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日本の神と仏 2

2018年08月22日 | 歴史
平安京が興した大寺は二つしかなかった。南の端の羅城門を挟んで東に東寺、西に西寺を置いた。この場合、「寺」はテラではなく役所と解する方がいい。
奈良時代の官僧たちは、仲間同士でもみあって派閥抗争していた。
僧のほとんどは民の救済など考えておらず、当時はそういう理論体系もなかった。のちの鎌倉仏教のような信仰というものは思想としてないに等しかった。
ところが、新たな首都で興った平安仏教は違っていた。貴族のために加持祈祷はするが俗権に入り込むようなことはしなかった。
新たに山背の地に平安京が営まれたとき、新首都では大寺の造営が禁止された、要するに首都そのものが奈良の大寺を置き捨てて逃げたのである。

日本人が、天地と人間について理論的に考える思考の歴史は、空海と最澄からはじまる。
双方とも、宗祖仏教の開祖になったが、それ以前の奈良朝には宗祖というものがなかった。

ようやく、鎌倉時代に叡山を下りた天才たちによって日本独自の仏教が開花する。
叡山に存在した浄土関係の経典から法然が浄土宗を興し(親鸞は浄土真宗)、法華経関係の経典から日蓮が出た。このような叡山における思想上の生産性の豊かさは、最澄が叡山をドグマの府にしなかったからといえる。

ところが、せっかく日本化された仏教が誕生したのに、禅を除き、それぞれの宗祖たちは最澄を真似ずに空海をまねた、このため思想は再び生産性を失い、ひたすら澱みつづけた。その原因の一つに師承という悪しき伝統にある。師承とは、前説の焼き直しのことであり我流の対語にあたる。

法然は日本の浄土教を確立した。法然は阿弥陀浄土の経典のみをひきぬき、出来の悪い者も成仏できるとした。
彼が大きく描いた輪郭を弟子の親鸞が哲学化した。徹底し出来の悪い者こそ成仏できるとした。人間は本来、出来がよくないという深刻な認識、いわば鎌倉時代ふうのリアリズムに立った。日本仏教は、親鸞によってはじめて教養と教学をもったことになる。
親鸞は「弟子一人ももたずさすらふ」歎異抄として教団を否定したが、その子孫の蓮如が一五世紀、遠祖の親鸞をかついで本願寺という一大教団を興した。  

ザビエルによって日本にはじめてキリスト教がもたらされた。
当時の日本人たちはザビエルの説教を聴いて不思議がった。例えば、神がすべてを創造し、かつ全能で、さらには一切をお見通しであるとすれば、どうして日本人が「発見」されることがかくも遅かったのか。
また、神が絶対の愛であるとするなら、なぜ悪魔をおつくりになったのか。
さらにいうと、彼によってすでに信仰を得た者はやがて天国に行けることを喜んだものの、なお不審だったのは死んだ両親のことだった。死せる両親たちは発見されることが遅かっただけで、つまりザビエルが日本にやってくることに間に合わなかっただけで、なんの罪もないのである。かれらの罪はゼウスを礼拝しなかったからだというのだが。
                                        もどる     ③につづく
   「この国のかたち」司馬遼太郎をピックアップ要約

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2 コメント

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御礼 (慶喜)
2018-08-23 08:00:42
「日本人が、天地と人間考える思考は、空海と最澄か
らで、宗祖仏教の開祖になった。奈良朝には宗祖と
いうものがなかった。最澄が戒壇院に拘った理由が
理解できました。その後日本独自の仏教が開花する。最澄が叡山をドグマの府にした功績成程と思います。
日本仏教は、親鸞により教養と教学をもった」
iina様のブログ引用
有難うございました、勉強になります。
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(慶喜) さん へ (iina)
2018-08-23 09:18:36
キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教は「旧約聖書」を経典にしているのに三教えに分かれたばかりか、いがみ合っています。

奈良朝の僧たちは仏を上、神は下と考え、神々にありがたい経を聞かせて救おうとしたというのも、面白い指摘です。

次は、28日に「武士の発生」についてピックアップします。まだ、編集中ですがこのシリーズは10篇ほどに上りそうです。

   (慶喜)さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上のURLに置いています。

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