犬神スケキヨ~さざれ石

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素晴らしきかな日本!

2016-05-15 00:40:36 | 草莽崛起
今日は京都地ビール祭りに行ってまいりやした。


ものすごい賑わいでした。

よう飲んだ

日本全国から地ビールメーカーが集まり、飲み比べが出来るのです!


食べ物も充実してましたよ!


此れ程に人も溢れかえり、飲み物食べ物がいっぱい。
なのに道にはゴミ一つ落ちていない!

これが支那なら、食べカス、ゴミ、それどころか糞尿まで散らばっているでしょう!

さすが日本!我が祖国!

これが我々の暮らす国です!

だれもゴミなど捨てません!
分別されたゴミ箱さえ置いて置けば、皆そこにキチンと分別して捨てる。
そんな国と国民は世界に日本だけです。

何故そんなに素晴らしいのでしょうか?

ロジカル&ポエム

昨年、安倍晋三首相は米議会で演説をしました。
自由、民主主義、信頼、友情、希望。

これらをテーマにした演説でした。

素晴らしい内容とは言えますが、他方見方を変えればありきたりでもあります。
しかし、このありきたりが大好きなアメリカ人にはウケたのは事実です。

しかし、これからはもう日本の理念を語らなければなりません。

世界の秩序は明らかに変わり、白人が支配する時代は終わるからです。
世界の警察を標榜したアメリカはもういません。

戦争に勝った国が世界を牛耳る時代は終わる

我々は我々の「日本人論」を語らなければなりません。

明治維新以後、日本は欧米型の教育を取り入れて来ました。
それを続けた結果「勉強の秀才」ばかりを作って来ました。

白人、戦勝国、欧米の価値を超えた日本の価値を語れなくなってしまいました。

「日本人とは何か?」

この問いに、江戸の国学者本居宣長(もとおりのりなが)はこう答えます。

敷島の大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花


しきしまの、やまとこころをひととはば、あさひににおふ、やまざくらばな

こう詠むのです。

この和歌で解るはずだ!
そう考えるのです。

本居宣長はロジカルで答えず、「詩」で答えたわけです。

今の教育に欠けているのはここです。

偏差値教育に偏り、その前の出題すら偏ります。
この違和感たるや。

以前にも拙著ブログにて書きましたが、試験に強い教育が現在の教育です。
良い点数を取るなど簡単です。
出題者、採点者が望む答えを書けば良いだけ。

二本立ての考え

古事記を読んでいても、重要な場面では短歌を詠みます。

これが日本の伝統でもある訳です。

国学者ですら歌で答えるのです。

日本人というのは「ロジカル」と「ポエム」の二本立てで物事を理解する民族なのです。

戦前にも昭和天皇は自らの想いを明治天皇の御製「四方の海」を詠まれてお示しになられました。
御前会議、それも戦争をするか否かの大事な場面で短歌を詠み示されたのです。

しかし、欧米の大学を見ても「ロジカルシンキング」しかありません。
そんなものだけでは人間社会は行き詰まります。

古来日本では、この和歌を詠むのはインテリの必須条件です。

古来の支那にもこの感覚がありました。
琴を弾いて感動させ、碁を打って感動させ、書を書いては感動させ、絵を描いて感動させる。
これを「琴棋書画」(きんきしょが)と言います。

「理屈だけではない」

そういう考え方が古来支那にも日本もあった。

日本には「大御心に一任する」というものがあります。
これも理屈を超えた先にあるものです。

自分でも考えはするが。最後は大君にお任せする。

ロジカルシンキングの天才が、考えて考えて考え尽くした末、最後に言うのです。
「天皇に帰一する」

天皇に帰一するとは?
それは天皇に帰り一つになると言うことです。

天皇陛下におかれては「帰一」したいと思われる人徳を磨かねばなりません。
こんな事は頭が良い、試験に強いだけの秀才になるよりも困難な事です。

天皇は人徳を磨く、下の者は天皇に帰一する

それを二千年以上もずっと続けて来た。
ずっと統一して来た。
それは理屈で語れないレベルに達しているのです。

ローカル

統一された日本。

そうは言っても理屈を捏ねて考えるならば、日本にはローカリズムというのはあります。

例えば、近畿だけ見ても京都と大阪と神戸は全然違います。
同じ関西の言葉を話すのですが、しかし違いはあります。

職業だって細かく分けられる。

「百姓」という言葉も、別に農民を指している訳ではありません。

百の姓があるという事で、数多ある職業を「百姓」という総称で括っただけの話しです。

様々な職業、様々な姓、様々な地域性。
日本というのは様々な違いがあるのです。

日本という国は違いを認める、つまりは「多様性」を認める国柄であるという事です。

取り入れた二千年

明治維新以後、西洋学問を取り入れ教育してきましたが江戸時代には「国学」というものがありました。
日本古来の神道の精神を教えていました。

その前は漢学というものもありました。
漢学というの支那の儒教です。

平安時代、菅原道真の頃あたりには「漢字で勉強すれば高級」なんて事を言って「漢字で手紙を書けたら国際人」とされていました。

その前は「仏教」、飛鳥や奈良時代には仏教の教えが広がったのです。

こういう歴史があるから日本人の考えの中には仏教、漢学、国学がミックスされています。

近年は国際人と言うと「英語」が話せるとか、なんだか欧米かぶれしているような人間が国際人とか言われる始末です。

実際には「英語はペラペラだけど、家に帰ればドテラでこたつ」なんて人が何十年も海外生活してたりします。
むしろ、こんな人こそ国際社会で活躍するのでしょう。

仕事上、便宜上、外国に合わせてはいるけれども、一皮剥けば日本人丸出しです。

そういう事も含めて、それやこれや合わせて日本人と言うことです。

現在の日本はどうでしょう?

えらく単純で多様性を全く考えない分類が多いと感じます。

これから世界の秩序が変わって行く中で、我々日本人に役割は大きい。

我々は世界の中心へと躍り出ます。
その中にあって根本の日本人とは何か?を考えなければなりません。

日本には二千年を超える歴史があります。
単純な分類では捉えることは出来ません。
様々な側面があることを我々日本人が理解しておかなければなりません。

例えば、アメリカなどは建国から240年程度しか歴史がありません。
それ以上に遡る事は出来ません。

「私の先祖はフランスから来た」とか「アイルランドだ」とか言っても、フランス感もアイルランド感もありません。

名前だけはフランス系とかアイルランド系とか、或いはドイツ系とか、その程度で実質何もありません。

しかし我々の日本には日常生活の中に海外のものから、あらゆるものを含め色々な内容のものが詰まっています。

そういうものが無意識のうちに日本人の考え方の中に入っているから、一人の人間が五つも六つもの事を理解するのです。

仏教も神道も、キリスト教もイスラム教も全て理解できます。

この多様性こそが日本、そして日本人の特徴なのです。

その多様性を身につけるのに、千年とか二千年とかかかっているのです。
その長い長い時間かけて身につけている事こそが我が国の国柄となっているのです。

歴史の浅い国には絶対に真似は出来ない!

間違いなく日本の中からとんでもない天才が現れる!

あのアインシュタインを凌ぐ天才が現れます。

しかし、日本人は奥ゆかしく「自分は天才だ」とは言わない。

けれど、近年毎年の様にノーベル賞を日本人が取っている事実。
「これからは日本人ノーベル賞受賞者が続出する!」と欧米人も言い出しました。

もう世界は日本を認めざるを得ません。

ノーベル賞を始め、その世界の在り方事態がそもそもおかしかったのです。

我々日本人は、その責任を自覚する時代に来たのではないか?

私はそう思います。