チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「森田療法」

2012-11-26 09:36:07 | 独学

23. 森田療法 (岩井寛 昭和61発行)

 『 西欧の心理療法と森田療法とのいちばん大きな違いは何かというと、西欧の心理療法においては、神経症者が何らかの形で心の内に内在させる不安や葛藤を分析し、それを”異物”として除去しようとする傾向がある。

 これに反して、森田療法では、神経質(症)者の不安・葛藤と、日常人の不安・葛藤が連続であると考えるのである。

 したがって、その不安・葛藤をいくら除去しようとしても、異常でないものを除去しようといているのであるから、除去しようとすることそれ自体が矛盾だということになる。

 つまり、この点で西欧の心理療法が考える不安・葛藤およびそれに対処しようとする理論は、まさに相反する立場をとるということができる。

 神経症の原因である不安・葛藤が、人間の本来のあり方と相反していて、その原因が人々を苦しめるとするなら、それを取り除くために分析を行い、原因を究明し、それを除去する必要があるのは当然である。

 しかし、森田が論ずるように、不安・葛藤をつくり出す心理的メカニズムそれ自体が異常なものでなく、人間性に本来付随している心理状態だとするならば、それを分析し、原因を究明し、除去する必要はなくなってしまう。

 この点において森田は、人間性ならびに人間の欲望の二面性を認めているのである。森田は、神経質(症)者は「生の欲望」が非常に強いという。これは、フロイドが「性」を中心にして神経症を考えたのに対抗する考え方である。

 神経質(症)者は、理想が高く、”完全欲へのとらわれ”が強いために、常に”かくあるべし”という自分の理想的な姿を設定してしまう。

 しかし、我々が住む不条理の現実には、そのような都合のよい状態はないので、そこで”かくあるべし”というという理想志向性と”かくある”という現実志向性がもろに衝突してしまう。

 そのために両者の志向性が離れれば離れるほど、不安・葛藤が強くなり、神経質(症)者は現実と離反してしまうのである。

 そこで、ある者は自己否定的になって、劣等感に陥り、現実の苦悩に耐えられなくなって逃避的な態度をとるようになる。』


 『 森田の欲望論は、欲望の二面性を肯定するところから出発している。美に対して醜があり、善に対して悪があり、喜びに対して悲しみがあり、自身に対して不安や葛藤があるといったように、人間には、常に相反する志向性が内包されている。

 そこで、人間の欲望には、時には美を求めることがあると同時に、醜に関心を抱くこともあり、善を求めると同時に、その反対の悪に身を浸したいと考えることもある。

 森田はこれを人間性の真実、あるいは事実と考えるのである。したがって、人間性の事実を求めていくためには、内面に存在する一方の欲望を切り捨てて、他方の欲望にのっとていくというわけにはいかず、そこに、森田の治療的中核である「あるがまま」の理念が生まれるのである。

 「あるがまま」とは、事実をそのままの姿で認めるということである。たとえば、苦手な上司と面接をしなければならないときに、会って自分の構想をよりよく披瀝しようと考える一方で、あの上司は苦手だからなんとかその場を繕って逃げてしまいたいという考えも浮かぶ。

 これは両者ともに、その現実と直面している人間の欲望なのであって、一方では、苦しくても自己実現をしたいという欲望と、他方で、苦しいから逃避をしたいという欲望と、両者ともにその人に付随する人間性なのである。

 そこで森田は、低きにつこうとする欲望を”そのまま”にして、もう一方の自己実現の欲望を止揚していこうとする欲望の方向性を考える。
 
 つまり、自己実現欲求も、逃避欲求も、ともに人間性の一部なのであるから、後者を”そのまま”にし、前者をとってゆくところに森田療法の本質を認めるのである。

 そして、後者を”そのまま”にすることを「あるがまま」という。

 「あるがまま」は、ただ単に自分の欲望に従って思いどおりに振る舞うということではなしに、自己実現欲求を遂行するための手段であって、自己否定的な欲求を「あるがまま」にしておき、もう一方の自己実現欲求に従い、これを実践するとき、人間には進歩があるとするのである。』


 『 植物は花を開き、実を結び、種子をつくってまた新たな植物を生み出す。動物は性を営み、胎児を宿し、新たな子孫をつくり出す。ウイルスは宿主細胞と接触して導管を注入し、自分と同じ鋳型様の細胞を宿主細胞の中にいくつもつくり出す。

 このように、自己の意思で動く機能をもたない植物も、自己の意志によって行動をおこす動物も、生物と無生物の中間であると考えられているウイルスも、すべては自己の種族保存の方向に向って、変化の過程をたどっている。

 変化のただなかにあるのは生物ばかりでない。生物と無生物の中間にあるウイルスも、いや、ウイルスや生物を生み出す以前の無機的な地球も、地球生誕以前の宇宙も、すべては変化のただなかのある瞬間としてある。

 ところで、動物は意志活動を付与されたことで、自らを守り、意志的に種族を保存していくような活動を行うようになったが、さらに加えて、精神活動を与えられた人間は、「いかに生きるか」という、自らが生きるための方向性と目的性をもつようになった。

 つまり、動物は無意識的に自己の個性と種族の保存に向って、生きるための強い欲望をもつようになったが、人間はその上に、いかにという、己の生き方に対する、反省的であると同時に生産的な欲望をもつようになったのである。』


 『 森田正馬は、非常に東洋的な自然観、人間観をもっているが、彼の精神医学的素養がそうであるように、その思想の背景には東洋と西洋の思索の融合が察知できる。

 そこで、ある学者は森田理論では人間を楽観的に観すぎていると批判する。しかし、人間が自ら法律をつくり、芸術を創り、さまざまな抗争をくり返しながらも今日の人間社会を築いてきたのは、善悪両面を内包しながらも、人間が自己保存、民族保存、人類保存の方向性をもって生きてきたからであり、したがってそのエネルギーを否定することはできない。

 以上のように、森田が唱える「生の欲望」は、生得的、内発的に人間に存在するものであって、人間は生まれながらに生存欲と人間として生きる方向性をもっていると森田は考えるのである。

 しかし、同時に森田は、「生の欲望」を人間を規定するための”決定論”にしてしまっているわけではない。彼は、人間のそれぞれの生き方によって、本来存在する「生の欲望」のありかたが固有の形をとると考えるのである。

 つまり、「生の欲望」の一面は、人間がよりよく生きようとする向上発展の欲望を代表するもであり、もう一つの側面は、生を求めるがゆえに死を忌避しようとするが、ためにおこる「心気的」側面である。』


 『 かってフロイドは、神経症者は倫理感をもち得ぬ偏向した人間であると決め付けた。彼は、ドストイェスキーを例にあげ、”ドストイェスキーは、人間の苦悩と葛藤を描き出して真実に迫るすばらしい小説を書いたが、彼がもし神経症者あるいはてんかん者でなければ、倫理的な思考の上に立ち、聖人になっていたであろう”という意味のことを語った。

 フロイドは、十九世紀末の退廃的なヨーロッパを生き、彼自身が神経症的な要素を自覚しており、さらに科学的生理主義と倫理的個人主義の時代的洗礼を受けていた。

 したがって、彼の言葉には、自分の弱さに対する弁解が含まれていたかもしれない。
しかし、筆者はこのフロイドの考えに反対である。

 もし筆者が、ドストイェスキーのような小説家の立場と、崇高なる宗教を奉ずる聖者のどちらかを選べといわれたならば、躊躇なくドストイェスキーのような小説家の立場を選んだであろう。

 人生のあらゆる機微に潜む不安や、葛藤や、苦悩を通してこそ、赤裸々な真実が見えてくるからである。

 筆者がドストイェスキーに畏敬を抱くのは、彼が神経症的な不安・葛藤や、てんかん者としてアウラ(発作の前兆)や発作を引き受けながら、なおかつ膨大な作品を創ったことである。

 つまりこれこそ、「目的本位」に小説を書き上げたといってよい。人間にはこのような汚ない側面がある、このような苦しい側面がある、このような淫らな側面がある、このような残酷な側面がある、などというように、次々と人間の弱点を抉(えぐ)りながら、なおかつ否定しきれない崇高ななにものかにぶつかっているのであり、そこにこそ彼は神を見ようとしている。

 聖者が天啓を得て神を見るよりも、もっと真実の神を見ているのである。これはひとえに、彼が自分の神経症体験を自己克服しつつ、それを創造性へと転化させているからである。』(第24回)