29. 郷愁の詩人 与謝蕪村 (荻原朔太郎著 昭和63年発行、昭和11年初出)
『 僕は生来、俳句と言うものに深い興味をもたなかった。興味を持たなかったというよりは、趣味的に俳句を毛嫌いしたのである。
何故かというに、俳句の一般的特色として考えられる、あの枯淡とか寂びとか、風流とかいう心境が、僕には甚だ遠いものであり、趣味的にも、気質的にも容易に馴染めなかったからである。
反対に僕は、昔から和歌が好きで、万葉や新古今を愛読していた。和歌の表現する世界は、主として恋愛や思慕の情緒で、本質的に西洋の抒情詩とも共通するものがあったからだ。
こうした俳句嫌いの僕であったが、唯一つの例外として、不思議にも蕪村だけが好きであった。なぜかと言うに、蕪村の俳句だけが僕にとってよく解り、詩趣を感得することが、出来たからだ。
彼の詩境が他の一般の俳句に比して、遥かに浪漫的の青春性に富んでいるという事実である。したがって彼の句にはどこか奈良朝時代の万葉歌境と共通するものがある。
例えば春の句で
遅き日の つもりて遠き 昔かな
行く春や 逡巡として 遅桜 (しゅんじゅん おそざくら)
菜の花や 月は東に 日は西に
等の句境は万葉集の歌「 うらうらと 照れる春日に 雲雀あがり 心悲しも 独りし思えば 」と同工異曲の詩趣であって、春怨思慕(しゅんえんしぼ)の若々しいセンチメントが句の情操する根底を流れている。』
『 蕪村は不遇の詩人であった。彼はその生存した時代において、ほとんど全く認められず、空しく窮乏の中に死んでしまった。
漸く二流以下の俳人として影薄く存在していた蕪村について考える時、人間の史的評価や名声が如何に頼りなく当てにならないかを真に痛切に感じるのである。
すべての天才は不遇でない。ただ純粋の詩人だけはその天才に正比例して、常に必ず不遇である。
殊に就中(なかんずく)蕪村の如く、文化が彼の芸術と逆流しているところの、一つの「悪しき時代」に生まれたものは、特に救いがなく不遇である。
蕪村の価値が始めて正しく評価されたのは彼の死後百数十年を経た後世、最近明治になってからのことであった。
換言すれば、詩人蕪村の魂が詠嘆し、憧憬し、永久に思慕したイデアの内容、即ち彼のポエジィの実体は何だろうか。
一言にして、言えば、それは、時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思う、子守唄の哀切な思慕であった。
実にこの一つのポエジィこそ、彼の俳句のあらゆる表現を一貫して、読者の心に響いて来る音楽であり、詩的情感の本質を成す実体なのだ。』
『 藪入りの 寝るや小豆の 煮える中 (あずき うち)
蕪村は、他人の薮入りを歌うのではなく、いつも彼自身の「心の薮入り」を歌うのだ。
彼の亡き母に対する愛は、加賀千代女の如き人情的、常識道徳的の愛ではなくって、メタフィジックの象徴界に縹渺(ひょうびょう)している、魂の哀切な追懐であり、プラトンのいわゆる「霊魂の思慕」とも言うべきものであった。
英語にスイートホームという言葉がある。郊外の安文化住宅で、新婚の若夫婦がいちゃつくという意味ではない。
蔦かずらの這う古く懐かしい家の中で、薪の燃えるストーヴの火を囲みながら、老幼男女の一家族が、祖先の画像を映すランプの下で、むつまじく語り合うことを言うのである。
詩人蕪村の心が求め、孤独の人生に渇きあこがれて歌ったものは、実にこのスイートホームの家郷であり、「炉辺の団欒」のイメージだった。』
『 葱買って 枯木の中を 帰りけり
と歌う蕪村は、常に寒々とした人生の孤独を眺めていた。そうした彼の寂しい心は、炉に火の燃える人の世の侘しさ、古さ、なつかしさ、暖かさ、楽しさを、慈母の懐抱(ふところ)のように恋い慕った。
何よりよりも彼の心は、そうした「家郷」が欲しかったのだ。』
『 薮入りの 夢や小豆の 煮えるうち
薮入で休暇をもらった小僧が、田舎の実家へ帰り、久しぶりで両親に逢ったのである。子供にご馳走しようと思って、母は台所で小豆を煮ている。そのうち子供は、炬燵にもぐり込んで転寝(うたたね)をしている。
今日だけの休暇を楽しむ、可憐な奉公人の子供は何の夢を見ていることやらと言う意味である。
作者が自ら幼時の夢を追憶して、亡き母への侘しい思慕を、遠い郷愁のように懐かしんでいる情想の主題(テーマ)を見るべきである。』(第30回)