今回は富国強兵を素早く遂行する為に我が国が取った手段を見てみます。
維新から5年
富国強兵を成すには、どうすれば良いか?
明治新政府が最優先課題として取り組んだのがインフラ整備だったのです。
特に交通機関の整備は不可欠です。
そこで最優先で作られたのが鉄道です。
19世紀というのは鉄道の時代でもありました。
19世紀前半にはイギリスで初の商用鉄道が開業しました。
その後、フランス、アメリカ、ドイツと鉄道建設ラッシュが始まりました。
19世紀中頃から後半には中東、インド、オーストラリアなども相次いで鉄道が開通します。
鉄道という強力なインフラは産業構造を劇的に変化させます。
鉄道の有用性については、かねてから気づいていた明治新政府は維新直後から鉄道建設に向けて動き出します。
そして維新から僅か5年。
明治5年(1872)品川~横浜間の鉄道開通を成し遂げました。
これは世界きら見れば画期的なことです。
欧米以外の国で自力で鉄道建設したのは日本が初!
当時既に支那やオスマントルコでも鉄道は開通していましたが、それは自国で建設したものではありません。
外国の企業に鉄道の敷設権や土地の租借権を与え、その企業の資本で建設したものです。
もちろん鉄道運営は外国企業です。
しかし、日本は技術こそ外国からの輸入でしたが、建設の主体はあくまで日本、運営も日本自身で行なっています。
明治新政府の鉄道計画が持ち上がったのは明治2年11月。
朝議において東京と京都を結ぶ幹線と東京から横浜、京都から神戸、琵琶湖から敦賀港の4路線の敷設が決定しました。
新政府は鉄道の資金を広く日本から集めようと考えます。
しかし、それにはまず「鉄道とは何か」を国民に知らしめねばなりません。
そこで明治新政府はロンドンで外国公債を発行します。
資金調達に成功するとデモンストレーションとして新橋~横浜間から建設を始めました。
工事は朝議の翌年には開始され、沿線住民の反対などもあったけれど、2年後の明治5年5月新橋~横浜間29kmの仮運転にこぎつけます。
鉄道開通と共に沿線には連日見物人が押し寄せます。
日本人は鉄道の利便性に気づくのでした。
新政府の狙い通り、各地の商人や実業家達がこぞって鉄道建設を始めるようになります。
明治14年(1881)日本初の私設鉄道会社「日本鉄道」が設立されます。
土地の収容、工事代行など新政府の手厚い保護を受け、10年後には上野~青森間を開通させました。
明治20年代には日本鉄道に続けとばかりに各地で民間鉄道会社が勃興します。
日本の鉄道網は勢いよく広がります。
初開通から僅か35年、明治40年には日本の鉄道の営業km数は9000kmを超える事になりました。
運命の分かれ道
当時アジア諸国にとって、鉄道を自国で作ることには重要な意味がありました。
まず「国力の増強」
鉄道のある国と、ない国では産業構造が全く異なります。
流通が発達していないと、生産者はモノを広く売ることが出来ません。
消費者も色々なモノを買う事が出来ません。
したがって生産も消費も拡大しません。
必然的に産業は発展しません。
しかし、流通が発達すればモノを売る範囲が飛躍的に広がります。
市場も拡大し、生産量またむ増えます。
また鉄道は国内の飢餓問題を解決する手段にもなります。
ある地域が凶作になった場合でも他の地域からスムーズに輸送出来ます。
実際、鉄道が開通する前の日本では流通不備の為に悲惨な状況になることがありました。
明治2年には東北、九州地方が凶作に陥ったけれど、他の地域は豊作。
或いは例年並みでした。
余剰の米を抱える地域もあったのですが流通が上手く行かずに東北、九州地方では米価の高騰を招きます。
こうした問題から国民も鉄道に対して大きな期待を寄せるのです。
明治18年(1885)資本金払い込み総額は713万6千円でした。
これは日本の工業に関する全ての企業への資本金払い込み総額777万1千円と同じぐらいの資本金が鉄道事業に投入されたことになります。
また明治28年には鉄道会社への資本金払い込み総額は7325万3千円になり、工業全企業への払い込み総額5872万9千円を大きく上回るのです。
当時の鉄道会社の規模は日本に全工業規模よりも大きかったということです。
この傾向はしばらく続き、工業全体の資本金払い込み総額が鉄道会社を超えたのは日露戦争だったのです。
明治の日本の産業は鉄道網の広がりに応じて発展するのでした。
鉄道を自国で作ることのもう一つの意味は外国に自国の基幹産業を握らせない為でもあります。
欧米諸国にとって、鉄道は一つの侵攻ね手段にもなっていました。
外国企業に鉄道を作らせた場合、先に述べた様に鉄道関連施設の租借権を与えることになります。
欧米諸国はこの権利をキッカケとして領土に侵攻するケースが多々あったのです。
例えば、支那から満州における鉄道敷設権とそれに付随する土地の租借権を得たロシアは、それを盾に満州全土に兵を進めました。
日露戦争に勝利した日本も満州鉄道の権利を譲り受けて、それをキッカケに満州に兵を進めました。そして満州を独立させた。
外国に鉄道を作らせた場合、それだけ危険を伴うという事です。
外国からの侵攻を防ぐ意味でも、この自国建設の鉄道は重要なことだったのです。
飛躍的に高める
鉄道建設は軍事力を高めることにもなります。
鉄道網の発達は、兵の動員を素早く行うことが出来ます。
その国の軍事力というのは、単に保持してる兵力だけでは測れません。
どれだけ素早く兵力を戦地に運べるか?
輸送力も重要な要素です。
100の兵力を持っていても、戦地に半分しか送れないならば、その兵力は50となってしまいます。
逆に50の兵力全てを素早く戦地に送れたなら、輸送力のない100の兵力の国ね対抗することも出来る訳です。
また戦地が一箇所ではない場合も、100の兵力しか動かせず他所への移動が出来なければ意味がない。
しかし素早く兵力を輸送出来れば、少ない兵力を2倍、3倍に活用出来ます。
兵力×輸送力がその国の本当の軍事力となるのです。
明治政府は、そのことをよく理解していました。
鉄道建設も常な「軍事力を高める」ということを念頭に置いて進めていました。
鉄道特許条約書24条「非常の事変乱等の時に当ては会社は政府の命に応じ、政府に鉄道を自由せしむるの義務あるものとす」
交通網整備は大陸での有事に対応することも視野に入れていました。
日本軍の特徴であった素早い動員も、地道な努力の上に成り立っていたのです。
維新から5年
富国強兵を成すには、どうすれば良いか?
明治新政府が最優先課題として取り組んだのがインフラ整備だったのです。
特に交通機関の整備は不可欠です。
そこで最優先で作られたのが鉄道です。
19世紀というのは鉄道の時代でもありました。
19世紀前半にはイギリスで初の商用鉄道が開業しました。
その後、フランス、アメリカ、ドイツと鉄道建設ラッシュが始まりました。
19世紀中頃から後半には中東、インド、オーストラリアなども相次いで鉄道が開通します。
鉄道という強力なインフラは産業構造を劇的に変化させます。
鉄道の有用性については、かねてから気づいていた明治新政府は維新直後から鉄道建設に向けて動き出します。
そして維新から僅か5年。
明治5年(1872)品川~横浜間の鉄道開通を成し遂げました。
これは世界きら見れば画期的なことです。
欧米以外の国で自力で鉄道建設したのは日本が初!
当時既に支那やオスマントルコでも鉄道は開通していましたが、それは自国で建設したものではありません。
外国の企業に鉄道の敷設権や土地の租借権を与え、その企業の資本で建設したものです。
もちろん鉄道運営は外国企業です。
しかし、日本は技術こそ外国からの輸入でしたが、建設の主体はあくまで日本、運営も日本自身で行なっています。
明治新政府の鉄道計画が持ち上がったのは明治2年11月。
朝議において東京と京都を結ぶ幹線と東京から横浜、京都から神戸、琵琶湖から敦賀港の4路線の敷設が決定しました。
新政府は鉄道の資金を広く日本から集めようと考えます。
しかし、それにはまず「鉄道とは何か」を国民に知らしめねばなりません。
そこで明治新政府はロンドンで外国公債を発行します。
資金調達に成功するとデモンストレーションとして新橋~横浜間から建設を始めました。
工事は朝議の翌年には開始され、沿線住民の反対などもあったけれど、2年後の明治5年5月新橋~横浜間29kmの仮運転にこぎつけます。
鉄道開通と共に沿線には連日見物人が押し寄せます。
日本人は鉄道の利便性に気づくのでした。
新政府の狙い通り、各地の商人や実業家達がこぞって鉄道建設を始めるようになります。
明治14年(1881)日本初の私設鉄道会社「日本鉄道」が設立されます。
土地の収容、工事代行など新政府の手厚い保護を受け、10年後には上野~青森間を開通させました。
明治20年代には日本鉄道に続けとばかりに各地で民間鉄道会社が勃興します。
日本の鉄道網は勢いよく広がります。
初開通から僅か35年、明治40年には日本の鉄道の営業km数は9000kmを超える事になりました。
運命の分かれ道
当時アジア諸国にとって、鉄道を自国で作ることには重要な意味がありました。
まず「国力の増強」
鉄道のある国と、ない国では産業構造が全く異なります。
流通が発達していないと、生産者はモノを広く売ることが出来ません。
消費者も色々なモノを買う事が出来ません。
したがって生産も消費も拡大しません。
必然的に産業は発展しません。
しかし、流通が発達すればモノを売る範囲が飛躍的に広がります。
市場も拡大し、生産量またむ増えます。
また鉄道は国内の飢餓問題を解決する手段にもなります。
ある地域が凶作になった場合でも他の地域からスムーズに輸送出来ます。
実際、鉄道が開通する前の日本では流通不備の為に悲惨な状況になることがありました。
明治2年には東北、九州地方が凶作に陥ったけれど、他の地域は豊作。
或いは例年並みでした。
余剰の米を抱える地域もあったのですが流通が上手く行かずに東北、九州地方では米価の高騰を招きます。
こうした問題から国民も鉄道に対して大きな期待を寄せるのです。
明治18年(1885)資本金払い込み総額は713万6千円でした。
これは日本の工業に関する全ての企業への資本金払い込み総額777万1千円と同じぐらいの資本金が鉄道事業に投入されたことになります。
また明治28年には鉄道会社への資本金払い込み総額は7325万3千円になり、工業全企業への払い込み総額5872万9千円を大きく上回るのです。
当時の鉄道会社の規模は日本に全工業規模よりも大きかったということです。
この傾向はしばらく続き、工業全体の資本金払い込み総額が鉄道会社を超えたのは日露戦争だったのです。
明治の日本の産業は鉄道網の広がりに応じて発展するのでした。
鉄道を自国で作ることのもう一つの意味は外国に自国の基幹産業を握らせない為でもあります。
欧米諸国にとって、鉄道は一つの侵攻ね手段にもなっていました。
外国企業に鉄道を作らせた場合、先に述べた様に鉄道関連施設の租借権を与えることになります。
欧米諸国はこの権利をキッカケとして領土に侵攻するケースが多々あったのです。
例えば、支那から満州における鉄道敷設権とそれに付随する土地の租借権を得たロシアは、それを盾に満州全土に兵を進めました。
日露戦争に勝利した日本も満州鉄道の権利を譲り受けて、それをキッカケに満州に兵を進めました。そして満州を独立させた。
外国に鉄道を作らせた場合、それだけ危険を伴うという事です。
外国からの侵攻を防ぐ意味でも、この自国建設の鉄道は重要なことだったのです。
飛躍的に高める
鉄道建設は軍事力を高めることにもなります。
鉄道網の発達は、兵の動員を素早く行うことが出来ます。
その国の軍事力というのは、単に保持してる兵力だけでは測れません。
どれだけ素早く兵力を戦地に運べるか?
輸送力も重要な要素です。
100の兵力を持っていても、戦地に半分しか送れないならば、その兵力は50となってしまいます。
逆に50の兵力全てを素早く戦地に送れたなら、輸送力のない100の兵力の国ね対抗することも出来る訳です。
また戦地が一箇所ではない場合も、100の兵力しか動かせず他所への移動が出来なければ意味がない。
しかし素早く兵力を輸送出来れば、少ない兵力を2倍、3倍に活用出来ます。
兵力×輸送力がその国の本当の軍事力となるのです。
明治政府は、そのことをよく理解していました。
鉄道建設も常な「軍事力を高める」ということを念頭に置いて進めていました。
鉄道特許条約書24条「非常の事変乱等の時に当ては会社は政府の命に応じ、政府に鉄道を自由せしむるの義務あるものとす」
交通網整備は大陸での有事に対応することも視野に入れていました。
日本軍の特徴であった素早い動員も、地道な努力の上に成り立っていたのです。