チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「銀座ミツバチ物語」

2015-11-01 19:15:39 | 独学

 94. 銀座ミツバチ物語  (田中淳夫著 2009年4月)

 『 ハチミツの味の違いをご存じですか。たとえば春先のソメイヨシノのハチミツは、桜の花の香そのものではなく、それを凝縮したような強い香りがする、サラッとしたハチミツです。

 ハチミツは「甘い」という認識しかないのが一般的でしょう。日本の養蜂は砂糖の代替品としてのハチミツを採るために行われていたという歴史があるので、それも仕方がないのですが。

 しかし、ドイツ、フランスなどヨーロッパのハチミツ先進国では違います。味はもちろん、香り、風味、糖度などによって、どんな料理に合うかなどが真剣に論じられたりもします。

 ドイツでは栗のハチミツは、その癖のあるビターな味わいが逆に珍重されています。ブルーチーズにかけ、発酵度の高い赤ワインと一緒に食すると最高のマリアージュ(融合)になると言われたりします。

 同様に癖が強く日本では人気のないソバのハチミツは、フランスではジンジャーブレッドというお菓子づくりに欠かせない材料として高い人気をほこるそうです。実はソバ焼酎に入れるととても合うんです。

 こうした季節の食材などと合わせた形でそれぞれのハチミツを楽しむ文化が、多分これからの日本でもはやることになるのでは、と私は思っています。しかも、同じ花のハチミツでも産地によって、また、その年の気候によって味が異なります。

 花の咲き具合が違うと、蜜も違ってくるんですね。この手の話、どこかで聞いたこと、ありませんか。私もはじめて聞いたときに思ったのですが、まるでワインの話を聞いているかのような錯覚を覚えました。

 そう、ハチミツは、知れば知るほど昔の日本のワイン事情と驚くほど似ています。ちょっと前の日本のワイン事情と言えば、赤なら肉料理に、白なら魚料理にと、いうぐらいの認識でした。

 今やそんな時代があったことが信じられないくらい、フランスのブルゴーニュのピノノワールとか、イタリアならトスカーナのカベルネソービニオンが…と、ワイン好きの方はとても詳しくなってます。 』

 

 『 2006年の春、沖縄からやって来た三箱のミツバチは、今が盛りのソメイヨシノの蜜をせっせと集めはじめていました。はじめての採蜜作業の日、藤原さんに勧められるままに、直接、巣のハチミツをなめてみたのです。

 シークワーサーの香りと、桜の香りが鼻腔の奥を刺激したあの瞬間。私はハチミツの魅力に取り付かれてしまったのです。ミツバチたちが沖縄でシークワーサーの花蜜を採っていたことが瞬間的にわかりました。

 同時に、ソメイヨシノの香りもわかりました。ハチミツが花の種類によって、明らかに違うことを確認した瞬間です。次の週、シークワーサーの蜜はしっかり搾ったために純粋なソメイヨシノのハチミツになったと思ったら、翌週は少し油っぽい菜の花に。

 それが終わると今度はユリノキのハチミツになりました。たくさんの花蜜が採れるユリノキが入ってくると採蜜作業も大忙しになります。この花は別名チューリップツリーと言われ、一つの花を何匹ものミツバチが同時に、しかも何度か蜜を吸ってもまだ大丈夫というほどの花蜜が出るからです。

 レンゲや菜の花などでは一匹のミツバチが花から花へと蜜を集め、ようやく蜜胃がいっぱいになるのですが、ユリノキだけはまったく別物。とたんに巣箱の中が上質のハチミツで充満し、週一回では間に合わず、週二回の採蜜をしなければあふれてしまいます。

 実は、このユリノキの存在が、銀座ハチミツプロジェクトのはじまるきっかけだったようです。「ようです」と他人行儀な言い方をあえてしたのは、当時、私も含め銀座ミツバチプロジェクトの面々は誰ひとりとして、そんなことはまったく認知していなかったからなのですが…。

 八年ほど前、藤原さんが皇居周辺を歩いていたとき、たまたま満開のユリノキの花を見つけたそうです。圧巻のユリノキの街路樹に、すぐさまこの周辺での養蜂を決意。場所を探そうとしたそうです。

 そして、永田町のとある政党のビルの屋上で、藤原さんは都心での養蜂を開始しました。もし、それがなければ、銀座ミツバチプロジェクトはあり得なかったのですから、ユリノキは、銀座ミツバチプロジェクトの生みの母かもしれません。

 内堀通りに立ち並ぶユリノキは、日比谷公園から国立劇場まで、ぐるりと皇居外周を囲みます。国内にこれだけ多くの立派なユリノキの街路樹はそうそうあるものではありません。

 ユリノキが終わると、次はマロニエ。マロニエの花蜜は赤い血のような花粉が入っているのですぐわかります。案の定そのころは、銀座マロニエ通りのマロニエの花が満開です。次は霞が関のトチノキ。

 採れる蜜は毎週のように変わります。ナツハギのハチミツはチョコレートのような香りがして驚き、ミカンのわかりやすい柑橘系の香りがしたときは、「いったいどこにミカンの木があるんだ?」と、これまたおおいに驚いたのを思い出します。ミカンの木はおそらく皇居のなかではないでしょうか。

 その後、梅雨から初夏にかけては、クローバーやラベンダーなど銀座周辺で咲いているさまざまな花蜜を求めて集蜜してきます。こうして毎週味や色、糖度、花の香りが劇的に変化します。

 まさに銀座の周りの環境を感じ、変化を感じる瞬間です。毎週採蜜をすることで毎年のサイクルから銀座周辺の環境が分かってきました。そして、ハチミツの味は、銀座の「今の環境」そのものを味わっていると気付いた時も興奮しました。 』

 

 『 ある日、高安氏の紹介で、東京はちみつクラブの浦島裕子さんと昼食をしているとき、「銀座でミツバチを飼えるスペースを探している養蜂家がいるんだけど」とそんな話が出たのです。

 「街でミツバチを飼うなんて、危ないんじゃないの」私が問うと、浦島さんは、「ミツバチは、直接花に向かい、人にはかまわないので大丈夫なのよ」三人でそんな会話をしていたのを思い出します。

話だけで納得したわけではなかったのですが、なぜか、「うちのビルの屋上を貸してあげてもいいよ」と軽くいちゃったんですね。その養蜂家、藤原誠太さんが岩手県で三代続く有名な養蜂家であり、数年前から永田町で養蜂の実績がありました。

 此の銀座で美味しいハチミツが採れるとしたらおもしろいかも、と思ってしまったんですね。「そのハチミツで何か食品を作って、銀座に来て食べてもらう。銀座で地産地消。もし実現したらこれは凄いことだよ」と、友人の高安知夫氏。

 私たちのちょっとした好奇心と遊び心を裏切るかのように、やってきた養蜂家は、次のように言ったのです。「田中さん高安さん。お二人とも生き物をあつかうのですから、途中でやめたなんて言わないで、しっかり学んでくださいね!」

 思いもかけない言葉。まさに鳩が豆鉄砲を食ったかのように、しばらくきょとんとして、「え? 何で? 私たちがミツバチを飼う? 飼うのは養蜂家のあなたでしょう…」 これがすべてのはじまり。これからはじまる騒ぎの序章でした。

 数箱しか置けない紙パルプ会館の屋上では、プロが業として行う養蜂はハナから成り立たないのです。藤原さんは、市民活動として養蜂を私たちに勧めてきたのです。

 もし仮に、プロの養蜂家が満足するような十分なスペースが紙パルプ会館の屋上にあれば、そこで藤原さんが何十箱かの巣箱を置いた業としての養蜂をしていたことでしょう。

 一度はお断りしたものの、藤原さんは諦めていなかったのです。当時、藤原さんにとって銀座は、ちょっと敷居の高く遠い存在に感じられる場所であったようですが、同時に、「もし銀座で養蜂ができたならその影響は計り知れない」と強く思っていたと言います。

 以下はミツバチの伝道師、藤原さんの言葉です。「ミツバチに興味を持ち、ミツバチに触れてくれた人が、しばらくすると精神状態がガラッと変わるということを私は何度も目の当たりにしてきました。

 話をしていて、この人たちなら大丈夫だと思ったので、多少強引に「私が直接教えますから、ぜひ、やりませんか」という話をしました。「何度、足を運んでもいいですから」とも言いました。

 不安はあって当たり前。でも、一度はじめてしまえば、必ず続けれれると思いまして(笑)」 とにかく一度、養蜂の現場をみてくれと、上京した藤原さんに世田谷区の東京農業大学進化生物学研究所の屋上に誘われたのが、はじめての養蜂現場体験でした。

 藤原さんは同大学の卒業生で、ミツバチ研究会のOBでもあるのです。巣箱を開けると無数のミツバチが飛び出したきました。防護服を着ていたからか、プロの藤原さんが一緒だったからかはわかりませんが。不思議とまったく怖いと思いませんでした。

 藤原さんに言われるまま、恐る恐る指を巣房に突っ込んで直接ハチミツをなめてみました。今まで認識していたハチミツとはまったく違い、花の香りがはっきりわかりました。

 さらに、藤原さんは、「手の甲でそっとミツバチを直接触ってみて。ミツバチの気持ちになって、脅かさないようゆっくり動かせば平気ですから」と、私の手を取り、枠に群がっているミツバチに手の甲を持っていきました。

 温かくふわっとしていて、猫を触っているような、不思議な感覚がしました。後に、銀座プロジェクトを取材に来られた作家、嵐山光三郎さんに同様の体験をしていただいたところ、「カシミアのマフラーのよう」という端的な表現をしていただきましたが、まさにその通り。

 ミツバチは子育てをしているとき、巣を三四度前後に保つため、羽の後ろの筋肉を振るわせて自ら発熱しているので温かいのです。ふと見上げると、隣のマンションではご近所の奥さんがふとんを取り込んでいるところでした。

 それを見て「こんな街中でも住民に迷惑をかけず養蜂ができるのか」と思いました。さらにミツバチの体温を感じたことと、そして何よりミツバチの伝道師の熱い思いに打たれました。

 「ミツバチは短い命の限り花蜜を集めるのが仕事です。人間にかまっている暇などないんですよ」 私と高安氏は、徐々にですが「銀座でミツバチ」をやってみる価値があるのではという気になっていったのです。 』

 

 『 その後、藤原さんが岩手から上京するたびに養蜂の勉強をさせていただき、いよいよ「銀座でミツバチ」が準備段階に入るのですが、この段階では「ダメならすぐにやめればいい」と思っていたのも事実です。

 万が一事故があれば、養蜂をやめるだけでなく、銀座から去らなければならなくなるかもしれないのですから。さらには、二人だけではとても無理であるため、仲間を誘わなくてはなりません。はたして、協力者が集まるだろうかという不安もありました。

 ところが、声をかけてみると、あっという間に仲間が集まり、「ぜひ取材させてください」というメディアも現れました。正直その反応の大きさに逆に驚かされました。 

 2006年の春に沖縄からきた三箱のミツバチは、巣箱から出ると、周りを俯瞰するように上空100メートルまで上昇します。その後、先発隊、会社でいえば営業開発さんが示した蜜源へまっしぐら。街並み、人並みなどには目もくれません。

 ミツバチはとても目がよく、形や色が認識できます。複眼で、紫外線まで見えるそうです。冬を耐え忍び、やっと訪れた春の暖かい空気の中に咲く満開のモノトーンの桜が、ミツバチたちにとっての天国だと思うと、花見も、以前とは違った感覚になってきました。

 もしかしたら、桜の花に囲まれてお気楽に酒を酌み交わしている私たちより、もっともっと、ミツバチたちは恍惚に浸っていつのかもしれません。いや、そうではく、厳しい冬の間に必死につなぎ止めた命を、ここぞとばかりに、燃焼させているのかもしれません。

 銀座三丁目の屋上から南の浜離宮まで1.2キロ。わずか五分で飛んでいける浜離宮のソメイヨシノは、銀ぱちたちにとって、春一番の蜜源です。ミツバチは満開のソメイヨシノの咲き誇る中を花から花へ飛び回ります。

 桜とミツバチは相性がよく、すでに受粉した花は「もう、ここへ来なくていいよ」とサインを出しているのだそうです。花蜜が欲しいミツバチと、受粉して実を結びたい植物。太古の昔から相思相愛の仲なんでしょうね。

 自然の摂理で、双方が効率よく生命の営みをまっとうできる仕組みになっているのです。 』

 

 『 二〇〇七年、五月二日の午前。会社でお客様と打ち合わせ中に電話かかかってきました。ゴールデンウイークの中日なら静かに打ち合わせできるからと、こちらの都合で来社いただいて打ち合わせをはじめたのですが、何度もしつこく隣の部屋の電話が鳴ります。

 ちょっと失礼と中座して電話を取ると、「田中さん、田中さん。田中さんところのミツバチ、分蜂しなかった?」いつもお世話になっている中央区の公園緑地課、宮本恭介課長からです。

 完全に田中さんのミツバチになっているのには苦笑するしかありません。なお、分蜂とは、最盛期にミツバチが増え手狭になった巣に、新女王蜂を残し、旧女王蜂が半分の働きバチを従えて新しく巣に適した場所を探しに出ることです。

 「今、みゆき通りで、ミツバチが分蜂していると連絡があり、区の職員が駆けつけているのだけど」冗談じゃない。「課長! 私たちは女王蜂の羽を切っているので、分蜂して飛んでいけませんよ。西洋ミツバチの性格は、そこがどんなに居心地が悪くても女王蜂を置いて逃げ出したりはしませんから。もしかしたらそれは日本ミツバチじゃないですか?」

 「そうかもしれない。いずれにしても明日からまたゴールデンウィークで多くの人が銀座に集まるから歩行者に危ないということで、今日中に駆除しなければならないんですよ。かわいそうだから田中さんのところで助けてあげない?」

 それでも私一人の力で助けるなんてまだ当時は無理でした。「かわいそうだとは思いますけど、今、お客さんと打ち合わせ中ですし…。とりあえず、藤原さんに確認してから、もう一度連絡させていただきます」と電話を切りました。

 藤原さんの携帯に連絡すると、即座に「わかりました! 私はタクシーですぐに道具を持って出掛けます。田中さんも至急現地に来てください」 「……」 たまたま東京に来ていた藤原さんはこちらの都合も聞かず、電話を切って飛び出してしまったようです。 

 とにかく、藤原さんに持ってこいと言われた巣箱を車に積んで、みゆき通りの現場に駆けつけました。すでに区の職員の皆さんと藤原さんが作業にとりかかっていました。

 「田中さん、早く作業服を着て! 巣箱を下から持っていてね。私が木の上から巣箱に一気にミツバチの塊を落とすからそのまま受け止めてください」

 網帽子をかぶり巣箱を頭の上に載せ、脚立の上に乗ります。何のことはない、ただの土台役。バサッ。バサッ。頭の上で音がしたかと思うと、藤原さんはすかさず蓋をし、今まで取り付いていたミツバチが戻らないよう、さまざまな作業を素早くこなしていきます。

 さすがにプロの作業。しかし、残ったミツバチが仲間のフェロモンを感じて巣箱に入っていくまで、頭の上の巣箱を載せた姿勢のまま「もうしばらく田中さんはその姿勢のままで待っていてください」とのこと。

 ふと、気付くとさらにたくさんの人が私を遠巻きに集まっており、しかも写真を撮っています。街路樹の目の前は某フイルムメーカーの常設写真展示会場で、全国から高級カメラを持った人々が集まっていたのです。

 「もういいでしょう」と藤原さんの声に救われたようにゆっくりと脚立を下りると、「どちらの養蜂場ですか?」と、大きなカメラの男性が聴いてきます。

 「プロじゃないんですよ。私たちは銀座のビルの屋上でミツバチを飼っている者で、先ほど中央区の公園緑地課から電話があり、駆除されたらかわいそうだからと助けに来ただけですよ。銀座は人にもミツバチにもやさしい街ですからね」とそぶいてみせました。

 すると、その男性に、「実は、私、読売新聞の写真部の記者です」と名刺を渡され、余計なこと言わなければよかった……。翌日、読売新聞朝刊に事の次第が掲載されていたとは、後に友人から知らされました。 』

 

 『 この出来事をきっかけに、中央区の公園緑地課から、私の携帯電話に直接電話が来るようになりなした。私をミツバチレスキュー隊とでも思っているのかと苦笑すると同時に、私はミツバチを救う資格があるのか、という迷いもありました。

 さらに紙パルプ会館屋上ではじめてミツバチが越冬した二〇〇七年から二〇〇八年にかけて、たくさんのミツバチを死なせてしまったのです。西洋ミツバチと、前述のみゆき通りなどから救出した日本ミツバチを合わせると、10万匹以上になると思います。

 本当にかわいそうなことをしました。養蜂をはじめて二年目、未熟なところがあるのは当然だとしても、仕方ないとは言っていられません。幸い、ほとんどのコロニーで女王バチは生き抜いてくれましたが、もう少し、しっかりとした知識と技術があれば、こんなに死なせずに済んだものをと、残念でなりません。

 ミツバチは昆虫としては例外的に冬眠しない「温血動物」です。寒冷地域で冬を乗り切るには秋が深まるまで必死で集めたハチミツを燃料として吸い、羽の後ろの筋肉を振るわせ熱を発して巣内の温度を三四度前後に保ちます。

 子供がいない真冬は三〇度程度まで下がりますが、これ以下にはならないように必死に発熱して巣の中心にいる女王バチを守るのです。

 こうして厳しい冬をやり過ごしますが、マイナス二〇度にもなるような盛岡などの寒冷地では燃料が少ないと絶滅してしまうこともあるようです。ですから、冬になる前に、その地では何十キロもハチミツを貯めておかないといけないのです。

 常に熱を発し温度を保っていますが、燃料が足りなくなると、薄皮が一枚ずつはがされるように、外側のミツバチから死んでいきます。こうして、なんとか最後まで中心部の女王バチを守っているのです。 』

 

 『 ミツバチは日の出と同時に営業活動をはじめます。まず営業開発の銀ばちが、燃料のハチミツを満杯に吸って「本日の蜜源」を探しに飛び立ちます。巣箱からスパイラルな軌道を描きながら一気に上昇します。

 地上一〇〇メートルから眺める銀座の景色はどんなものなのでしょうか。飛行可能範囲を見渡して、卓越した臭覚と視覚を使って蜜源を探しはじめます。

 上空に到達すると、吹く風のなかに花の香りを触覚で感じ、目ぼしい蜜源を確認すると、蜜と花粉を持ち帰り待機している営業本体に場所を知らせます。それが、「8の字」ダンスです。

 整然とした社会生活を営むために不可欠なこの8のダンスを発見した研究者は一九七三年にノーベル生理学・医学書を授与されています。

 昆虫の脳を研究している玉川大学の佐々木正巳先生のお話によると、8の字ダンスで、巣箱からの方向、距離、花蜜の量、花の種類までわかるのだそうです。

 8の字ダンスで情報を得た営業はそれに従い、まず往復分のハチミツ(燃料)を吸って飛んで行きますが、蜜源を確かめた後は蜜源までの片道分だけのハチミツを吸って飛んで行くのだそうです。

 片道で燃料がなくなりタンク(蜜胃)は空っぽ。その分たくさんの花蜜を集めることができるというわけ。感心するくらい理にかなっています。たかが小さい昆虫と思ったらとんでもない。なかなか「やるじゃん!」と思いませんか。どうやら結構賢い連中のようです。

 片道五分の浜離宮(1.2キロ)、片道七分の皇居(1.5キロ)なら、一日、一〇往復から二〇往復。春から夏にかけ、毎週採蜜作業をすることで、自然のサイクルや銀座周辺の環境がわかってきました。

 銀座が自然環境や生態系と共生できる大きな可能性が見えてきたのです。 』

 

 銀座ミツバチプロジェクトは、ハチミツの生産を核として、それを使っての銀座のスイーツ、カクテル、教会のロウソクへと、さらに、メダカの学校、日本熊森林教会へとつながっていきます。そして、銀座と里山との交流と発展していきます。

 銀座周辺は、皇居、浜離宮、日比谷公園、ユリノキ、マロニエなどの街路樹と蜜源植物が豊富で、日本ミツバチまで分蜂し、銀座は商業の街ですが、それを支える一流の職人の街で、日本と世界の人々を惹きつける包容力と魅力のある町だと感じました。(第93回)

 


コメントを投稿