51. 野菜探検隊世界を歩く (池部誠著 1995年1月発行)
『 これは、1982年から1989年にかけて、延べ十ヵ月かけて七ヵ所の野菜の原産地に探検に行った記録である。
世界には全部で八ヵ所の野菜や作物の原産地があり、主要な野菜は七ヵ所で生まれたが、日本は含まれていない。
日本の野菜のベストテンを消費量順に挙げると大根、キャベツ、タマネギ、白菜、ジャガイモ、キュウリ、トマト、サツマイモ、ニンジン、レタスとなるが、どれひとつと日本生まれはない。
私がこの旅行を思いついたのは、この事実を知った時だった。私はその時、三十歳を過ぎていた。いくつになっても知らないことは多いが、身近な事柄なら知らないはずはないと思っても不思議はない歳である。
それなのに、大根や白菜のような野菜まで日本生まれでないことを知らなかった。
自分だけが無知だったのだろうか。周りの人間にこの事実を知っているか、尋ねてみた。もちろん、知っている人はいたが、知らない人たちは、皆、ビックリし、興奮した。
調べてみると、奈良時代までに日本に入っていた野菜も多かった。昔は種子だけを送るなんてことはなかったはずだから、アジアの各地から栽培方法を知った民族が種子をもって日本にやったきたことになる。
オーバーにいえば、古代の日本は「日本合衆国」だったのではないか。こう考えた私は是非、日本から原産地までの道を辿り、野菜の祖先である野生植物も見てやろうと思うようになった。
原産地とは野生植物を人間が栽培化した土地のことである。ところが、これが難問だった。野菜たちが栽培化されたのは遠い昔だったものだから、先祖である野生植物と野菜たちがかなり違ってしまっていた。
どの野生植物が先祖であるか、判定するのが難しいのである。そうした研究をしている学者が少ないこともこの問題の解決を遅らせている。しかし、それが判らなければ原産地は決定できない。
それでも少しずつ調べを進めるうちに、私はますます行きたいと思うようになった。原産地や日本までの道は、次のような不思議なことに皆が行きたいような魅力的な土地なのだ。
シルクロード、インカ帝国の首都クスコ、地中海沿岸、イースター島、中国雲南省、インドのデカン高原、ヒマラヤ山麓、ラダック(インドのチベットとアフガニスタンとの国境付近)、チベット、カフィリスタン(「異教徒の地=カフィリスタン」であり、パキスタンのアフガニスタンとの国境付近で、ヒンドゥークシュ山脈の麓に位置し、カラーシャ族の村)。
この探検は四季に及び、高度は海抜ゼロメートルから5千2百メートル。風土は砂漠、高山、岩壁、草原、湿地帯と多岐にわたった。
植物はどんな土地でどんな季節にどんな形で自分と子孫の生存をはかるかで、性質は違ってくる。
ありとあらゆる風土を見た気がするが、私が一番好きだったのは、標高の高い乾燥した土地。あんな深い、美しい藍色の空を見たことはなかった。
この探検は、場所によってはいささか資格がいる。きれいなホテルで毎日風呂に入らないと気持ちが悪いという人では無理だし、予定どおり飛行機が飛ばないからといってパニックになる人でも困る。
東アジアのいろいろな国で、初めてあっても懐かしい思いのする顔をした人々と会うことができた。
現地で私はチベット、中国山東省、韓国の人間と間違えられ、望月カメラマンはネパール人と間違えられた。
各国で食べた、現地ならではの実においしい野菜とともに、忘れられないことである。 』
『 日本で栽培されている野菜のベストテンだけでなく、茄子、葱など漢字で書く野菜も日本生まれではない。
今も食べられている日本原産の野菜は、フキ、ミツバ、ワラビ、ノビル、ウド、ワサビなどで、昔大いに利用されていた野草は、縄文時代の主食だったドングリ、トチの実の地位がだんだん下がってきたように、質の高い輸入作物に押されて食べられなくなっていまったのである。
こうした野菜や作物が日本にいつ輸入されたかを調べてみると、大きな波がいくつかあったことがわかる。
縄文時代
アワ、ヒエ、シコクビエ、マクワウリ、サトイモ、ソバ、ヒョウタン、ゴボウ、大豆、稲
弥生時代
小麦、大麦
奈良・平安時代
キュウリ、ナス、カラシナ、ツケナ、チシャ(非結球レタス)、カブ、ネギ、エンドウ、ソラマメ、大根、シソ、ラッキョウ、茶、ゴマ、ベニバナ、コンニャク、ナシ、ビワ、ユズ、カキ、ニンニク、クリ
室町・江戸時代
ジャガイモ、サツマイモ、トウガラシ、カボチャ、トウモロコシ、トマト、ニンジン、タマネギ
幕末・明治時代
キャベツ、白菜、カリフラワー、メロン、マッシュルーム、レモン、オレンジ
作物の伝来した時代は日本が海外に門戸を開き、交流の行われた時代である。奈良・平安時代は遣隋使、遣唐使の時代であり、室町末期、江戸初期は南蛮時代だった。
幕末・明治時代については説明の要がないだろう。縄文、弥生時代はどうだったか。
日本列島に人が住みついたのは縄文以前の洪積世(十万年前)という。
つまり、外国からやってきたわけだ。その後縄文人も弥生人もアジア大陸から渡って来たのだ。
農耕が始まったのは大体一万年前だから、縄文人がやってくる頃にはほとんど生まれていたはずだ。 』
『 ところで、日本の野菜はどこで生まれたのだろうか。それはどうして判ったのだろうか。世界で最初にこうした研究をした人は、1883年に、「栽培植物の起源」を出版したスイス人ド・カンドルだ。
父の仕事をうけついだド・カンドルは植物地理学、考古学、言語学を使って原産地を推定した。
二十世紀に入ってド・カンドルの仕事を発展させたソ連のニコライ・バビロフは、世界各地に探検隊を派遣し、もっと細かく正確に原産地を突き止めた。
古い栽培植物や野生種を遺伝学的に分析して優性遺伝子が多く集っている地域が原産地で、そこから遠ざかるにつれて劣性遺伝子が多くなるという説を立てたのだ。
「優性」とはメンデルが自家受粉するエンドウを使って実験し、明らかにした法則に出てくる「優性」である。
両親の違った性質は子供の時代にはどちらか一方しか現れない、その現れた性質を隠れた性質に対して「優性」という。
たとえば、赤と白の花を掛け合わせて赤い花が咲けば赤が優性、白い花が咲けば白が優性というわけで、優性とは質が優れているという意味ではない。
バブロフは育種(品種改良)のために研究を行ったのである。彼は「育種の成功は主として素材となる種や品種の正しい選択によって決まって来る」と書いた。
彼が1920~30年にかけて集めた遺伝資源(種子、イモなど)は人類共通の宝ともいうべき素晴らしいもので、ソ連で栽培されながら維持されてきた。
ソ連が崩壊してロシアが経済的な混乱を起こした後は、国際植物遺伝資源研究所が資金援助をして維持され、そこ代償としてこの遺伝資源が国際的に利用できるようになった。
こうした探検調査の結果、バビロフが発見した八大原産地とそこに起源を持つと考えられる作物は以下のとおりである。
一、中国 白菜、稲、大根、瓜、ネギ、ニラ、ソバ、大豆、アズキ、桃
二、インド・マレー 稲、ナス、キュウリ、サトイモ、バナナ、サトウキビ
三、中央アジア ニンジン、タマネギ、ホウレンソウ、リンゴ、ブドウ
四、近東 小麦、大麦、エンバク、レタス
五、地中海 大根、キャベツ、エンドウ、セルリー、アスパラガス
六、エチオピア オクラ、コーヒー、スイカ、メロン
七、中米 トウモロコシ、サツマイモ、日本カボチャ、トマト
八、南米 ジャガイモ、トウガラシ、西洋カボチャ、タバコ、サツマイモ、トウモロコシ
このリストには、日本ばかりでなく、世界一の農業国であるアメリカもロシアもヨーロッパ(地中海地方を除く)も入っていないことに注目してほしい。
ソ連と並ぶ大国だったアメリカも遺伝資源の導入には積極的だった。というよりバビロフが探検隊を出したのもレーニンがこの点でアメリカに学べという指令をだしたからである。
日本と同じように自国で生まれた作物がないアメリカは、国をあげて植物導入を図る必要があったのだ。
はやくも1827年には第6代大統領、J・Qアダムスが在外全領事に対し珍しい植物や種子をワシントンに送るように命じている。 』
『 日本の野菜の中で、一番長い旅をしてきたのがジャガイモだろう。
ジャガタライモと呼ばれ、昔はジャカトラと呼ばれたインドネシアのジャカルタからオランダ人が長崎に持ってきたのは有名な話だが、話にはまだ先がある。
ジャワにはオランダから、オランダにはスペインから運ばれた。そしてスペインにはペルーから、南米に覇を唱えたインカ帝国を征服したスペインの兵士たちが持ち帰った。
そしてこのジャガイモは、サツマイモがアジアを救ったように食料不足に悩むヨーロッパを救うことになる。
インカ帝国は首府クスコの標高が三千四百メートル、世界最高の高地にできた帝国だが、ジャガイモはこの国の主食だった。
今でもクスコ周辺の田舎で散見される可憐な花と小指の先ほどのイモをつける野生のジャガイモを、インカ帝国やそれ以前にこの高地に生まれた文明が、何千年もかけて子供のこぶし大にまで育て上げ、人間の食物に仕立てあげたのである。 』
『 ジャガイモの価値は高く、カロリーに対する蛋白質のバランス、ミネラルとビタミンの含有量は、単一食物としては卵の次に高い。
単位面積当たりの収穫量は作物の中では断然トップだし、一日ヘクタール単位(一ヘクタール単位の収量を栽培日数で割ったもの)もトップである。
発展途上国の平均でジャガイモはヘクタール当たり九・四トン獲れるが、稲は一・九トン、トウモロコシは一・四トン、サツマイモでも七・四トンだ。
ジャガイモは小麦、トウモロコシ、稲についで世界で4番目に収穫量の多い作物であり、トウモロコシについで世界で2番目に多くの国で生産されている作物でもある。 』
『 アンデスの東斜面はアマゾンにつながる年間雨量2千ミリの熱帯雨林地帯である。
つまり、クスコ付近のペルー南部は海抜ゼロメートルから海抜六千四百二十五メートルまでの標高差がある珍しい土地であり、雨量も大きく違っている。
こんな山岳地帯にあったインカ帝国には当然平野は少なかった。だから、土地を水平ではなく、垂直に使うことにした。標高差のある土地を全部使おうとしたのだ。
たとえば、最近まで、インカ帝国の主食はトウモロコシと考えられてきた。何故なら、世界中のどこの古代文明も穀類を主食としてきたからだ。
穀類は単位面積当たりの収量が高い上、炭水化物、脂肪、蛋白質など栄養価も高い。しかも、貯蔵、輸送にも適している。
しかし、調べてみると、トウモロコシは普通、標高二千~三千メートルまでしか栽培せれていない。そして、標高三千~四千メートルを越えるくらいまではジャガイモの天下なのだ。
それも、食事の材料の七~八割をジャガイモが占めているくらい頼っていた。秋に収穫したジャガイモを乾燥させて一年中食べるのだ。
チューニョの発明によって、腐りやすくて重い、貯蔵にも輸送にも適さなかったジャガイモの欠点が克服できたのである。
チューニョにはもうひとつの価値がある。耐寒性のある品種はジャガイモ特有のソラニンのために有毒で苦味が強いが、乾燥する過程でこれが取り除かれるのである。
ジャガイモの収穫期は晩秋だが、チューニョは冬の気候を利用して作られる。冬の湿度は三〇パーセントで、日中一五度の気温が夜は零下十度に下がる。
この気候の下で、野外に放置されたジャガイモは夜は凍結、昼は融解という過程を繰り返し、一週間もすると、ブヨブヨになる。このジャガイモを足で踏んで水分を取り除くのである。
ところでその後訪れたマルカパタの村の中心は標高三千七百メートルにあるが、この村の一番高いところは海抜五千メートル、低いところは海抜一千メートル、標高差が四千メートルある。
驚くべき標高差で、しかも、こんな村はざらにあるという。彼らは高度差による自然条件の違いをはっきり認識して、その特徴を生かして利用しているのだ。
標高1千~2千メートルまでは、サツマイモやトウガラシ、1千メートル以下はキャッサバ、トマトなどを作っている。
それにしても、人間はどうしてこんな高地にまで登ってきたのだろう。熱帯低地が病原菌の巣であり、人間の住むのに適してない土地であることは明らかだから、最初は2,3千メートルの土地に住んでいたのだろう。これなら大して苦しくない。
しかし、2,3千メートルの土地から息の苦しい4千メートルを越える土地に上がってきた理由がわからなかった。
民族学博物館の山本紀夫さんに質問すると、私はリャマ、アルパカを追って登ったのだと思います、と言われたが、行って見て納得した。4千メートルでは栽培できるジャガイモは少ないのである。 』
『 ペルーを出た私は、ヨーロッパ廻りで日本に帰ることにした。ジャガイモを誰がヨーロッパに持ち込んだかについての記録はない。
ペルーからインカ帝国を征服したスペインに1570年頃渡り、イギリスには1580年代に伝わってようだ。
そういう点ではジャガイモは不運だった。サツマモはコロンブスの第一次航海の時に持ち帰られ、記録されたのに、1533年にインカ帝国を征服したピサロは記録を残してないし、ジャガイモも持ち帰っていない。
コロンブスと違ってピサロやその後のコンキスタドールたちは金を奪い取ることだけを目的に新大陸に出かけた。
スペイン人のこうした性質が新大陸から金銀や栽培植物を持ち帰りながら1世紀も経たないうちに世界の覇権を失ってしまう理由なのだろう。彼らは残虐で粗暴だった。
副王になろうとしたコロンブスのように現地民が何を食べていたかなどということには関心はなかった。ジャガイモは期待した宝物ではなかったのだ。
彼らとその後継者たちが新大陸から送った金銀は1503年から1660年の間に、当時のヨーロッパの金保有量の20パーセントにあたる18万1千キロの金と、銀保有量の3倍にあたる千六百万キロの銀だった。
これを1983年の日本の価格で計算すると金が6千億円、銀が1兆6千億円くらいになる。かなりの量だが莫大というほどでもない。
ジャガイモは1980年には全世界で2億2千万トン生産されたが、これは日本の小売価格で60兆円くらいになる。しかも、毎年生産されるのだから莫大な金額である。
当時、種苗法があってこの種イモを独占していたら、もの凄い金持ちになっていたろうと言われるが、当時のスペイン人にはそんな想像は浮かばなかったのだろう。
しかし、最初は無視したジャガイモの価値をヨーロッパはだんだん知ることになる。
まず、同じ新大陸起源の作物でも、先に発見されたサツマイモは標高の低い所が原産地だから、暑いアジア向きだったのに対して、ジャガイモは標高の高い土地が原産地だったから、冷涼なヨーロッパ向きだった。
加えてジャガイモは荒地でも栽培できたし、小麦を栽培すると人間一人しか生きられなかった土地でも、ジャガイモを栽培すると二人生きられるくらい収量が多かった。
だから、低地と昼間の長いヨーロッパの気候になれてイモをつけるようになり、ヨーロッパの早い冬の来るまえに収穫できる早熟性の品種ができ、さらに今のジャガイモのようにイモが大きくなって完成する1830年頃からヨーロッパにおけるジャガイモの地位も大きくかわった。
ジャガイモは大規模に作られ始め、アジアを救ったサツマイモのようにヨーロッパを救うようになったのだ。
ヨーロッパの食生活はそれまで非常に貧弱だった。まず、ヨーロッパでは日本の米のように麦を主食にすることができなかった。
何故なら、主要な穀類である麦は米ほど栄養価が高くなく、また充分に獲れなかった。
ヨーロッパの農地のうち、人間の食べる作物を栽培できる土地は、平均すると半分くらいにしかならない。麦が栽培できる土地も生産力が低かった。
十八世紀の日本とイギリスを比べると、日本の稲は播いた種子の三十倍の収穫が得られるのに対し、イギリスの麦は五、六倍にしかならなかった。
だから、ヨーロッパ人は決してパンを主食にしていない。残りは家畜しか食べられない雑草が生えているだけの土地である。
こうした牧草地は写真にすると美しいが、作物の生えない貧しい土地なのだ。だから、その雑草を家畜に食べさせて家畜を人間が利用するほかなかったのである。
しかし、家畜の肉を食べていたのではなく、絶えることなく手に入れることができる乳に頼った。
肉を利用したのは、一度に数頭生まれ、半年で成長する豚が主だった。しかし、保存するには塩漬けにするしかなかった。
このまずい塩漬け肉の味を良くするために使っていたのが、コショウなどヨーロッパでは栽培できない香辛料だった。
そして、金と並んでこのコショウが極めて高価だったことが大航海時代を生むのである。
麦も肉も主食の地位に座ることはできなかったから、中世まで彼らの主食は両方のごった煮だった。麦の粉、野菜、牛乳、時に肉を一緒に煮込んだものである。
今でも、スープを「飲む」といわず、「食べる」というのはそのなごりだ。そして、澄んだスープでも「食べる」と音がしない。
こうしたヨーロッパの食生活を救ったのが、新大陸から持ち帰られたジャガイモである。たとえば、ドイツの食事の二大材料がジャガイモと豚肉であることは誰も否定しないだろう。
豚肉がドイツで大量に食べられるようになったのもジャガイモのお陰だ。新鮮な野菜が何もなかった冬にビタミンCを人間に供給し、ドングリのなくなった冬に豚の餌になったのがジャガイモだったのだ。 』
『 世界でジャガイモに一番頼ったのはアイルランドである。この国は現在三百五十万人の人口しかないが、1847年には800万人を越える人口を持っていた。
産業革命が興り、労働人口の増加が求められたのをジャガイモが支え、爆発的な人口増加があったのである。その頃は一日一人五キロ平均のジャガイモをたべてたらしい。
しかし、不幸が起こった。1851年、ヨーロッパ全域を覆ったジャガイモの疫病にアイルランドのジャガイモも冒されてイモが腐り、大飢饉になったのである。
この大飢饉は1348~50年の黒死病以来のヨーロッパ最大の災害だと言われている。
人々は食料もなく、1851年までの六年間に80万人が死に、百五十万人がアメリカに逃れた。
移民はその後六十年間に五百五十万人に及び、アメリカではアイリッシュといえば、貧乏人の代名詞である時代が続いた。
本国では結婚率や出生率が下がり、ジャガイモの疫病が終わり死亡率が下がっても、人口は1851年の六百六十万人から1911年には四百四十万人に減ってしまった。
大飢饉の後もアイルランドではジャガイモに頼っている。ペルーの後、私はケルト族の多く住む西側の太平洋側の寒村を訪れたが、今でも農家の食事は昔のままだった。
ここでは昔どおりに一日で一番重い(ディナー)が昼食なのである。一家のテーブルには真ん中に大人の拳大の大きなジャガイモが山盛りにされた大皿が置かれていた。
一人一人には専用の皿がありその皿にはゆでたベーコン、ニンジン、グリーンピースが取り分けられていた。
その皿に各自がジャガイモを取ってきて、ナイフで皮をむき、塩を振りかけて食べるのである。ジャガイモのお代わりはできるが、そのほかには牛乳があるだけだった。
ところで、この大飢饉のせいで病気に対する抵抗力のある品種の研究を各国が始めた。
何故なら、イモを大きくするとか、人の口に合う味にするとか、人間が品種改良する過程で、病気に対する抵抗力のある遺伝子を知らずに落としてしまうことがあり、これを補うには古い栽培種や野生種が持っている大病性遺伝子を捜して取り入れるしかないからである。
こうして南米で集めた品種を使って品種改良したジャガイモについてのエピソードが残っている。
第二次世界大戦中、ソ連の育種学者はドイツ軍に攻撃され、食べるもののない地下室で種イモ用のジャガイモを守るためにその種イモを食べないばかりか、家具を燃やしてジャガイモの凍るのを防ぎ、鼠の群れを追う仕事に従事していたというのである。
彼らはジャガイモがなければ世界一のジャガイモ生産国、ソ連の生活は成り立たず、ドイツに必ず負けると確信していたのだった。 』
『 大根、キャベツ、白菜、日本の野菜を栽培面積順に書くと、ベストスリーはこうなる(1984年当時)。不思議なことに、この三つともアブラナ科の野菜である。
この三つの野菜は、大根、キャベツ、白菜と栽培面積の多い順に日本にやってきた。大根は奈良時代までに入り、キャベツは江戸時代に到着した。
最初に到着したキャベツが結球したものであったかどうかは不明だが、そのうちに観賞用の葉牡丹になり、今、私たちが食べているキャベツは幕末になって再び輸入されたものの子孫である。
白菜は明治になってから入り、大正時代でもまだ珍しい野菜だった。この三つの野菜は親戚同士であり、地中海から近東にかけてを原産地としている。
祖先である野生植物は今でも生えているし、また、ここには三つの野菜の共通の祖先である野生植物も生えているという。 』
『 近世のヨーロッパを救った作物が南米産のジャガイモなら、近世アジアを救った作物は中南米原産のサツマイモだ。
日本も江戸時代以来、食糧危機のときにはいつもサツマイモに救っても貰ったし、日本の戦後がサツマイモなくしてありえなかったことは記憶に新しい。
もちろん、サツマイモは飢餓の時しか食べられなかったわけではない。サツマイモを大規模に栽培した西南諸島では人口が増え、明治維新を推進する兵力を生み出すことができたのだ。
サツマイモはコロンブスによってヨーロッパに運ばれた。その後そのサツマイモがアジアまで廻ってきたが、アジアへの道はそれだけでない。
植民地だったメキシコとフィリピンの間にはスペイン船の定期便があって、サツマイモもこのルートで運ばれた。
しかし、アジアへの道はもうひとつあった。ヨーロッパ人が南太平洋の島々を「発見」した時、島民はすでにサツマイモを食べていたのだ。
この事実は、ヨーロッパ人の大航海時代以前から南太平洋を渉るサツマイモの道があった。つまり、南米とポリネシアの間をヨーロッパ人以外の人間が交流していたことを示している。
何故なら、サツマイモはイモも種子も水に浮かばないから、人が運ばなければ移動できないのだ。 』
『 サツマイモが日本を、そしてアジアを救うことができたのは、サツマイモの栄養価が高く、多収だったからである。
エネルギー源としてのとしてのデンプンの含量が多く、すべての作物の中で単位面積当たりのカロリー生産量が最も高く、稲の1.7倍もある。
ビタミンB1、ビタミンCも多く、カルシウムもかなりあってこの点でも米よりも優れている。それに加えて栽培が容易だった。
肥沃な土地より荒れ地を好むという便利な作物だったから、肥料もいらない。乾燥地を好むから潅漑水路もいらない。
寒冷地での栽培や冬の貯蔵は難しかったが、旱魃や多雨に強いことに加えてイモが地下にあるため病害虫にも強く、暖かい土地では素人でも簡単に栽培できた。
十四,五世紀から十八世紀までの間に日本の人口は約五倍になったから、大規模な開墾をしても慢性的な食料不足が続いていた。
飢餓ともなれば多くの人命が失われ、江戸時代の三大飢餓の時には合計二百四十万人の死者が出ている。
しかし、サツマイモの導入以後、栽培適地の中国、四国、九州では餓死者は出なかっただけでなく人口が増えた。
そして、サツマイモは明治維新を支えるようになる。薩長土肥の四藩は皆、サツマイモの常食藩だったため、維新戦争に動員する兵力が他の藩に比べて格段に多かったのだ。
たとえば、二五万石の彦根藩が動員した兵力が二千五百人なのに比べて、七十七万石の薩摩藩はなんと四万余人を動員し得た。芋侍が米侍を圧倒したことになる。
サツマイモの登場は米中心の日本の食生活から多様な食生活へのきっかけにもなったと小山修三氏たちは言う。
なぜならサツマイモは生産性も高く、エネルギー源として優秀な食品であるが、主食にした場合、蛋白質、脂質、ビタミンAの不足が致命的であり、それを補う必要がある。
そのため魚をたくさん食べるようになった。調べてみると、日本でサツマイモを多量に食べる土地は海のそばにある。
愛媛県宇和島市の周辺では干したサツマイモの雑炊をイワシの丸干し、菜漬けと一緒に食べていた。鹿児島では右手にサツマイモ、左手にイワシと言われていた。海に面してない地方では大豆で補った例もあったらしい。 』
『 白菜は北京で生まれたわけでわない。北京の南、上海の北西にあり、二千四百年の歴史を誇る古都、揚州で生まれた。
といって、揚州に結球した野生の白菜があったのではないことはキャベツの場合と同じだ。白菜はここでカブとチンゲンサイが掛け合わされて生まれたのだ。
ここで生まれたのには理由がある。揚州が大運河に面しているせいだ。この大運河は、北京から上海の南西にある杭州まで全長千八百キロ。
東西を走る黄河、揚子江などの大河と結びながら、中国の南北を結び大動脈となっている。
この大運河は隋の煬帝により七世紀に作られたものとして有名だが、紀元前五世紀に揚州とその北の准安にかけて准河(ワイガ)と揚子江を結ぶ運河として作られたのが最初だ。
この運河によって多くの物資が南北を移動した。そして七世紀まで華北でだけ栽培されていたカブとチンゲンサイがここまで運ばれ、自然のうちに交配され、結球白菜の先祖である非結球白菜となったのである。
ところで非結球の白菜から結球白菜はどうやってできたのだろうか。白菜をくわしく見てみると、普通で三十~四十枚、多いもので八十枚くらいの葉がある。
だから、結球状態になる前に葉の数が多くなることが必要だったはずだ。葉が多くなると、外側の太陽光線が当たったところが伸びて行き、内側に巻き始めるのである。
だから、カブとチンゲンサイの交配されたものの中で葉の数の多いものから白菜ができあがったはずである。
前に日本に白菜の種子が持ち帰ったのは、日清、日露戦争に出征した兵士たちだと書いたが、それは大規模な栽培に結びついた時の話で、種子は江戸時代末期以来何度となく中国人によって持ち込まれていた。
しかし、白菜の種子があっても、栽培技術が下手だと、結球させることができない。たとえば、適期より一月遅れて種子を播くと、結球することなく、トウが立って花が咲いてしまうのである。
最初に結球させることに成功したのは明治十八年、愛知県栽培所だったが、成功するまでに十年の歳月がかかっている。
そして、結球白菜を栽培できるようになってからでも白菜の種子を採取することはできなかった。白菜と漬け菜やカブの花粉が交配されると巻かなくなってしまうのである。
これを防止するためには二キロ以上離れた場所で他のアブラナ科野菜から隔離して、白菜同士を交配させることが必要だった。 』
『 1950年代には世界第二の生産量を誇るようになったタマネギだが、日本にタマネギが最初に入ってきたのは17世紀である。しかも、栽培に結びついたのは明治になってから入り直したもので、歴史の浅い野菜だ。
ローマ時代には、タマネギを戦時の力とエネルギーを生み出す元と考えたので兵士に毎日大量に食べさせたという話が伝わっている。
古代ペルシャ王の食卓にも、毎日タマネギとニンニクが出されていた。古代インドではタマネギは腎臓、消化器官の活動や視力によく、心臓の動きを刺激し、リウマチを治す力があると考えられていた。
ヨーロッパがアジアから受け取ったたくさんの贈り物のなかで、人々を過酷な窮乏生活に耐えさせたのは何といっても、ブドウ(酒)とタマネギ(とその仲間)だろう。
古代ギリシャ人の畑でその厳しい労働を支えたものは、ワインの皮袋と一かけらのニンニクだったし、今のイギリス人でも、パンとチーズの昼飯にタマネギがついてなかったら、味気なく感じるだろう。
こうして、古代から栽培されていたが、タマネギの原産地は長い間判らなっかった
十九世紀にド・カンドルは、タマネギは栽培植物の中で最も古い種の一つである。サンスクリッドやヘブライ名をもつことから、原産地は西部アジアではないかと推定した。
どうも天山山脈の、旧ソ連領に属する西部がタマネギの祖先の原産地のようだ。 』
本書は美しい写真(カメラマンの高柳和正、望月久による)と旅のルートを記した地図が記載されており、あとがきにある参考文献もそれぞれが名著であり、1987年から1989年にかけて、延べ十ヵ月かって世界中を探検した記録であり、多くの文献と研究者に直接会って話した研究成果である。
栽培作物の科ごとに分類し、私なりにベストテンを述べますと、
(1) イネ科 稲、小麦、トウモロコシ、サトウキビ、ヒエ、アワ、竹
(2) マメ科 大豆、インゲン、クロバー、エンドウ、小豆、ソラマメ
(3) ナス科 ナス、ジャガイモ、トマト、トウガラシ、ピーマン
(4) バラ科 リンゴ、イチゴ、梅、ナシ、アーモンド、サクラ
(5) ウリ科 カボチャ、メロン、スイカ、キュウリ、瓜
(6) アブラナ科 大根、白菜、キャベツ、カブ、菜花
(7) ユリ科 タマネギ、長ネギ、ニンニク、アスパラガス、ニラ
(8) セリ科 ニンジン、パセリ、セロリ、ミツバ、セリ
(9) キク科 ヒマワリ、ゴボウ、レタス、春菊、フキ
(10)シソ科 エゴマ、セージ、ミント、バジル
となり、特にイネ科の稲、麦、トウモロコシ、サトウキビは、文明そのものである。
(第52回)
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