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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 23

2024年02月25日 19時42分45秒 | 甲越軍記
 勝千代丸主従は勘助の申す通り、甲州に戻り、何事も無かったかのようにして静かに日々を過ごし、天文三年の正月を迎えた。
年は変わっても、信虎の悪行は変わらず、二郎丸に家督を譲る心であるから、いかなることであっても勝千代に利することはすべて気に入らない。

新年祝賀の席において信虎は盃を巡らすに、まずは二郎丸に差し当たえ、続いて孫六に与えて勝千代丸には、その素振りさえ見せない、勝千代は屈辱に耐えられず顔を真っ赤にはらしてその席から立ち去った。
臣下は見て見ぬふりをしているが、みな勝千代丸の無念を感じて同情しているのであった。

年月は過ぎ、今は天文5年となり、今年勝千代は16歳となった
この時、駿河国(静岡県)の太守。今川義元公は武田家の婿殿であり。正月よりしきりに使いを走らせて信虎に申すには「勝千代、はや16歳となり早々に元服の儀式(武家の成人式)を行うべきでは」という催促であった。
信虎は意に沿わぬことと思ったが、義元が言うことは当然の仕儀であり仕方なく勝千代の元服を執り行った。

その頃、京都では足利将軍家足利義輝公の治世であり、主上は人皇第106代後奈良天皇(*105代とする書もあり)
朝臣今川義元公の取り持ちにより(*今川家と足利家は深い関係にあった)
将軍足利義輝公の諱を賜り、上野中務太輔清信を上使として甲州に下され、晴信の名乗りを賜る。
また三条左大将公頼公を今上皇帝勅使として晴信に大膳大夫兼信濃の守に任じられた。 上使、勅使の甲州入来、下向を受けて甲州国中がにぎわった。
更に、今川義元公の取り持ちで公家の姫君を以て大膳大夫晴信の室として、同年七月に京都より入輿があった。
目出度きことながら、信虎の心はますます面白くないのである。

その頃、信州海ノ口と云うところに、平賀武蔵守入道源心という者があった。
その祖先は武田家の一族であった、むかし右大将源頼朝に仕えたる平賀武蔵守義信の末裔である。
武勇は近国にとどろき、大胆にして身の力70人力と云い、信虎の残忍な行いに憤り、近年は不和となった。
そして村上左衛門尉義清、諏訪頼茂、木曽義高、小笠原に同意して武田の領分に乱入して、青田刈り、放火をして合戦が絶えなかった。




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