第一京浜を渡ると石鳥居の左柱に昇龍、右柱に降龍が迎えられ、53段の階段を上ると境内。正面に入母屋造の拝殿。右手に神楽殿がある。
文治三年(1187)、源頼朝が海上交通安全と祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神を勧請して品川大明神と称したのが起源。江戸湾を見渡せる高台にあるから立地が好い。
文明十年(1478)、太田道灌が素盞鳴尊を勧請し現在の祭神とした。
慶長五年(1600)、徳川家康が関ヶ原の戦いに出陣の折に、戦勝を祈願し太太神楽を奏し、後に神輿、面等奉納。
寛永十四年(1637)将軍徳川家光の命により東海寺鎮守と定められ、建物の修復をすべて幕府によって賄われた。
本殿裏側(南側)に板垣退助の墓があるらしい。
富士塚と浅間神社
第一京浜沿いの品川神社と富士塚
北馬場通りから品川神社を撮る
東海寺は、いまの品川神社に大伽藍を形成していたが、明治6年 新政府に接収され、旧塔頭の玄性院に移転させられた。
寛永15年(1638)、三代将軍徳川家光が但馬国出石の沢庵禅師のために建立した臨済宗大徳寺派寺院。沢庵和尚は「たくあん」の考案者ともいわれている。奥の梵鐘は、元禄5年(1692)に名工、椎名伊代守良寛によって作られた。寺の七不思議も伝わる。
島倉千代子の墓もあるらしい。人生いろいろ、寺の勢いもさまざま。
品川神社と東海寺を、それぞれが説明するところを記すも、品川神社は明治維新まで「牛頭天王社」の名で東海寺の鎮守であり、接取されたりしたりと変遷がみられ、都合の悪い経歴は書かず或いは無視しているため実態が分かり難い。
目黒川を挟んで北品川と南品川に分かれ、北の天王社が品川神社で南の天王社が荏原神社との記述もみられる。
「①品川宿」にもどる 「③荏原神社」につづく
頼朝以来代々の権力者によって庇護され、現在まで大事に守られてきていることがよく分かります。
一方で、本日私が取り上げた岬町の産土神社は、それより古い仁寿2年(852年平安時代初期)文徳天皇の勅願により、比売大神宮(衣通姫命)を勧請したのが始めと言われていますが、村人の手によって守られてきただけであり、比べようもないような寂しい神社でした。
神仏の世界でも地方創生をする必要がありそうです。
社殿は
歴史を感じる 落ち着きが有りますね
ご解説を伺い
厳かな気分でいにしえに思いを馳せます。
街道を有酸素運動するのですから、とても心身の健康に好いです。
産土神社(うぶすなじんじゃ)」は、呼び名も難しく地元の鎮守さまとして尊ばれた歴史の雰囲気のある古社です。
品川宿は、4キロほどの行程を歩きましたが、それを5回に分けてアップしますが、らいちゃんは、今回の13~14㎞を
1日で 廻られたのでしょうか。
凛として リンリンりんどう 濃むらさき / iina川柳
品川宿を2篇投稿しましたが、のこり3篇あります。
品川神社は知りませんでした。
北品川駅近く、東海道とは少し離れているのですか?
スーパームーンは、月が地球に最も接近した時に満月、もしくは新月の状態だそうです。近点の満月は、遠点のものよりも
最大14%大きく30%明るいといいます。iinaは、家のベランダから見ました。たしかに、いつもより大きく思われました。
>北品川駅近く、東海道とは少し離れているのですか?
品川神社は、京浜急行の新馬場駅前に第一京浜をはさんで建っています。旧東海道からも直ぐです。品川宿を、あと3回
アップします。
でも、じっくりとは拝観しなかったので、関ヶ原の家康出陣の折の戦勝祈願、それに島倉千代子の墓については共に知りませんでした。
品川宿を歩いた後に、ウォーク更家さんの中仙道の記事を読むと一緒にこの道を歩いた気分になりました。^^
品川宿から鈴ヶ森までの4Kmほどを5回に分けてブログにアップしますが、予備知識なしでしたから更家さんの想い出に
洩れはあるでしょうか。
更家さんは、この中仙道を何回に分けるのでしょうネ。また、1話が元のように長くなってきました。(^^ゞ
西行は、西にばかり行かずに全国を旅したのでしょうか。
品川宿を歩いたので、その話題をcyazブログ内を掘り起こしたら此処にたどり着きました。m(_ _)m
品川宿から鈴ヶ森までを歩いたことを、ブログに5回アップしますが、坂本龍馬像の立つ近くには行けなかったです。
それに、歩いた日が祭日だったため、お店はほとんど休んでいたのが、残念なことでした。結局、飲まずに帰りました。