126. 鉄客商売 (唐池恒二著 2016年6月)
著者の唐池恒二は、現在JR九州の会長であるが、JR九州の「ゆふいんの森」、「はやとの風」、「指宿のたまて箱」、「A列車で行こう」、「ななつぼし」……などのコンセプトを手掛けてきた。
それぞれの物語とタイトルとデザインを創り上げてきた。デザインは、これらのコンセプトをもとにデザイナーの水戸岡鋭治氏である。その物語性をもとに沿線の町は、それらを核として活性化しています。
題名の「鉄客商売」は、大ファンである池波正太郎の「剣客商売」(剣の達人という意味です)から、鉄道の仕事に通じたものがビジネスについて語るという内容です。
『 まだ国鉄時代、石井さんが広島鉄道管理局長だったころ、大嶋部長は同管理局の船舶部長を務めていた。当時の広島局は、広島県の呉と愛媛県の松山を結ぶ仁堀(にほり)航路の廃止を経営の重要課題に置き、局長以下の幹部が地元との話し合いに忙殺される日々を送っていた。
当時の国鉄では、赤字の大きい船の航路や鉄道の線区を廃止することが最大の経営改善施策と位置づけられていた。ただ、いずれの廃止案も地元との協議がまとまらず、難航を極めた。
大嶋部長の前任者も廃止に向けて汗を流したが、思うように進められなかった。そこに大島部長が宇高連絡船の船長から異動となり、やっかいな仕事の責任者に就いた。
どこをどうしたものか、あっという間に航路廃止の合意を地元から得てしまった。大嶋部長の辣腕に、まわりはただただ驚嘆するやら感心するやら。「いやいや、正面からぶつかっていっただけですわ」岡山出身だから、語尾に「……ですわ」と付ける。
このことを石井さんは、忘れるはずがなかった。「……ですわ」のことではない。JR九州に船の専門家はいない。大嶋部長は、国鉄でもトップクラスのプロの船乗りで、船のことや海のことには誰よりも詳しい。
さらに、仁堀航路廃止のときの物怖じしない行動力と地元との交渉力には、余人をもって代えがたいものがあった。JR九州がこれからやろうとしている航路開設の仕事を任せることができるのは、大嶋部長をおいて他にはいない。
石井さん自ら四国に再三足を運び、四国の旅客船協会のトップにも請願し、大嶋部長本人にも何度も頭を下げた。下げられてもずっと断ったが、石井さんの、こうと決めたら一歩も引かない熱意と根気に負けて、とうとう九州行を承諾したという。 』
『 四月一日、大嶋部長と初めて対面がかなった。きれいな白髪に日焼けした顔、背が高くて品がよく、優しそうな紳士が目の前に立っている。つやのある顔からは、五八歳とは思えない。
事前に聞いていた「世界を股にかけた海の男」 「交渉の達人」 「言いだしたらきかない頑固おやじ」 といったイメージとはだいぶ違って見えた。柔らかい語り口に、正直、拍子抜けしたほどだった。
「あんたが、唐池さんですか。大嶋ですわ、よろしく頼みますわ」 「はい、よろしくお願いします。唐池ですわ」 早くも感化された。その日からさっそく活動開始。大嶋部長から、矢継ぎ早に指示が飛んできた。
「船員を集めましょう」 「船体の発注もすぐにやりましょ」 「航路免許の申請はどうなってますかな」 「港の岩壁の確保も急ぎますな」 「船員の訓練方法も考えんといけませんわ」
やるべきことが山ほどあった。(海なのに) 一年後の就航をめざしているから、ひとつずつ順にとりかかっていくというより、並行してたくさんのことを一気に片づけていかなければ間に合わない。
一年後に博多~平戸~長崎オランダ村の国内航路を、そのまた一年後に博多~釜山間の国際航路を、それぞれスタートさせるというのが船舶事業部に課せられたミッションだった。
いくつもの課題にくわえて、二年後の国際航路についても数ヵ月以内にその道筋をつけておかなくてはいけない。このことだけでも大仕事。
あれやこれやと考えると、パニックになりそうだったが、一方でとてもわくわくしている。そんな自分に驚きもした。やりがいのある仕事を与えてもらった。楽しみながらやっていこう。必ずこの事業を成功させよう。意気に感じるとはこのことか。
大嶋部長の仕事の進め方は、自ら先頭に立ってみんなを引っ張っていく率先垂範型だ。けっして嫌なことから逃げない。難局に直面したときは、必ず自ら正面からぶつかっていく。
私が人生で出会った上司のなかで、最も頼もしく感じたリーダーだった。「さあ、唐池さん、漁協にあいさつに行きましょう」 大嶋部長が着任されて二週間ほど経ったころ。
突然思い立ったのか、事務作業に追われていた私を連れ出し、佐世保市の漁業協同組合に向かった。博多~平戸~長崎オランダ村航路がはじまると、JR九州の高速船が佐世保湾を毎日必ず通過することになる。
漁協の人たちの職場を荒らすわけではないが、国内航路を新設するときは特別の配慮をするようだ。航路に近接する漁協に仁義を切るのが習わしになっているのだ。
「海は、誰のものでもない。みんなのものですわ。船を走らせるのに漁協の許可もいりません。でも、一応あいさつだけしておきましょう」 そんなことになっているのか。海の世界もけっこうせせこましいな。
それならそれで、なにも最初からわざわざ部長が出て行くこともない。まずは、私か運航課長が露払いのつもりで行けばいいのではないか。しかし、大嶋部長は、自ら真っ先にドアをノックするというのだ。
このあたりが、「逃げない」大嶋部長の真骨頂だ。漁協の事務所に着くと、組合長の隣の応接室に通された。組合長を待つこと10分。ようやく、目つきの鋭い、こわもての男が不機嫌そうに部屋に入ってきた。
佐世保漁協のドン、片岡一雄組合長の登場だ。 「なんばしに来たんや」 椅子に座るや否やストレートパンチ。大嶋部長がひととおりのあいさつのあと、訪問の趣旨をかいつまんで話した。
続いて、私のほうから一年後につくる航路の概要やジェットフォイルの特徴などを多少詳しく説明した。 「そがんことはせからしか。好かん」 最初から、玄界灘の荒波がぶつかってきた。
航路近くの漁業にはまったく影響を与えない、と口を酸っぱくして言っても頑として聞き入れない。結局、一時間ほどのやりとりでその日は幕となった。
当方はつとめて低姿勢で理解を求め、先方はきわめて高飛車に不快をもらす。まったく何も進展しないまま、険悪な空気だけ残ったような応接室。私たちは事務所を出た。どっと疲れも出た。
最後に組合長が投げてきた言葉が、耳に残った。 「今度は、長崎県内の漁協の組合長全員ば集めるけん、そこで説明したらよか」 事務所を出た二人は、互いに一言も言葉を発せずに佐世保駅まで五分ほど歩いた。
精神的にかなり疲労していた。少なくとも私は。大嶋部長は、駅の売店で缶ビールを二つ買ってきてくれた。博多に戻る特急に乗り込み、缶ビールの一つを私に手渡しながら元気な声を出した。
「今日は、よかったですな。唐池さんの説明のおかげで、うまくいきましたわ」 何がよかったのか。反発したくなったが、「ましたわ」のしみじみとした情感に包み込まれる。すごいな。
何の進展もなかった、と悔やんでいた私の気持ちをもみほぐすように、精いっぱい明るく語りかける。何事も前向きに考える。大嶋部長という方は、なんという人だ。
かなわないな。急にこちらも元気になってきた。つぎに会う約束だけはできた。考えようによっては、大きな進展かもしれない。これを喜ばずしてどうする。「部長、ありがとうございましたわ」
また、感化された。この日の缶ビールの味は、格別だった。大嶋部長に言わせると、「漁協というのは、あんなふうですわ」らしい。 』
『 一か月後、今度は長崎市内にある県の漁業会館の大会議室に出向くことになった。もちろんこちらは、大嶋部長と二人だけ。県内のすべての漁協の組合長と相対する。
四、五〇人、いや、もっといたような気がする。彼らと向かい合う恰好で席に着くと、全員のにらみつけるような視線が痛かった。異様な緊張感が会場に溢れる。ただ、不思議と落ち着いている自分を頼もしく思った。
隣の大嶋部長を横目でみると、いつもと変わらず、博多港の定食屋でアジフライ定食が出てくるのを待っているときと同じように、どことなく楽しそうだ。
こちらから、航路とジェットフォイルの概要を説明し、安全な運航につとめる決意を披露した。 「そがん高速で走りよる船は、危険たい」 「海はおいどんの職場っちゃ」 「とことん反対するぞ」 「JRは鉄道だけやればよか」 「わいら出ていけ!」
会場内に怒号が飛び交う。罵詈雑言の嵐。それでも、つとめて冷静な口調で説明を繰り返す。国鉄時代の労働組合との団体交渉を思い出した。一時間ほどで閉会となった。もちろん合意には至ってない。完全な物別れ……。
会館を出て長崎駅に着くまで、佐世保のときと同じように二人は言葉を交わさない。またしても進展なし。でも、今回は気が滅入らない。案の定、大嶋部長は長崎駅の売店で缶ビールを二つ買う。
特急列車に乗り込んですぐに、「いや、よかったですな。唐池さんのおかげですわ」 またこれだ。別に私がどうこうしたわけでもなく、ひとえに腹のすわった大嶋部長の存在感のおかげなんだ。心底思った。
大嶋部長は、祝杯をあげるように促してくる。 「乾杯!」 なんてうまいビールなのだ。その後、二人で何度か佐世保の漁協に足を運び、片岡組合長と膝を突き合わせて話し合った。
そのうちに、といっても就航ぎりぎりまで時間を要したが、組合長も私たちの事業の理解を示してくれるようになった。筋を通して話していけばわかってくれる。
映画で観たような酸いも甘いもかみわける渡世人に見えてくる。なんだか、組合長はここまでのシナリオを、最初に会ったときから描いていたような気がしてきた。片岡さんとは、その後もずっと親しくさせていただいている。ご縁というものは不思議なものだ。 』
『 「えっ、ビートルが飛べない?」 思わず受話器に向かって叫んでしまった。その日、突然の報せを聞くまでは対馬での用事も順調に進み、いい気分のまま一日を終えるはずだった。
今から四半世紀前になるが、忘れもしない一九九一年七月一五日のこと。梅雨明けを予感させるような青空が広がった暑い日だった。「ビートルが釜山港を出てすぐにエンジントラブルで、飛べなくなりました」
ビートルとは、JR九州が運航している高速船(ジェットフォイル)のこと。この年の三月、博多港と韓国・釜山港の間に就航した。ジェットフォイルは、船には違いないが、米国のボーイング社によって開発されたもので基本構造が飛行機(ジェット機)と変わらない。
水中に広げた翼の揚力と、ガスタービンエンジンで海水を前方から吸い込み後方に噴射する推進力で船体を海面から二メートル浮上させて翼走する、すなわち、飛ぶのである。
エンジンの出力が十分でないときは、船体を半ば海中に沈ませてゆらゆらと進む、いわゆる艇走となる。このときの性能は、普通の船と変わらない、いやそれ以下かもしれない。
飛べなくなるというのは、船体を海面から浮上させて高速で翼走することができなくなることを意味する。約二百十キロ離れている博多港と釜山港の間を二時間五十分という短い時間で結べる船舶は、今のところ、このジェットフォイルしかない。
多少の波でもほとんど揺れがなく、乗り心地も抜群で船酔いしない。しかしそれは、四十五ノット(時速約八十三キロ)で翼走できたときであり、艇走になるとたらいのようにぷかぷかと揺れながら低速で進むことになる。
博多港のJR九州船舶事業部の事務所から、当日たまたま対馬を訪れていた同部営業課副課長の西依正博さんと私(当時同部営業課長)の二人に最初の連絡が入ったのは、夕方四時ころだった。
ビートルが飛べない。翼走できない。ジェットファイルの高速で快適という高性能が、まったく発揮できないのだ。やむをえず艇走で博多港に向かうという。せいぜい一五ノットか二〇ノット、時速三〇キロ程度のしか速度が出ない。
釜山港を出たばかりのところでのトラブル。博多港までは遠い。玄界灘の荒波にもまれるように揺れながらの長時間の船旅は、どれほど苦痛だろうか。
続報が入った。低速でしか進まないため、博多港にたどり着くまで燃料がもたない。よって、釜山から博多までのちょうど中間にあたる対馬の厳原港(いずはら)に寄るとのこと。
たまたま対馬にいあわせた西依さんと私の二人で、厳原港に着岸するビートルの約一二〇名のお客様が上陸され対馬で一泊できるよう手配をするように、とのこと。
予定が大幅に狂った。ビートルのお客さまの予定もさることながら、私たち二人の予定もまったくの白紙となった。対馬での仕事が予定よりもはるかに順調に進み、かなりの成果を挙げることができた。
さあ、夕方には厳原町の役場の人たちと地元の焼酎「対馬やまねこ」で祝杯をあげようという段取りになっていた。もう、それどころではない。
たまたま二人が対馬にいたからいいものの、誰も対馬に来ていなかったらどうするつもりだ。文句の一つも言いたかったが、二人はビートルの営業と運航の責任者だから仕方ない。
というより、一二〇人のお客さまの苦難を思うと二人で最善を尽くすしかないと奮い立った。 』
『 ところで、私たち二人はなぜ対馬にいたのか。対馬で一日、何をしていたのか。ビートルが就航して四ヵ月、やっと船体も船員も玄界灘になじんできた。
運航開始直後の小さな初期トラブルも克服して操船技術も次第に向上、まずまず順調に国際航路として走りはじめた。ただ、お客さまのご利用においては、当初の予想に反してかなり低い乗船率で推移していた。
さすがに楽天家の私でも、営業課長という立場から、もっと多くのお客さまにご利用いただけるよう徹底的に営業活動をしていかなければいけないと、焦りやいらだちにも似たものを抱いていた折だった。
そんなとき、対馬の厳原町からありがたい話が舞い込んできた。 「対馬の高校の修学旅行の団体で、ビートルに乗って釜山に行きたいのだが……」 渡りに船とは、まさにこのことか。さっそく打ち合わせのため、対馬に出向いた。
本航路は、博多港と釜山港を間をノンストップで往復している。厳原町からの要請は、博多港から途中、厳原港に寄って修学旅行生を乗せて釜山港へ、帰りは三日後に彼らを釜山港から厳原港まで運び、そのあと博多港へという、通常の定期航路とは違った内容だ。
イレギュラーな運航となるが、二〇〇人という大きな団体の乗船となるから、私としては喉から手が出るような……。ぜひともまとめたい商談だった。
実現させるには解決すべきいくつかの問題があったが、なかでも「C・I・Q」の関係が最大の難関に思えた。そのほかの問題は当社内で解決することができそうだったし、実際解決できた。
「C・I・Q」というのは、国境を越えて出入りするときに必要な手続きのことだ。Cは関税(Customs)、I は入出国管理(Immigration)、Qは検疫(Quarantine)のそれぞれの頭文字からとっている。
航空機でも船舶でも、国際航路の運航に不可欠の手続きであり、「C・I・Q」が一つでも機能しないと運航できない。国際空港(港)には必ず「C・I・Q」の施設が備わっており、必要な人員も配置されている。
ビートルを厳原に寄港させるには、「C・I・Q」の適正な配置が必要になる。厳原港にも「C・I・Q」の各機関の出張所があることはあるが、主に貨物を積載した貿易船の輸出入の手続きを行っており、人の、それもかなりの人数の団体の入出国業務に対応できるかどうか。
そこで、二度目の対馬訪問となった。それがこの七月一五日だった。厳原にある「C・I・Q」の各事務所を訪れ、この秋の対馬の高校の修学旅行生たちの入出国手続きを臨時の手配で行ってもらうようお願いするためだった。
西依さんと二人で、厄介な交渉になることを覚悟しながら「C・I・Q」の三つの事務所に伺い、それぞれの所長に厳原寄港の意義について誠意と情熱をもって説明していった。
同行したのが西依さんだったのもよかった。西依さんは、当時脂が乗り切った四三歳(私は三八歳)。国鉄時代は、長崎駅の助役や労使間の対立が激しい職場を歴任し、数々の修羅場を踏んできた苦労人だ。
「この秋に、ぜひ厳原から釜山に修学旅行を送り込みたい」 三人の所長はいずれも、最初はずっと黙って説明を聞いている。当惑しているふうだった。
「十代でお隣の国を訪れその国の人たちと交流しその国の文化を学ぶ、このことの意義は大きい」 各所長は、次第に身を乗り出して話に耳をかたむけだした。「そのためには「C・I・Q」の力が必要です。なんとしても……」
所長たちは三人とも、私たち二人が熱く語るのに気持ちが解きほぐされたのか、三十分もやりとりをしていると最後は微笑んでくれた。「わかりました。やってみましょう」 各所長が、いずれも快諾してくれたのだ。
よかった、いい一日になった。対馬に来たかいがあった。厳原寄港について最初に提案された厳原町の役場の人にもそのことを報告すると、満面の笑みで喜んでくれた。
じゃあ、今晩祝杯をあげようということになって役場の応接室でひとときくつろいでいたところに、「飛べなくなった」第一報が飛び込んできたのだった。 』
『 祝杯どころではない。役場の応接室が、急遽、ビートルのエンジントラブルによる厳原臨時寄港対策室となった。西依さんと二人で今からやるべきことを整理する。すぐにも、たくさんのことにとりかからなければならない。
追い打ちをかけるような連絡が入る。ぷかぷかと波に揺られながら進むしかないビートルが、厳原港にたどりつくのが夜の八時ころだという。与えられた時間は、せいぜい三時間ほど。
まずは、お客さまのこと。疲労困憊で上陸されるお客さまの様子が浮かぶ。なんといっても、お客さまに休んでいただく宿泊先の確保だ。あいにく、厳原に一二〇人という大人数がまとまって宿泊できる施設はない。
七、八ヵ所のホテルや旅館に分宿してもらうことになる。すぐに一軒一軒まわって、お願いするしかない。それぞれの宿まで、どうやってお客さまをお運びするか、タクシーやマイクロバスの手配も急を要する。
翌朝に博多港までお客さまをお送りする手配も大事だ。九州郵船のフェリーが、朝九時に厳原港から博多港に向かう。その乗船券も確保しなければ。
博多港からお客さまはそれぞれの自宅か勤め先に向かわれるから、お客さまがばらばらになる前に厳原でビートルの運賃を払い戻しができるようにお金の準備も明朝までに済ましておく必要がある。
そして、「C・I・Q」 のスムーズな手続きができるかどうかが一番の難題だ。疲れ切ったお客さまが厳原港のターミナルに着かれたあと、できるだけスピーディな入国手続きを済まして早く宿で休んでもらわなければいけないが、「C・I・Q」が夜の遅い時間に港で手続きをしてくれるか。
そのことが大きな心配事だった。こうしたことを、わずか二人だけで、しかもたった三時間という短い時間でやり遂げるのは、きっと無理だろう。
ありがたいことに、ビートルの災難を聴きつけた町役場の方が何人も私たちといっしょにすぐに行動してくれて、大勢で手分けして宿や車の手配をあっという間に済ましてくれた。
一番難しそうな「C・I・Q」のほうは、私たち二人でお願いにまわるしかない。幸いなことに、勤務終了前で各所長が事務所におられた。 「入国手続きのお願いに来ました」 ”にじり寄る”の妙技が決まるか。
「さっき、聞いたばかりじゃないですか。この秋でしょう」 「いいえ、実は急遽、今夜その予行演習をやっていただきたいのですが」 「……」 各所長とも唖然として、一瞬言葉が出てこなかった。私たちは、ビートルの急なトラブルの発生からもうすぐ厳原港に入ってくることまでを簡潔に説明した。
”にじり寄り”なんか通用しない。ただひたすら、二人して深く頭を下げるしかない。「非常事態なんです」 理解してくれた。ビートルが厳原港に着岸してすぐ「C・I・Q」の手続きをしてくれることになった。きわめて迅速かつ円滑に。 』
『 お詫びと説明を終え、皆さまを車のほうに順次案内した。お客さまも、あきらめたように静かに車に乗り込んでいかれた。私たち二人は、お客さまを車に案内したあと、ターミナルのあと片づけを済ましてお客さまが分かれて宿泊されるホテル、旅館を一軒一軒まわった。
ほとんどのお客さまは多少精気を取り戻されたようで、元気に食事をとられていた。私たちは、グループごとにあらためてお詫びを申し上げながら、男性で元気そうな方にはビールをお酌してまわった。
二人ともお詫びをするのはそれほど得意ではないが、お酌しながらこちも少し元気になったような気がしてきた。
「ビートルの課長さん、気にしなさるな。厳原港に着いてからのあなたたちの対応は立派だ。釜山に観光に行ったが、もう一泊対馬で観光が、できたと思えば楽しいよ」
元気なビジネスマンがかけてくれた言葉が、私たち二人の疲れを吹き飛ばした。あとで、宿の外に出て二人で強く手を握り合った。よかったなあ。
翌朝、昨日の大騒ぎが嘘のような青空のもと、さわやかな空気が厳原港を包んだ。宿からつぎつぎにお客さまが港にやってきて、昨日とは打って変わって力強い足取りでフェリーに乗り込まれる。
幸い、どのお客さまも怒った表情ではない。なかには、「お世話になりました」と私たちに言葉をかけてくれる方もいらっしゃった。予定どおりに、お客さま全員が無事お昼過ぎに博多港に到着された。 』
このあと、赤字のJR九州の外食事業部を黒字化し、特急「ゆふいんの森」、特急「あそぼーい!」、特急「A列車で行こう」、特急「はやとの風」、特急「指宿のたまて箱」へと続き、「ななつ星」へと続きますが、最後に、唐池恒二 ”「鉄客商売」 二二の学び” を紹介して終わります。
(一) 何事も前向きに考える
(二) 意気に感じて取り組む仕事は、けっこううまくいく。
(三) 難局に直面したとき、逃げずに真正面からぶつかっていくと道は必ず開ける
(四) 進むべき方向とスケジュールを明確にすると、人は迷わず行動する。
(五) 二メートル以内で語り合うと、互いに心が通じるようになる。
(六) 「気」に満ち溢れた店は、繁盛する。
(七) 夢は、組織や人を元気にする。
(八) 経営方針は、トップが自らの言葉で語る。
(九) 月次決算書は、現場の責任者が手づくりで作成することに意味がある。
(一〇) ネーミングは、徹底的に勉強し、とことん考え抜いてはじめてできるもの。
(一一) 現場に行くと、いろいろなことを教わる。
(一二) サービスとコストの両方の最適化が、経営のめざすべきものだ。
(一三) サービス教育の先生役は、鬼に徹するべし。
(一四) 店長が最優先すべきことは、司令塔として職務を全うすることだ。
(一五) 何ごとも、すべてを貫く哲学=コンセプトが大切だ。
(一六) 手間をかけ誠実に徹した仕事や商品は、お客さまを感動させる。
(一七) 学んだことは、すぐに実践する。
(一八) 人を元気にすると、自分も元気になる。
(一九) デザインと物語は、いい仕事には欠かせない。
(二〇) 行動訓練は、「気」を集めるための最良の道だ。
(二一) 日々の誠実で熱心な練習は、本番で大きな成果をあげる。
(二二) 「気」のエネルギーは、感動というエネルギーに変化する。
私が本書を読んで、唐池会長の最もすぐれた点は、必ず素晴らしい相棒とタグを組んで、難関を攻略し大きな成果をあげていることだと思います。簡単そうでなかなかできないことです。 (第125回)
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