古代中国では訴訟の際、原告被告双方が神様の前に「羊」を差し出し、神の裁きを受ける「羊神判」が行わた。
この羊神判の様子を表した字が「善」の元の字「譱」。前回に説明したように、今回も神に捧げる生けにえとしての「羊」の紹介になる。
まずは「正義」「義理」の言葉に使われている「義」。これは「羊」と「我」を合わせた字。
「我」の部分は古代文字が理解しやすい。「羊」の下部に加えられているのは「鋸(のこぎり)」の形。
つまり「羊」を鋸で二つに切って神への犠牲にする字が「義」。何故せっかくの生けにえを切断してしまうのか。それは毛並み、角のほかに内臓も含め、すべて完全な犠牲であることを証明するため。まったく欠陥のない正しい犠牲のことを「義」と言い「ただしい」「よい」の意味となった。
「儀式(ぎしき)」「儀礼」の「儀」は「義」に「人」を加えた字形。
「義」は神に犠牲として供えた羊が完全で「ただしい」ものであること。そんな羊を供えて神につかえる人の礼儀作法にかなったおごそかな姿を「儀」という。
そこから「ようす」「ただしい」の意味になった。
次は「議」。「議」は論じはかること。
「義」が神に捧げた「羊」であるように、もともと「議」は「神にはかる」ことだった。そこから正しい道理を求めて論じはかることになった。
最後は「犠牲」の「犠」。
まず旧字「犧」を見てみる。
「義」の下の「我」に「丂」を加えた「羲」。この「羲」の「丂」の部分は鋸で切断された羊の後ろ脚がぶらぶらと垂れている姿。
犠牲になった羊の姿をリアルに表した字が「羲」で「犠」の元の字形。もう一つ重要な犠牲である「牛」を加えて、「犠(いけにえ)」を表す文字となった。
この羊神判の様子を表した字が「善」の元の字「譱」。前回に説明したように、今回も神に捧げる生けにえとしての「羊」の紹介になる。
まずは「正義」「義理」の言葉に使われている「義」。これは「羊」と「我」を合わせた字。
「我」の部分は古代文字が理解しやすい。「羊」の下部に加えられているのは「鋸(のこぎり)」の形。
つまり「羊」を鋸で二つに切って神への犠牲にする字が「義」。何故せっかくの生けにえを切断してしまうのか。それは毛並み、角のほかに内臓も含め、すべて完全な犠牲であることを証明するため。まったく欠陥のない正しい犠牲のことを「義」と言い「ただしい」「よい」の意味となった。
「儀式(ぎしき)」「儀礼」の「儀」は「義」に「人」を加えた字形。
「義」は神に犠牲として供えた羊が完全で「ただしい」ものであること。そんな羊を供えて神につかえる人の礼儀作法にかなったおごそかな姿を「儀」という。
そこから「ようす」「ただしい」の意味になった。
次は「議」。「議」は論じはかること。
「義」が神に捧げた「羊」であるように、もともと「議」は「神にはかる」ことだった。そこから正しい道理を求めて論じはかることになった。
最後は「犠牲」の「犠」。
まず旧字「犧」を見てみる。
「義」の下の「我」に「丂」を加えた「羲」。この「羲」の「丂」の部分は鋸で切断された羊の後ろ脚がぶらぶらと垂れている姿。
犠牲になった羊の姿をリアルに表した字が「羲」で「犠」の元の字形。もう一つ重要な犠牲である「牛」を加えて、「犠(いけにえ)」を表す文字となった。
解説を伺って
「なるほど」と思いましたが・・
生贄にされた
「羊」が真っ二つにされて 可愛そうです。
ノコギリで二つに切ったから、ギリの「義」ななった可能性もありますねぇ~
いまも、弱い者が犠牲にされる傾向は残っています。残酷ですねぇ~