「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

真空管アンプに必要な「対決の構図」

2024年05月16日 | オーディオ談義

「AXIOM80」にウッドホーンを取り付けてからルンルン気分の毎日が続いている。以前にも増して「ええ音楽やなあ・・」とウットリしながらクラシックを聴く機会が多くなった。

もちろん自己満足に過ぎないけどね~(笑)。

いろいろと理論的には 問題があるかもしれない と脳裡の片隅で常に身構えながら自問自答しているのはたしかである。オ
ーディオは 一筋縄ではいかない ことをこれまで嫌というほど経験してきたから~。

で、その第一の課題はホーンの出口の音流の乱れが挙げられる。いろんな資料で指摘されているし、まったく目に見えないだけに始末が悪いが、違和感があるかないか 耳ひいては脳 を最大限に働かせる必要がある。

試しにJBLのホーンのようにハチの巣型(左側)を参考に、メチャ細かい網目を持った金網をホーンの出口に二重に張ってみた。見かけなんてどうでもよろし~(笑)。

        

一聴して、お~、なかなかいいじゃないか! 心なしか音が柔らかくなった感じがする・・(笑)。

これで「音流の乱れ」は素人なりにひとまず解決といこう。


次の課題は組み合わせるアンプだ。

めちゃデリケートな再生を誇る「AXIOM80」だけに、アンプ次第でころっと音が変わる、それはもう面白いくらいに・・。

今のところ我が家には9台の真空管アンプがあるが、つい先日の「AXIOM80を聴かずしてオーディオを語ることなかれ」(13日付)で述べたように、(AXIOM80に)ホーンを付けた途端に「お金のかかったアンプ」が軒並み総崩れの事態へ~。

ホーン効果により「AXIOM80」の能率が向上し、アンプ側の高出力(といってもせいぜい5ワット程度だが)が、かえって仇となっている感じかな。

言い換えると、10の能力を5割程度以下しか発揮できないためにオーバーパワー気味になって いびつな音 になっている・・。

その点、出力1ワット前後の低出力アンプたちが水を得た魚のように生き生きとしてきたのはご愛敬~、ほら、控えの選手たちが一軍に上がってきて延び延びと躍動している感じかな(笑)。

そして、そのうち目下のところこれら3台のアンプたちが しのぎ を削っている。



左側の2台は折に触れ紹介してきたと思うので、割愛することにして今回の 掘り出し物 はいちばん右側のアンプだ。

その概要は出力管「6SN7」をパラレル接続したもので、たまたま「TRIAD」(アメリカ)の出力トランス(プッシュプル用)が手に入ったので、数年前に知人に急遽組み立てもらったものだが、パワー不足でなかなか本格的な出番がやってこなかった。

前段管は「6SL7」(GEのニッケルプレート)、出力管は「6SN7」(アメリカ:レイセオン)、そして整流管は「GZ32」(英国:ムラード)という陣容。

極めてシンプルな構造で出力は1ワット未満だし、 お金がもっともかかっていない アンプだが実にしっくりくる・・(笑)。

これで、実力伯仲のアンプが3台揃って安心して音楽に浸れるなあ。

安心?

というのも、周知のとおり、真空管は消耗品なので使えば使うほど老年期にさしかかって能力が衰えてくるが、「姥捨て山」に行かせるタイミングが実に計りずらい、それに加えて音がいいとされる「ナス管」はもはや製造不能なので二度と手に入る可能性が薄い。

ちなみに、画像の真ん中に位置している「LS7」アンプはナス管だけど、1970年代前後のST管はオークションにもよく出品されているが、これが古い「ナス管」となると、もう滅多に見かけない・・。

このアンプはナス管じゃないと音色も半減、値打ちも半減するのに・・、したがって後生大事に使ってま~す(笑)。

そういうわけで、真空管アンプの場合「理想的な球」が枯渇して手に入らない恐れがあるので、1台に絞って使うのはたいへん危険である、せめて同クラスのものを2~3台揃えておくと安心~。

いわば「対決の構図」として、「三つ巴の戦い」なんて理想的だとおもうんだけどなあ~(笑)。



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優しく慰めてくれるシューベルトの音楽

2024年05月15日 | 音楽談義

読書でも音楽でも、そしてオーディオでもおよそ趣味と名がつく世界では微細な点まで他人と 好み が一致することはまず ない というのが我が経験則~。

したがって、他人のご意見は「参考にすれどもとらわれず」を堅持しているつもりだが、プロの音楽家が推奨する曲目ばかりは一度聴いてみたいという誘惑にかられることがしばしばある。

「鶴我裕子」(つるが ひろこ)さんが書かれたエッセイ集「バイオリニストは目が赤い」
を読んだときもそうだった。

             

鶴我さんは福岡県生まれで、東京芸大卒。1975年(昭和35年)にNHK交響楽団に入団され、第一バイオリン奏者を32年間務められた。

この本(新潮文庫)の50頁に、(鶴我さんは
「腹心のレコード」を2枚持っていて、愛聴し始めて20年、雨の日も風の日もこの2枚で心の支えを得ているという行(くだり)があった。

その2枚の内訳とは・・、フィッシャー=ディースカウの「シュトラウス歌曲集」と、もう一枚は「フリッツ・クライスラーの小品集」。

ディースカウは確実に後世に名前が残るほどの大歌手(バリトン)だし、クライスラーは1930年代頃を中心に活躍した名バイオリニスト。

さっそく、ネットで購入しようと
検索したところ両方ともに該当盤なし、仕方なくオークションを覗いたところディースカウは無かったが、クライスラーのがあった。

どんなに当時の録音が悪くてもクライスラーの演奏だけは「別格」と聞かされているので迷うことなく入札に参加し、スンナリ落札。

「フリッツ・クライスラーの芸術10CD」と「高音質復刻盤・オーパス蔵”クライスラー ヴァイオリン小品集”」。



そして、ディースカウの「(リヒャルト)シュトラウス」歌曲集についてだが・・、これはよほどのことがない限り、もう手に入りそうにない予感がする。そこで「You Tube」に望みをかけたところ、アルバムではなく単品があった・・、すぐに耳を傾けてみたところブログ主には少し縁遠い気がした。

仕方なく方向転換して間に合わせのつもりで、手元にある「冬の旅」(シューベルト)を引っ張り出して聴いてみた。ピアノ伴奏はイェルク・デムス。

ディースカウは生涯に亘ってこの歌曲集を7回録音しているほどの熱の入れようで、年齢に相応した歌い方があるのだろう。

          

この曲には少しばかりの想い出がありまして・・、

たしか40歳代前後の頃だったが、当時、大分市南部にお住まいのK先生(医師)宅にかなり出入りしていた。

ある地区の御三家と称された大病院の院長さんで、ご高齢のため既にもう亡くなられているが、広くて天井の高い専用のオーディオルームでタンノイのオートグラフを「TVA1」(M&オースティン)という真空管アンプ(KT88のプッシュプル)で駆動されていた。

今となってはオートグラフの音質は自分の求める方向とは違うと分かっているものの当時は深々とした音色に大いに感心し憧れたものだった。

そのK先生が愛聴されていたのが「冬の旅」だった。

「疎ましい冬の季節に旅をするなんて誰もが嫌がるものだが、あえてそういう時期を選んで旅をする。

人間はそういう困難な環境を厭わずに身をさらす気概が必要なんだ。医学生の頃に友だちと一緒にこの曲をよく聴いたものだよ」ということだった。

「冬の旅」というタイトルのほんとうの意味は必ずしもそうではなかったようなのだが、当時は知る由もなかった。

近年ではごく稀に聴く程度だったが、丁度良い機会とばかりじっくり腰を落ち着けて「新生 AXIOM80」で試聴してみる気になった。

音楽とオーディオは車の両輪ですからね!(笑)


短い生涯に600曲にものぼる歌曲を書いてドイツ・リート(芸術歌曲)の花を咲かせたシューベルトの集大成となるのがこの「冬の旅」。

亡くなる前の年に作曲されたもので、暗い幻想に満ちた24曲があまねく網羅されている。あの有名な「菩提樹」は5曲目。

季節的には春の真っ盛りというのに何だか肌寒く感じる中での鑑賞だったが暗いというか、沈痛に満ちた70分あまりの時間だった。

試聴後の印象となると、シューベルトの薄幸の生涯を全体的に象徴しているかのようだったが、こういう曲目を愛好する人っていったいどういう心情の持ち主なんだろうとつい考えてしまった。

少なくとも叙情的な接し方を超越した根っからのクラシックファンには違いない。

大いに興味を惹かれて、より深くシューベルトの森に分け入ろうと「You Tube」で「シューベルト名曲集」をじっくり聴いてみたが、 聴き馴染んだ親しみやすい旋律 が想像以上に豊富だったのには驚いた。

ほら、昔はNHKラジオで音楽番組を頻繁にやっていたが、その始まりのテーマ曲によく使われていたのが「三つ子の魂百までも」と、記憶に遺っているというわけ。

シューベルトの音楽のテーマは持続性というか発展性が はかなくて長続きしない 印象だけど、ときおりハッとする美しい旋律が出てくる・・、それがテーマ曲にピッタリというわけで、いわば「短編小説の名手」という感じかな~。

あっ、そうそう・・、何方かが 彼の音楽は老人を優しく慰めてくれる音楽 と言ってましたが該当者として正鵠(せいこく=急所)を射てると思いますよ~(笑)。


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オペラを聴くとなぜ頭が良くなるのか?

2024年05月14日 | 音楽談義

「犬も歩けば棒に当たる」という諺がある。

ご存知の方も多いと思うがググってみると、「棒に当たるとは、人に棒で殴られるという意味。本来は、犬がうろつき歩いていると、人に棒で叩かれるかもしれないというところから、でしゃばると災難にあうという意味であった。

現在では、“当たる”という言葉の印象からか、何かをしているうちに思いがけない幸運があるという、反対の意味で使われている。」

ときどき図書館に出かけて本を漁っていると、幸運にも思いがけない書物に 当たる ことがある。

「頭が良くなるオペラ」(著者:樋口裕一)
                                        

まず冒頭に「オペラを聴くとなぜ頭が良くなるのか?」とある。その理由とはこうである。 

「室内楽であれ、オーケストラであれ、オペラであれ、クラシック音楽を聴くと頭が良くなる。それが私の持論だ。

クラシックには微妙な音が用いられる。それにじっと耳を傾けることによって、物事をしっかりと落ち着いて思考する態度が身に付く。

変奏形式などに基づいて論理的に構成されていることが多い。それゆえクラシックを聴いているうちに自然と論理的な思考が身についてくる。

だが、オペラとなるとその比ではない。オペラは総合芸術だ。そこに用いられるのは音楽だけではない。

ストーリーがあり、舞台があり、歌手たちが歌い、演出がある。それだけ情報も増え、頭を使う状況も増えてくる。必然的に、いっそう頭の訓練になる。言い換えれば頭が良くなる」

とまあ、以上のとおりだが、自分の場合は別に頭を良くしようとクラシック音楽を聴いているわけではない。

聴いていて心地いい、場合によっては心を揺り動かされるのが楽しみなわけだが、目下の関心事のひとつは「ボケないこと」なので、一石二鳥になればそれに越したことはない。

本書では具体的に16の有名なオペラが挙げられており、“頭を良くする”ための聴きどころが懇切丁寧に解説されている。

我らがモーツァルトの三大オペラ「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」ももちろん入っている。 

この三つのうち、もし一つでも欠けていたら著者のオペラに対する見識を疑うところだったので好感度100点!(笑)

この中では、最晩年の作品「魔笛」が音楽的には「一頭地を抜いている」と思うが、「頭が良くなる」という見地からはおそらく「ドン・ジョバンニ」ということになるだろう。

いったい、なぜか?その理由を述べてみよう。 

このオペラはモーツァルトの「天馬空を駆ける」ような音楽には珍しいほどの人間臭さがプンプン臭ってくる男女の愛憎劇である。

ご承知の方も多いと思うが、まず簡単なあらすじを述べると、女性と見れば若い女からお婆ちゃんまで次から次に手を出す好色な貴族の「ドン・ジョバンニ」が、神を信じず人を殺した報いを受けて最後は地獄に堕ちていくというもので、第一幕の冒頭の出来事にこのオペラの大切なポイントがある。

ドン・ジョバンニが貴族の女性「ドンナ・アンナ」をモノにしようと館に忍び込むものの父親の騎士長に見つかり、争いになって騎士長を刺し殺してしまう。父を殺されたドンア・アンナは恋人ドン・オッターヴィオとともに犯人を捜し、復讐しようと誓うシーン。

五味康祐さんの著書「西方の音」にも、このオペラが詳しく解説されているが、この館の夜の出来事においてドン ・ジョバンニが父親を殺す前にドンナ・アンナの貞操を奪ったのかどうか、これがのちのドラマの展開に決定的な差をもたらすとある。

言葉にすることがちょっと憚られる 暗黙知 がこのオペラの深層底流となっているわけだが、こういうことはどんなオペラの解説書にも書かれていないし、もちろん本書もその例に漏れないが、このことを念頭におきながらこのオペラを聴くととても興趣が尽きない。

ちなみに、「西方の音」では二人に関係があったことは明白で「さればこそ、いっさいの謎は解ける」と具体的にその理由が挙げられている。

「もしかして・・」と疑心暗鬼にかられる恋人ドン・オッターヴィオ、素知らぬ風を装うドンナ・アンナ、そして臆面もなく他の若い娘にも触手を伸ばす好色漢ドン・ジョバンニとの三角関係、その辺の何とも言えない微妙な雰囲気をモーツァルトの音楽が問わず語らずのうちに実に巧妙に演出している!

楽聖ベートーヴェンはこの不道徳なオペラに激怒したとされるが、ロマンチストだったベートーヴェンと違って、モーツァルトは人間の機微に通じた世慣れ人であることがいやがうえにも感じ取れる・・。

というわけで、「ドン・ジョバンニ」をこういう風に鑑賞して想像力を逞しくすると頭の血の巡りが良くなりそう!(笑)

フルトヴェングラー指揮、以下クリップス、バレンボイム、ムーティなどいずれも名演だと思うが、前述の微妙な雰囲気を醸し出すのが上手いのはやはり「フルトヴェングラー」かな~。

ライブ録音なので音質が冴えず 茫洋 とした風情が漂っているのも寄与しているかもしれない・・(笑)。
          

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「AXIOM80」を聴かずしてオーディオを語ることなかれ

2024年05月13日 | オーディオ談義

第二次世界大戦時の英国の首相「チャーチル」はこう言った。

「民主主義はベストの政治体制ではないが、ほかのよりは マシ だ」

それから70年余を経た状況だが、とうとう人類は理想的な政治体制を得られないまま、「他の体制よりはマシ」という半信半疑と諦めの状態でこのまま彷徨するんだろう・・。

実は我が家のオーディオ体制もそうでして・・(笑)。

とうとう完全に満足できるサウンドを得られないまま、このまま彷徨する可能性が高い、そして曲がりなりにも改善の意欲を燃やし続けている推進力は「前よりも マシ になったかな」。

実例を挙げてみよう。

我が家の6系統のスピーカーのうち、独自の色彩を放っているのは何といっても「AXIOM80」(英国)である。

まるで針の穴を通すような緻密な再生にかけては天下一品で、ドツボにハマったときは「AXIOM80を聴かずしてオーディオを語ることなかれ」という気分になるが、あまりにも神経質過ぎて長時間聴くのはちょっと きつくて 遠慮したくなる・・。

そこで、その原因をつらつら考えてみた・・、まず、エンクロージャーを「5mm~1cm」の厚さの「楓(かえで)材」に変更するととても良さそう・・、これはそのうちチャンスをみてチャレンジしてみよう。

もう一つは、ユニットから出た音が平面バッフルの余白に当たって乱反射しているせいかもしれない。

近年の「B&W」や「モニターオーディオ」などの有名どころのスピーカーを見ていると、すべてバッフル面は細身の仕立てになっているのにお気付きかな・・。



そこで、次善の策として平面バッフルに小さな凹凸のある紙か布を張り付けるといいかもしれない・・。

「思い立ったら即実行」をモットーにしているので、100均の大型店(大分市)に行って物色してみることにした。幸か不幸か、少ない経費で最大の効果を上げると ひときわ 楽しくなる習性の持ち主なんですよねえ(笑)。

そして、その車中の道すがら「待てよ~、植木鉢のウッドホーンをユニットに被せる手もあるなあ・・」 即座に過去に木製の植木鉢を数点購入した記憶がよみがえった、そして 即 Uタ~ン・・(笑)。

倉庫に仕舞い込んでいた植木鉢の中からAXIOM80の口径(27cm)に合いそうなサイズの植木鉢を何なく発掘した。

胸を弾ませながら、植木鉢を据え付けてみると、これがまあ 何と奇跡的にピッタリサイズだった! 思わず飛び上がりましたぞ~(笑)。



ご覧の通り、補助金具が不要なほど隙間なくユニットの外側にピッタリ嵌った~。

さあ、問題は音である・・、鬼が出てくるか蛇(じゃ)が出てくるか・・(笑)。

そこで、半日ほどモーツァルトのあらゆる曲目をぶっ続けで聴いてみたところ、まったく耳が疲れず、そして飽きないのである・・、もちろん嬉しい悲鳴!

「ホーン効果」ってすごいなあ・・。(興味のある方はググってみてください)

で、ここ3日間ほど新生「AXIOM80」に夢中になっている状態だが、「オーディオはそんなに甘くないぞ」と、脳裡を秘かによぎってくるものがある・・、プラス面があれば必ずマイナスの側面が不随してくるはず、と過去の幾多の苦い経験が囁いてくるわけだ(笑)。

たとえば、ホーンの出口のところで音流が乱れるので何とかしたいところ・・。



ほら、楽器「ホルン」の先が反り上がっているでしょう・・、ほかにもJBLは「ハチの巣」型にしてみたり、アルテックはセル型に細分化してみたり・・。

まあ、とりあえずサウンド的には今のところマイナス面をあまり感じていないが、適合するアンプの幅が随分狭くなったことは特筆できる。

まずは、パワー感のあるアンプ「PX25」「2A3」「WE300B」などの「お金」のかかったアンプは軒並み「討ち死に」である。言葉で表現するのは難しいが何だか「いびつ」な響きになる・・。

そして小出力のアンプ「371Aシングル」や「LS7シングル」などが「俺たちの時代がやってきた」といわんばかりに跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)している状況へ~(笑)。



そこで、久しぶりに冷静な第三者の判断を求めてオーディオ仲間の意見を聞きたくなったので、昨日(12日)連絡したところ、あいにくご出張とのことだった。

しかし、大の「AXIOM80」ファンなので「ウッドホーンを取り付けましたよ」の言葉に大いに惹きつけられたご様子・・、そのうちコメントをご紹介しましょうねえ・・、ただし「前の方がいいですよ」という言葉だけは絶対に聞きたくないけどなあ(笑)。



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夢の正体 そして 趣味を楽しみ尽くす

2024年05月12日 | 読書コーナー

明け方近くになって、ときどき おかしな夢 を見る。

たとえば「クルマで坂道を登っているのに逆に下がり続けてブレーキを踏んでも止まらない」という冷や汗が出るシ~ン、さらには「療養を終えて職場に復帰したところ、見知らぬ顔ばかりで自分の机さえもない」、こうなるとほんとうに心臓に悪い・・(笑)。

「どうしてこんなに重苦しい夢を見るんだろう」というのが長年の疑問だったが、それに終止符を打てそうな本に出会った。



期待しながらざっと一読してみたが、専門家向きの内容みたいでとても歯が立たなかった。

とはいえ、分かったことが一つ。つまり「夢に関してはまだ未解明のことばかり」ということだった。たとえば106頁。

1 脳はどうやって夢を生み出すのか

2 夢にはどんな役割があるのか

3 その役割を果たすために、なぜ夢を見なければならないのか

答えはこうだ。「すべて、わからない」。

終わりに男女を含めて「今まで見たことのある典型夢の順番」というのがあった(182頁)。

1 追いかけられるが無事だった夢

2 性的経験の夢

3 学校/教師/勉強の夢

4 落下する夢

5 遅刻する夢(列車に乗り遅れたなど)

6 生きているはずの人が死んでいる夢

7 落ちる寸前の夢

8 空を飛ぶ、あるいは空高く上昇する夢

9 試験で失敗する夢

10 何度も試みるがうまくいかない夢

これらからおよそ類推できるのは「日頃から抑圧された感情」が元になった夢が多いということで、これで「楽しい夢」が少ないことにも頷けそうだ。

そして、次の本はこれ。



読んでいてとてもご機嫌になれる本で一気読みしてしまった。こういう本は極めて珍しい。


小説家、逢坂剛、80歳。

直木賞をはじめ数々の受賞歴を持ち、小説家として第一線で活躍し続ける一方、フラメンコギター、スペイン語、古書収集、野球、将棋、西部劇などの映画に精通し、多芸・多趣味でも知られる。

ユーモラスで温厚な人柄から、敬意と親しみを込めて「剛爺(ごうじい)」と呼ばれる小説家の<上機嫌生活>指南書。

人生100年時代。仕事も趣味も楽しみ尽くして、日々を機嫌よく過ごすためのヒント満載。

次は目次の一部。

第一章 画家の父、母の早世、二人の兄
~探求心は職人気質の父から、勉強は秀才の長兄から、遊びは多趣味の次兄から学ぶ 

「小説家」の原点は画家の父/母の思い出/六畳一間の男四人暮らし/兄二人から教わったこと/好きなことにお金をつぎ込む癖/ふるさとは神保町

第二章 ハメットと出会った十代、開成での六年間、ギターまみれの大学時代
~自主性を学生生活から、創作姿勢をハメットから、修練の達成感をギターから得る

自主性を学んだ開成時代/「文才があるね」。背中を押した教師のひとこと/ハメットという衝撃/英語が上達したわけ/第三志望の男/法曹界を目指しかけるも……/ギター三昧の大学生活/探求の楽しみを知る

第三章 PRマン時代、スペイン
~第三志望の就職先でも、知恵と工夫で仕事は面白くなる

再び、第三志望の男/楽しみを見出す、つくり出す/趣味道楽こそが本業なのだ/初めてのスペイン、一生の出会い/どんな仕事も面白がる

第四章 二足のわらじ、直木賞受賞、サラリーマンと執筆と
~会社員と小説家の兼業をこなす中、生涯書き続ける決心をする
会社員生活の傍ら、小説執筆を再開/プロの感想を聞きたくて/“兼業作家"としてデビュー/無理なく続いた「二足のわらじ」/自分にとって最適なリズムで/オリジナルをとことん楽しむ

第五章 多彩、多芸、鍛錬と開花、幅広い交友
~好きな街に身を置き、リズムとリフレッシュを交え仕事と長年の趣味に没頭する
日常に、文化の薫りを/永遠のマイブーム/リズムとリフレッシュ/趣味はいつでも見つけられる/愛しの古本コレクション/オーダーメイドの楽しみ/逢坂流・語学上達のこつ/五十を過ぎて、野球チームを結成/いつまでも動ける体を維持する/趣味仲間とディープに交流する

第六章 “終活"より“修活"だ!
~断捨離するより愛着品を楽しみ尽くし、争いごとは遠ざけて、上機嫌で過ごす
好ききらいに忠実に/一番の刺激は、がんばる同世代/終活? まっぴらごめん!/シャープの〈書院〉よ、いつまでも/話術はメモから/不便から学ぼう/DIYの楽しみ/夫婦共通の趣味は食べ歩き/まだまだ捨てたもんじゃないぞ、街中の人情/若き編集者に出した“宿題"/調べずにはいられない!/機嫌よくいる。それが一番/争いごとを引き寄せない/年をとったら兄弟仲よく/一生勉強!(いや、道楽気分)/一度きりの人生、好きなことを

以上のとおりだが、母親の早世、人生の岐路となる大学受験、そして就職試験と失敗を繰り返しながら、いっさいめげずに前向きに取り組む姿勢に感心するし、損得を抜きにして「好きなことに一生懸命打ち込む」ことに大いに共感を覚えた。

「趣味を楽しみ尽くす」まさにそのとおり!

「負けてはおられないぞ」と、勇気百倍!(笑)



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「あの頃は良かった・・」症候群

2024年05月11日 | 音楽談義

若い頃にしょっちゅう釣りに出かけていたので、今でもよく「釣り番組」を観ているが、登場した年配の漁師さんたちが押しなべて「昔はよく捕れていたんだけどなあ」と嘆くシーンが実に多いことに気付く。

実際にそうかもしれないが、人間は押しなべて「あの頃は良かった・・」と過去を美化しがちな傾向があるように思う。

それも、”あの頃は”と言うくらいだからそろそろ人生のゴールが見えてきた中高年層にその比率が高いだろうし、さらには当時を振り返ることで自分の「若さ」が持っていた可能性や夢といったものを懐かしむ側面もきっとあるに違いない

ただし回顧談に耽ると「若い人たちから嫌われるだけ」という話をよく聞くのでほどほどにしなければと自戒している。まあ、このブログに目を通している方の大半は高齢者だろうからその点は安心できる・・(笑)。

さて、「あの頃は良かった症候群」に関連して、つい音楽の世界を連想してしまった。

たとえば、指揮者の世界。

トスカニーニ、フルトヴェングラーなど1950年代前後を中心に活躍した往年のマエストロたちに対する賛美はいまだに尽きないように思う。

フルトヴェングラーは先年の「レコード芸術」誌で50人の評論家と読者による名指揮者ベスト・ランキングで堂々と第1位に選ばれており、トスカニーニも第4位と健闘しているほどで、だれもその卓越した指揮振りに口をはさむ者はいない。

                                 

それに比べて今の指揮者の評価は一般的に
「いかにもスケールが小さくて小粒だ、芸術性に乏しい」などの厳しい評価が後を絶たない。

昔の指揮者は実に良かった!

しかし、本当にそうなのだろうか? いたずらに過去を美化しているだけではないのだろうか。

 と、いうわけで、あくまでも私見だが現代の指揮者を見てみると、一番大切とされる「作曲者の意図を理解して忠実に再現する能力」は往年のマエストロに比べて少しも遜色はないように思える。

たとえば、自分の知っている範囲では、「春の祭典」を聴いて度胆を抜かれたワレリー・ゲルギエフ、「魔笛」のDVDを視聴して感心したフランツ・ウェルザー・メスト、ヨーロッパで活躍されている大野和士さんもオペラの指揮で多彩な才能を発揮されている。

しかし、残念なことに昔とは決定的に違うところがあって、それは当時の指揮者たちが絶対的な権力を持つことが許されていたこと。

トスカニーニなどは練習中に楽団員たちに のべつくまなく 罵詈雑言を浴びせ、絶対服従を強いた。その結果当時の録音を聴くとよく分かるが、楽員たちが一糸乱れぬまるで軍隊の行進のように緊張しきって演奏しているのがよく分かる。

楽団員全員の神経が張りつめた「緊張感あふれる演奏」、ここに指揮者のカリスマ性が生まれる余地がある。

フルトヴェングラーも似たようなもので、楽団員たちが「マエストロの指揮ならついていける」と、心酔していたからあのような神がかった演奏が達成できた。

これに比べて、今の指揮者たちは当時とは時代背景がまったく変わってしまっているのがお気の毒~。

すっかり民主化という波が押し進められ絶対的な地位が失われて、団員たちとの距離もすっかり近くなってしまった。

人権重視という背景もあって、音楽以外の雑用も気にしなければならず、これでは指揮者が自分の個性を十二分に発揮しようがないのも事実。

それにもう一つ決定的な違いがある。

1950年代前後は周知のとおりクラシックの黄金時代とされているが、「芸術(クラシック)と娯楽の境界」が現代と比べて比較的はっきりしていたので、指揮者に対する尊敬と称賛が自然に注がれていた。

それに引き替え、現代は両者の境界というか垣根が徐々に低くなってきていて、まあ平たく言うとクラシックが地盤沈下したのか、あるいは全般的に娯楽の質と量が向上したのか、それとも両方の相乗効果なのか・・、どうかするとクラシックが娯楽並みに「コマーシャル・ベース」や「暇つぶし」の感覚で扱われるようになっている(指揮者ブルーノ・ワルター談)。

これでは指揮者の社会的に占める位置づけも当然変わろうというものだ。

結局、「あの頃の指揮者は良かった」というのは事実だろうが、「当時は取り巻く環境に恵まれていたからね」というエクスキューズが必要な気がするがどうなんだろう。



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オーディオの「交友の歴史」とJBLについて

2024年05月10日 | オーディオ談義
先日のこと、JBLの「175ドライバー」を使ったシステムに触れたところ、メル友さんから次のようなお便りがあった。(要旨)



「オーディオ仲間に恵まれていいですね・・、そして、6系統ものSPシステムの研究をされている中で、JBLがしぶとく生き残っている印象です。
クラシック愛好家なのにどうして・・、きっと、ブログ主さんの感性の中に、JBL憎からずというものがある、と解釈しています。」

メールありがとうございます。

まず前段の「オーディオ仲間」について述べてみましょう。

実は学校関連のオーディオ仲間たちとはずっと付き合いが長いのですが、翻ってオーディオ関連の交友となるとどうもあまり長続きしないようなのです(笑)。


差し障りがあるのであまり詳しくは書けませんが、一時往来が激しかったのに今ではサッパリという方々が片手の指に達するぐらいいらっしゃいます・・、つまり離合集散がかなり激しい傾向にあります。

何故かな?

自分には性格的に多少「偏屈」なところがあるのを自覚していますが、どうもそればかりではなさそうです。

やはりオーディオとか音質に対する意見の食い違いがあったりして、それを あからさま に口に出すわけにもいかず腹の中でぐっと我慢をする・・、そういうことが積もり積もってストレスが溜まっていき、次第に疎遠になる、これも一因ではないでしょうか。

もちろん、片方だけでなくお互いにそう思っているからこそ、磁石のマイナス同士が反発するような状況に陥っていきます。

オーディオが、たかが趣味の世界として簡単に片付けられるレベルではなく、ちょっと大げさですが人生の譲れない「レーゾン・デートル」として大切になればなるほど、そういう危険性を孕んでいる気がしてなりません。

そういう経験をお持ちの方ってありませんかね・・。

我が家のオーディオの歴史といえば、ある意味では「交友の歴史」ともいえるもので、その時々の方たちから強い影響を受けており、そういう礎のもとに現在の「音」が築き上げられていて、いわばお師匠さんにあたります。

というわけで、今でも折に触れて感謝の念を持ってますよ~(笑)。


次に「JBLに対して憎からず」というご指摘について述べてみましょう。

そもそも、クラシック愛好家がなぜJBLを使っているのか?

自分ではまったくそういう意識がありませんでしたが、いざ指摘を受けてみるとたしかに変ですよね(笑)。


周知のとおり「JBL」はアメリカ産だし世間一般的に「ジャズ」向きとされているスピーカーだし、クラシック向きのスピーカーはほかにもたくさんあるのにどうして・・。   

その疑問に対して、思いつくままに箇条書きしてみると・・、

 総じてJBLは能率の高いユニットが多くて使いやすい。我が家のように小出力の真空管アンプ愛好家にとっては大いに助かる

 音声信号に対する応答性が早く、音質に「澄み切った秋の青空」のようなスカッとした爽快感がある

 日頃から紳士的で穏やかな英国系のユニットを使っていると、ときどき気分転換して破目を外したくなる

 弦楽器にはある程度「目を瞑る」としても、ボーカル、ピアノ、管楽器系となると非常に捨て難い味がある

 市場に出回っている機器が多いので比較的簡単に入手できるし、修理も容易い

とまあ、こういったところでしょうか。

しかし、これは「答え」になっていますかね・・(笑)。



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詐欺メール 書店の減少 そして 怒りの解消

2024年05月09日 | 独り言
☆ 詐欺メール

つい先日のこと、次のようなメールが舞い込んできた。


クレジットカードのセキュリティ更新:MasterCard カードの重要なお知らせ


ご利用確認はこちら・・

【Mastercard】利用いただき、ありがとうございます。このたび、ご本人様のご利 用かどうかを確 認させていただきたいお取 引がありましたので、誠に勝手ながら、カードのご利 用を一部制 限させていただき、ご連 絡させていただきました。

つきましては、以下ヘアクセスの上、カードのご利 用確 認にご協力をお願い致します。お客様にはご 迷 惑、ご心配をお掛けし、誠に申し訳ございません。何卒ご理解いただきたくお願い申しあげます。ご回答をいただけない場合、カードのご利 用制 限が継続されることもございますので、予めご了承下さい。

MasterCardカード:不正使用疑惑のセキュリティチェック

【Mastercard】利用いただき、ありがとうございます。このたび、ご本人様のご利 用かどうかを確 認させていただきたいお取 引がありましたので、誠に勝手ながら、カードのご利 用を一部制 限させていただき、ご連 絡させていただきました。

つきましては、以下ヘアクセスの上、カードのご利 用確 認にご協力をお願い致します。お客様にはご 迷 惑、ご心配をお掛けし、誠に申し訳ございません。何卒ご理解いただきたくお願い申しあげます。ご回答をいただけない場合、カードのご利 用制 限が継続されることもございますので、予めご了承下さい。

つい、うっかりアクセスしようとしたが、念のため表題をコピーしてググってみたところ、これは「詐欺メール」です! とのこと。

危なかった・・、最近は手が込んできましたね~(笑)。

☆ 書店の減少

書店の減少に歯止めがかからないとのこと。

 

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精神力を向上させるのは幸福ではなく悲しみである

2024年05月08日 | 音楽談義

作家の「マルセル・プルースト」(フランス:1871~1922)をご存知だろうか。

ジェームス・ジョイス(ユリシーズ、ダブリン市民など)、フランツ・カフカ(変身、審判など)とともに20世紀を代表する作家であり、代表作の長編「失われた時を求めて」は後世の作家に大きな影響を及ぼした作品として知られている。

数多くの名言を残したことでも有名で、そのうちの一つ「幸福というものは、 身体のためには良いものである。 しかし、精神の力を向上させるのは、 幸福ではなく悲しみである。」は、思い当たる人がいるかもしれない。

さて、図書館でたまたま「プルースト効果の実験と結果」に出くわした。

   

「プルースト効果」っていったい何?

本書によるとこうだ。

「特定の香りから過去の記憶が呼び覚れる現象のこと。マルセル・プルーストの代表作「失われた時を求めて」で主人公がマドレーヌ(焼き菓子)を紅茶に浸したとき、その香りがきっかけで幼年時を思い出すことからこの名が付いた」とある。

ちなみに、本書のケースでは二人のうら若き男女が受験勉強のときに特定のチョコレートを食べるクセをつけて、テストの直前にチョコレートを食べることで勉強時に詰め込んだ知識が自然に蘇ってくるかもしれないとその「プルースト効果」に期待するというものだった。

その実験を通じて、受験生同士の恋愛模様が絡んできて最後はあっけなく失恋に終わるという内容だったが、青春時代の甘酸っぱい思い出が巧く描かれていた。

さて、人間の知覚は周知のとおり五感として「視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚」に集約されるが、プル-スト効果は「特定の香り」だから「嗅覚」に由来していることになる。

そこで、いやしくも「音楽&オーディオ」のタイトルを標榜する以上、「プルースト効果」の「聴覚版」に言及するのは必然の成り行きだとは思いませんかね(笑)。

つまり「音楽のプルースト効果」

特定の音楽を聴くと分かち難く結びついた過去の記憶(シーン)が蘇ってくるという経験はおそらく音楽好きの方ならあることだろう。

我が身に照らし合わせてみると、50年以上クラシックを聴きこんできた中で、それこそいろんな曲目の思い出があるが、さしあたり2曲ほど挙げてみよう。

✰ ジネット・ヌヴー演奏の「ヴァイオリン協奏曲」(ブラームス)

たしか15年ほど前のこと、とあるクラシック愛好家と親しくさせてもらったことがあり、その方がお好きな女流ヴァイオリニストのジネット・ヌヴーについて話を伺ったことがある。

クラシック全般に亘ってとても詳しい方だったが、それによると、「レコード音楽の生き字引」や「盤鬼」(五味康祐氏著「西方の音」19頁)として紹介されている西条卓夫氏が当時(昭和40年前後)の「芸術新潮」で、いろんな奏者がブラームスのバイオリン協奏曲の新譜を出すたびにレコード評の最後に一言「ヌヴーにトドメをさす」との表現で、どんな奏者でも結局ヌヴーを超えることは出来なかったという。

自分にとっても、これほどの名演奏(ライブ)は後にも先にもないと思っているし、教えていただいた方にも感謝しているが、残念なことにその方とは今となってはすっかり 疎遠 になっている。

なぜかといえば、我が家の当時のJBLの音を聴かれて「こんな音は大嫌いだ」みたいな捨て台詞を残して憤然と席を立ち、それっきりプツンとなってしまった。

「音が憎けりゃ人まで憎し」・・(笑)、まあ、いろんな鬱憤(うっぷん)が積み重なった背景があったのでしょうよ~。

ヌヴーの演奏を聴くたびに、そのことがつい思い浮かぶ・・。

✰ モーツァルト「ファゴット協奏曲第2楽章」

37年間もの宮仕え生活を送るとなると、それはもういろんな上司に当たることになる。

振り返ってみると、ウマの合わない上司と当たる確率は半々ぐらいかな・・、自分だって欠点だらけの人間だから仕方がない面もあるな~。

まあ、宮仕えとはそういうもんでしょう(笑)。

あれは宮仕えも後半に差し掛かった頃のことだった。それはもうソリの合わない上司に当たって、何かと理不尽とも思える仕打ちを受けた。

それほどタフな精神の持ち主ではないので、とうとう「心の風邪」を引いてしまい、挙句の果てには不眠に悩まされることになった。

そういうときに購入したCDが「眠りを誘う音楽」だった。ブルーレイ・レコーダーのHDDに取り込んで今でもときどき聴いている。

   

当時、第10トラックの「ファゴット協奏曲第2楽章」(モーツァルト)を聴き、沈んだ心に深~く染み入ってきて「世の中にこれほど美しい曲があるのか!」と思わず涙したものだった。ちなみに、それは娘のお粗末なラジカセで聴いたものだった・・(笑)。

そして、この曲を聴くたびについ当時の「心の風邪」を連想してしまう。

以上、2曲の「プルースト効果」についてだが、いずれもあまり面白くない過去の記憶がつい呼び覚まれてくるのが不思議・・、あっ、そうそう、「夢」だって過去の不愉快な思い出がつきまとってくる傾向が強い。

冒頭に紹介したプルーストの言ではないが、幸福感よりも悲しみ(哀切感)の方が深く記憶に刻み込まれて精神を成長させるのかな・・。

皆様の場合はいかがでしょうか。



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オーディオ・ケーブルについて 一考

2024年05月07日 | オーディオ談義

「T」さん(静岡県)が「音の館」を4月末からオープンされるというので、「このブログで良ければ一役買わせてください・・」と、宣伝の片棒を担がせてもらってから3週間余りが経った。

ところが、どうも目立った効果がなかったみたいで、たいへん申し訳なし~(笑)。

しかし、思わぬ収穫もあったみたいで(ブログの)文中で紹介した「ケーブル」の注文があったという・・。

そこで、追い討ちをかけるみたいだが3年ほど前に製作してもらった「T」さんの「RCAケーブル」(素材はLANケーブル)を改めてご紹介しよう。



ほかにも、4.5mのSPケーブルを作ってもらったわけだが、 こんな細い線材で大丈夫? と当初は半信半疑だったが、実際に使ってみると「ハイスピード サウンド」へと変身を遂げたのだから常識にとらわれないって大切ですね~(笑)。

さっそく、当時 次のように「T」さんあて打電したことだった。

素材の味をそっくりそのまま生かすというのでしょうか、楽器の音色が実に素直に聴こえますし、音の収束が早いため(音が)徒に被ることなく余韻が綺麗にそして漂うように出てきます。おそらく使用されたプラグと線材のマッチングもいいのでしょう。大いに気に入りました。」

たかがケーブルごときでサウンドが大きく変わるのだからやっぱりオーディオって「八岐大蛇」(やまたのおろち)みたいで正体不明だね・・。

それにしても、ケーブルに関する理論は諸説あるのだが、折角の機会なので、とあるメーカーの説を紹介させてもらおう。もちろん、信じる、信じないは貴方の自由なので念のため~。

そもそも、読書にしろブログにしろ 作者と読者の「同意」と「不同意」の繰り返しによる対話 を通じて進んでいくものですからね。

☆ ケーブルについての基本的なポリシー

当社はおそらくどのメーカーよりもケーブルに対して醒めた目を持っている。オーディオシステムに置かれたケーブルは必要悪以外の何物でもなく、その存在を小さくする努力にしか進化を認めらない。当社にとってケーブルの進化とは「消滅へのプロセス」であり、(当社が製作した)〇〇〇〇は自らの存在を極限まで矮小化したケーブルシステムだ。

☆ ケーブル自重

ケーブル自重は当社にとって重要なファクターだ。ケーブルは自重によって自らを振動体(床、壁)に押しつけ、重いケーブルほど芯線が受け止める振動の衝撃は大きくなる。

芯線を振動からアイソレートするべきダンピング材がケーブル自重の増加に一役買うので、意図したほどのダンピング効果が得られないばかりか、ダンピング材に蓄えられた振動エネルギーの解放を、これまたダンピング材が妨げるため、音楽のダイナミクスの変化がケーブルに吸収され、リズムが立たない。この悪循環を断ち切るにはケーブル自重を軽くする意外に有効な手立てはない。


☆ 芯線直径

「太い芯線は重低音が出る」というのは本当だ。ただし、その重低音がソース(CDやレコード)に含まれるものかどうかは疑わしい。太いケーブルを使って重低音が出たとしても、その先にはウーファー(低域用ユニット)の“か細い”ボイスコイルが繋がっている。したがって、その重低音がソースに含まれるものであれば、ボイスコイルと同じ線径のケーブルを使っても再生されるはずだ。つまり、ケーブルによる低音の差とは固有振動数の異なるケーブルの音色の差でしかない。

太い芯線は振動エネルギーの蓄積が大きく、エネルギーの解放が遅れるため、音楽のダイナミクスの細かな変化に追従できない。いったん振動すると止まりにくく、振動(鳴き)を止めるために芯線を締め上げると逆にストレスがかかる。それは音の伸びを妨げ、周波数レンジを狭める。同様に重いケーブル自重や、きつい撚り合わせも芯線にストレスを与える。ケーブルに限らず、あらゆるコンポーネンツに与えられる「ストレス」と「ダンピング」は音楽の躍動感を殺す2大ファクターだ。

もう一度ウーファーのボイスコイルの太さに戻って考えて欲しい。質の良い低音をケーブルの太さに求めるのは本筋ではない。もっと別のところ、つまり電気の通り道の太さにではなく、振動の通り道の明快さに求めるべきだ。

☆ その他(特記事項)

・ ケーブルをひもやビニタイで縛らないこと。どうしても必要な場合はゆるゆるの状態に。また、シールド線は被せないこと。効果がないばかりか、逆にアンテナとして働く場合の方が多い。

・ +側と-側のケーブルはツィストしても、しなくてもよい。前者では音像型になり、ハムに対しても若干強くなる。後者ではレンジの広い音場型になる。当社はこちらを好む。なお、ツィストする場合はけっしてきつく撚りあわせないこと。芯線にストレスがかかり、レンジが狭く歪っぽい音になる。したがって、1ターンあたり3cm以上の緩いツィストにすること。とにかく「ケーブルにストレスをかけない」これがもっとも重要なキーワードだ。

というわけで、「T」さん製作のケーブルは、この理論にピッタリ当てはまるんですよねえ・・、今でも重宝してま~す(笑)。



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事実は小説よりも奇なり~「死に山」~

2024年05月06日 | 読書コーナー

ようやく今日(6日)で長かった連休も終わりです。

温泉観光地・別府の宿命とはいえ、県外ナンバーの車による渋滞も終わるので営業関係者には申し訳ないが内心ではほっとしています。

で、連休に入る直前のブログ「本のお薦め」(4月27日付)の中で紹介したように、この期間中は家にこもって、日頃にもまして「読書三昧でいこう」と、書いてたのをご記憶でしょうか。



このうち、とりあえず3冊を読了したがいちばん面白かったのは「死に山」だった。ぜひ皆様方にもご一読をお薦めしたいので中身に分け入ってみよう。

本書は「ノンフィクション」である。表紙の副題にあるように「世界一不気味な遭難事故」「ディアトロフ峠事件の真相」とある。

概略はこうである。

「1959年、冷戦下のソ連・ウラル山脈で起きた遭難事故。登山チーム九名(ウラル工科大学在学生)はテントから一キロ半ほども離れた場所で、この世のものとは思えない凄惨な死に様で発見された。

氷点下の中で衣服をろくに着けておらず、全員が靴を履いていない。三人は頭蓋骨折などの重傷、女性メンバーの一人は舌を喪失。遺体の着衣からは異常な濃度の放射線が検出された。

最終報告書は「未知の不可抗力によって死亡」と語るのみ――。地元住民に「死に山」と名づけられ、事件から50年を経てもなおインターネットを席巻、われわれを翻弄しつづけるこの事件に、アメリカ人ドキュメンタリー映画作家が挑む。

彼が到達した驚くべき結末とは…!」

どうです! ちょっと興味をそそられませんか・・。

何しろ「全員死亡」しているので、最終的な真相は「憶測」以外の何物でもないが、要は「科学的説明がつくかどうか」の一点に絞られる・・、そして、本書は見事にその着地に成功していると見た。

読者レヴュー(ネット)から一件だけ借用させてもらおう。

「原作タイトルは「dead mountain」。草木が生えていない山という意味。日本語タイトルは売れ行き狙いのひねったタイトル。よくない。

ドキュメンタリーの書き方は素晴らしい。1959年と2012-2013年を一章づつ割り当てて、交互に関連させながら記述していく。冷静な筆致で、そのためにぐいぐいと引き付けられる。日本の本ではこんなきちんとしたノンフィクションはない。実に面白かった。

事件内容
1959年の冬、ウラル工科大学の学生とOBがウラル山脈北部のオトルテン山に登るため出発し、2月1日、ホラチャフリ山(dead mountain)の東斜面でキャンプした。その日の夜、何かが起こり、全員死亡した。

最終的にテントは見つかったが、テントには内側から切り裂かれた跡があり、誰一人、テントにはいなかった。遺体はテントから1.5kmほど離れた場所で見つかったが、それぞれ、ロクに服を着ていなかったし、ほぼ全員が靴を履いていなかった。4人は低体温症、3人は頭蓋骨骨折などの外傷で死亡していた。一人は舌がなくなっていた。一部の衣服からは異常な濃度の放射能が検出された。ディアトロフはリーダーの名前。


様々な仮説
1.マンシ族による攻撃。
事件の起こった頃、マンシ族はそのあたりに居住していなかった。また、ホラチャフリ山には獲物がなく、近寄らなかった。平和な人々で、捜査活動に最初から協力した。この仮説は最初に否定された。

2.雪崩
斜面の傾斜角は16度で、雪崩の起こる確率は非常に少ない。テントは発見された時、立っていたし、この仮説も否定された。

3.強風
一人か二人、外に出た時に吹き飛ばされたので、それを他のメンバーが助けに出た。この仮説ではなぜ全員がテントの外に出たのか、誰も靴を履かなかったのか説明できない。テントを切り裂く必要もない。

4.武装集団
一行の持ち物は後に確認すると、ほとんど何もなくなっていなかった。三人の遺体に激しい損傷があった点は崖(高さ7m)から落ちたことで説明される。舌がなかった点は雪解け水による腐敗現象と思われる。

5.兵器実験
同時期に「光球」が目撃されている。これは2月初めという証言だったが、2月17日と推定されるので、この仮説は否定される。

6.放射線関連の実験
衣服についていた放射能は異常というレベルではなかった。冬の核実験でウラル山脈に到達したことも考えられる。この仮説も否定された。
最後に謎を解くのは、NOAAの気象科学の専門家である。今はポピュラーな現象だが、この当時は知られていなかった。これ以上、書くと良くないので、これで終了。

以上のとおり、簡にして要を得たレヴューです! これでわざわざ本書を読まなくても内容を把握できたことでしょう。

で、問題は最終的な真相(科学的な仮説)をここで明らかにするかどうか・・、ハムレットみたいに悩みますな~(笑)。

そして、これは日頃の個人的な思いだが、他人のブログを読んでいて いちばん腹が立つ のは「肝心なことは明らかにせずに、もったいぶった書き方」をしていることに尽きる!

したがって、このブログもこの轍(てつ=わだち)を踏むわけにはいかないでしょうよ(笑)。

したがって、真相を明らかにしておくことに決めた。

ただし、もし本書を読みたいという方がいらっしゃるのであれば、ここから先は読み進まないようにね~(笑)。

で、その真相とは・・。

何よりもテントの設置場所が悪かった。冬のウラル山脈は想像を絶するほどの強風が吹きつける。周囲の地形(小高い二つの山に囲まれていた)により、何と「超低周波音」が発生し、それがテントにも盛大に押し寄せた。

恐怖に捕らわれた学生たちは取るのもとりあえず、全員が真っ暗闇の雪原にほとばしり出た。そして、あるものは道に迷って雪原の中に埋まり、あるものは崖から落ちて重傷を負った。そして全員が死亡した・・。

というのが、本書による種明かしだった。個人的には納得です。それ以外に科学的な説明はつかないと思う。

周知のとおり、人間の耳の可聴周波数帯域は「20~2万ヘルツ」である。

20ヘルツ以下の「超低周波音」・・、低音の「お化け」ですぞ! 聴いたことはないがやはり不気味ですねえ。

オーディオシステムにも むやみやたら に低音を求めると精神に異常をきたす恐れがあるのでどうかご用心を~(笑)。



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人生は一度きりなのがつらい

2024年05月05日 | 独り言

ブログの更新を毎日続けていると「よく話の種が尽きませんねえ・・」と、知り合いから言われることがある。

「いいえ~、近年は質より量を優先しようと心掛けていますので、それほど苦労してませんよ~」と返しているが、どうせ「筆力」だって所詮は素人なので知れており、質の方も大したことはない・・(笑)。

ただし、オーディオ関連の記事はネタが豊富なのであまり困らないものの、その合間になるべく “畑違いの記事” を挟むことにしているが、それが少しばかり隘路になっている。


オーディオばかりの連続記事だと「専門バカ」と思われそうなので、ちょっと意識して変化を持たせているわけだが、たとえば最近の例を挙げると
世の中には二種類の人間がいます」「何が飛び出してくるかわからないブログ」などがそう。


しかし、このことがまったく予想だにしない逆転現象を引き起こしていることに気が付いた。

実を言うと、これらの記事の方が本家本元の「オーディオ関連の記事」よりもアクセス数が多いのである(笑)。

以前から娘や一部の方々から「オーディオ関連の記事は専門的過ぎてサッパリ分からない」と言われて久しいが、このことが改めて裏付けられた感じ。

18年以上もの歳月をかけてコツコツと獲得した大切な読者の方々だが、もしかしてオーディオ以外の記事に興味を持っている方のほうが多いのかもしれない・・(笑)。


この現象をあえて言わせてもらうと「二枚目志望の役者がたまたま三枚目役を演じたところ思いもかけず人気が出てしまった」ような複雑な気分になる。

敷衍(ふえん)すると・・、
一般的に自分の適性は分かっているようで、実は分かっていないものかもしれないですね、人生なんて「何が自分の適性なのか」を追い求める長い旅路のようなもの・・。

たとえば、若いころに慎重に選んだつもりの職業だって、はたして自分に向いていたかどうか・・。

「適性」云々より何よりも「食い扶持(ぶち)の確保」が第一だったので仕方がない・・、実は皆さまもそうじゃありませんか~(笑)。

今さら「宴の後」になって、悔やんでも仕方がないが時間に縛られたくない自由人が憧れだったし、何よりも活字が好きなので外国ミステリーの翻訳家なんてとてもいいと思う・・、もっと語学を勉強すれば良かったかなあ~。

しかし、老後になって現在のように「音楽&オーディオ」が存分に楽しめたかどうかは定かではない・・、「今が
良ければそれでいい、贅沢を言うな!」と、外野席から叱声が飛んできそう。

人生は一度きりなのが つらい (笑)。


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人間性の開放とモーツァルトの音楽

2024年05月04日 | 音楽談義

もうはるか15年以上も前のこと・・、

地元の新聞に、とあるオーディオ・マニアの写真がご自宅の高級装置とともに大きく掲載されていて「素晴らしい音です。どうか興味のある方は聴きにいらっしゃい」と、随分自信ありげだったのでいそいそと出かけて行ったことがある。クルマで30分ほどの大分市内の方だった。

お年の頃は当時で70歳前後の方だったが、高価な機器を購入して部屋にポンと置いただけで「いい音が出る」と錯覚しているタイプで、それは、それは「ひどい音」だった(笑)。

したがって、オーディオの方はサッパリだったが、音楽への造詣はなかなかのもので「結局、クラシック音楽はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの3人に尽きます。」という言葉が強く印象に残った。

まあ極論になるのだろうが、「当たらずといえども遠からず」かな・・。

(以下、音楽論になるが各人の感性に左右される話なので、それぞれ見解の相違があると思う。したがってあくまでも「私見」ということでまずお断り~。)

クラシック音楽を一つの山にたとえるとすると、この3人をマスターすればおよそ7合目までくらいは登攀したことになろう。

個人的にはそのうちバッハについてはイマイチのレベルで、せいぜいグレン・グールド(ピアニスト)を介して、「イギリス組曲」「ゴールドベルク変奏曲」を聴くくらい。代表曲とされる
「マタイ受難曲」「ロ短調ミサ」にはとても程遠い。

しかし、モーツァルトとベートーヴェンは結構、イイ線をいってる積もり。

モーツァルトはピアノ・ソナタ、ヴァイオリンソナタ、ピアノ協奏曲などに珠玉の作品があるが、やはり最後はオペラにトドメをさす。
結局「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」で彼の音楽は完結する。

ベートーヴェンでは交響曲の2~3つ、大公トリオ、ピアノ・ソナタの最後の3曲(30番~32番)と後期の弦楽四重奏曲群があれば充分。

この二人の試聴期間を振り返ってみると好きになった年代がはっきり区分されていて、20代の頃はベートーヴェンだったが、30代後半からモーツァルト一辺倒でそれがず~っと今日まで続いている。

ベートーヴェンの音楽は今でも好きだが、年代が経るにつれて押し付けがましさを感じてやや敬遠している。

その点「モーツァルトの音楽は自由度が高く飛翔ともいうべきもので、ある程度人生経験を積まないとその本当の良さが分からない」、まあこれは自分だけの思いだろうと、ずっと胸に秘めてきた。

ところが、
丸谷才一氏の「星のあひびき」を読んでいたらふとこのことを思い起こす羽目になってしまった。

            

該当箇所を要約してみると・・、

「20世紀は「戦争と革命の世紀」だといわれるほど、むごたらしい殺戮の世紀であった。これに関連する死者数は何と1億8千7百万人にものぼる。こういう血まなぐさい百年間でもほんの少し功績はあった。
ピーター・ゲイという著名な歴史学者はこんなことを言っている。「暗澹たる20世紀が誇りうるほんの僅かの事柄の一つが、モーツァルトの音楽をそれにふさわしい栄光の位置に押し上げたということである」。

モーツァルトの音楽が脚光を浴びることが20世紀の誇りうる事柄の一つとは、彼のファンの一人として素直にうれしくなるが、ちょっと「大げさだなあ~」という気がしないでもない。

そもそも「戦争」や「革命」と同列に論じられるほどクラシック音楽が重要だとは到底思えないけどね~(笑)。

それはさておき、問題はモーツァルトの音楽が20世紀に入って見直されたという事実。

本書によると19世紀は道学的、倫理的な時代であり、モーツァルトのオペラは露骨な好色趣味のせいで軽薄、淫蕩的とされ、ベートーヴェンの方が圧倒的な人気を博していたという。

たしかにモーツァルトの「フィガロの結婚」は召使の結婚に初夜権を行使したがる領主を風刺した内容だし、「ドン・ジョバンニ」は主人公が好色の限りを尽くして次から次に女性に言い寄るストーリー。

モーツァルトも「女性大好き」人間だったので、まるで自分が主人公になったかのように作曲に没頭した。そうじゃないとあれほどの迫真の音楽は完成しない。

つまり、人間の本性を包み隠さずにさらけ出す彼の音楽が露悪趣味のように受け取られてしまったわけだが、20世紀に入ると19世紀への反動が出てきて、人間性の開放という観点から、文学、絵画、音楽への新たな発見、見直しが行われ、その一環としてモーツァルトの音楽も大いに見直された。


モーツァルトは1791年に35歳で亡くなったが、彼の音楽は死後、ずっと現在と同じくらい人気があったものと思ってきたのでこの話はちょっと意外に感じた・・。

モーツァルトの音楽に何を感じるか・・、人それぞれだが「露悪趣味」から「人間讃歌」まで、時代の流れや己の人間的な成長とともに受け止め方が変わっていくのが面白い。

とにかく、一見軽薄そうに見えて実はいろんな「顔」が隠されていて、聴けば聴くほどに とても一筋縄ではいかない音楽 であることはたしかだと思う。

この連休中、旅行に行かずにたっぷりと時間に恵まれた方々・・、「You Tube」でモーツァルトの音楽に耳を傾けて 人間性を開放 しましょうや~(笑)。



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音楽的なサウンド VS オーディオ的なサウンド

2024年05月03日 | オーディオ談義

今年の春は例年と違って肌寒く感じるのは自分だけだろうか・・、今朝(3日)の起床時の室温は何と16℃だった!

寒いはずも道理・・、これでは3月の気温とあまり変わらない。まあ、気紛れな お天気さん のことだからぼやいても 詮無い ことだが、いきなり夏がやってくるのかなあ・・。

さて、このブログではちょくちょくオーディオ関係の記事を投稿しているのだが、個人ごとに耳の形が違うように、考え方やアプローチの仕方も「百人百様」なので、個人が現状で満足さえしていれば いいも悪い もないし他人があれこれ口を挟むことはないと思っている。

ただし、アドバイスを求められたら、はっきりと「歯に衣を着せず」に言うべし・・(笑)

したがって、この記事も「口を挟もう」なんて露ほども思ってないし、まったくの個人的な感想なので、真に受けるのは危険というか、どうか「ワン・オブ・ゼム」ということで・・、念のため申し添えます。

さて、メル友の「T」さんから頂いた小道具にすっかり夢中になって、我が家に到着以来(30日)スピーカーを変えることなく、毎日10時間以上の不動の位置を保っている。いいサウンドは飽きがこない・・(笑)。



スピーカーは「口径25cmのユニット+JBLの175ドライバー」で、この小道具の効果は専ら「175」で発揮されており、これまでよりもずっと素敵なサウンドに変身
して大いに堪能している真っ最中。

そして・・、オーディオ愛好家は実に欲が深い、もっと気に入った音が出ないかとあれこれ実験している・・、実験といってもできることといえば相性のいいアンプ探し~。

「175」といえば能率が高いことで有名でたしか「110db」前後だったはず・・、通常の英国系のスピーカーが「95db」前後だからメチャ高い。

そのかわり「もろ刃の剣」で、ちょっとした微かなノイズも容赦なく拡大して白日の下(もと)にさらすので、良質のアンプが必須となる。

というわけで、小出力の真空管アンプの絶好の出番である。つまり、ノイズが極端に少なく透明感に満ち溢れた質のいいアンプ・・。

となると、この「檜舞台」に上がる資格のあるアンプは我が家では自ずとこの2台に絞られる。



両方とも数年前にオークションで落札したものだが、電源トランスも出力トランスも同じで、当初は両者とも出力管が「71A」だったが、知人に頼んで2~3回改造してもらって今日に至っている。

まず、左側のアンプは「SRPP」回路のもと、前段管が「12AX7」(英国:BRIMAR)、出力管は「371A」(アメリカ:ナス管)、整流管は「80A」(英国STC)。

で、その特徴だが前段管が「ミニチュア」管の「12AX7」というだけあって、スケール感の方はあまり期待できないけど緻密な再生が得意という印象を抱いてしまう。

これは、余談になるが「WE300B」アンプで、前段管が「ミニチュア管」に毛が生えたような「6SN7GT」が起用されているのをちょくちょく見かけるが、せっかく「WE300B」を使うのに随分と貧相な球を使うこと、バランスが「?」、と、つい思ってしまう(笑)。

で、実際に、この「12AX7」となると小出力の「371A」とはとても相性がピッタリ・・、まるで顕微鏡のように細かで鮮明な音を再生してくれるので大いに気に入っている。まあ、いわば「オーディオ的なサウンド」といえるのかな~。

そして、一方の右側のアンプは数か月前に改造してもらったばかりのアンプで前段管が「AC/HL」(英国マツダ・初期版)、出力管が「LS7」(英国GEC)、整流管は「80」(アメリカ:ナス管)という組み合わせ。

こちらのアンプは「前段管」が大きいだけあって、自然な感じで「ゆったり感」が漂ってくる。

ハーモニーも極上で、あまり細かいことは「言いなさんな」という大人の気風が漂ってくる・・(笑)。いわば、「音楽的なサウンド」といえる。

ちなみに、出力管の「LS7」は「371A」とは丁度出力も同じくらいで似たり寄ったりのタイプだから、前段管の違いでこういうサウンドの違いが醸し出されてくるのだろう。

で、最終的に「お前はいったいどちらのサウンドに軍配を上げるのか?」と問われたらどう答えようか・・。

こればかりは難しい・・、ジャズやポピュラー系の音楽ソースは「オーディオ的なサウンド」へ気持ちが傾くし、「クラシック」系のソースとなると、ヴァイオリンの響きを含めて「音楽的なサウンド」に傾いていく・・。

いわば、本妻が「音楽的なサウンド」で、妾宅が「オーデイオ的なサウンド」というわけで、どちらも捨てがたし~。

よし・・、こまめに対応しながら「二刀流」で行くとしよう(笑)。



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活字中毒

2024年05月02日 | 独り言

新聞や雑誌などで「活字中毒」という言葉をちょくちょく目にする。

お馴染みの「広辞苑」には残念なことに該当語の記載がないが、ネットには「本・雑誌・新聞などを読むのが好きで、何も読むものがないと いらだつ ような状態になること。また、そのような人をいう。」とある。

そういう意味では自分は立派な「活字中毒」患者である。

あれほど「音楽&オーディオ」と「ブログの作成」で目が回るほど忙しいはずなのに(笑)、手元に未読の本がないと何となく落ち着かない。そこで折をみて図書館に出かけて闇雲に何がしかの本を仕入れてくる。

館内に入ると、まず「紙とインクの匂い」にホッとし、もしかして面白い本に出くわすかもしれないという期待感に胸を膨らませているが、それがピタリと的中したときはこの上ない喜びとなる。

つい最近読んだ中で一気呵成に読んだのが次の本だった。

☆ 「作家の履歴書」~21人の人気作家が語るプロになるための方法~(角川書店刊)。

                       

当代の人気作家たち21人について、それぞれ(作家への)「志望動機」「転機」「自分を作家にした経験」についてのコメントをまとめたものだが、まったく各人各様の勝手気ままな“半生”の波乱万丈ぶりが面白かった。

とはいえ、これらの作家たちには共通点があって 一つは小さい頃から並外れた「本の虫」だったこと。その読書量たるや凄まじいもので、これらは着実に本人の血となり肉となって後年の作品に反映し結実していったに相違ないと思わせる。

そしてもう一つの共通点は書いても書いても売れない長~い不遇の時代をかこっていたこと。そして、めげずに続けていたら、ひょんなことで売れっ子作家になったというパターンが非常に多い。

結局、
最後にモノを言うのはやっぱり「根気」のようだが、それを裏打ちしているのは「読んだり書いたりすることが大好き」であることは間違いない。いわば「好きこそものの上手なれ」。

ちょっとニュアンスが違うかもしれないが、ふとオーディオ愛好家にも当てはまるのではないかと思った。

自宅で 気に入った音 で音楽を聴こうと思ったら並大抵の努力では間に合わないように思う。たとえば誰もが羨むような豪勢なシステムにしたってポンとそのまま置いただけでは絶対にうまく鳴ってくれない。なにがしかの工夫、そして「時間」が要る。

我が家の場合は、50年以上かけてもようやく90点程度・・、それも加齢のせいで高音域の聞き取りが劣ってきているうえでの自己評価だから大いに割り引く必要がある・・、もうこの辺が限界かな~(笑)。

「根気」のことでもう一つ。

つい先日、久しぶりに運動ジムに行ったところ、昔の知り合いにばったり遭遇した。

(自分の)心臓病の服薬のことでいろいろ親身になって心配してくれた方なので、懐かしさのあまり「お久しぶりです」と声をかけると「いつもブログを読んでますので、お元気なことは分かってました。内容が専門的過ぎてさっぱりわかりませんが・・・。」というお答えが返ってきた。

どうやら年賀状と同じでブログが「無事の便り」になっているらしい(笑)。

「元気にしてますよ」というシグナルを発信する意味で、改めて(ブログを)根気よく続けていこうと決意を新たにした次第だが、こういうありがたい読者がいるのでときどき 音楽とオーディオ以外 のことも書かねばという気にさせられた結果がこういう記事になる(笑)。

話は戻って、本書にはこれらの作家たちが「もっとも影響を受けた作家・作品」という項目があった。プロの作家たちの心をそこまで揺さぶったとなると、大いに興味を引かれたので忘れないように主な作家を抜粋して列挙しておくことにしよう。

〇 大沢 在昌
レイモンド・チャンドラー「待っている」、生島治郎「男たちのブルース」。

〇 角田 光代
デビュー当時は「尾崎 翠」が好きで、28歳で開高健にものすごく影響を受けた・・、「輝ける闇」。

〇 北方 謙三
ギッシングの「ヘンリ・ライクロフトの私記」

〇 小池 真理子
三島由紀夫とカミュ。1冊あげるなら「異邦人」


〇 桜庭 一樹
ガルシア=マルケスの「百年の孤独」。無人島に持っていくとしたら絶対コレ。


〇 椎名 誠
宮沢賢治が一番好き。「どんぐりと山猫」は暗唱できるくらい読んだ。


〇 朱川 湊人
ブラッドベリ「10月はたそがれの国」


〇 白石 一文
カミュ「異邦人」繰り返し読んだので血肉化している。


〇 高野 和明
ブラッティ「エクソシスト」、宮部みゆき「魔術はささやく」「火車」


〇 辻村 深月    綾辻行人の「館」シリーズ


〇 誉田 哲也    夢枕 獏「上弦の月を食べる獅子」


以上のとおりだが、「ドストエフスキー」の作品が入ってないのに気付く、エンタメ系の作家が多いせいかな~。ちょっと淋しい・・(笑)。



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