担当。1979年から三船プロダクションにて「大江戸捜査網」(テレビ東京)のプロデューサーを担当。1986年「ブラックボード」から近代映画協会にてプロデューサー、現在に至る。


新藤兼人氏(1912-)は、日本の現役最高齢の映画監督で、ことしに人生最後の作品とした『一枚のハガキ』が第23回東京国際映画祭審査員特別賞を受賞し、話題になった。
「氏が広島に生まれたことで、映画において積極的に反核の問題を取り上げてきた。
1951年『愛妻物語』で監督デビュー。以降、『原爆の子』、『第五福竜丸』など創作活動を開始。60年、全編セリフを排した『裸の島』がモスクワ国際映画祭のグランプリに輝く。
改めて日本における原子力問題についての再考を求められている現在、新藤氏の足跡を辿り、氏のメッセージを再認識することの意義は非常に大きいと思われる。」ということだったが、講演では独立プロの苦労話というスタイルだった。
『第五福竜丸』の映画は、ドキュメンタリー・タッチで感情移入を排除したのが功を奏し、いまも色あせずに評価が高いという。
氏の映画は、昨年にBSで放送された『裸の島』を観ていたが、破産直前まで追い込まれており、最後に撮ることになるのだからと撮りたい映画を創ったら評価され、独立プロとして息を吹き返し生き残ったのだそうだ。

映画の途中で気分が悪くなった人がでて中断。運び出される様子がこの写真だが、1人のために救急隊員が10人ほども来たのには驚かされた。
15分ほどで再開されたが、無事だったとのこと。この日はとても暑く上着を脱いで聴いていたので年寄りには辛かったようだ。
追
『裸の島』のロケをしたのが、広島県三原市にある宿彌島。
其処に、7日のNHK「鶴瓶の家族で乾杯」で向かうかも知れない展開になった。次週14日に期待してみよう。
新藤 次郎 氏
株式会社近代映画協会代表取締役社長・協同組合日本映画製作者協会代表理事
1949年生まれ、神奈川県出身。1971年日本大学芸術学部写真学科卒業。在学中より新藤兼人作品中心に独立プロのスチールを担当。1979年から三船プロダクションにて「大江戸捜査網」(テレビ東京)のプロデューサーを担当。1986年「ブラックボード」から近代映画協会にてプロデューサー、現在に至る。



映画が中断なんて
凄い経験ですね。。。
ある意味一生忘れられない映画ですね・・・
いずれにしても常に反核を訴える人は必要ですね。
特にスクリーンを通じての訴えは全世界に伝わり、後世に残ります。
私は監督も好きですが奥さんの音羽信子さんの演技が好きでした。
壇上で、車椅子に座っていいたいことがたくさんありそうなたたずまいでした。とても、100歳と思えなかったです。
男臭さ丸出しのチャールズ・ブロンソンの化粧品CMでは、バックの曲も流行りました。
「狼よさらば」を観ましたが、1974年の映画だったのですね。
むかしの映画館では、たまにフィルムが飛んだりスクリーンが乱れることもありました。
観客のトラブルでの中断はははじめてでした。
(らいちゃん) へ
スイートピー(sweet pea)が、和名ではジャコウレンリソウ(麝香連理草)とは難しい名になるのですね。
こんな名だと、軽やかな「赤いスイートピー」を連想しづらいです。
スイートピーはエンドウ豆のことでしたか。おとといの夜にエンドウ豆ご飯でした。
『愛妻物語』の音羽信子さんとは、五社協定を破るまでした縁で、晩年に新藤兼人監督と結婚します。
人のエンドウ豆ならぬ縁ですね。
(岩殿山荘主人) さん へ
駅前の彫刻通りでのショットは、裸女を後ろから撮るなんて斬新ですね。
新藤兼人監督がセリフなしで撮った「裸の島」には、殿山泰司が出ています。偶然、岩殿山荘主人さん
に殿山の名が隠れていて、奇縁でした。新藤組には、殿山泰司と乙羽信子がたくさん出演します。
(ムツゴロウ) さん へ
iinaもムツゴロウさんと同じ程度にしか、新藤監督を知らなかったので、監督の知識を深めました。
講演会は、知識の幅を広げる機会でもあり、また明日出かけてきます。
(ぼたん) さん へ
ボサノバの帝王セルジオ・メンデス ブラジル66のライブとは、いい席で見れてうらやましい。
ライブには、3年前にジャズを聴いて以来、ご無沙汰してます。
つぎのライブは、10日に落語を聴いてきます。おなじライブながら、だいぶイメージが異なります。
イメージがわきます。
戦争に生き残った者が、伝える義務があるという意識で創作した監督自身のことを映画にしたと、説明
がありました。
多才なシナリオ・ライターでもある監督が描いた映画を観てみたくなりました。