日本はなぜ、アジア諸国から尊敬されているのか?
何故、此れ程に感謝されるのか?
いきなり、そんな話しをすれば「日本は世界から感謝されてない」とか「アジア諸国は日本を恨んでいる」と言う人がいます。
逆に何故、恨まれのか?
恨まれる様な事があるのか?
これを客観的に的確に明確に根拠を示して答えられる人を見たことがありません。
「だって、アジアを侵略したじゃないか」
これこそ刷り込みの思い込みです。
日本はアジア諸国を侵略していません。
何故なら、世界は白人の植民地でアジア諸国は白人の国だったからです。
アジア諸国の人々は白人領の住人であった訳で、日本はその現地人と戦った訳ではないからです。
もちろん白人の手下とならざるを得ず、白人の為の兵士となってしまった人々はいました。
その人々とは戦闘にはなったけれど、例えばインドネシアと戦った!ということではありませんね。
アジア諸国の独立
日本が感謝されるのは、日本自らの独立と共にアジア諸国の独立も実現しようと戦った!
それをアジア諸国がよく知っているからです。
アジア諸国の中で日本が侵略した!とか言っているのは支那と朝鮮だけです。
日本がアジア諸国の独立を支援していた証拠はいくつもあります。
終戦間際「間も無く日本は降伏する」となり、敗戦を目前にして現地日本軍はスカルノ達を集めます。
スカルノとはご存知「インドネシア初代大統領」です。
スカルノは当時は言わばゲリラの親玉みたいな存在でした。
日本軍はスカルノに「日本は間も無く降伏する、降伏したらすぐに独立宣言しろ」と勧めます。
更に「我々は間も無く引き揚げるが、武器弾薬をみんな置いていくから、すぐに独立宣言をしろ!我々が引き揚げた後に大切なのは、独立する気持ちと君たちの軍隊だ!」と言ったのです。
現地の少年たちにも日本軍は事前に軍事教練をしています。
兵隊の補欠と言う意味の「兵補」と言う資格を与えて、日本軍の補助部隊にしていました。
きちんとした訓練を受けさせていたので、独立後も重要な戦力になります。
「俺たちが負けて引き揚げた後もお前達は戦え!オランダ人が来たら独立の為に戦え」と言った。
けれど、兵補達は「言っている事は理解出来ますが、戦争をどうやるのか解らない」と答えます。
そして日本軍の中には「わかった!それじゃ俺はここに残って、独立軍の指揮官でも手伝いでもしてやる。どうせ日本は焼け野原だ。お前達の為に命を捨てても構わん!」という人が沢山いました。
そして数千名の日本人が残ってインドネシア独立の為に命を捧げたのです。
戦後も日本軍はアジア諸国独立の為に戦っていたのです。
この話しを見ても日本に侵略する気などなかったとわかります。
法律的に見ても、侵略などではなく独立支援することが決まっていました。
日本は開戦前の昭和16年春に南方軍政要領というものを御前会議を開いて決定しています。
当面は軍政を布くけれど、日本の占領は暫定的なものであり、将来は独立させると書いてあります。
その『軍政要領』はマレー、ビルマ、インドネシア、フィリピンの国別に、国情に応じて異なる要領になっています。
当初は軍人が入って治安回復をやるが、治安回復した時点で軍属が派遣されて独立の準備をする。
軍属とは軍人と民間人の中間的な存在です。
資源開発やら産業振興、行政から裁判までやるのです。
アジアの目覚め
日本が独立支援するまではアジア諸国の人々は独立のことなど考えていませんでした。
「我々は二流国だから、どこかの国に占領されるのは慣れている。独立と言われてもイメージが湧かない」そう考えていました。
そして「第一の希望は、支配者が長続きすることで、ちょくちょく変わらんで欲しい」と考えるのです。
マレーにしても「イギリス支配から日本支配に変わるのは構わない、日本語に変えなくて良いというし、そのまま英語が使える。しかしこの後、日本が負けて支配者が変わるのは困る」
これが当時のアジア諸国の実情です。
親日という訳ではないけど、支配者が変わるのは困るので日本には負けないで欲しい。
日本は軍政要領で現地の独立支援を考えていたから、現地との意識のズレはあったようです。
しかし、日本が一時的に占領した事で、現地の意識は変わり日本に感謝し、日本を支持するようになっていったのです。
インドネシアにしても独立支援を行なって来ました。
日本が降伏した翌日には、日本軍はスカルノと独立宣言の打ち合わせをやっています。
スカルノは8月17日にはすぐに独立宣言をしています。
この独立宣言文の日付には皇紀が使われています。
さらにこの打ち合わせでは国旗も決めています。
独立宣言を出しておくのは非常に重要なことです。
アメリカを見れば、北米大陸では移民達は軍隊を作り、イギリスに対し独立運動をやって独立宣言をしました。
テキサス辺りの移民達はメキシコからの独立を目指してアラモ砦で戦い、テキサス共和国として独立宣言をしました。
「ここはテキサスだ!独立したぞ!」と言えば独立国となる。
独立宣言とは重要な事なのです。
日本はよく解っていた。だから、スカルノに即座に独立宣言をするように勧めたのです。
自分達の力で独立させることが目的だからです。
日本は日本が退いた後こそ重要と考え、日本式を押し付ける事はせず現地のやり方を確立できる様に支援したのです。
これは欧米白人達とは全く違うのです。
武士道
日本は第一次大戦のときから独立支援を方針としていました。
第一次大戦後に出来た国際連盟にて、敗戦国ドイツの領土分割についての話し合いで、日本から国際連盟に赴いていた新渡戸稲造は「日本はそういうことはしない」と言った。
そして委任統治という制度を作りました。
新渡戸稲造は国際連盟事務次長として中心的役割を果たしていたから「日本は委任ならば受けて良い、ただしそれは将来の現地独立の為である」と日本のやり方を主張したのです。
そして国際連盟に委任統治制度を認めさせました。
この時、受けたのがパラオ、トラック、サイパンなどです。
これは日本の植民地などではなく「一時預かり」ということです。
一時預かりですから、預かる時期は短い方が良いと考えていました。
この一時預かりのうちに、小学校を作って現地教育をしたり、運動会をしたり、日本の歌なんかも教えたりしました。
委任統治にあたり日本は現地調査をしています。
役人が現地に行って克明な報告書を書いてもいます。
ドイツが南洋諸島を占領したのはフランスと競ってアジアに進出した一環です。
ドイツは南洋諸島を流刑地にしていました。
ドイツ軍艦が時々来ては流刑人を置いて行くのです。
委任統治を引き受けた日本は、この南洋諸島の独立支援を考えていたので、学校を作り教育をしました。
日本敗戦後、アメリカは日本を追い出し南洋諸島に対して援助物資を山の様に配り、現地が働かなくても食える様にしたのです。
黙っていても援助物資で「飲めや歌えや」の骨抜きにしてしまった。
働かず援助物資で食っていては独立など出来ません。
日本の委任統治で日本の教育を受けていた人々は「アメリカのやり方は間違っている」考えていました。
本当に現地の事を考え、現地の力で独立出来る様に支援していたのは誰か?
それが日本だとわかった。
パラオには2015年、我らが天皇陛下が訪問されペリリューで慰霊碑に献花なされた。
現地では大歓迎されました。
あれほどの大歓迎は天皇陛下に対する思いと共に、日本人が現地の事を本当に真剣に考え独立支援をしたことへの表れです。
その日本人とは、我々の先達。
我々は先達の遺産で生きているのです。
皆様、ゆめお忘れなきように。
何故、此れ程に感謝されるのか?
いきなり、そんな話しをすれば「日本は世界から感謝されてない」とか「アジア諸国は日本を恨んでいる」と言う人がいます。
逆に何故、恨まれのか?
恨まれる様な事があるのか?
これを客観的に的確に明確に根拠を示して答えられる人を見たことがありません。
「だって、アジアを侵略したじゃないか」
これこそ刷り込みの思い込みです。
日本はアジア諸国を侵略していません。
何故なら、世界は白人の植民地でアジア諸国は白人の国だったからです。
アジア諸国の人々は白人領の住人であった訳で、日本はその現地人と戦った訳ではないからです。
もちろん白人の手下とならざるを得ず、白人の為の兵士となってしまった人々はいました。
その人々とは戦闘にはなったけれど、例えばインドネシアと戦った!ということではありませんね。
アジア諸国の独立
日本が感謝されるのは、日本自らの独立と共にアジア諸国の独立も実現しようと戦った!
それをアジア諸国がよく知っているからです。
アジア諸国の中で日本が侵略した!とか言っているのは支那と朝鮮だけです。
日本がアジア諸国の独立を支援していた証拠はいくつもあります。
終戦間際「間も無く日本は降伏する」となり、敗戦を目前にして現地日本軍はスカルノ達を集めます。
スカルノとはご存知「インドネシア初代大統領」です。
スカルノは当時は言わばゲリラの親玉みたいな存在でした。
日本軍はスカルノに「日本は間も無く降伏する、降伏したらすぐに独立宣言しろ」と勧めます。
更に「我々は間も無く引き揚げるが、武器弾薬をみんな置いていくから、すぐに独立宣言をしろ!我々が引き揚げた後に大切なのは、独立する気持ちと君たちの軍隊だ!」と言ったのです。
現地の少年たちにも日本軍は事前に軍事教練をしています。
兵隊の補欠と言う意味の「兵補」と言う資格を与えて、日本軍の補助部隊にしていました。
きちんとした訓練を受けさせていたので、独立後も重要な戦力になります。
「俺たちが負けて引き揚げた後もお前達は戦え!オランダ人が来たら独立の為に戦え」と言った。
けれど、兵補達は「言っている事は理解出来ますが、戦争をどうやるのか解らない」と答えます。
そして日本軍の中には「わかった!それじゃ俺はここに残って、独立軍の指揮官でも手伝いでもしてやる。どうせ日本は焼け野原だ。お前達の為に命を捨てても構わん!」という人が沢山いました。
そして数千名の日本人が残ってインドネシア独立の為に命を捧げたのです。
戦後も日本軍はアジア諸国独立の為に戦っていたのです。
この話しを見ても日本に侵略する気などなかったとわかります。
法律的に見ても、侵略などではなく独立支援することが決まっていました。
日本は開戦前の昭和16年春に南方軍政要領というものを御前会議を開いて決定しています。
当面は軍政を布くけれど、日本の占領は暫定的なものであり、将来は独立させると書いてあります。
その『軍政要領』はマレー、ビルマ、インドネシア、フィリピンの国別に、国情に応じて異なる要領になっています。
当初は軍人が入って治安回復をやるが、治安回復した時点で軍属が派遣されて独立の準備をする。
軍属とは軍人と民間人の中間的な存在です。
資源開発やら産業振興、行政から裁判までやるのです。
アジアの目覚め
日本が独立支援するまではアジア諸国の人々は独立のことなど考えていませんでした。
「我々は二流国だから、どこかの国に占領されるのは慣れている。独立と言われてもイメージが湧かない」そう考えていました。
そして「第一の希望は、支配者が長続きすることで、ちょくちょく変わらんで欲しい」と考えるのです。
マレーにしても「イギリス支配から日本支配に変わるのは構わない、日本語に変えなくて良いというし、そのまま英語が使える。しかしこの後、日本が負けて支配者が変わるのは困る」
これが当時のアジア諸国の実情です。
親日という訳ではないけど、支配者が変わるのは困るので日本には負けないで欲しい。
日本は軍政要領で現地の独立支援を考えていたから、現地との意識のズレはあったようです。
しかし、日本が一時的に占領した事で、現地の意識は変わり日本に感謝し、日本を支持するようになっていったのです。
インドネシアにしても独立支援を行なって来ました。
日本が降伏した翌日には、日本軍はスカルノと独立宣言の打ち合わせをやっています。
スカルノは8月17日にはすぐに独立宣言をしています。
この独立宣言文の日付には皇紀が使われています。
さらにこの打ち合わせでは国旗も決めています。
独立宣言を出しておくのは非常に重要なことです。
アメリカを見れば、北米大陸では移民達は軍隊を作り、イギリスに対し独立運動をやって独立宣言をしました。
テキサス辺りの移民達はメキシコからの独立を目指してアラモ砦で戦い、テキサス共和国として独立宣言をしました。
「ここはテキサスだ!独立したぞ!」と言えば独立国となる。
独立宣言とは重要な事なのです。
日本はよく解っていた。だから、スカルノに即座に独立宣言をするように勧めたのです。
自分達の力で独立させることが目的だからです。
日本は日本が退いた後こそ重要と考え、日本式を押し付ける事はせず現地のやり方を確立できる様に支援したのです。
これは欧米白人達とは全く違うのです。
武士道
日本は第一次大戦のときから独立支援を方針としていました。
第一次大戦後に出来た国際連盟にて、敗戦国ドイツの領土分割についての話し合いで、日本から国際連盟に赴いていた新渡戸稲造は「日本はそういうことはしない」と言った。
そして委任統治という制度を作りました。
新渡戸稲造は国際連盟事務次長として中心的役割を果たしていたから「日本は委任ならば受けて良い、ただしそれは将来の現地独立の為である」と日本のやり方を主張したのです。
そして国際連盟に委任統治制度を認めさせました。
この時、受けたのがパラオ、トラック、サイパンなどです。
これは日本の植民地などではなく「一時預かり」ということです。
一時預かりですから、預かる時期は短い方が良いと考えていました。
この一時預かりのうちに、小学校を作って現地教育をしたり、運動会をしたり、日本の歌なんかも教えたりしました。
委任統治にあたり日本は現地調査をしています。
役人が現地に行って克明な報告書を書いてもいます。
ドイツが南洋諸島を占領したのはフランスと競ってアジアに進出した一環です。
ドイツは南洋諸島を流刑地にしていました。
ドイツ軍艦が時々来ては流刑人を置いて行くのです。
委任統治を引き受けた日本は、この南洋諸島の独立支援を考えていたので、学校を作り教育をしました。
日本敗戦後、アメリカは日本を追い出し南洋諸島に対して援助物資を山の様に配り、現地が働かなくても食える様にしたのです。
黙っていても援助物資で「飲めや歌えや」の骨抜きにしてしまった。
働かず援助物資で食っていては独立など出来ません。
日本の委任統治で日本の教育を受けていた人々は「アメリカのやり方は間違っている」考えていました。
本当に現地の事を考え、現地の力で独立出来る様に支援していたのは誰か?
それが日本だとわかった。
パラオには2015年、我らが天皇陛下が訪問されペリリューで慰霊碑に献花なされた。
現地では大歓迎されました。
あれほどの大歓迎は天皇陛下に対する思いと共に、日本人が現地の事を本当に真剣に考え独立支援をしたことへの表れです。
その日本人とは、我々の先達。
我々は先達の遺産で生きているのです。
皆様、ゆめお忘れなきように。