岡城
2017年10月30日 | 旅
大手門への登り坂
カマボコ石
城跡はかなり広かった。
山奥の岩盤台地に築かれていて自然の要塞になっていた。石垣が切り立ち、いまでも姿はキリリとしていた。それでいて、登りに沿った石垣の上部を丸くして手すりみたいな半円柱状の石(カマボコ石)に整えていた。
城の形が牛の寝ている姿に似ていたことから別名が「臥牛城(がぎゅうじょう)」。
岡城は、文治元年(1185)緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるため築城したと伝える。
惟栄は、いきさつがあって流されたことにより城は見ず仕舞い。
建武のころ豊後守護大友一族の志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦った。
天正14年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城を襲うも志賀親次は城を守ったと豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄2年(1593)大友氏の領地没収と同時に志賀氏も城を追われた。
文禄3年(1594)、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が入城すると近世城郭の整備・城下の町割りなどを行ない幕末まで治めた。
趣味人であった五代藩主 中川久通は、城の北側にある絶壁に弦長約3mの三日月を彫らせ、月のない夜も明かりを灯し、月見の宴を楽しんだ。
三の丸址
三の丸址 武具庫跡
瀧廉太郎は少年時代を此の地 竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1900)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表した。
二の丸址の滝廉太郎像
「空から日本を見てみよう」本丸跡の上空から撮影。
緒方三郎惟栄舘跡 (豊後大野市緒方町上自在340)
緒方三郎惟栄は、岡城を築城した人物。
祖母(姥)岳大明神を祖と仰ぎ、大蛇の末裔という伝説をもつ大神(おおが)惟基の子孫。
原尻の滝に近いこの地は、三郎惟栄の館跡とされる。
寿永2年(1183年)平重盛没後大宰府に逃れた平氏を、源頼朝の命により攻めて追い出し、この後平氏は壇ノ浦合戦に敗れ滅亡した。
この功績により、惟栄は鎌倉幕府体制下では有力な御家人となり、おそらく豊後の守護職に任じられたはずであった。ところが、元暦元年(1184)惟栄は、宇佐宮を焼き討ちする大罪を犯した。
神罰を畏れ、緒方惟栄等を流罪に処し領地も没収した。
しかし、翌年に平氏討伐の功によって許された。
源頼朝と源義経が不仲となり、義経は九州へ退くこととなり、惟栄は義経を迎えに大物浦に出向くが、大風により船団は壊滅、義経と惟栄は捕えられ、惟栄は上野国沼田荘に配流された。
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カマボコ石
城跡はかなり広かった。
山奥の岩盤台地に築かれていて自然の要塞になっていた。石垣が切り立ち、いまでも姿はキリリとしていた。それでいて、登りに沿った石垣の上部を丸くして手すりみたいな半円柱状の石(カマボコ石)に整えていた。
城の形が牛の寝ている姿に似ていたことから別名が「臥牛城(がぎゅうじょう)」。
岡城は、文治元年(1185)緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるため築城したと伝える。
惟栄は、いきさつがあって流されたことにより城は見ず仕舞い。
建武のころ豊後守護大友一族の志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦った。
天正14年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城を襲うも志賀親次は城を守ったと豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄2年(1593)大友氏の領地没収と同時に志賀氏も城を追われた。
文禄3年(1594)、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が入城すると近世城郭の整備・城下の町割りなどを行ない幕末まで治めた。
趣味人であった五代藩主 中川久通は、城の北側にある絶壁に弦長約3mの三日月を彫らせ、月のない夜も明かりを灯し、月見の宴を楽しんだ。
三の丸址
三の丸址 武具庫跡
瀧廉太郎は少年時代を此の地 竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1900)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表した。
二の丸址の滝廉太郎像
「空から日本を見てみよう」本丸跡の上空から撮影。
緒方三郎惟栄舘跡 (豊後大野市緒方町上自在340)
緒方三郎惟栄は、岡城を築城した人物。
祖母(姥)岳大明神を祖と仰ぎ、大蛇の末裔という伝説をもつ大神(おおが)惟基の子孫。
原尻の滝に近いこの地は、三郎惟栄の館跡とされる。
寿永2年(1183年)平重盛没後大宰府に逃れた平氏を、源頼朝の命により攻めて追い出し、この後平氏は壇ノ浦合戦に敗れ滅亡した。
この功績により、惟栄は鎌倉幕府体制下では有力な御家人となり、おそらく豊後の守護職に任じられたはずであった。ところが、元暦元年(1184)惟栄は、宇佐宮を焼き討ちする大罪を犯した。
神罰を畏れ、緒方惟栄等を流罪に処し領地も没収した。
しかし、翌年に平氏討伐の功によって許された。
源頼朝と源義経が不仲となり、義経は九州へ退くこととなり、惟栄は義経を迎えに大物浦に出向くが、大風により船団は壊滅、義経と惟栄は捕えられ、惟栄は上野国沼田荘に配流された。
自分も 毎年紅葉シーズンに 登っています
登っています・・と言うように
切り立った絶壁の天神山の上に立つ 岡城は
日本一攻めるのが難しい 難攻不落の城 だったそうですね
紅葉も綺麗ですが
先ず石垣の正確に積まれていることに驚きます
コンクリートで出来た石のように 見事なものです
岡城址に来るたびに
「昔の光 今いずこ」そんな感じを受けてしまいます
ガスの岡城址もいいですね
iinaさまの おかげで 新たな魅力発見でした
その城跡は兵庫県朝来市の竹田城を思わせます。
日本のマチュピチュといわれている天空の城、竹田城は標高353メートルの山頂に築かれていますが、岡城も標高が高そうですね。
「荒城の月」のふるさと、雰囲気がありますね。
>日本には、八百万の神がましますから「嘘八百」も清めてくれそうではあります。
全国のおわします八百万の神のお力で、この世から嘘と言う二文字を無くしてほしいものです。
でも嘘が無くなってしまうと、また弊害も出てくるのでしょうね。
嘘も方便が使えなくなります。
三俣山の南峰から振り返ったくじゅう連山の間から、 阿蘇山(根子岳)が雲海に浮かんでいます。
北に目を移せば、由布岳が浮かんで、晴れやかにいい景色です。まことに羨ましい。
これらの景色を空振りしたiina宅のきょうは、岡城を築城しはじめた緒方三郎惟栄を掘り下げました。
案内した義兄が、この人物に詳しくて原尻の滝「道の駅」の案内図に惟栄館跡を見つけたので寄ってみました。
処罰された割りに緒方の名が地名になってますから、あらためて関心を深めたようでした。
宇佐は、USA と大きく化けますが、SUSAにすると須佐之男命になりまする。
明石の「大蔵市場」で、大阪時代に仕事のついでに買物しました。ずいぶんと寂びれていたのですね。
何を買ったか記憶していませんが、そのころ寿司ネタにもなる「しゃこ」の茹で立ての味を大阪で覚えた時代ですから、
市場ではバケツ一杯が500円ほどと安かったです。
天空の城・竹田城のように霧の上に上に浮かぶと岡城も見なおされているみたいですね。
城跡はかなり広くて、瀧廉太郎の荒城の月の歌にピッタリのイメージの立派な石垣が印象的でした。
期待を裏切らない城跡でした。
便が悪いとは、せっかくの世界遺産もすこし難です。
iinaは、今回の九州行きに松下村塾の世界遺産を見学しました。
> 城跡はかなり広くて、瀧廉太郎の荒城の月の歌にピッタリのイメージの立派な石垣が印象的でした。
岡城は、雨がかなり降りましたが、期待を裏切らない城跡でした。
2月の寒い季節でしたか。
当方も荒城の月の城跡を愛でてまいりました。
かなりな雨が本格的に降ってましたが、岡城址の虜になるくらい好かったです。
宇佐神宮も好いですょね。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/a4e10babc702a6159fc2b4e0cf54c49f
(タケホープ)さんのブログアドレスをコメント上に置きました。