チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「不実な美女か貞淑な醜女か」

2012-11-12 13:24:22 | 独学

18. 不実な美女か貞淑な醜女か(米原万里著 平成6年発行)

 『 トルストイは、「戦争と平和」の中で、「おおよそ面倒を見た側のほうが、面倒をかけた側より相手のことをいつまでも覚えているものだ」といっている。

 要するに、人間にとって、何はともあれ最大の関心事は自分で、自分の時間、自分のエネルギーや努力、自分の資金を注いだ対象ほど、愛着を覚えるものらしい。母国語についてもまったく同じことが言える。

 小学校三年から中学二年に相当する時期を両親の仕事の都合でチェコスロバキアの首都プラハで過ごした私は、ソ連大使館付属の、すべての授業を本国のカリキュラムに基づきロシア語で教える八年制普通学校に通った。

 それまで日本の区立の小学校に通っていた私は、彼らにとっての母語に当たるロシア語の授業と日本の学校での「国語」の教え方とのあまりの違いに驚いた。

 まず、アルファベットを習い覚えた入学半年目で、ロシア語の授業は文学と文法にハッキリ分けられ、三年までは、一週間24コマのうち半分を占める。四年、五年で三十コマ中十~十二、六年生以降四分の一以上占める配分になっている。

 文学の授業は、次の四点を特徴とする。その一。子供用にダイジェストされたり、リライトされてない文豪たちの実作品の多読。

 学校付属図書館の司書が、学童が借りた本を返す都度、読み終えた本の感想ではなく、内容を尋ねる。本を読んでない人にも、その内容を分かりやすく伝える訓練を、こうして行う。そのうえで、もちろん感想も聞かれる。

 その二。古典的名作と評価されている詩作品や散文エッセーの主なものの暗唱。低学年では、週二編ほどの割合で大量の詩作品を暗記させられていく。

 その三。小学校三年までは日本で過ごした私の経験では、国語の時間、「では、何々君読んでください」と先生に言われて、間違いなく読めたら、それでおしまい、座ってよろしいだったのが、ソ連式授業では、まずきれいに読みおえたら、その今読んだ内容をかいつまんで話せと要求される。

 一段落か二段落読まされると、その都度、要旨を述べない限り座らせてもらえない。
非の打ちどころなく朗々と声を出して読みながらまったく内容が頭に入ってこないということは、往々にしてあるもの。ところが、この方式で訓練を受けると、自分の読む速度とシンクロナイズされる。

 かつ、自分でかいつまんで他人に伝えねばならないから、読み方が立体的、積極的になるという効用がある。ただ受け身で平坦なものが羅列的に頭の中に入ってくるのではなくて、自分の主観を一切まじえないでテキストの内容を立体的に把握しようとする習性が身につく。

 その四。作文の授業は、主題を決めると、そのテーマに関する名作を数編まず教師が読んで聞かせる。例えば「友人について」という題で作文を書く場合は、ツルゲ―ニェフの「片恋」のアーシャや、トルストイの「戦争と平和」のナターシャ・ロストーワという女主人公の描写の場面の抜き書きを読ませたうえで、そのコンテを書かせる。

 一 語り手が初めて出会ったときの様子の描写。第一印象。
 二 顔、口、目の動きなど容貌の描写。
 三 立ち居振る舞い、癖、声などの描写。
 四 どんな場面でどんなことをしゃべり、どんな反応をするか、いくつかの例。
 五 以上から推察される性格。
 六 他人との関係。
 七 自分との交流。
 八 ある事件を通しての成長、新しい発見。 
という、テキストの構造図のようなものようなものを書かせるのである。そのうえで、今度は自分がしたためようと思っている、友人に関する作文のコンテを書かされる。このコンテに基づいて、文章を綴るのである。

 実は、ロシア語の授業に限らず、歴史も地理も数学も生物も物理も化学も○×式のテストは一切なく、すべて、口頭試問か、小論文形式の知識の試し方であったから、プレゼンテーション能力を要求するものであり、結局ロシア語による表現力を鍛えるものであった。

 文法の授業は、母語を徹底的に客観的に分析しよう、その構造を冷ややかに突き放して明らかにしようというもの。ここでは外国語のように意識的な認識の対象にされる。

 中学二年の三学期に日本に帰国し、近所の区立中学校に編入した私は、高校受験用として覚えさせられる文学史に載るような作品を、ほとんど同級生の誰もが読んでないことにショックを受け、作文の際、点(、)の打ち方について教師に尋ねて、納得のできる答えを得られず驚き呆れ、国語のテストで、「右の文章を読んで得た感想を、左のア~オの中から選べ」と求められたのにぶったまげた。 』


 『 この本のタイトルは大変不思議と思われたかもしれませんが、原文に忠実かどうか、原発言を正確に伝えているかどうかという座標軸を、貞淑度をはかるものとし、原文を誤って伝えている、あるいは原文を裏切っているというような場合には不実というふうに考える。

 そして訳文のよさ、訳文がどれほど整っているか、響きがいいかということを、女性の容貌にたとえて、整っている場合は、美女、いかにも翻訳的なぎこちない訳文である場合には、醜女というふうに分類すると、この組み合わせは四通りある。

 「貞淑な美女」、「不実な美女」、「貞淑な醜女」、「不実な醜女」の四通り。
どんな通訳あるいはどんな翻訳が最も望ましいかというと、これは無論文句なく、「貞淑な美女」が一番いい。そして最も困る訳は、「不実な醜女」ということになる。

 ところが、この稼業、お仕えする旦那(テーマも発言者も)めまぐるしく替わっていくのを特徴とし、相性のいい時は「貞淑な美女」を演じきれても、いつもそうであり続けるのは、人間業を超えて不可能。

 「不実な醜女」ばかりやっていると、お声がかからなくなって、稼業が立ちゆかなくなる。そんなわけで、世の中の通訳者は、圧倒的多数の場合において、「不実な美女」と「貞淑な醜女」をしているのである。

 では、「不実な美女」と「貞淑な醜女」とどちらがいいかというと、たとえばパーティーのような席では、どちらかというとムードが大切なので、「不実な美女」が大切で、何億もの商談の場合は、正確に伝わる「貞淑な醜女」のほうが重要である。 』(第19回)