40. 骨董ハンター南方見聞録(島津法樹著 2001年)
『 1969年頃のマニラは東洋のマドリッドと呼ばれる、落ち着いた佇まいの街であった。清潔で深い緑の街路樹が茂る通りには南国の花々がこぼれるように咲いていた。
マニラ湾と平行して走っているマビニ大通りとエルミタ通りの間には数軒の小さな骨董屋がある。表通りの洒落た店とは違って割れた壷と土産物程度の木彫品、田舎の手織りの布などが雑然と置かれていた。
ある時その中の一軒を覗くと、埃にまみれたショーケースの中に一枚の鉄絵の大皿があった。
それは、白い小砂混じりの胎土にたっぷりと暖かみのある白化粧が施され、その上に黒々と鉄絵が施された南国風な作品だった。太い線で一匹の魚と花が中央いっぱいに活き活きと描かれていた。
その魚はかわいい目で下からチラッと見上げて僕の心を捕らえた。三十女が「クッ、クッ、クッ」と笑っているような明るい色気を感じさせる。
魚に表情などないが、絵付けをした職人はそんなことお構いなしに、人間臭い表情を思いきり出している。
僕は立て付けの悪いガラスケースをガタガタいわせながら、埃まみれのその皿を取り出した。午後四時頃の南国の太陽がショーケースに伸びてきている。皿から手に心地よい温もりが伝わってきた。
描かれた魚が甘えるような目で「連れてって」と語りかけてきた。「旦那、そのベッピンの魚を買うのかね」しわがれてやや詰まったような声が肩越しに聞こえてきた。
振り向くと七〇歳くらいの赤い目をした、くたびれた感じの男が僕の手にした皿を覗き込んでいる。男も魚を女と見ているのだろう、ベッピンのところに力を込めている。
「イエス。これいくら?」「旦那は目が高い。その皿はミンダナオから一週間前にやって来た飛び切りの上玉ですぜ」 ショーケースや皿に積もった埃から考え、少なくとも数年間はここにあったと思われる。
「この魚は店の主かね。ずいぶんと年増のようだが」 「ヘッヘッヘッ」と黄色い歯を出して笑いながら、「旦那、1000ドルでどうです。拾い物ですぜ。今時こんなコンディションのいい魚文皿はマニラ中探してもありませんぜ」
市内の骨董屋を隈なく歩いたが、確かにこんなに心惹かれる皿はなかった。しかし、親父の言い値で買うほど甘くない。
「冗談じゃない。三〇〇でどう」彼女に対してチクリと心が痛んだが厳しく親父に切り込んだ。
「ヘッヘッヘッ」の笑いですべてを清算した親父は五年前の値段だといい、「旦那、今時マニラはインフレでこの皿も昔の値段だから随分安い買い物ですぜ」と付け加えた。
狭く汚いショーケースの中で五年間も耐えていたかと思うと彼女が可哀想になった。埃を払ってやるとぱっちりとした目元や、ちょっと短めなボディラインがやるせないほどかわいい。
「親父。飛び切りの値段を出しな。埃をかぶせて根を生やしておくと売れる物も売れなくなってしまうよ。僕が見初めたのが潮時だぜ」
「旦那。知らんね。骨董は埃も値打ちといいますぜ。これ以上の値引きは無理。大見切だ。七〇〇でどうです」
小さなガラクタ屋だったので交渉は簡単に成立すると踏んだが親父はなかなか強(したた)かだった。ショーケースから取り出した彼女は実に魅力的だ。
親父に悟られないようチラッ、チラッと熱い視線を彼女に送った。すると彼女の下方になにやら小さい四角い香合が見えた。
交渉中、相手をイライラさせるためによく使う手であるが、棚の中の品物に手を伸ばすことがある。親父は僕が奥の手を使い交渉をはぐらかしていると思ったらしい。
「旦那、浮気はアカンよ」僕も始め親父の言う通り浮気のつもりで香合をつかんだが、蓋の上に施されている文様をみてびっくりしてしまった。
何と日本に三点しかないといわれる白呉須台牛の香合だったのだ。少傷もない完全な状態だ。彼女と同じように埃がこってりと付いていたので以前に覗いたときは気づかなかなかった。
安く見積もっても一万ドル以上はする代物だ。男は両手に花の時ひとりでに頬が緩んでしまう。
しかし、交渉する品物に惚れてしまったことを見透かされると立場が弱くなるので、ポーカーフェイスで親父の肩をドーンと叩いてファイナルプライスを告げた。
「五〇〇が最後」と僕が言うと、親父は七〇〇が最後と又切り返してきた。結局この交渉は中間を取って六〇〇ドルで決着した。
「オッケー、あんた素人にしてはハードネゴシェイターだ」と煙草の脂で汚れた歯を見せ、商談成立のおべんちゃらか親父がほめてくれた。
「親父、この汚い香合を今日の記念に付けてくれよ」親父が疑い深い赤い目でジロッと僕と香合を交互に見た。「アンタ、やるね」ドスの利いた声だった。
親父がまさか日本の形物香合番付表を知っているとは思えなかったが僕はどきりとした。「これ明の地方窯の量産品なんでしょ」一瞬、彼女の事を忘れ、手にした香合をぐっと握った。
「値切り倒しておいて更に小物を持っていくなんざぁ、この頃の若いのにはかなわんな。プロでもそんな事はやらないんだよ」どうやら親父は香合については何も知らないようだった。
僕は思い切り明るく「じゃあもらってくからね」と、たたみこんでやった。「しょうがねえな。代わりにアンタのそのペンを置いていきな」親父も中々の猛者だったが、僕のボールペンはタイ航空のスチュワーデスからかっぱらたサービス備品だった。ヘッ、ヘッ、ヘッ。
強い線で黒々と描かれた一四世紀スコーター魚文の大皿と日本に三つしかない台牛香合の名品を入手した。腹の底から嬉しさがぐっとこみ上げてきた。
魚文皿が僕の人生を変えた。数々の美術品や多くの素晴らしい人々との出会い、波乱に満ちた人生は上目遣いの三十女が持参金の台牛香合とともに持ってきてくてた最高のプレゼントだった。 』
『 メーホンソンのミャンマー側の骨董屋に、染付けの大きな皿があるという話しが僕の耳に入った。見つけたのはタイ人のヒッピーだった。
彼もバンコクやチェンマイでガイドやポン引きをし、金が貯まると翡翠原石に賭けている男だった。タイ人はミャンマー領に自由に出入りできるので、彼は常時ミャンマーに行っていた。
ヒッピー君の案内で染付大皿を見る為国境のゲートへ向かった。川舟でミャンマー側に着くと岸の上にイミグレと税関があり、役人たちが五,六人トランプ博打をしていた。
邪魔をしたら悪いので黙って税関の前をてくてく歩いて通ったが、チラッと見るだけで見ぬふりをしてくれた。通常外国人はこのゲートを通れないことになっている。勿論帰りには袖のしたを渡すことになっている。
目指す骨董屋はゲートから歩いて10分ほどのところにあった。狡(こす)っからそうな小男がキンマを噛み噛み、巻きスカートの端を直しながら出て来た。
「客を連れてきたので、皿をみせてやってくれ」とヒッピー君が言った。品定めをする様に、僕の顔を見ていた骨董屋の親父は無愛想に「無い」と一言。僕とヒッピー君はまったく無視されている。
こんな時は一発かますのが一番いい。「おい、帰ろう」 「オッケイ。ミスター」ヒッピー君もさる者、調子を合わせた。「日本人のビッグディーラーがわざわざここまできたのに残念だったなぁ」とヒッピー君が聞こえよがしにつぶやいた。
「チェンマイのディーラーが買いたいといっているんだ」親父が慌てたように言った。「それならいいや。そいつに売れよ」もったいぶって態度が悪い親父に強い調子でいってやった。
すると、「仕方ない。見せてやるか」という感じで二階へ案内された。階段を上がる時靴を脱ごうかと迷ったが、厚い一枚板の両端には埃がたっぷりと積もっていたので土足のまま上がってやった。
二階の薄暗い部屋のベットの上に五〇センチ前後の染付の大皿がドカッと置かれていた。その皿を見た途端、全身から汗が引いてしまった。
大皿は極上のペルシャ産のコバルト顔料を使っている。枇杷の木に尾長鳥がとまっている文様の明初永楽時代の見事な品であった。がっしりとした厚い器体はやや青みを帯びていて、ガラス釉の肌には一点の曇りもない。
構図は大胆で皿いっぱいに伸びやかに展開されていて、今にも飛び立ちそうな尾長鳥の微妙な動きが伝わってくる。五〇万ドルは下がることはないと見積もった。
大皿は官窯で焼成された器である。これと同じような作品がトプカプ宮殿に所蔵されている。恐らくこの皿は特別注文でミャンマーでの宮殿か大寺院の什器であったのだろう。
二時の方向に五センチくらいの欠損部分があるがそんなことは問題にならない。「幾ら」と思わず聞いてしまった。僕の声はかなり興奮してうわずっている上に、渇きによるかすれも伴っていたと思う。
「ミスター。これはチェンマイのディーラーのオーダーを受けている」 「誰? 僕が話をつけるからこの皿を売ってくれ」骨董屋は暫く考えていた。
小さな窓から射す光と天井に張り付いたジージーと音を立てている蛍光灯の薄暗い灯りの中で時間が止まった。
「四万ドルだったら売る」思い切ったように親父は言った。今僕の手元には二万ドルしか持ち合わせがなかった。僕は四万ドルをのんだが、二万ドルしか手持ちがないというと、親父は二万ドルを保証金として預けろと言う。
「じゃあこの皿を持って帰ってもいいか」 「ノー! 貴方、初めての人。信用できない」 「僕も初めての取引だからブツ無しで金は渡せない」
お互い信頼できないので話がつかず、結局二週間後四万ドルを持ってくることにし大皿を取り置いてもらうことにした。
他のディーラーに見せない事、取り扱いは注意して粗相の無いようにする事等細かく幾度も念を押した。しかし、親父の顔に何か引っかかるものを感じた。
当時バンコクにそれほど親しい取引先もなく、日本まで金を取りに帰らざるを得なかった。大皿のことを思うと気が焦り、二週間という約束を短縮して、五日間で四万ドルを持って引き返した。
ヒッピー君と二人で威勢よく「ヨォー、帰ってきたぜ!」と明るく店に飛び込んだ。骨董屋の親父はシレッとした顔でぼくの顔を見るなり、横目の金壷眼で「大皿は売ってしまった」といった。
「あほんだれ!」と思わず日本語で怒鳴った。意味はわからないが、怒っていることがわかったのか親父は、「あんたはドルをデポジットしなかった」と言い返してきた。
「しかし、二週間待つと言ったぜ」ヒッピー君も今にも殴りかからんばかりに睨み付けている。これ以上トラブると何が起こるかわからないので話しの方向を変えた。
「誰に売った?」 「バンコクのディーラー」 「バンコクの誰?」 「これはシークレットだから教えない」 きつい親父であの日の取引を思い出すと残念で今でも腹が立つ。
それから約二年が経ち、香港で行われた中国陶器オークションの図録を見て息をのんだ。何と僕が予約した大皿が三億円という天文学的数字で落札されていた。 』
『 一通の手紙が中部タイに住む掘屋のチャロンさんから届いた。文面は簡単で、古い窯跡が発見され多くの皿や鉢、壷が見つかったので買ってほしいとの内容だった。
この種の話はよく持ち込まれるが、実際に現地へ行くと例外なく偽物やがらくたばかりである。今回も多分そんなことだろうと思って期待もせずにシ・サッチャナライの掘屋の村を訪ねた。
住人は五十人くらいで、ほとんど全員が骨董品を発掘し生計を立てている。ピサヌローク空港から車で二時間、シ・サッチャナライに昼過ぎに到着した。
彼の家の前に車を止めると、いつものように五,六匹の犬が警戒しながら近づいて来て、喧しく吠え立てる。久しぶりに訪ねたこの村はあい変らず長閑だ。子供たちは小川で釣りをしたり、近くの田圃で蛙を捕まえたりしていた。
チャロンさんは家の横の洗い場で、発掘した陶磁器の土を洗い流していたのか手を拭きながらやって来た。「サワディ・カップ。ミスター・ノリキ、手紙見たか」
「イエス、内容に間違いはないだろうね」「家に入ってください。たくさんあります」彼は自信満々だ。直感でこれは何かあるなと思った。
先に立って行く彼の歩き方は力強く大きなチークの落ち葉をガサガサと踏みしめながら玄関へ向う。屋内に入っても早く見てくれといわんばかりに階段をドンドンと音を立てて二階に上がって行く。
広い部屋に入るなり、思わずうなってしまった。二十枚ほどずつ重ねた大皿や鉢が所狭しと置いてあり、1000点以上はあるようだ。
「すごいね。これ全部掘ったの」「ミスター、堀屋をやって三〇年になるが、こんなにたくさんの品物を扱うのは初めてです」「チャンロンさん、この発掘はあんただけの仕事?」
「いいえ、チェンマイの業者も山からの連絡で四,五人行きましたよ」「誰なの?」と尋ねると良く知っているディーラーたちだった。
大量の古陶器がタイ・ミャンマー国境の山岳部から出土したことを、この時初めて知った。チャンロンさんが言う四,五人のディーラーを除き、研究者や古美術愛好家もまだこの出来事をつかんでいないようだった。
僕は今誰も知らない宝の山に踏み込んでいるのだ。彼の説明を聞きながらこのヤマをどう料理するか考えた。
1000点を越える鉢、茶碗、壷等を調べ、必要なものだけを抜き出すのは大変な作業であり体力を必要とするが、「さ、やるぞ」と気合いを入れて取りかかった。
14世紀に製作された美しく澄んだ宋胡録青磁の数々や、同時代に製作されたスコータイ窯の鉄絵魚文の盤等が一番多かった。貴重な宋から明代の中国陶器も見られる。
東京国立博物館に収蔵されているものよりまだコンディションの良い安南(ベトナム)赤絵の茶碗もあった。
しかし、かなり乱暴に発掘したらしく、90パーセントくらいのものは破損している。更にカセという上釉が酸化したボロボロ状態のものも多かった。残り10パーセントはすばらしい作品だと見分けた。
この宝の山から良いものを抜き出して、うまく買い付けることができれば2,3年分の稼ぎがあるだろう。僕は運転手のウイッチェンさんとチャロンさんの家族全員を叱咤激励しながら作業を進めた。
端から手渡しで僕のところに皿や鉢が回ってくると瞬間に瑕や絵柄を見、仕分ける。中部タイの最も暑い時期、冷房もない二階は蒸し風呂のようで、汗が滝のように流れ、体力を消耗する。
丸二日間かけて1000点余の陶器の選別を行った結果、最上、上、普通、下と分け、買うべき作品を分類した。最上分類の中に世界の骨董市場で非常に価値の高い元染付の皿が四点含まれていた。
一計を案じ、この四点は安物の作品に混ぜ込んでおいた。これを安く買い付けることができれば、残りの品物は少々高く買ってもただのようなものだと計算して交渉した。
取引の大きなヤマ場である価格の折り合いがついてどちらもほっとした。美人の奥さんを冷やかしながらお茶を飲んでいると、「ミスター・ノリキ、緑絵の皿を見るか」とチャロンさんが訊く。
「ウン」といったが、ボロボロに疲れていたのでどうして一度に言わないのだと腹立たしかった。気を取り直し立ち上がったが、この手のやり方にはいつもうんざりさせられる。
しかし、疲れているからと面倒がっていては儲け仕事は転がってこない。むしろここからが本番というほど大事なこともある。
隣りの部屋に入ると大小の仏像が雑然と祭ってあった。そんな仏間兼寝室に20点ほどの見たことがない緑絵の皿が重ねて置いてあった。それは白い化粧土の上に緑の顔料でアラビア風の鳥や魚や花を描いた作品であった。
「何世紀ごろの、どの窯の作品?」と聞いたが、返事は要領をえないものだった。「わからない。隣の部屋の品物と同じ場所で見つけた」と言うのだ。
かなり高価だったが骨董屋の直感で全部買った。これが今まで世界の磁器研究者にも全く知られていなかった、新種のミャンマー陶磁が世に出るきっかけだった。
この美しい緑絵の皿や鉢はタイ・ミャンマー国境の深い山中に何らかの理由で埋められていたが、何故か忘れ去られて今日に至ったようだ。
15~16世紀に製作された緑絵皿は現在でもまだ窯跡が確認されず、なぜか短い期間だけしか作られなかったようだ。
その為発見後暫くして最高水準の珍しい絵付けの皿などは5万ドルの高値がついた。コレクターの間では幻の緑絵陶器と呼ばれた。
すべての取引が終わり、一息ついたところでチャロンさんにこれらの作品の発掘現場を尋ねた。
「これだけの陶磁器をどこから出してきたの?」「タイ・ミャンマー国境のタークの南です」
地図で詳しく場所を確認しようとしたが、この地域の道路などは未だに所々空白の箇所がある。軍事的な理由なのか測量の不備かわからないが特定するのに苦労した。
チャンロンさんが発掘現場近辺の写真を持って来た。森、象、人々が着ている黒い服、引っ詰めた髪はカラー写真であるがまるでモノクロのように単調だ。
現代のプリントなのにどこか明治時代のセピア色に変色した写真に似ている。「この村に行っても大丈夫?」と写真を指差して彼の顔を見た。
彼は発掘現場を荒らされては困ると思ったのか複雑な表情をしたが、思い切ったように言った。「危ないけど、ミスター・ノリキなら大丈夫」
何故僕だったら大丈夫かよく解らないが、少々荒っぽいことでもこなすと思ったのだろう。 細かい道順や写真に写っている村の事、訪ねる相手等をウイッチェンさんに詳しく聞き取らせた。
話しによるとそこは首長族もいるすごい場所らしい。持って来たキャッシュも底をついてきたので、いったんバンコクに引き返し、四点の元の染付け皿を売却し資金を作ることにした。 』
『 西部タイ・ミャンマー国境の町タークはこのあたりで一番大きな町だ。そこから少し南へ車を走らせると、ミャンマー国境を南下する道に出る。
山の峰や谷を縫うように造られた道を1時間ほど走行するとタイ軍の国境監視所がある。車を停止して、パスポートを預け書類にサインをした。
「トラブルに巻き込まれても此処から先タイ政府は責任をもたない」という誓約書である。
「この道は安全か?」「ちょっと前にカレン・ゲリラとミャンマー軍が向こうで撃ち合ってましたけど、大丈夫だと思います」運転手はどちらでも取れるような言い回しで状況を教えてくれた。
「ノリキさん、どうする?行きますか?」「行こ、行こ!」と自分自身を励まし出発した。国境監視所から約2時間半ほどのところで車を降りると、そこに10戸ほどの村があった。
「今日は」と一番近くの家に声をかけると、中年の女が出てきたのでチャロンさんにもらった写真を見せた。一言の断りも無く女は奥へ消えてしまった。
10分位たつと七、八人の男女がなんだなんだとやって来た。「ウイッチェンさん。拳銃くれ」「もう遅いです。変に動かない方がいい」彼も極度に緊張している。
我々はぐるりと取り囲まれてしまった。その中に写真の男がいた。彼らは全員腰に山刀をさし長い銃身の手製銃を持っていた。
写真の男に声をかけ、チャロンさんから紹介されたことを話した。すると男は肯くように僕らの前にやって来た。僕は陶片を取り出し、彼に見せた。
「これと同じ物があれば買いたい」男は陶片を手にとって眺めた。「ここにはない」「どこにあるの」「山を五つ越えた焼畑地の倉庫にある」この辺りの道のりを聞くと山一つ向こう、あるいは山の下というふうに山が基準となっている。
僕たちは早速村で二頭の象を雇って写真の男と数人の手伝いを連れ、山五つ向こうのメオの村に行くことにした。
象はゆっくりと歩いているように見えるが、実際に乗ってみると意外に早い。そして訓練されている象は乗せている人に前方の木の枝が当たらないよう、ボキボキと鼻で折ってくれる。
切り立った崖の上を通る時は、細心の注意を払っていて、厚い背中の皮膚から緊張感が伝わってくる。雄、雌、二頭の象を雇ったが、雄は荒々しく、雌は心優しいしぐさだった。
雄の目は優しく雌をいたわっているし、雌はちゃんと甘えていた。こんな出来事に感動したり、驚いたりしながら五つの山を越えた。
思ったより時間がかかり、太陽が西に傾く頃やっと目的地のメオの村に入ることができた。村は五戸ほどで住民は三十人くらいだと思われる。
写真の男は挨拶もせずに村の端の家に入っていった。暫くして、顔を出した彼が手製のパイプの煙を燻らせながら顎で入れというしぐさをした。
建物の中に入ると土の付いた大鉢や皿、壷等があちこち無秩序に積み上げられていた。太陽は山の端に引っかかって段々と暗くなってくるし、山気というか夕方の冷気はやる気を著しくそいだ。
僕は写真の男に暗くてチェックできないから明日の朝見せてくれるように言うと、彼も異論は無かった。この村の村長らしき男が彼を通じて今夜ご馳走するといった。これもチャロンさんが落としていったお金の余得なのだろう。
山に沈んだ太陽が村全体に薄い靄を呼び、陸稲のもち米を蒸す匂いが僕たちの小屋にも漂ってきた。ついで豚肉と香草を焦がす美味しそうな香りがしてきた。
唐辛子をごろごろ擂り潰す音に混じって牛や鳥などの動物が小屋に帰ってくる声がする。小さな村は今夜の食事を前に沸き立っているようだ。
この村だけでなく、東南アジアの農村では食事時には楽しい団欒がある。分厚い一枚板の低い食卓の上に様々な料理と共に、砂糖椰子の樹液から作る濁酒に似たすっぱい味の酒、もち米で作った強い蒸留酒等も並べてあった。
「ノリキ。あんまり飲むなよ」とウイッチェンさんが耳元でささやいた。主食はもち米だ。指で強く三,四度こね、半殺し状態にして豚のミンチをつけると美味しくてとめられない。しかし、これがなかなか消化せず眠くなる。
身体の小さい村人たちでも僕の三,四倍を平気で食べている。僕の横に若い娘がいて何かと食事の世話をしてくれた。目が合うとにっこり笑って蝉のから揚げや豚皮の煎餅を酒と共にすすめてくれる。
その夜は、服も脱がず、ごろ寝した。村の朝は日の出前から鶏や犬や豚や牛の声で賑やかに始まった。簡単な食事をして昨日見た陶磁器をチェックしに行った。
中に緑の絵付けの大皿が三十枚ほどあった。破損したものを除き、完全な緑絵の皿五枚と宋胡録青磁や安南染付の皿を買うことにした。
これらはバンコクでも相当の値打ちの品々であった。世慣れない山岳民族と高をくくっていたのに、したたかで鼻白む場面もあったが、昨夜のご馳走のお礼もかねて買い取ることにした。
支払いはシ・サッチャナライのチャロンさんの家で三日後と約束した。来る時の二頭と村の象二頭を引き連れて、凱旋将軍のような気持で帰路についた。 』
『 インドネシアは世界最多のイスラム人口を抱える国だ。ちょうど僕が訪れたその月はラマダンの最中で皆気だるそうに疲れた表情をしていた。
日中、幕で覆った小さな食堂のがたがたの椅子で飯を食っていると、何時しか僕も罪を共有しているような気持になった。
そんな時隣りに坐っている口利き屋のEさんがボソボソとした口調で情報をくれた。何時覗いてもめぼしい物のない、初老の男の骨董店に珍しい銅箱があることを聞かせてくれた。
覗くと店主もやはりラマダン中のだるそうな感じだった。「ウン? 目新しい物はないよ」と、そっけない。いつものことながら商売気のない親父だ。
「親父、口利き屋のEさんに聞いたんだが、奥の銅箱は売り物なの?」「この店の物はワシを除いて全部売り物だよ。ヒヒヒ」この男も冗談が言えるようだ。
「あんたを買ってもしょうがない。俺の美意識が耐えれんわい」と切り返してやった。「はやく銅箱を見せなよ」「あれは重くてちょっと動かせない」
「じゃあ僕が引っ張り出すから、あんたも手伝って」一番奥の隅に幅五十センチ高さ三十センチぐらいの青く錆びた蒲鉾形の箱があった。
隅々には厚さ1ミリくらいの黄銅の金具がついていて、がっしりとした作りの中にいい雰囲気を漂わせている。取っ手がついているが錆びて千切れそうなのでそこを持つわけにはいかなかった。
銅箱はずっしりと重く、狭い店内なので他の壷などに当たらないよう注意しながら表に引っ張り出した。何しろこの場所に20年間あったというだけに根が生えたのか、なかなか動かなかった。
「この箱の鍵はあるの?」「鍵は買った時からなかった」「随分重いけど中に何が入っているの?」
「開けようとしたんだが、錠が錆びついているのでそのままにしてあるんだ。それに壊れると値が下がるからなあ」
それは横着でしょう。20年間開かずの箱という訳?中を見たくなかったの?」僕の言葉に挑発されたのか彼の声が説教調になった。
「若い者は何でも見たがるし、知りたがる。見たり知ったりするより、そのままそっとして置く方がいいことがこの世には多いがね」
「でもね!。箱を売る時何が入っているか確認せずに売るなんて僕には考えられんねぇ」「あんたは若い。ワシくらいのキャリアになれば、もう焦ることはないよ」
「ところでこの箱幾ら?」「焦るな。値段は話し合いの後で作られる」「だって、僕が幾らかと聞いているんだよ」
「今日はラマダンであんたと話している間だけ空腹をわすれる。ヒッ、ヒッ、ヒッ」この親父結構やるな。
「あのね、僕は先程お腹一杯飯を食ってきた。それにしても川向こうのスマトラ料理の鶏はうまかったなぁー。水も冷たかった。フフフフ」
「罰当たり、神は許さんだろう」と、突然怒り出した。「ちょっと待って。僕は仏教徒だからラマダンはないんだよ」
「あそこには落ちこぼれどもがたむろしていただろう。それを言っているんだ」「もうラマダンの話はいいから、この箱の値段を言ってよ」僕の言葉は彼には届かなかったらしい。
「ノリキ、この箱はどこの物だと思う?」また親父は方向違いのはなしに持ってゆく。「たぶん、オランダかスペインのものじゃないの?飾り金具の花唐草文様がどこか南ヨーロッパの香りがするよ」
「うーん、さすがプロだ。俺もそう思っていた。何時頃作られた物だと思う?」「あんた俺に鑑定させて高く売り付けるつもりじゃないの。あんたの考えはどう?」
彼はしばらく考えていて、「銅の錆び具合から見て100年は越えると思っとるんだ」
僕の鑑定では16~17世紀のスペインのガレオン船に積み込まれていた金貨や銀貨を入れる銭箱だと見たが、これをしゃべると箱の値段が釣り上がてしまうので止めた。
「まあそんなところじゃないの。ひょっとするともっと若いかも知れんよ。それにしても鍵がないので錠を切ったら傷物になってしまうから安くしなよ」
「ノリキ、この箱をじっと見てごらん。水平線に湧き上がる入道雲がみえるだろう。その横に風をいっぱい受けた美しい姿がみえないかい!」
「全然見えないね! デブのオランダの金貸しが小脇に抱えた銭箱だろ」僕にだってこの男よりもっと美しいバージン・ブルーの海と船、水平線に浮かぶ緑の島が見えるが、ラマダン中の親父をがっくりさせなければならない。
「おー、何たるこの箱への侮辱。ラマダン中で、頭がぼやっとしているが、だまされんぞ!」「煙草を一服吸ってよく見てみな。蓋の開かないボロ箱の海のロマンなんか見えんよ」
「ノリキ、箱の横の青い錆をじっくり見てごらん。刀傷のような凹みがあるだろう。海賊と戦った男が小脇に抱えていて、一太刀浴びた痕がこれなんだ。命の恩人とも言うべき幸運の箱だな、これは」
「作り話なんかするなよ。これが刀傷だって?よく言うよ。ラマダンで煙草や水飲んでないので妄想が見えるんだ」
「神聖なラマダンを馬鹿にするのか。お前にはロマンのかけらもない」「もうこんなボロ箱いらない。この箱も後20年間店の隅に置いときな。そして毎日夢でも見るんだな」僕はむちゃくちゃせめてやった。
「悪かった。ラマダンなのですぐ」カッとするんだ。ちょっと表を締める間待ってくれ」といって入口に布を吊るして、男は煙草をとりだし、震える手でマッチを擦った。
「このボロ箱売るのかね?」「いいよ。500ドルで」「よい、それじゃ250ドルでどうだ」「もういいよ。それでもっていってくれ」といって手を箱の上でヒラヒラと振った。
通りに待たせたあった車の中へ箱を運び込んで鍵穴を見ると単純な構造のようであった。ジャラン・スラバヤにはよろず揃っていて、鍋の蓋のような半端なものから、古い鍵専門の骨董屋まであるので、鍵屋に行き鍵を車まで持ってこさせた。
軽いノリの男が首を振りながら鍵を二百個ほど持ってきた。彼はその中から数個選んで穴に突っ込んでは替え、突っ込んでは替えしていたが突然小さな鍵がグルッと回った。
「ミスター、これで開く筈です」と蓋に手をかけ、ぐっと力を入れたが蓋は全く動かなかった。400~500年間閉じていた箱が開くわけがない。
上下が錆び付いて一体となっているようだ。鍵の部分だけ外せば後はこじ開ければよいので、小銭をやって鍵屋を帰した。
並びの道具専門屋でバールを借りて来て隙間に入れ、こじると「バキン」という音とともに蓋が動いた。
車の外をちらっと見ると口利きやのEさんと仲間数人が真剣に覗き込んでいた。彼らに見られないように少しだけ開け、そっと覗いた。
箱の中には土か泥の塊が入っているだろうとあまり期待はしていなかったが、中に何か丸いものがびっしり詰まっている。
細かい泥が膜を張ったように付着し、全体に波をうっている。僕はそれを見て思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。手を差し込んで少しだけ土を擦り落とすと、黒い分厚いコインの端が見えた。
この場で取り出してもっと確認したかったが外から口利き屋が覗き込んでいるので、見たい気持を押さえ、彼等の方を見ながら、独り言のように「へへへ、やっぱり土ばっかし」と、言った。
彼らは疑り深い目をしてこちらをじっと見ている。「暑いからホテルにかーえろ」と独り言を言って運転手に車をスタートさせた。
ホテルの部屋に鍵を掛け、箱を開けると17世紀のメキシコ銀貨1200枚が出て来た。風呂場で一枚一枚歯ブラシを使い丁寧に洗うと六時間かかった。
気が狂うほど興奮したので時間など少しもきにならなかった。こんなこともあるのでジャラン・スラパヤは楽しい通りだ。 』
(注)この本の時代1969年は1ドル360円の固定相場の時代である。(1971年8月より変動相場制)
私(このブログの筆者)が就職した年で、当時の初任給が1~2万の時代であり、海外旅行はハワイくらいで、東南アジアに目を付ける人はまれであった。
更に、東南アジアの歴史とその文化遺産に目を向ける人はまれであり、かつ危険であった。そんなのどかな東南アジアはもうない。(第41回)
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