織田信長と信忠を攻め殺した明智光秀は京に留まり、予定通り事の次第をしたためて各地に遣いを走らせた
同時に主が各地に出陣している隙をついて京を制圧して、近江に兵を進めた
すでに本能寺のことは夕刻までには畿内や近江まで知れ渡っていた
そのため瀬田の山岡景隆は瀬田の唐橋を焼き払って、明智軍の近江進出を送らせた、また甲賀日野の蒲生氏郷は、長浜城に急行して秀吉の家族を護衛して日野城に匿った
翌日には明智軍は佐和山城、安土城、長浜城を接収した、明智には浅井三姉妹の従兄、京極高次が合流して長浜城に攻め込んだが、すでに空城になっていた
しかし光秀に味方したのは、他には与力である大和の筒井順慶だけであった
その筒井も国境の洞ヶ峠で進軍の足を止めている。
もっとも頼りにしていた丹後の長岡親子からの返事が来ない、息子の忠興は光秀の娘、珠の夫であり。親の長岡藤孝は互いに足利義昭に仕えた同志であった、すぐにも強力してくれると思っていただけに大誤算であった。
もう一人の婿である織田(津田)信澄も四国征伐で摂津に在陣していて動けない、しかも光秀謀反の報が信孝の元にも届くと、信澄が光秀に強力するのを恐れて呼び出し、腹を切らせた。
津田信澄は織田家の家督を信長と争った末に殺された信長の実の弟、織田信勝の嫡男である、そうした過去があるゆえ織田姓を津田に改めていた。
あの時、信長は信勝を殺したが、子供たちは殺さず、信澄は柴田勝家に預けられ、その後、明智光秀の娘を娶ったのだ
父の信長への対抗心がなかったら、信澄の序列は信孝よりは上であったと思われる、享年27と言われている。
信孝は光秀軍の規模がわからず、京に上ることをしなかった、丹羽長秀がついて居ながら積極的に動かなかかったのは長秀の怠慢である
同様に信長の次男信雄も伊勢にいて3000の兵を率いて京に向かってはみたが、光秀軍が万余と聞くと怖気づいて国境で進軍を止めた
この日は越中で柴田勝家がついに上杉の魚津城を落城させていたのだった
まさか京で信長が討たれたとは思いもしなかった
しかし4日夕方には北の庄の柴田勝家にも本能寺の変の知らせが届いた、信長の遺体は見つかっていないという、勝家は一縷の安堵感をもった
それでも京へ向かう準備だけはしようと思ったので、ここで目前の越後侵入をあきらめた、対上杉には佐々成政をあてて、前田らを領地に戻しいつでも上洛できるよう準備せよと命じた。 だがそれは羽柴秀吉の迅速な行動に比べてあまりにも遅すぎた
姫路城に知らせが届いたのは柴田勝家よりも1日早い3日の夕方であった
秀吉はすぐに動いた、まず備中にある秀長に5000を率いて姫路に急ぎ来るように手紙を書いた、同時に小早川隆景と安国寺恵瓊に宛てて文を送った。
「こたび京に置いて明智光秀謀反の由との噂あり、されど織田信長様は逃れて信忠様共々岐阜にて反撃の準備に取り掛かっている。
我らも西より発って大坂で織田信孝様と合流して光秀めを、信長様と挟み撃ちにして粛清いたす所存である
ついては毛利殿の短慮は御身のためにならず、決して備中に攻め込むようなことをしてはなりませぬぞ
吉川殿は短気で愛国心人より高く、われらが留守にするこの機会を得て備前に攻め込むことを進言するかもしれないが、これは秀吉はお勧めいたさぬ、万一攻めこむならば武田勝頼の二の舞となるので、小早川様の威厳を持ってぜひとも制止願いたい。
光秀を討ち取った暁には、毛利殿、小早川様への御恩、この秀吉生涯忘れ申さぬ
兄 小早川隆景殿 弟 羽柴秀吉」
同時に主が各地に出陣している隙をついて京を制圧して、近江に兵を進めた
すでに本能寺のことは夕刻までには畿内や近江まで知れ渡っていた
そのため瀬田の山岡景隆は瀬田の唐橋を焼き払って、明智軍の近江進出を送らせた、また甲賀日野の蒲生氏郷は、長浜城に急行して秀吉の家族を護衛して日野城に匿った
翌日には明智軍は佐和山城、安土城、長浜城を接収した、明智には浅井三姉妹の従兄、京極高次が合流して長浜城に攻め込んだが、すでに空城になっていた
しかし光秀に味方したのは、他には与力である大和の筒井順慶だけであった
その筒井も国境の洞ヶ峠で進軍の足を止めている。
もっとも頼りにしていた丹後の長岡親子からの返事が来ない、息子の忠興は光秀の娘、珠の夫であり。親の長岡藤孝は互いに足利義昭に仕えた同志であった、すぐにも強力してくれると思っていただけに大誤算であった。
もう一人の婿である織田(津田)信澄も四国征伐で摂津に在陣していて動けない、しかも光秀謀反の報が信孝の元にも届くと、信澄が光秀に強力するのを恐れて呼び出し、腹を切らせた。
津田信澄は織田家の家督を信長と争った末に殺された信長の実の弟、織田信勝の嫡男である、そうした過去があるゆえ織田姓を津田に改めていた。
あの時、信長は信勝を殺したが、子供たちは殺さず、信澄は柴田勝家に預けられ、その後、明智光秀の娘を娶ったのだ
父の信長への対抗心がなかったら、信澄の序列は信孝よりは上であったと思われる、享年27と言われている。
信孝は光秀軍の規模がわからず、京に上ることをしなかった、丹羽長秀がついて居ながら積極的に動かなかかったのは長秀の怠慢である
同様に信長の次男信雄も伊勢にいて3000の兵を率いて京に向かってはみたが、光秀軍が万余と聞くと怖気づいて国境で進軍を止めた
この日は越中で柴田勝家がついに上杉の魚津城を落城させていたのだった
まさか京で信長が討たれたとは思いもしなかった
しかし4日夕方には北の庄の柴田勝家にも本能寺の変の知らせが届いた、信長の遺体は見つかっていないという、勝家は一縷の安堵感をもった
それでも京へ向かう準備だけはしようと思ったので、ここで目前の越後侵入をあきらめた、対上杉には佐々成政をあてて、前田らを領地に戻しいつでも上洛できるよう準備せよと命じた。 だがそれは羽柴秀吉の迅速な行動に比べてあまりにも遅すぎた
姫路城に知らせが届いたのは柴田勝家よりも1日早い3日の夕方であった
秀吉はすぐに動いた、まず備中にある秀長に5000を率いて姫路に急ぎ来るように手紙を書いた、同時に小早川隆景と安国寺恵瓊に宛てて文を送った。
「こたび京に置いて明智光秀謀反の由との噂あり、されど織田信長様は逃れて信忠様共々岐阜にて反撃の準備に取り掛かっている。
我らも西より発って大坂で織田信孝様と合流して光秀めを、信長様と挟み撃ちにして粛清いたす所存である
ついては毛利殿の短慮は御身のためにならず、決して備中に攻め込むようなことをしてはなりませぬぞ
吉川殿は短気で愛国心人より高く、われらが留守にするこの機会を得て備前に攻め込むことを進言するかもしれないが、これは秀吉はお勧めいたさぬ、万一攻めこむならば武田勝頼の二の舞となるので、小早川様の威厳を持ってぜひとも制止願いたい。
光秀を討ち取った暁には、毛利殿、小早川様への御恩、この秀吉生涯忘れ申さぬ
兄 小早川隆景殿 弟 羽柴秀吉」
安芸広島に本能寺の変が伝えられたのは7日の早朝であった、まさに秀吉が指摘した通り、吉川元春は備中侵攻を提言した、しかしこれは小早川隆景と安国寺恵瓊の働きで阻止された。
6日午前に羽柴秀長が姫路に到着した、一日休ませ、軍を整えて毛利の動きを確認したのち7日に羽柴軍2万は大坂に向かって出発した。
一方、光秀は安土城にあった信長の金銀財宝、茶器などを接収して主だった家臣に与え、朝廷にも黄金を献上した
この頃、京の明智軍は1万ほどになって手薄であった、それでも織田信雄は慎重を期して伊賀から大和に移動して大坂に向かった
秀吉の来訪を聞いた大和の筒井は、これで明智を見捨てて織田方に着くことを決めていた、なので信雄も安心して大和に入って、秀吉に合流している
日が経つにつれ全国にも本能寺のこ広まっていった、四国の長曾我部には6日に伝わった、織田軍の侵入に備えていたが一安心した、そしてもはや四国どころでなくなった織田家を尻目に元親は改めて四国統一の仕上げに出陣した。
上杉家に届いたのも6日の夕方であった、すでに越中の織田方に異変が起きたのには気づいていたが、まさか信長が家臣に襲われるとは想像もしなかった
だが、織田方のかなりが撤退を始めたと聞いて、疑心暗鬼で兵を越中に進ませると魚津城は手薄で、瞬く間に取り返した、織田の強力な部隊は富山城の佐々成政の軍勢で凡そ1万が周辺を固めているという。
信濃の森長可の軍に届いたのは9日であった、越後春日山にまで迫っていた部隊は急いで川中島まで撤退した、こちらも上杉が信越国境まで追いかけて来た、もはや長居は無用である、上杉だけでなく信濃の豪族も襲うかもしれない、しかも美濃までの道のりは遠い、急ぎ逃げなければ殺される確率は上がるばかりだ、直臣をまとめて美濃を目指した
上州の滝川に届いたのは更に2日後で11日であった、その頃には関東の北条にも知れ渡っていた、また甲斐の武田遺臣たちにも伝わっていた
北条は7月早々に上州を占領すべく3万の兵と関東の国人2万を持って攻め上った、滝川も15000で迎撃したが士気が全く違う、滝川勢は四散した、一益もわずかな家臣を従えて落ちていく様は武田勝頼の最期に等しかった
だが一益には命さえあれば助かる母国がある、いかにみっともない姿でも生きて帰れば元に戻るという希望があった、その点では忍びとも野武士ともいわれる過去をもった一益は強い、最後は家臣とも離れて一人になったのが幸いした、旅人や乞食に変装してついに伊勢までたどり着いたのは清須会議が終わった後であった。
一方、森は最後まで軍団の姿を保った、兵数は3000ほどであったがそれでも途中途中の土豪を打ち破り、野武士を撃退して木曽までたどり着いたが、木曽氏の動きが怪しいことを察知して、機先を制して人質をとったため、木曽氏は手が出せず見逃すしかなかった、森は無事に自領に着くことができた。
悲惨だったのは甲斐一国を任された河尻秀隆である、情報を聞いた武田の遺臣を先頭に一揆が府中を襲って河尻はあえなく最期をとげてしまった
だから占領地をなんとか保ったのは羽柴秀吉と柴田勝家だけであった。
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