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幕末の四賢侯②

2020年10月07日 | 歴史
松平春獄(まつだいら しゅんがく)
文政11(1828 )年9月2日 – 明治23(1890)年6月2日
第16代越前福井藩主。明治時代は政治家としても活動した。
諱は慶永(よしなが)。春獄は号。田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男として生まれる。
天保9年に第15代藩主・松平斉善の養子となる。斉善が死去すると11歳で16代藩主となった。
越前を捨てて京都に出兵し朝廷・幕府どちらにもつかず(日本を)制圧案は、連携がほころび、決行直前に急遽中止になった。


伊達宗城(だて むねなり)
文政元(1818)年8月1日 – 明治25(1892)年12月20日
宇和島藩第8代藩主。父は山口直勝・大身旗本と母を旗本蒔田広朝の娘として、江戸で誕生。幼名は亀三郎。
文政12年(1829年)に宇和島藩主・伊達宗紀の養子となる。天保15年(1844年)には、宗紀が隠居したことにより藩主となる。
水戸藩の徳川斉昭に愛され、その弟子のようになった。宗城が大名ながら一種の志士として活躍するようのは、斉昭の影響が大きい。学問好きで教養深かった。
調停上手の伊達宗城に、島津家は恩としその斉彬党を通じて京都の重要な情報をまるで家来同様に報告した、
山内家断絶の危機にも、幕府交渉を巧みに果たして乗り切ったことから、容堂は、宗城を生涯恩人とした。
わずか十万石の養子大名の分際で、島津藩、黒田藩、土佐藩に恩を売って慕われた。新しいもの好きの宗城は、蒸気船造りを命じた。

山内容堂(やまうち ようどう)
文政10(1827 )年10月9日 – 明治5(1872)年6月21日
諱は豊信(とよしげ)。土佐藩第15代藩主。容堂は隠居後の号。
文政10年(1827年)、高知城下にある山内家分家南屋敷で山内豊著の長男として誕生するも側室の子。
山内家に生まれ、徳川家に強く恩義を感じていた容堂は、朝廷と幕府を一体化する公武合体を実現させる道を模索し続けた。
1867年、容堂は、坂本龍馬発案「船中八策」を後藤象二郎から進言され、徳川慶喜に大政奉還を建白した。

島津斉彬(しまづ なりあきら)
文化6 (1809)年3月14日‐ 安政5(1858)年7 月16日
薩摩藩第11代藩主。第10代藩主・島津斉興の長男として江戸の薩摩藩邸に生まれた。
お由羅騒動と呼ばれるお家騒動により、藩主となった時には40歳を超えていた。
藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。

     
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コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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四賢候 (らいちゃん)
2020-10-07 10:50:26
四賢侯は藩政の改革をし、幕府の政治にも積極的に参画するなどの幕末に大いに活躍されたようですね。
お一人お一人の業績については詳しくは知りませんが、映画やドラマにも度々登場することから名前だけはよく知っています。

>砂を噛むような味気無さ」なんていいますね
世論調査を見ると、意味を誤解している人が思いのほか多いのに驚きます。
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(らいちゃん) へ (iina)
2020-10-08 08:45:24
黙って見てられないけど、ケッキョク手が出せなので、何もやりようがなく、「手をこまねいて」何も出来ないことになってしまいますょね。

たけしなら、コマネチということでしょう・・・



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