28. 地球(ガイヤ)のささやき 龍村仁著 1995年発行)
『 ダフニーさんは、ナイロビ国立公園で動物の孤児院を運営している。そこで象牙密猟者のために親を殺されたゾウの赤ちゃんを育て、野生に帰す活動を三十年以上にわたって続けているのです。
エレナはダフニーさんが初めて育てたメスのゾウです。エレナは三十歳を過ぎた現在でも、ダフニーさんが三歳まで育てた孤児たちを預かり、一人前に成長するまで、養母の役割を果たしていました。
この日は、ダフニーさんとエレナが半年ぶりに再会するシーンを撮る予定だったのです。適当な位置に立ってもらい「エレナ」と呼んでもらうことにしたのです。
するとどうでしょう。ハット気がつくくらい何百メートルも先から一頭のゾウがやって来たのです。
そしてすぐ手の届く距離まで接近したとき、何のためらいもなく、エレナは自分の鼻でダフニーさんの体を抱きしめ、まるでいとしむように彼女の背中を撫でるのです。
私はエレナと目が合いました。するとエレナはダフニーさんの体から鼻を外し、真っすぐこちらに向かってきたのです。
突然のことにスタッフは、慌てました。するとエレナは目の前までやって来て、鼻で私の体を抱き、やさしく背中を撫でてくれるのです。
その瞬間は、エレナがゾウであること、ここがアフリカであることなど一切忘れていました。私にとってそれほど熱い感動だったのです。』
『 イタリアの登山家ラインホルト・メスナーは、世界でただ一人、単独で世界の八千メートル峰、全山十四座を制した男です。
「私は山を征服したのではありません。登れるということを証明したのでもない。ただひたすら、私は自分を知りたかったのです。
この有限の肉体を持った裸の私が、生命の存在を許さぬ死の地帯で、どこまで命の可能性を広げることができるかを知りたかったのです。
だから、大きな組織や科学技術の助けを借りて山に登ることは、私にとって、意味がなかったのです。」
実際、1970年には、弟ギュンターを亡くし、自らも六本の足の指を失っています。彼は下山途中、八百メートルもの崖を墜落しました。
このとき彼は落ちてゆく自分を上から静かに見つめている、もう一人の自分がいることに気づきます。
そして、人間は普段は一方しか見えないが、実は二つの次元の中に生きているのではないかと、感じるようになったといいました。
「私は、自分が自然の一部であるということを強く感じています。私と水や木や草との間には、なんの区別もない。同じひとつの流れの中にあるんです。
科学や医学の進歩によって私たちは、昔の人よりずっと多くのものが見えるようになった。その代償として、なにか一番大切なものが、見えなくなっているように思うんです。」
「科学の進歩を後戻りさせることはできないと私は思っています。しかし、人間と自然とのコンタクットを失わず、自然が伝えてくれるメッセージに素直に耳を傾けるのなら、人間はたぶん大きな過ちは犯さないだろうと思います。
いま一番大切なことは、国や企業を糾弾するキャンペーンよりも、一人ひとりの人間の心の中の革命です。
それも、普通の人々の普通の生活の中で心の変革が実は一番大切だと思っています」
「八千メートル級の山を、酸素ボンベもなしに、一人で登る。この体験はだれもができることではありません。
しかし、自分の限界をこえたメスナーの体験を映画を通して、皆で分かち合い」こそが、私たちは地球の一部であるという「意識の進化」の自覚につながると信じます。』
『 鯨や象と深く付き合っている人たちがみな、人間としてとても面白かったからだ。人種も職業もみなそれぞれ異なっているのに、彼らには独特の、共通した雰囲気がある。
彼らは、象や鯨を、自分の知的好奇心の対象とは考えなくなってきている。鯨や象から、何かとてつもなく大切なものを学びとろうとしている。そして、鯨や象に対して、畏敬の念さえ抱いているように見える。
人間が、どうして野生の動物に対して畏敬の念まで抱くようになってしまうのだろうか。この、人間に対する興味から、私も鯨や象に興味を抱くようになった。
そして、自然の中での鯨や象との出会いを重ね、彼らのことを知れば知るほど、私もまた鯨や象に畏敬の念を抱くようになった。
今では、鯨と象は、私たち人類に重大な示唆を与えるために、あの大きなからだで、数千万年もの間この地球に生き続けてきてくれたのでは、とさえ思っている。
大脳皮質の大きさとその複雑さからみて、鯨と象と人は、ほぼ対等の精神能力を持つ、と考えられる。すなわち、この三種は、地球上で最も高度に進化した”知性”を持った存在だ、と言うことができる。
実際、この三種の誕生からの成長過程はほぼ同じで、あらゆる動物の中で最も遅い。一歳は一歳、二歳は二歳、十五、六歳でほぼ一人前になり、寿命も六、七十歳から長寿の者で百歳まで生きる。
本能だけで生きるのではなく、年長者から生きるためのさまざまな知恵を学ぶために、これだけゆっくりと成長するのだろう。
この点だけみると鯨と象と人は確かに似ている。しかし、誰の目にも明らかなように、人と他の二種とは何かが決定的に違っている。
現代人の中で鯨や象が自分たちに匹敵する”知性”を持った存在である、と素直に信じられる人は、まずほとんどいないだろう。
それは、我々が、言葉や文字を生み出し、道具や機械をつくり、交通や通信手段を進歩させ、今やこの地球の全生命の未来を左右できるほどに科学技術を進歩させた、この能力を”知性”だと思い込んでいるからだ。
この点だけから見れば、自らは何も生産せず、自然が与えてくれるものだけを食べて生き、後は何もしないでいるようにみえる鯨や象が、自分たちと対等の”知性”を持った存在とはとても思えないのは当然のことである。
しかし、六〇年代に入って、さまざまな動機から、鯨や象たちと深い付き合いをするようになった人たちの中から、この”常識”に対する疑問が生まれ始めた。
鯨や象は、人の”知性”とはまったく別種の”知性”を持っているのではない?あるいは、人の”知性”は、この地球(ガイア)に存在する大きな知性の、偏った一面の現れであり、もう一方の面に、鯨や象の”知性”が存在するのではないか?という疑問である。
この疑問は、最初、水族館に捕らえられたオルカ(シャチ)やイルカに芸を教えようとする調教師や医者、心理学者、その手伝いをした音楽家、鯨の脳に興味を持つ大脳生理学者たちの実体験から生まれた。
彼らが異口同音に言う言葉がある。それは、オルカやイルカは決して、ただ餌がほしいがために本能的に芸をしているのではない、ということである。
彼らは捕らわれの身となった自分の状況を、はっきり認識している、という。そして、その状況を自ら受け入れると決意した時、初めて、自分とコミュニケーションしようとしている人間、さしあたっては調教師を喜ばせるために、そして自分自身もその状況の下で、精一杯生きることを楽しむために、”芸”と呼ばれることを始めるのだ。
水族館でオルカが見せてくれる”芸”のほとんどは、実は人間がオルカに強制的に教え込んだものではない。オルカのほうが、人間が求めていることを正確に理解し、自分の持っている超高度な能力を、か弱い人間(調教師)のレベルに合わせて制御し、調整をしながら使っているからこそ可能になる”芸”なのだ。
たとえば、体長七メートルもある巨大なオルカが、狭いプールでちっぽけな人間を背ビレにつかまれせまま猛スピードで泳ぎ、プールの端にくると、手綱の合図もないのに自ら細心の注意を払って人間が落ちないようにスピードを落としてそのまま人間をプールサイドに立たせてやる。
また水中から、直立姿勢の人間を自分の鼻先に立たせたまま上昇し、その人間を空中に放り出しながら、その人間が決してプールサイドのコンクリートの上に投げ出されず、再び水中の安全な場所に落下するよう、スピード・高さ・方向などを三次元レベルで調整する。
こんなことが果たして、ムチと飴による人間の強制だけでできるだろうか。ましてオルカは水中にいる七メートルの巨体の持ち主なのだ。
そこには、人間の強制だけでなく、明らかに、オルカ自身の意思と選択が働いている。狭いプールに閉じ込められ、本来持っている超高度な能力の何万分の一も使えない過酷な状況に置かれながらも、自分が”友”として受け入れることを決意した人間を喜ばせ、そして自分も楽しむオルカの”心”があるからこそできることなのだ。』(第29回)