20. 人間であること(田中美知太郎著 昭和59年)
『人間に場合については、昔から人間の定義というものがいくつかありますが、その一つの規定は、人間は、animal rationale であるというものです。これは、ロゴスを持っている動物であるという意味です。
これはアリストテレス、あるいはもっと前にさかのぼれる一つの人間の定義です。ただロゴスを持てるというのは二つの意味をもっています。
一つは、ロゴスを言葉と解すること、すなわち言葉を持っている動物、言葉を持っている動物として人間を特徴づけること。
もう一つは、計算能力という意味に解すること、すなわち、計算能力を持つ動物として人間を特徴づけることです。』
『しかし、他面から考えると、このわずかなもの、経験の上に科学とか技術というものを発展させてきたわずかなもの、それは解剖学的にあるいは生理学的に見ればごくわずかな、脳のどこかにあるとしか考えられない一つの小さな差というものですが
――そこにおいてわらわれはかろうじて人間であると言われるわけですが――そのわずかなものによって、人間というものはその科学技術の発展と同じように、今日の学問というものを生んだわけです。
あるいは芸術というもの、あるいは道徳であるとか、法律であるとか、あるいは政治であるとか、いろいろなものをみな生んだわけです。
そのわずかなところにおいて、しかしそういうものを人間が自分で、今日のいわゆる広い意味において文化とか文明とかいわれているものをつくったわけですが、この文明あるいは文化というものこそ、実は非常に人間的なものです。人間がつくったところの、独自のものです。
そういう「つくってきたところのもの」、それがサルと人間との間の大きな差を開いているわけですね。
人間とは何かということについては、生物学、あるいは生理学、その他いろいろなものが多くのことを教えてくれますけれども、しかし、実際はそういうところで見出されるところのものとは違った、むしろ人間の歴史のうちにおいて初めてこれを見ることが出来るような大きな領域、その人間がつくったところのものにおいて、実は人間の本質がみられるのではないかと思うのです。
わたしは人間とは何であるかといえば、人間がつくるところのものがそれであるというふうに言ってもいいのではないかと思います。』
『例えば哲学を勉強するという場合、科学知識のように、最新の教科書を読めばすっかりわかるということはありません。哲学概論とか最近の哲学何々とかいうものを、いくら読んでも、哲学はわかりません。
哲学を勉強する最も確実な道は、過去における偉大な哲学者が築いた業績について直接勉強する、ということよりほかはないのです。われわれが挑戦するためには、その業績について直接学ぶことです。
これは欲張って全部を知る必要はないのです。自分が挑戦しようと思う人を徹底的に勉強することです。
われわれの教育は、科学知識を教えることはできるが、発見を教えることは出来ません。発見は、自己による自己の仕事で、自分でやるよりほかにないのです。
その道は、過去の記録に挑戦するという意味で、過去のどれかのモデルをとって、それを真似してもいいが、それにもとづいて、それに自己を比べながら、自己を試していくという仕方で、完成していくほかはないのです。』(第21回)